私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に専任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりしているが、
昨日は買物をする前に、郵便局に立ち寄ったのである。
何かしら『固定資産税』と『国民健康保険』の分割払いが、
今回は12月25日まで納期期限となっていたので、振込依頼をしたりした。
そして12月15日になれば、私と家内の『厚生年金』がそれぞれ振り込まれてきて、
『都民・市民の住民税』と『介護保険料』は自動的に支払う規約になっているので、
今月の公的な支払いは終えた、と私は安堵したりした。
やがて帰宅後、私は家内と談笑している時、
『お義兄さんの所の「お歳暮」、いつものようにお願いねぇ・・』
と家内から私は言われたりした。
『はい! 了解致しました!』
と私はボケてはいけないと、若き自衛官の真似事をして大きな声で応(おう)じたりした。
この後、お歳暮のシーズンかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ここ2週間ぐらい新聞の折込チラシで、ときおりデパートなどの『お歳暮』の広告が入っているのを、
思い浮かべて微苦笑したりした・・。
私はサラリーマンの時代でも、お中元、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、
なるべく避けていた。
しかしながら不得意な私でも、やはり私の母、そして私の生家である長兄宅には、
私が独立した時からは、欠かさずに訪問をしたりしてきた。
私の母は私が54歳の時に病死したが、生前の10年間は、
私たち夫婦は、最寄駅のひとつ『成城学園前駅』の近くにある『成城石井(旧・石井食料品店)』に立ち寄り、
お惣菜売り場で6品ぐらい『お歳暮』代わりに買い求めた。
こうしたことは私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品ばかりを、
何か母宅に訪れた時に手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる続けたりした。
こうしたささやかな成功体験があり、お中元、お歳暮の時に、お惣菜の品数を増やして、
私はボーナスを頂いた後なので、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。
しかしながら母の住んでいた川崎市登戸新町の宅を私たち夫婦は訪れた時、
私は最寄の酒屋に立ち寄り、地酒2合瓶を買い求めたりしたりした。
そして母宅で3人で談笑しながら、『お歳暮』代わりにお惣菜の品々をお互いに食べたりし、
私は地酒を呑みながら、談笑を重ねていたので、
果たしてお歳暮の範疇に入らないか、ともいえたりする。
私はお中元、お歳暮も不得意な私でも、やはり人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。
私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。
、
私が大学を中退し、アルバイトや契約社員などをして映画・文学青年の真似事しはじめたのは、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)であった。
その後、あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転身する為に、
コンピュータの専門学校を一年ばかり学び、安定した大手の民間会社に中途入社を希望していた。
こうした中、私の生家の遠い親戚の資産家のお方から、
このお方の知人で、この当時は大手の映像・音響メーカーの首脳陣のひとりのお方を紹介して頂いた。
そして、この首脳陣のお方のご尽力もあり、
私はこの大手の映像・音響メーカーに中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。
入社してまもなく音楽部門のひとつの大手レーベルが、
レコード会社として独立し新設されたので、私は異籍させられ、
中小業であるレコード会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉秋に定年退職となった。
この間、この首脳陣のお方のご自宅にお中元、お歳暮のたびに訪問した時、
温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなくつつみこんで下さり、このご夫婦から高潔さを私は教示を受けた。
その後、私が結婚する時に、ある格式ある式場を懇願して紹介して頂いたので、
ご夫妻に披露宴に参列して頂いたりし、私たち夫婦は何かとお世話になった。
このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方、奥様からはお逢いし話すたびに、茶事、庭、絵画、音楽などの素養が格段違う、
と私たち夫婦は実感させられたりした。
やがて私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくこのお方は、ご高齢であったので、亡くなわれた。
そして告別式に私たち夫婦は参列した時、改めて高潔なお人であった、
と思いを深めたりした。
しかし、民間会社の大手の首脳まで栄達されたお方であったから、
もとより怜悧な力量もあったと思われるが、
私たち夫婦はこのお方の限りなく優しいプライベートの面しか接してこなかったのも、
事実でもある・・。
しかしながら私にとっては、小学2年の時に父に病死されたこともあり、
慈父のような人と秘かに36年ばかり思い続けたお方でもあった。
このように私は母は病死、恩人のお方も逝去され、私たち夫婦はお中元、お歳暮に関しては、
年金生活をしている中、はかなくも私の生家である長兄宅だけとなってしまった・・。
この間、家内の両親には、家内が適時に品を送ったり、いくばくかお金を送ったわ、
と私は家内から聞いたりしてきた。
そして本日の午前中のひととき、お歳暮に品を買い求めに最寄駅ひとつの『狛江』駅に向かって歩いた。
我が家の周辺は幾つかの最寄駅まで、路線バスは利便性は良いが、
根がケチな為か、私は殆ど歩いたりしている。
私の住む所は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であるが、住宅街の外れにあるが、
家並みが密集している。
そして近くには野川が流れている。たとえば上流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。
或いは下流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。(逆光があったが撮った)
このような状況であるで、私は遊歩道、小公園、公園など歩くと、解放感につつまれ、
ひたすら歩くことが多いのである。
やがて住宅街の中、やや小さな寺院の前を通り過ぎた。
この後は、やはり住宅街の中に遊歩道があり、四季折々こよなく愛している道を歩いたりした。
私が駅ビルの中にある専門電店で買い求める品は、和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの時、
実家、知人宅に選定している和菓子がある。
文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。
三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。
もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
我が家が愛用している品のひとつとなっている。
これ以前は高価な紅茶セット或いは山本山の海苔セットを買い求めたりしていたなぁ、
と思い馳せたりしていた。
このようなことを漠然と思い馳せながら歩いたりした。
やがて遊歩道から、路線バスも通り大通りを5分ばかり歩くと、『狛江』駅が視えたりした。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に専任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりしているが、
昨日は買物をする前に、郵便局に立ち寄ったのである。
何かしら『固定資産税』と『国民健康保険』の分割払いが、
今回は12月25日まで納期期限となっていたので、振込依頼をしたりした。
そして12月15日になれば、私と家内の『厚生年金』がそれぞれ振り込まれてきて、
『都民・市民の住民税』と『介護保険料』は自動的に支払う規約になっているので、
今月の公的な支払いは終えた、と私は安堵したりした。
やがて帰宅後、私は家内と談笑している時、
『お義兄さんの所の「お歳暮」、いつものようにお願いねぇ・・』
と家内から私は言われたりした。
『はい! 了解致しました!』
と私はボケてはいけないと、若き自衛官の真似事をして大きな声で応(おう)じたりした。
この後、お歳暮のシーズンかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ここ2週間ぐらい新聞の折込チラシで、ときおりデパートなどの『お歳暮』の広告が入っているのを、
思い浮かべて微苦笑したりした・・。
私はサラリーマンの時代でも、お中元、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、
なるべく避けていた。
しかしながら不得意な私でも、やはり私の母、そして私の生家である長兄宅には、
私が独立した時からは、欠かさずに訪問をしたりしてきた。
私の母は私が54歳の時に病死したが、生前の10年間は、
私たち夫婦は、最寄駅のひとつ『成城学園前駅』の近くにある『成城石井(旧・石井食料品店)』に立ち寄り、
お惣菜売り場で6品ぐらい『お歳暮』代わりに買い求めた。
こうしたことは私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品ばかりを、
何か母宅に訪れた時に手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる続けたりした。
こうしたささやかな成功体験があり、お中元、お歳暮の時に、お惣菜の品数を増やして、
私はボーナスを頂いた後なので、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。
しかしながら母の住んでいた川崎市登戸新町の宅を私たち夫婦は訪れた時、
私は最寄の酒屋に立ち寄り、地酒2合瓶を買い求めたりしたりした。
そして母宅で3人で談笑しながら、『お歳暮』代わりにお惣菜の品々をお互いに食べたりし、
私は地酒を呑みながら、談笑を重ねていたので、
果たしてお歳暮の範疇に入らないか、ともいえたりする。
私はお中元、お歳暮も不得意な私でも、やはり人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。
私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。
、
私が大学を中退し、アルバイトや契約社員などをして映画・文学青年の真似事しはじめたのは、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)であった。
その後、あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転身する為に、
コンピュータの専門学校を一年ばかり学び、安定した大手の民間会社に中途入社を希望していた。
こうした中、私の生家の遠い親戚の資産家のお方から、
このお方の知人で、この当時は大手の映像・音響メーカーの首脳陣のひとりのお方を紹介して頂いた。
そして、この首脳陣のお方のご尽力もあり、
私はこの大手の映像・音響メーカーに中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。
入社してまもなく音楽部門のひとつの大手レーベルが、
レコード会社として独立し新設されたので、私は異籍させられ、
中小業であるレコード会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉秋に定年退職となった。
この間、この首脳陣のお方のご自宅にお中元、お歳暮のたびに訪問した時、
温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなくつつみこんで下さり、このご夫婦から高潔さを私は教示を受けた。
その後、私が結婚する時に、ある格式ある式場を懇願して紹介して頂いたので、
ご夫妻に披露宴に参列して頂いたりし、私たち夫婦は何かとお世話になった。
このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方、奥様からはお逢いし話すたびに、茶事、庭、絵画、音楽などの素養が格段違う、
と私たち夫婦は実感させられたりした。
やがて私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくこのお方は、ご高齢であったので、亡くなわれた。
そして告別式に私たち夫婦は参列した時、改めて高潔なお人であった、
と思いを深めたりした。
しかし、民間会社の大手の首脳まで栄達されたお方であったから、
もとより怜悧な力量もあったと思われるが、
私たち夫婦はこのお方の限りなく優しいプライベートの面しか接してこなかったのも、
事実でもある・・。
しかしながら私にとっては、小学2年の時に父に病死されたこともあり、
慈父のような人と秘かに36年ばかり思い続けたお方でもあった。
このように私は母は病死、恩人のお方も逝去され、私たち夫婦はお中元、お歳暮に関しては、
年金生活をしている中、はかなくも私の生家である長兄宅だけとなってしまった・・。
この間、家内の両親には、家内が適時に品を送ったり、いくばくかお金を送ったわ、
と私は家内から聞いたりしてきた。
そして本日の午前中のひととき、お歳暮に品を買い求めに最寄駅ひとつの『狛江』駅に向かって歩いた。
我が家の周辺は幾つかの最寄駅まで、路線バスは利便性は良いが、
根がケチな為か、私は殆ど歩いたりしている。
私の住む所は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であるが、住宅街の外れにあるが、
家並みが密集している。
そして近くには野川が流れている。たとえば上流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。
或いは下流に向かっても、遊歩道沿いに家が密集している。(逆光があったが撮った)
このような状況であるで、私は遊歩道、小公園、公園など歩くと、解放感につつまれ、
ひたすら歩くことが多いのである。
やがて住宅街の中、やや小さな寺院の前を通り過ぎた。
この後は、やはり住宅街の中に遊歩道があり、四季折々こよなく愛している道を歩いたりした。
私が駅ビルの中にある専門電店で買い求める品は、和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの時、
実家、知人宅に選定している和菓子がある。
文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。
三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。
もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
我が家が愛用している品のひとつとなっている。
これ以前は高価な紅茶セット或いは山本山の海苔セットを買い求めたりしていたなぁ、
と思い馳せたりしていた。
このようなことを漠然と思い馳せながら歩いたりした。
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