私は机の中の引き出しに、一冊のノートがあり、
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、と綴られている。
そして、この下段には、
==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記している。
私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
45年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。
2004〈平成16〉の秋に定年退職の数年前、
雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その時に、宮沢賢治記念会館に行ったり、付近を散策し、
遺(のこ)された偉業は実感できたが、何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。
その後、2005〈平成17〉年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎〈あらしやま・こうさぶろう〉・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎氏に導かれ、私なりに宮沢賢治氏の人生の軌跡を学んだのである。
そして、【 無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪ 】
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。
特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎氏の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。
《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
〈略〉
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
〈略〉
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・》
生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。
そして、もうひとつ驚かされたのは、宮沢賢治の人そのものであった。
《・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。
〈略〉
東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。
〈略〉
理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。
〈略〉
賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。
〈略〉
詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・》
注〉原文にあえて改行を多くした。
そして、著作者の嵐山光三郎氏は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
私は著作者の嵐山光三郎氏の書物については、数多く発刊されているが、
殆ど読んできている愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で、圧倒的に感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。
私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむなく散文で綴っている。
散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、ブログ等に投稿しているに過ぎない。
ときおり、私は宮沢賢治氏を思い浮かべたりする時、
私は定年後の3年過ぎた頃、ブログに準じたサイト【Cafe.OCN】に加入して、
偶然に、ある人の詩を思い馳(は)せる時もある。
私はこの人の詩を2年ばかり読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしたことがあった。
その人も孤独であると感じ、魂まで響きせながら自己格闘をされる中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現する時もある。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治氏の遺された作品以上に感銘を受ける時もあった。
尚、私は2年前に【Cafe.OCN】から去って、【gooブログ】に集中させているので、
昨今のこの方の詩は、拝読する機会をなくしているのが本音である。
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8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、と綴られている。
そして、この下段には、
==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記している。
私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
45年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。
2004〈平成16〉の秋に定年退職の数年前、
雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その時に、宮沢賢治記念会館に行ったり、付近を散策し、
遺(のこ)された偉業は実感できたが、何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。
その後、2005〈平成17〉年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎〈あらしやま・こうさぶろう〉・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎氏に導かれ、私なりに宮沢賢治氏の人生の軌跡を学んだのである。
そして、【 無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪ 】
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。
特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎氏の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。
《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
〈略〉
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
〈略〉
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・》
生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。
そして、もうひとつ驚かされたのは、宮沢賢治の人そのものであった。
《・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。
〈略〉
東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。
〈略〉
理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。
〈略〉
賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。
〈略〉
詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・》
注〉原文にあえて改行を多くした。
そして、著作者の嵐山光三郎氏は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
私は著作者の嵐山光三郎氏の書物については、数多く発刊されているが、
殆ど読んできている愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で、圧倒的に感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。
私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむなく散文で綴っている。
散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、ブログ等に投稿しているに過ぎない。
ときおり、私は宮沢賢治氏を思い浮かべたりする時、
私は定年後の3年過ぎた頃、ブログに準じたサイト【Cafe.OCN】に加入して、
偶然に、ある人の詩を思い馳(は)せる時もある。
私はこの人の詩を2年ばかり読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしたことがあった。
その人も孤独であると感じ、魂まで響きせながら自己格闘をされる中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現する時もある。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治氏の遺された作品以上に感銘を受ける時もあった。
尚、私は2年前に【Cafe.OCN】から去って、【gooブログ】に集中させているので、
昨今のこの方の詩は、拝読する機会をなくしているのが本音である。
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