私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、6年近くなっている・・。
家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。
今回はたまたま7日(水)~11日(日)となり、4泊5日で家内は孤軍奮闘しているのである。
私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。
そして、『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、資源として再生される『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日と、
日付別のメモ用紙に書いたりして、少しボケた私は自戒させたりしている。
私は年金生活になってからは、程々に気ままな生活を過ごしているが、
更に家内が留守のを幸いに、自在な時間を送ったりしている。
私は幼年期は農家の三男坊の田舎者であったが、
齢ばかり重ねた私は少し都会風にお洒落(しゃれ)をした洋装で、駅前の本屋に行ったり、
スーパーに寄ったりし、中年以上の女性のしぐさに見惚(みと)れることもある。
居間にいると、映画のビデオ・テープ、DVDの作品を映画棚から取り出して、
テレビ画面を通して視聴したり、好きな音楽も大音量で聴いたりしている。
いずれも家内は、大音量が苦手な身であるから、平素は抑制しているが、
この時とばかり、映画の作品はある程度の音量でないと、
音楽もそれ相当の音量がないと、魅感が薄れると固く信じているので、自在にしている。
たまたま昨日の私は、顔も洗わず読売新聞を精読して、
心の節度を失くした政治家の諸兄諸姉の一部の方に、
程度の低い言動をされる、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。
この後、映画専門誌の『オールタイム・ベスト 映画遺産200』の『日本映画編』と
『外国映画編』を取り出して、読み耽っていたのである・・。
そして、このサイトに投稿文を一筆認めようと思い、文章を綴っている時、
玄関のチャイムが鳴り、私は玄関口に下り立ったのであるが、
30歳前後と20代前半の2人の美麗な女性が折、
少しばかり寝ぼけ眼(まなこ)の私は、どうしてなの、と戸惑ったのである・・。
30歳前後の方から挨拶を受けると、最寄の銀行の方と瞬時に思い出したのであるが、
新入の行員さんを引率して、我が家に挨拶に見えたことが言葉を重ねていくうちに判ったのである。
私は普段着で顔も洗っていなかったので、恥ずかしくなり照れ笑いをしながら、
何とか応対をしたのであった。
その後、このサイトに投稿し、再び先程の映画専門誌を読み始めたりしたのである。
そして昼下がり、突然に映画の『トラ・トラ・トラ!』(1970)を観ようと思い立ったのである。
このことは田草川弘(たそがわ・ひろし)・著の『黒澤明ハリウッド ~「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて~』(文春文庫)を読み終った後、
何よりも製作総指揮のダリル・F・ザナックの下で、
製作としてエルモ・ウィリアムスの過酷な労苦の多かった製作過程を学び、
この人の心情に思いを馳せながら、確か4度目であったが視聴したりした。
そして、映画は無料放送の多いテレビと違い、この当時の1970年前後も、
ともかく映画館はもとより有料なので、興行の成功が問われることを改めて実感させられたのである。
夜のひととき、過日の3月13日にNHKテレビで放映された『火の魚』をビデオで収録していたので、
観たのである。
NHKの解説文を借りれば、
《・・
文化庁芸術祭大賞受賞作品。
島で暮らす頑固な老作家のもとに、東京から若い女性編集者が通ってくる。
ある時、小説の装丁を燃えるような金魚の「魚拓」にしたいと思いついた小説家は、
彼女に魚拓を作ることを命じる。
魚拓をとるには、金魚を殺さなければならない。
やがて老作家は女性の“秘密”を知ることになる。
瀬戸内海の大崎下島を舞台に、世間から取り残された老人と、時間を慈しむように生きる女性が紡ぐ“いのち”の物語。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
そして原作は室生犀星、脚本は渡辺あや、出演者は原田芳雄, 尾野真千子・・となっていたが、
私は脚本の構成と老作家の心場の表現に不満であり、演出家は忘れたが創意工夫に欠けている。
この結果、好感している男優の原田芳雄、未知だった女優の尾野真千子を生かしきれていない、
と深く感じたのである。
この後、10時過ぎに布団にもぐり、
斎藤明美(さいとう・あけみ)・著作の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読み始めたのである・・。
私は高峰秀子さんのファンのひとりであるので、
山本嘉次郎・ 監督の『綴方教室』(1938年)、『馬』(1941年)、
木下惠介・ 監督の『二十四の瞳』(1954年)、成瀬巳喜男・ 監督の『浮雲』(1955年)などを思い浮かべながら読んだりしたのであるが、
深夜の一時過ぎて、やむえず中断し、消灯した。
目覚めれば、朝の7時過ぎて、雨戸を開け放ち、洗面した後
煎茶、コーヒーを淹れて、ぼんやりとしていたのである。
その後、庭のテラスに下り立ち、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしたのである。
こうしたふしだらな『おひとりさま』の日を過ごし、苦笑ばかりしている。
そして日中のひとときは、スーパーに行き、夕食用にお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定した後、
本日発売の総合月刊誌の『文藝春秋』(5月号)を買い求めようか、と思ったりしている。
href="http://www.blogmura.com/">
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、6年近くなっている・・。
家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。
今回はたまたま7日(水)~11日(日)となり、4泊5日で家内は孤軍奮闘しているのである。
私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。
そして、『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、資源として再生される『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日と、
日付別のメモ用紙に書いたりして、少しボケた私は自戒させたりしている。
私は年金生活になってからは、程々に気ままな生活を過ごしているが、
更に家内が留守のを幸いに、自在な時間を送ったりしている。
私は幼年期は農家の三男坊の田舎者であったが、
齢ばかり重ねた私は少し都会風にお洒落(しゃれ)をした洋装で、駅前の本屋に行ったり、
スーパーに寄ったりし、中年以上の女性のしぐさに見惚(みと)れることもある。
居間にいると、映画のビデオ・テープ、DVDの作品を映画棚から取り出して、
テレビ画面を通して視聴したり、好きな音楽も大音量で聴いたりしている。
いずれも家内は、大音量が苦手な身であるから、平素は抑制しているが、
この時とばかり、映画の作品はある程度の音量でないと、
音楽もそれ相当の音量がないと、魅感が薄れると固く信じているので、自在にしている。
たまたま昨日の私は、顔も洗わず読売新聞を精読して、
心の節度を失くした政治家の諸兄諸姉の一部の方に、
程度の低い言動をされる、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。
この後、映画専門誌の『オールタイム・ベスト 映画遺産200』の『日本映画編』と
『外国映画編』を取り出して、読み耽っていたのである・・。
そして、このサイトに投稿文を一筆認めようと思い、文章を綴っている時、
玄関のチャイムが鳴り、私は玄関口に下り立ったのであるが、
30歳前後と20代前半の2人の美麗な女性が折、
少しばかり寝ぼけ眼(まなこ)の私は、どうしてなの、と戸惑ったのである・・。
30歳前後の方から挨拶を受けると、最寄の銀行の方と瞬時に思い出したのであるが、
新入の行員さんを引率して、我が家に挨拶に見えたことが言葉を重ねていくうちに判ったのである。
私は普段着で顔も洗っていなかったので、恥ずかしくなり照れ笑いをしながら、
何とか応対をしたのであった。
その後、このサイトに投稿し、再び先程の映画専門誌を読み始めたりしたのである。
そして昼下がり、突然に映画の『トラ・トラ・トラ!』(1970)を観ようと思い立ったのである。
このことは田草川弘(たそがわ・ひろし)・著の『黒澤明ハリウッド ~「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて~』(文春文庫)を読み終った後、
何よりも製作総指揮のダリル・F・ザナックの下で、
製作としてエルモ・ウィリアムスの過酷な労苦の多かった製作過程を学び、
この人の心情に思いを馳せながら、確か4度目であったが視聴したりした。
そして、映画は無料放送の多いテレビと違い、この当時の1970年前後も、
ともかく映画館はもとより有料なので、興行の成功が問われることを改めて実感させられたのである。
夜のひととき、過日の3月13日にNHKテレビで放映された『火の魚』をビデオで収録していたので、
観たのである。
NHKの解説文を借りれば、
《・・
文化庁芸術祭大賞受賞作品。
島で暮らす頑固な老作家のもとに、東京から若い女性編集者が通ってくる。
ある時、小説の装丁を燃えるような金魚の「魚拓」にしたいと思いついた小説家は、
彼女に魚拓を作ることを命じる。
魚拓をとるには、金魚を殺さなければならない。
やがて老作家は女性の“秘密”を知ることになる。
瀬戸内海の大崎下島を舞台に、世間から取り残された老人と、時間を慈しむように生きる女性が紡ぐ“いのち”の物語。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
そして原作は室生犀星、脚本は渡辺あや、出演者は原田芳雄, 尾野真千子・・となっていたが、
私は脚本の構成と老作家の心場の表現に不満であり、演出家は忘れたが創意工夫に欠けている。
この結果、好感している男優の原田芳雄、未知だった女優の尾野真千子を生かしきれていない、
と深く感じたのである。
この後、10時過ぎに布団にもぐり、
斎藤明美(さいとう・あけみ)・著作の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読み始めたのである・・。
私は高峰秀子さんのファンのひとりであるので、
山本嘉次郎・ 監督の『綴方教室』(1938年)、『馬』(1941年)、
木下惠介・ 監督の『二十四の瞳』(1954年)、成瀬巳喜男・ 監督の『浮雲』(1955年)などを思い浮かべながら読んだりしたのであるが、
深夜の一時過ぎて、やむえず中断し、消灯した。
目覚めれば、朝の7時過ぎて、雨戸を開け放ち、洗面した後
煎茶、コーヒーを淹れて、ぼんやりとしていたのである。
その後、庭のテラスに下り立ち、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしたのである。
こうしたふしだらな『おひとりさま』の日を過ごし、苦笑ばかりしている。
そして日中のひとときは、スーパーに行き、夕食用にお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定した後、
本日発売の総合月刊誌の『文藝春秋』(5月号)を買い求めようか、と思ったりしている。
href="http://www.blogmura.com/">