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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

意識は3000年前に誕生した?

2021年08月07日 | 作品・作家評

意識は3000年前に誕生したと主張するのは、『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳 紀伊国屋書店)の著者ジュリアン・ジェインズ。

原著は1976年に刊行されたものの、不勉強ながら淺野孝雄氏(文末参照)の著作で知った
著者は心理学者で、日本の心理学者にはないスケールの大きい発想と分野を超えた広い視野に感心した。
不勉強の言い訳になるが、たいていの心理学者は、”心”を自明視して、より細かい部分が関心領域となるため、心や意識そのものを問う視野をもたない(心理学の教科書でも、「心理学」の定義はするものの、「心」の定義はしない)。
そんな自分もそろそろ研究人生の集大成のつもりで、心そのものを問うようになりはじめたというわけ。

本書は訳書で600ページに及ぶので、ポイントとなる部分を私なりの用語で簡単に説明する。

本書の主張は、意識(システム2)は、現生人類になって自然発生的に誕生したのではなく、文明という人工的環境下での学習(後天的)によるものだという。
そして意識の誕生は、神の声(幻聴)が聞こえなくなる現象に付随したものだという点がユニーク。
すなわち、意識の誕生は宗教の発生と関係があるのだ。

先天的に言語能力をもつ現生人類にとって、意識の元となる”内なる声”は、左脳のウェルニッケ野に対応する右脳の部位に発生し、紀元前千年紀(3000年前)以前の古代人は、その声を頼りに行動していたという。
だから当時の人は、個人であれこれ思い悩む、すなわちシステム2で思考する必要はなく、日常行動は習慣化されたシステム1の反応にかませ、自分で判断できない時は「神の声」に運命を委ねた。
この心の状態を著者は「bicameral mind(二分心)」と称している。

以上の論拠は、楔形文字などによるこの時代の碑文が、もっぱら神との対話や事実の記述に終始され、個人の内面を語るものがないことによる歴史心理学的考察による。

そして、紀元前千年紀に入って、文明の発達によって、人々にとって神の声が次第に聞こえなくなり、聞くことができるのは一部の預言者・シャーマンに限定されるようになり、あるいは占いなどの外在的な方法で神の意思を探るようになった(この間の変化過程は『旧約聖書』によく表現されているという)。
この二分心の現象は現代では、幻覚(幻聴)として統合失調症患者にみられるにすぎない。

これに並行して、システム2が左脳において確立し、自己を内面から捉えるようになった。
紀元前6世紀頃には、ギリシャ、インド、中国において、システム2は現代に引けを取らないレベルに発達し、深い内省にもとずく普遍的な思想・哲学が誕生した(孔子の『論語』は現代にも通用!)。
そして現存の宗教は、神の声が聞こえなくなって久しくして発展したもので、神の声の代わりに、人間が記した聖典(律法)に準拠している。

現生人類は能力的には最初からシステム2を発動させることができたのだが、その能力の使い方が、進化的に慣れ親しんできたシステム1からは異物(他者)として扱われてきた。
それをようやく我が心の一部として使いこなしはじめたのが紀元前一千年紀(3000年前)ということだ。

確かに、潜在能力が文明の力で後天的に開発されるのは、”識字能力”がいい例だ(識字処理を担当する側頭葉の部位は決まっているが、言語と異なり人類すべてが文字を使ってきたわけではない)。

言い換えれば、沈黙してしまった右脳の”言語野”を、われわれは使わないままでいる(私は左利きだが、言語中枢は右利きと同じ左脳にあることがわかっている)。
われわれはまさに知恵の実を食べたが故にエデンの園を追われたアダムとイブの子孫なのだ。
元に戻ることはできない。

でも二分心でない現代の健常者も、幻覚(幻聴)すなわち右脳からの語らいはほぼ毎日経験している。
夢という特殊状態下で。
夢は、現代人において、左脳(自我)と右脳(別の自己)との秘私的な邂逅の場だ。

もっとも、本書の説自体が、限られた歴史資料を材料にシステム2によって構築された壮大な「物語り」(フィクション)である可能性は拭いきれないが、
意識(システム2)の相対性、後天的発生の可能性を示した点では刮目に値する。

ここから先は、本書を受けての私の所論だが、
意識(システム2)と同じように、システム3(超意識)もほとんどの人類はそれを使っていないが、作動可能であることは確認済である。
システム2の作動が当然となった現代人は、21世紀という新たな千年紀に次なるシステム3の作動を目指してよいのではないか。
さらにシステム4は、超個的(トランスパーソナル)な心なのだが、それは左脳にとっての超個であり、それが実は同じ自分の右脳にすぎないのだとしたら、結局われわれは意識(左脳)を超えた大きな心(両脳)の中に住んでいることになる。
その大きな心は、フロイト的無意識を超えた、「阿頼耶(アーラヤ)識」なのか。
というところで、淺野孝雄氏の所論に繋がる。→心とは何か:淺野孝雄氏の著作紹介



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