五十年前の尾瀬紀行(その2)現在からは92年前です。
此の時のリーダーは、小出小学校の佐藤直次校長、堀小の品田校長、東小千谷小の大滝校長等であった。一行二十七名で、特に道案内として、湯之谷村桜井儀八郎さん(大湯湯本館の主人)が当たり、一切の面倒も見、又銀山、尾瀬沼の説明役にもなってくれた。
其の日は栃尾又に一泊して、翌朝は早々と栃尾又を出発、九十九折りの銀山街道を上りつめて、枝折峠に到着、今晩は須原口の一寸先の浪拝の銀山寺に宿泊することになっている。上り下り三里の枝折峠も相当歩きでがあった。徳川の中期、銀山平に鉱山のあった頃は、どれ程の人たちが此処を通り歩きしたものか。又、鉱材や生活物資は全部此の峠を上り下りしたものであろう昔に想いを馳せ、一同感慨を深くした。
石抱橋から中之岐を経て須原口に出る間に、処々夏の間の、湯之谷村の宇津野部落の人達が養蚕をやったり、ぜんまい取りをして寝泊まりしていた山小屋が転々として五、六軒あった。更に須原口に出ると中之岐との合流点で、只見川沿いに帯状の平地があって居住の農家が七、八戸あった。此処で冬を越すことは大変だ。
十月の紅葉の季節を過ぎると、翌年の四月、雪の降り上がる迄の半年、湯之谷との交通は一切途絶、平場社会のことは何一つ通じない全く陸の孤島となる。
住居の周囲にある田には稲が作られていたが、果たして此の稲の実が稔るのかなー。年間の食糧をはじめ、生活物資の殆どが大湯や小出から補給せねばなるまい。大変なことだ。
(続く)