夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

齢を重ねた私でも、秘かなあこがれの貴女は、俳人の黛まどか(まゆずみ・まどか)さん・・。

2010-04-11 16:13:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
ここ10数年、偶然に新聞、雑誌で拝読したり、テレビなどの放送に出演されたし拝見すると、
齢ばかり重ねた私は、うっとりと見惚(みと)れたり、やはりこのお方の心は澄み切っていると感心させられる。

こうした人こそ、まぎない美麗な女性と感じたりし、
昨今の女優、歌い手の方たちでも、とてもこのお方の前では、刃が立たないと私なりに確信を深めたりしている。

私は若き頃に映画青年の真似事をしたした時に、撮影所で女優さんの50数人をお逢いでき、
言葉を交わしたりした。
その後、たまたまレコード会社に35年ばかり勤めて、数多くの女性歌手を見たりする機会が多かったのであるが、
今の私にとってのあこがれの女性は、俳人の黛まどかさんである。

秘かにあこがれの人と思いながら10数年が過ぎているが、
私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養がなく、やむえず多くの方が詠めれたのを拝読する拙(つたな)いひとりである・・。

過日、このお方が綴られた随筆を拝読すると、更に素敵な方であると思いながら、三度ばかり読み返したりしたのである。

この随筆は、総合月刊雑誌のひとつに『文藝春秋』があり、
この中の広告の中で、薩摩焼酎と名高い『白波』が掲載されて折、
《ここに、日本人のスピリットがある》
と宣伝文の主軸に対応して、黛まどかさんが『日本人のスピリット』と題して、
三月号より連載されている。

そして二回目の四月号を拝読後、たぐいまれな感性で綴られた随筆に、私は敬愛を増したのである。

無断であるが、この随筆を引用させて頂く。


     『日本人のスピリット』 二

    日本人のDNAに刻み込まれた五・七・五の内在律

私が俳句を詠み始めたのは案外遅く、二十歳を過ぎてからであった。
たまたま手にした俳人・杉田久女の評伝小説を読んで感銘を受け、
一人の女性の人生を変えるほどの俳句とはどんなものかと興味を持ったのである。

俳人の父を持った私は、句会でいい大人が喧嘩腰で議論しているのを襖越しに聞きながら、
んて大人げないのだろうと思ったものである。
小学生の私にとって俳句とは年寄りのものであり、自分の表現手段になり得るとは思えなかった。

今となっては句会で激論にる理由もよく分かるし、知らない間に影響を受けていたのかも知れない。


俳人の親を持たずとも、日本人は先天的に俳句の資質を持っている。
あらゆる表現形式の中で、俳句は助走がいらない稀有な文学である。

長く苦しい基礎練習や助走なしに、誰でもいきなり作句することができるし、観賞もすることもできる。

(略)

最近は幼稚園で俳句を教えるところも多く、子どもたちはいとも簡単に五・七・五の句を作る。
内容は他愛のいことかもしれないが、五・七・五の言葉のリズムは、
内在律としての日本人の身体に刻み込まれているのである。


また、俳句のもう一つの決まり事である季語も、私たちの暮らしに溢れている。
春になれば雛を飾り、桜を愛で、草餅を食べて、春の訪れを五感で享受する。
俳句のルールである「有季定型」は、生まれた瞬間から私たち日本人のDNAに受け継がれているのだ。


我々日本人同士なら多くを語らずとも、察し合うことで互いに理解することができる。

(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私が黛まどかさんに決定的に魅了されたのは、
ご自身が2001年が過ぎた頃、韓国の釜山からソウルまでの長い500キロの道のりを詠み歩いたことであり、
何かの雑誌で知り、私は驚きながら、瞬時に惚れこんでしまったのである。

たまたま、黛まどかさんの公式ホームページが掲載されていたのであるが、
残念ながらリニューアル準備中であり、
代わりとして、朝日新聞社にインタビューを受けた2007年5月21日の時、

http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/070525.html
☆ 朝日新聞社 『どらく』インタビュー 記事 ☆


そして最近の2010年3月23日に於いて、毎日新聞愛読者の広場の中で、

https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/shashinbu59/details.php?blog_id=117
☆ 毎日新聞社 毎日新聞愛読者の広場 ☆

このような心の思いなどを発露され、最近のお姿も、私にとっては高嶺のあこがれの人である、
とため息ばかり重ねている。




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私の友のひとりは、月刊総合雑誌の『文藝春秋』となり・・。

2010-04-11 10:35:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日、月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』(5月号)を買い求めて、
日中から深夜までの大半は読みふけっていた・・。

私が『文藝春秋』を定期的に読み始めたのが、1970(昭和45)年の25歳の時であった。

それまでの私のつたない雑誌に関しては、恥ずかしながら告白めいたことを綴る。

私は1944(昭和19)年に東京の郊外の農家の三男坊として生を受けた。
祖父、叔母、両親、兄2人などの7人の家族であり、小作人の方たちの協力を受けて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして多忙期の折などは、農業大学の実習生なども受け入れていた。
このような家庭環境であったが、本にしても雑誌に関しては、農協の発刊する『家の光』しか記憶がなかったのである。

私が小学4年生を過ぎた頃、都会から引越しされた同級生のサラリーマンの家に遊びに行った時、
居間にある書物を見て、余り多くあるので驚いて、子供心に衝撃を受けたのである。

この頃の私は、月刊の漫画雑誌のひとつの『少年画報』などを下校の時、
本屋で買い求め、読みながらとぼとぼ帰宅したりした。


私が読書に目覚めたのは、高校生になってからである。
人並みに文学の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されたので、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、海の彼方のケネディなどの政治家に心酔していた。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、文学に移り、純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。


1970(昭和45)年の25歳の時、映画・文学青年の真似事も挫折し、
遅ればせながら企業に中途入社をして、社会人のひとりとなった。
この時、私は余りにも一般的な常識の政治、外交、軍事、経済、社会などに欠けていたことに気付かされ、
劣等感も抱きながら、総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読むようになったのである。

この頃は、血気盛んな私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
私は秘かに『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。

しかしながら、たまたまレコード会社に勤めて情報畑で奮闘していると、
数多くのサラリーマンと同様に多忙となり、やがて結婚をしたり、住宅ローンの返済に苦労したりすると、
『世界』の知識についていけず、『中央公論』だけは時折、特集記事により購読するようになった。

そして結果的には、毎月に愛読している総合月刊雑誌としては『文藝春秋』だけとなり、
定年退職後の今でも、このようになっている。
年金生活で高齢者の入門の65歳の私にとっては、毎月逢える友のひとりとなっている。


私はそれぞれの寄稿文を読みながら、私と同じような思いに安堵し微笑んだり、
記載されていることの内容が程度の低いことと感じられ、綴られた著者に失望したり、
或いは私が無知だったことを知り、謙虚にご教示頂いたりしている。

ここ数年の楽しみのひとつとしては、毎月10日に発売されているが、
その日の朝、読売新聞に広告として掲載されている・・。
この時に特集記事が明記されているので、私は読みながら、やはりこの記事だった、
と私なりに予測していたことと同一の場合は、独り微笑んでしまうのである。

尚、私は『文藝春秋』の数多くの寄稿文で、読みながら理解出来なくなった時は、
ボケるの避けたいので、この世とおさらばし、自裁する時と思っている。



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