私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝のNHKのラジオから、本日は『花祭りの日』です、と私は聴こえ、
齢ばかり重ねた私は確固たる知識もなく、
確か5年前の頃に最寄り駅の寺院で花祭り、と明記さていたことを思い出したりしていた。
恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり、無断であるが、転記させて頂く。
《・・
4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14)年の事とされている。
祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。
灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。
この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。
甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。
釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。
彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。
釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。
釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。
モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。
彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。
更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。
生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。
様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。
苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。
日本で花祭りが盛んになったのは、
4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。
少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈している。
このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。
鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。
全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。
私は昼下がりの陽射しを照らす常緑樹のみずみずしい新芽、落葉樹の芽吹き、或いは若葉を眺めながら、
ぼんやりと感じたりしたのである。
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今朝のNHKのラジオから、本日は『花祭りの日』です、と私は聴こえ、
齢ばかり重ねた私は確固たる知識もなく、
確か5年前の頃に最寄り駅の寺院で花祭り、と明記さていたことを思い出したりしていた。
恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり、無断であるが、転記させて頂く。
《・・
4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14)年の事とされている。
祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。
灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。
この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。
甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。
釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。
彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。
釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。
釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。
モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。
彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。
更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。
生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。
様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。
苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。
日本で花祭りが盛んになったのは、
4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。
少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈している。
このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。
鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。
全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。
私は昼下がりの陽射しを照らす常緑樹のみずみずしい新芽、落葉樹の芽吹き、或いは若葉を眺めながら、
ぼんやりと感じたりしたのである。
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