私は民間会社を2004〈平成16〉年の秋に定年退職して、まもなくブログの世界を知った。
そして私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や7年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、写真、イラスト、絵とかの素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまう。
この間、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多い・・。
このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。
私は1944〈昭和19〉年の秋に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。
初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。
私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。
小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。
そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたのである。
この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。
夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。
私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。
東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の方から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となり、
35年ばかり勤めて、定年退職時となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの伝え通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿したりしている。
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そして私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や7年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、写真、イラスト、絵とかの素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまう。
この間、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多い・・。
このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。
私は1944〈昭和19〉年の秋に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。
初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。
私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。
小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。
そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたのである。
この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。
夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。
私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。
東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の方から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となり、
35年ばかり勤めて、定年退職時となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの伝え通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
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