今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

忍びよる「安全神話」

2013年03月09日 | 防災・安全

また3.11が近づいたので、しばらくは防災をテーマにしたい。

震災以降、「安心・安全」という口当たりのいいスローガンがはびこっている。
我が勤務先の大学でも、震災を受けて、防災についての全学共通の授業が構想された。
その授業名は「安全・安心学」。
口当たりのいいスローガンの語順を変えただけ。

防災に携わる者として(その授業の2回分担当)、その授業名を批判した。
防災とは、「安全」を追求するが、決して「安心」してはならないからだ。
「安全」とは客観的な状態であり、「安心」とは主観的な感情である。
防災を動機づける感情は「不安」であり、
その反対の「安心」は、防災行動を停止する。
安全と安心は、スローガンのようにたやすく両立するものではない。
私の批判が受入れられ、授業名は「安全学」に決まった。

安全神話、すなわち客観的には安全でないのに、安全だと思い込む状態は、
安易な安心化による。
逆にいえば、安易に「安心」を求めることは安全神話に陥る。

人は、あえて危険に目をつむり、安全だと思い込もうとする。
災害での死者の多くは、逃げ遅れによる。
すなわち、まだ大丈夫と思っていた。
この危機に対して鈍感になるメンタリティを「正常性バイアス」という。

安全だと思い込むと、すなわち「安心」してしまうと、
それ以上の安全の追求はなされなくなる。
この傾向は何も「原発の安全神話」だけではない。
我々の日常に容易に忍び寄っている。
あなたは、安全の追求を停止してはいませんか?

「安全」の不断の追求は、「不安」を保持することによる。
不安とは、我が敬愛する哲学者・ハイデガーによれば、
(将来に向って開かれている)”存在”を自覚している人間の本来的な”情態”である。
不安を保持している状態こそ、自然で本来的なのだ。

防災には、不安の耐性、より具体的にいえば、
最悪の事態をありありと現実的に想像できる感情的タフさが必要なのだ。
災害前は、ネガティブ思考こそ、命を救う。
ポジティブ思考は防災には向かない。
ただし、そのメンタリティは災害後にこそ活きる。

災害前はネガティブに、災害後はポジティブに考えよう。


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