夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

菅首相は、原発、そして国政を持て遊ぶ非国民である、と私は妄想を重ねて・・。

2011-07-07 17:22:16 | 時事【政治・経済】等
私は、昨夜のNHKのニュースで、
菅首相が、原子力発電所の再稼働に向けた新たなルールを策定する考えを打ち出したことを知り、
ますます原発の難題に更に混迷を深めると、憂いたひとりである。

これに関連して、先ほど読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】のひとつのニュースを見て、
政治に疎〈うと〉い私でも、困惑したのであった。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866922/news/20110707-OYT1T00234.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==〈経産相、ハシゴ外されメンツつぶされ…新指針〉☆


私は過ぎし3月11日に東日本大震災に伴い福島原発に関して、
無力な素人の身ながら、少しばかり学び、根源の問題は原子力の行政がもたらした人災と確信を深めていた。

そして、ここ10日前に、武田邦彦・著の『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』〈産経新聞出版〉を精読し、
多々教示されて、具体的な問題点が明確になった。

《・・
かっては、原子力というのは巨大な技術なので、
「推進」と「安全」を二つにわけておいたほうがよいと、
原子力委員会〈推進〉と原子力安全委員会〈安全〉の二つの組織がつくられました。

推進側の原子力委員会が問題のある原発を進めようとしても、
安全委員会が待ったをかけることができるので、
国民は安全だという仕組みだったからです。

それがいつの間にか〈2001年〉、
経産省に原子力安全・保安院なるものができ、独自の動き始めました。

福島原発の事故でも、原子力委員会も安全委員会も表に出ず、
保安院がシャシャリでてきたのは、まさに現在の日本の原子力行政をよく示しています。
保安院が力をもってからというもの、安全委員会には何の情報も入ってこず、力もありませんでした。

保安院という組織は、「原発の安全」などには、まったく関心がありません。
ただ「原発を動かすこと」だけが目的ですから、
「本来、耐震指針は何を目的とするべきか」などという議論が入り込む余地はありません。
・・》
注)本書156、157ページ
  原文をあえて改行を多くした。

〈・・
経産省に原子力安全・保安院・・日頃から東京電力の施設を認可し、運転状況を監視し、
国民に代わって原発の安全を守るということだけをいわゆる「指導」しているのですから、
事故が起こったならばその全責任は保安院にあります。
・・〉
注)本書155ページ
  原文をあえて改行を多くした。

〈・・
三陸沖で地震がおこり、間もなくその地震波は福島原発に到着、原発は大きく揺れました。
〈略〉
・・地震直後に原発が破損していたことが明らかですが、
設計時の耐震基準が震度5だったのですから、
震度6に見舞われた福島原発に異常が生じても何らおかしくありません。

もともと、原発の設計基準は地震で加わる加速度などで決めるので、
もしかすると、保安院がここに書かれているのを見て、
「震度5などで設計してはいませんよ」と言うかもしれません。
震度5で設計して、震度6で壊れたなら地震に対する見通しが悪かったということになりますが、
もしも震度6以上で設計しても壊れたのなら、設計ミスか手抜き工事です。

いずれにしても、そのような言い訳を聞きたいのでなく、
なぜ震度6のような普通の地震で壊れたのか、その理由を聞きたいのです。
・・〉
注)本書136ページ
  原文をあえて改行を多くした。

このようなことを私は、本書から多々学んだりしたが、
少なくとも国家の最高権力と責務を有する菅首相は、機密でもないこの程度のことは、
当然としてご理解されていると思われるのである。

菅首相の福島原発に対する対処は、首相としての責務の言動が何かしらその場しのぎで、
整然とした一貫性が感じられなく、今回のようなことも突如として策定されるのに、驚ろきながらニュースを視聴した。
こうした言動では、肝要な閣僚でも動揺するのは当然である。

菅首相の言動は、特に大震災後、そして福島原発以降は異常であり、
原発の度重なる難題を小出しして、混乱させて、梃子〈てこ〉にしながら政局の動向に利用して、
ご自身の総理として延命を図っている、と数多くの方たちが感じとられてもおかしくないのである。

このように大震災以降は国難な時節に、
政局はもとより国政まで混迷を深めている責任は、政権与党として総理としても責任は大きく、
国家に復興の時間と機会を遅らせ多大に損出をもたらしたので、
やむなく、菅総理は非国民である、と私は思ったりしている。

このようなことを政治にも疎く、無力な私は妄想を重ねたりしている。


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七夕(たなばた)、齢ばかり重ねた私でも、ささやかな秘めたる想いは・・。

2011-07-07 01:38:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜の深夜まで居間で本を読んだりした後、寝る前にぼんやりとカレンダーを見ると、
『七夕』と明示されていたので、
きょうの7日は『七夕(たなばた)の日』だったか、と教えられたりした。

そして、ぼんやりと数年前までは、『七夕(たなばた)の日』に関しては、
現代風に解釈したならば、遠距離交際の恋人たちが、一年にたった一度だけ秘かに逢える日、
と固く信じてきたひとりであった。

しかしながら、織姫と彦星の関係は恋人でなく夫婦であった、と知った時は、
私は、夢をこわさいでね、と微苦笑したことがあった。


私は齢を重ねるたびに、幼年期の頃の出来事を思いだすことが、多くなっている。
こうした時に、幼年時代に七夕の飾り、短冊のことも思いだされる・・。


私は1944〈昭和19〉年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中心となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。

敗戦後、農地改革などである程度は狭ばまったが、
それなりに旧家として維持されていた。

そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
東京の都心は、もとより7月7日が『七夕(たなばた)の日』であったが、
郊外の付近の一部の地域では一ヶ月遅れの8月7日であった。


宅地に隣接している竹林から、孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本だけ伐って、
庭の片隅みに杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹のふたりと共に飾りだてをした。


そして私が小学2年の3学期、父に病死され、
その後、まもなくした3年生の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、我家は没落しはじめた・・。


私は祖父の葬儀が終わった後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。

『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想と先生は思っていますが・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。


私は、その夏、短冊に秘かに書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
         だきしめてほしい・・ 》


叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなかった。
そして私はやむなく、

【 せいせいもげんきで
        ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。


私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた66歳の今でも、それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。


このようにささやかな想いでもあり
短冊に関しても、確か16年前の頃だったと思われるが、
私なりに深い思いであり、今でも鮮明に私の心の片隅に残っている。

この当時も、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。

春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏季休暇に、
家内と宮城県の作並温泉に3泊4日で滞在した。


上野駅から仙台駅までの新幹線は、わずか2時間ばかり、
そして在来線に乗り継ぎ作並駅まで1時間弱で、
駅前から観光ホテルの迎えのマイクロバスで到着した。

http://www.ichinobo.com/sakunami/

そして、私達はホテルの周辺のラベンダーの丘陵、渓流で魚釣りをしたり、散策をしたりし、
のんびりと過ごしていた。


翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。

私は昼の風呂上り、何気なしロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。

数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。

《 らいねんも このホテルに
    かぞく ぜんいんで こられますように 》

と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。

私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが、心に沁みた・・。

そして私は華美な仙台の七夕もそれなりに良いが、遥かにこの短冊のひとつに魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたのである。


このようにささやかな想いでがあり、私はこうした情愛が限りなく愛(いと)おしく、
華美な飾りより、たったひとつの願いを託した尊ぶ心に、圧倒的に魅了される。


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