昨日の早朝、友人が突然の病気で亡くなってしまった。
同級生で有り、随分と付き合って、登山を始めたのも彼がきっかけ。
中学校三年生の時に同じクラスになり、親交を深めた。
一昨日、彼の奥さんに急遽お願いし、ジャガイモ植えの手伝いに来て頂いた。
彼抜きでも、そんな風な付き合いが有る私たちでも有りました。
私の妻と親しくお話に熱中しながら仕事をする様を微笑ましく眺めていた。
そして、帰りには彼へのお土産とばかりに「木の芽」をどっさりと摘ませたり、
秋野菜の残りの葉物をおもち帰り頂いたのでした。
そして、翌朝の昨日の朝、別の同級生から「亡くなってしまった」と連絡が有った。
茫然として居たら見慣れぬ番号からの着信が有り、すぐに切れてしまった。
こちらから電話を入れると、手伝いに来てくれた彼の奥さんからの電話だった。
手伝いに来てくれる際に、道に迷ったら連絡を、と、私の携帯番号を教えていたのだった。
妻と伺うと、奥さんは涙ながら前夜の夕食に山菜と我が家の野菜を美味しいと食べたと言います。
お二人で「ウサギになりそう」なんて食べたのだったそうですが・・・・。
今日は9時からお手伝いに行きます。そして、5月1日は葬儀に列席。
未だ茫然としており時折り思い出がよみがえり涙が出てたまらない。
連載シリーズの登山編にも彼とのお話がいくつも載っています。
そのうちの一文を追悼文として再掲載いたします。

(黒四ダム直下にて)

(岩棚の道を行く)
「下の廊下」
九月の日曜日。近くの遊歩道の整備を山の会で行い、気持ち良く一汗流した後、御定まりの反省会となった。
会の半ば一隅から、大きな声で呼ばれ、行って見た。
私と山友達の彼とで歩いた、黒部の「下の廊下」の話しを女性会員にし、案内をせがまれているところであった。
そう、昭和四十年代半ばのある年の十月のことである。信濃大町からバスで、黒部ダムのある扇沢まで入った。
そして、立山まで登るケーブルカーを横目でみつつ、ダムサイトの横から遙な眼下の黒部川まで降りた。
そこから、宇奈月温泉の上流の欅平まで、一泊二日の行程で下るのである。
同じコースを歩いていた登山者は、京都から来たと言う、一見頼りなさそうな女性一人のみだった。
私達と彼女は後になり、先になりしつつ黒部渓谷の絶壁に造られた、危うそうな道を下った。
この道は、入山禁止になっているが知ってますか、と尋ねると、彼女は知ってますと、独特の京言葉で答えた。
実はその道は、何年か前の大水害の後、登山道の整備が遅れ、入山が止められていたのである。
(若かった私達二人は、それを承知の上、計画したのだ。)
ほとんどが下りのコースとは言え、絶壁伝いの道は、黒部川に流れ込む沢で、
大きく迂回したりではかどらなかった。
宿に決めていた阿曽原小屋まで、大きな峠越えを残して、夕闇が迫ってきた。
その時、関電の工事用トロッコが見えた。
私達は、乗せてもらえようなどと思わなかったが、彼女が手を振ると止待ってくれた。
そして、幸運にも小屋近くまで乗せてもらえた。
山小屋に到着した私達は、断崖の中腹に作られた露天風呂で、初秋の景色と、
黒部川の川音を聞きながら裸のまま夕食を作って食べた。
トロッコに乗せてもらって通った、トンネルが随分、蒸し暑かったが、
映画「黒部の太陽」の舞台にもなっていたと知ったのは後日の事である。
(その後、畑仕事の多忙さを理由に断ったスベルべを除き、人の良い彼は二人の女性を案内してくれた)