夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、『花祭り』という言葉を学び・・。

2010-04-08 13:42:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝のNHKのラジオから、本日は『花祭りの日』です、と私は聴こえ、
齢ばかり重ねた私は確固たる知識もなく、
確か5年前の頃に最寄り駅の寺院で花祭り、と明記さていたことを思い出したりしていた。

恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14)年の事とされている。

祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。

灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。

この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。

甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
           
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。


釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。

彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。

釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。

釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。

モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。

彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。

更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。

生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。

様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。

苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。

日本で花祭りが盛んになったのは、
4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。

・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。

少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈している。

このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。

鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。

全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。


私は昼下がりの陽射しを照らす常緑樹のみずみずしい新芽、落葉樹の芽吹き、或いは若葉を眺めながら、
ぼんやりと感じたりしたのである。



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懐かしき『柏原芳恵』ちゃんの私なりの想いで・・。

2010-04-08 09:43:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】をほぼ毎日愛読しているひとりである。
この中に【新おとな総研】があり、『生き方!私流』とコーナーの中に、
『青春グラフィティ』があり先週から歌手の柏原芳恵ちゃんが掲載されていたので、
私なりに興味があり、その当時の思いでと共に深く精読したりした・・。

今回は第2回が掲載されて折、無断であるが転載させて頂く。

《・・
     浩宮さまからのピンクのバラ~柏原芳恵さん(2)

13歳の春に挑んだ『スター誕生!』の予選会を、ライバルたちの思わぬ応援もあって突破。
小学生の時、「テレビに出る人になりたい」と夢を語った女の子は、その年の夏、本当にテレビに出ることになった。

番組では、清水由貴子の『お元気ですか』をしっかり歌って合格。
さらに秋の決戦大会でグランドチャンピオンに輝き、芸能プロダクションにスカウトされた。
3学期の終わりには、毎週土日に大阪から上京して、発声練習やダンスのレッスンに励んでいた。

『スター誕生!』の予選の通知を受け取って以降、まさにシンデレラ・ストーリーを地で行く1年だった。

1980年6月1日、14歳の少女は、阿久悠・作詞、都倉俊一・作曲の『No.1』でデビューした。


まるでシンデレラ、ヒット連発しトップアイドルに「『スタ誕』の予選までは、
学校と塾しか知らなかったし、家でも、大人の人とは対等に口をきけないという教育を受けた。
だから、芸能界に入って、周囲の人が皆、ものすごく大人に見えました。
同時期にデビューした人たちも年上だったから、すごいお兄さん、お姉さんに見えて。
そういう中では、大人の方々の言われたとおり、
目の前に敷かれたレールの上を、ただひたすら遅れないように走り続けるだけでした。
正直、時間に追われているのかどうかも分かりませんでした」

デビューの翌年に出した『ハロー・グッバイ』が大ヒット、
その後も『恋人たちのキャフェテラス』『花梨(カリン)』『春なのに』などヒットを連発し、
トップアイドルの地位を確立した。

16歳でディナーショーを実現させたということからも、当時の人気の高さがうかがえる。

「ディナーショーをやり始めた頃から、わざわざ足を運んでくださったお客さまやファンに、
何か自分なりのメッセージを伝えたいという気持ちが芽生えてきたように思います。
歌い人(びと)であり、伝え人でありたいと」



現在の皇太子さまが彼女のファンだったことも、30年の歩みを語る上で忘れてはならない。
1986年10月、都内で行われたリサイタルに来場され、会場入り口で出迎えた彼女にピンクのバラをプレゼントされた。

「当日は、レコード会社の社長さんやテレビ局の局長さんら、私の周りにいらした大人の方々が皆、緊張されていて、
その姿を見て私も緊張した、という感じでした(笑)。
次の日の新聞は、一般紙も1面の扱い。『すごいことだったんだ』と、改めて思いました」

会場には両親も駆けつけ、リサイタル終了後、
「浩宮さま、見たよ」と喜んでくれた。その笑顔が、何よりもうれしかった。(つづく)

(読売新聞 増沢一彦) (2010年04月07日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/people/graffiti/graf100407.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】【新おとな総研】『生き方!私流』、『青春グラフィティ』☆


私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。
そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971(昭和46)年の新春であった。

私の勤めた新設レコード会社はクラシック・ポピュラーの洋楽は強かったのであるが、
邦楽に関しては程ほどの大ヒットしかない中堅のレコード・メーカーであった。

そして1980(昭和55)年の当時の業界の邦楽に於いては、
相変わらずアイドルスターの全盛期であり、ピンク・レディ、キャンディーズの旋風、まもなく山口百恵の引退などがあり、
ポスト・アイドルの時期でもあった。
ある会社では松田聖子をデビューさせ、ある会社でも河合奈保子をデビューして、
我が社でも遅ればせながらひとりのアイドルスターに抜擢されたのが、柏原よしえ(後に、柏原芳恵と改名)ちゃんであった。

デビュー曲の『No.1』の発売したのは1980年(昭和55)6月1日であったが、
この数が月前に、我が社の大きな会議室で、柏原よしえちゃんを囲み、本社の社員の殆どが記念写真を撮ったのである。

後日、この記念写真は社員に配布されたが、
最前列の中央には柏原よしえちゃん、隣席に社長、
そして何故かしら物怖じしない無知な私が柏原よしえちゃんの横に座っていたのである。


この当時はテレビ、ラジオの歌謡番組が盛んで、リクエスト葉書などがあった時代で、
私は管理畑の営業部に勤務していたが、宣伝部よりリクエスト用の葉書が毎週配布されたのである。
各レコード会社も同じように社員に配布し、リクエストを書きながら、投函されたと思われる。
大手のレコード会社の松田聖子、河合奈保子ちゃんと違い、
我が社は中堅レコード会社のせいか、私は帰宅後の夜に、リクエスト用の葉書に柏原よしえちゃんの曲名を書いたりしたのである。

その後、配布された枚数が多くなると、居間で家内にも助けを借りて、
『ハロー・グッバイ』ね、と云いながら、サインペンの三色を使いながら色鮮やかに書いたりしたのである。

私が何よりも驚いたのは、我が社はアイドルの大スターはいなかったせいか、
私が夜に退社すると、ときおりビルの廻りに中学生ぐらいの男の子が数人たむろし、
ときには50名ぐらいを見かけたのである。
或いは勤務している私の席でも、『よしえちゃん・・は・・今どこですか・・』
と電話で問い合わせを受けたりしたのである。

このようなささやかな思いであるが、結果としては三名のアイドルの中で、
やはり大手のレコード会社の松田聖子ちゃんが突出したのは周知の通りである。

余談であるが私はこの当時は35歳ぐらいであり、個人的には他社の河合奈保子ちゃんが、
一番可愛らしい、と思ったりした男であった。

尚、その後の我が社は統廃合したりされたりした結果、
私が50歳前後になると、松田聖子ちゃんが専属契約となり、
『あなたに逢いたくて』を聴くとは予想もしなく、こうして綴りながら微苦笑している。


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