夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

その昔、ひとりの無名な詩人の死後、やがて宮沢賢治として蘇〈よみが〉えり・・。   

2011-07-27 23:42:44 | 真摯に『文学』を思考する時
私は机の中の引き出しに、一冊のノートがあり、
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、と綴られている。
そして、この下段には、
 ==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記している。


私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
45年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。


2004〈平成16〉の秋に定年退職の数年前、
雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その時に、宮沢賢治記念会館に行ったり、付近を散策し、
遺(のこ)された偉業は実感できたが、何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。


その後、2005〈平成17〉年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎〈あらしやま・こうさぶろう〉・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎氏に導かれ、私なりに宮沢賢治氏の人生の軌跡を学んだのである。

そして、【 無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪  】
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。

特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。

著作者の嵐山光三郎氏の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。

《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。

〈略〉

(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。

〈略〉

没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・

この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・》


生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。


そして、もうひとつ驚かされたのは、宮沢賢治の人そのものであった。

《・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。

〈略〉

東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。

〈略〉

理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。

〈略〉

賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。

〈略〉

詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・》
注〉原文にあえて改行を多くした。

そして、著作者の嵐山光三郎氏は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。


私は著作者の嵐山光三郎氏の書物については、数多く発刊されているが、
殆ど読んできている愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で、圧倒的に感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。


私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむなく散文で綴っている。

散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、ブログ等に投稿しているに過ぎない。


ときおり、私は宮沢賢治氏を思い浮かべたりする時、
私は定年後の3年過ぎた頃、ブログに準じたサイト【Cafe.OCN】に加入して、
偶然に、ある人の詩を思い馳(は)せる時もある。

私はこの人の詩を2年ばかり読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしたことがあった。

その人も孤独であると感じ、魂まで響きせながら自己格闘をされる中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現する時もある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki

私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治氏の遺された作品以上に感銘を受ける時もあった。

尚、私は2年前に【Cafe.OCN】から去って、【gooブログ】に集中させているので、
昨今のこの方の詩は、拝読する機会をなくしているのが本音である。


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ラムネ、そしてサイダー、私の小学生の時に初めて飲んだ時、懐かしき夏の想いは・・。

2011-07-27 14:33:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
いつものように午前中のひとときに最寄りのスーパーに買物に行った。

店内は婦人が子供連れの方も多く、私は園児、小学生の児も夏休みになった、
と実感させられていた。

飲み物コーナーは、煎茶、コーラー、サイダーなど夏の飲み物が多彩にあり、
小学1年生ぐらいの男の子が母親に、
『あのサイダーを買ってょ・・』
と大きな1リットルぐらいのベットボトルに入ったサイダーを指していた。

『XXちゃん、ママは買い物した品が多くなったから・・明日にしましょうねぇ』
と若き母親は男の子に諭〈さと〉していた。

『でも・・ママ・・僕が持って帰るから・・お願い・・』
と男の子は若き母親に懇願していた。


私はスーパーで買い物を終えて、大通りの脇のゆったりとした歩道を歩き、帰路に向かっていた時、
水色のワンピース姿の方が両手にスーパーの袋を両手に提げ、
その後に男の子が重そうにスーパーの袋を持って歩いていて、
先程スーパーの店内で見かけた人たちだった、と私は気づき思わず微笑んだりした。


私は帰宅し、洗面所で顔を洗った後、居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、
冷やした煎茶を飲んだりした。

そして私は家内に、先ほど見かけた若き母親と男の子の情景を話したりした。
その後、私は小学生の夏に、ラムネ、サイダーを初めて飲んだ頃の話を、
家内に微笑みながら私は話しかけたりした・・。


1951(昭和26)年の春、小学校に入学して、初めての夏、
父の妹の二十歳過ぎの叔母に連れられて、付近の雑貨屋に行った。

この当時は駅前の華やいで商店街は15分ばかりの少し遠かったので、
砂利道の村道を5分ぐらい歩いた所に、酒、塩、砂糖、菓子などを販売している雑貨屋が一軒ばかりあり、
私たちの住む地域では、便利な店でもあった。

叔母が、ラムネひとつ、と店の主人に言った。
店の主人が、栓を開け、ポーンと音がし、瓶の中から泡立ちながら溢〈あふ〉れてきたのを、
私に手渡された・・。

私は不思議な形の瓶もさることながら、
刺激のある飲み物であったが、喉越しに甘さが残る飲みと感じたりし、
3分過ぎて、お腹の満腹感を感じた頃、飲み終えた。

そして、瓶の中にビー玉のような玉に気付き、
瓶を少し振ると、不思議な音がした。

叔母は私を少しみつめながら、微笑(ほほえ)んでいた。
そして、叔母は購入したアイス・キャンディをかじっていた。

その後、夏休みになると、独りでこの雑貨屋に行き、
おじさん、ラムネ頂戴、と言って飲んだりした。

そして飲んだ後、いつもビー玉のような玉はどのように入れているのか、
不思議な思いでいた。

私はこの頃、家にあったB29(アメリカの爆撃機)の鉄製のおもちゃがあり、
どうして空に飛べるの、と同様に、
ラムネの中にある玉、どうして入れて作れるの、
と母や叔母を困らせた。

小学5年の夏休みになると、私はサイダーに変った。
三ツ矢サイダー、と明示されたサイダーをやっと飲み終えると、満腹となり、
これ以上の幸せはない、と子供心に充たされていた。


このような他愛のない話を、私は五つばかり齢下の家内と話したりしている。


20数年前、家内と旅先で、ラムネを見つけた時、
私達は飲んだ後、こんな味だったかしら、とお互いに笑ったりした。
そして、瓶を振ると、かすかな音がし、
もう一度、手を振り、音色を楽しんだ。

昨今、スーパーで偶然にラムネを見かけたりすると、
お洒落(しゃれ)な瓶だったかしら、
私の幼年期のラムネの瓶は、蒼く素朴な色合いをしていた、
と思ったりしたが、少なくとも60年近くの歳月が過ぎ去っているので、
少しボケたのかしら、と微苦笑したりしている。


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