夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高倉健さんの遺稿文を拝読して、改めてご冥福を重ねて・・。

2014-12-10 15:54:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜、ときおり視聴しているNHKテレビ『ニュースウオッチ9』の中で、
映画俳優の高倉健(たかくら・けん)さんが、亡くなわれる前に月刊雑誌に寄稿文を遺(の)こされていた、
このような意味合いの言葉が、キャスターから紹介されていた。

過ぎし日の11月10日に高倉健さんは死去され、やがて11月18日に公表されて、
私は高倉健さんの訃報に接し、動顛しながらも、ご冥福を祈ったひとりである。

この後、このサイトに投稿文を綴り、送信したりした。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20141118
☆☆【夢逢人かりそめ草紙】
     1月18日『高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。』☆☆

そして当日の11月18日の夜のひとときに、居間で、
私が絶賛してきた降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』を鑑賞したりした。

翌日の夜は、森谷司郎・監督の『八甲田山 (1977年) 』を鑑賞し、哀悼を重ねたりした。
              

今回、『ニュースウオッチ9』のキャスターから紹介された内容は、
高倉健さんは12歳で、終戦となった昭和20年8月15日に敗戦と知り、人生が変わる一瞬を自覚させられた、
或いは映画俳優の人生の中で、再起点となったは『八甲田山 (1977年) 』の前の心情、やがて過酷な撮影中であった・・
など多々紹介されていた。

私は学びにながら、高倉健さんはどうして亡くなわれる前に月刊雑誌に寄稿文を認(したた)めたのか、
と思ったりした。

今朝、いつものようにNHKテレビのニュースを視聴している中で、
高倉健さんの遺稿文が紹介されて、寄稿されたのは月刊総合雑誌のひとつ『文藝春秋』と知った。

やがて私は平素の買物専任者の責務で、午前中にスーパーを2店ばかり回った後、
月刊総合雑誌の『文藝春秋』(2015年新年号)を買い求めたりした。
            

そして先ほど、『高倉健 病床で綴った最期の手記』と見出しされた寄稿文を拝読し、
そうでしたか、と心の中で呟(つぶや)きながら多々教示されたりした。

具体的に内容は、著作権上にさしさわりがあるので、本誌をお読み下さい。

ただ私は月刊総合雑誌の『文藝春秋』に関して、1970年(昭和45年)4月から長年の購読者のひとりで、
よしみに甘えて、寄稿文を書かれた動機、なり行きが本文の前文として、
編集部の方が明記されているので、転記させて頂く。

《小誌は戦後70年企画として、高倉健さんにご自身の戦後と映画人生を
振り返っていただく原稿をお願いした。
高倉さんはこの依頼を快諾してくださった。

さっそく執筆に入り体調を崩して入院後も、高倉さんはベットの上で推敲を重ねていたという。
亡くなる4日前の11月6日に原稿は完成し、小誌編集部へと届けられた。
遺稿となったこの原稿には高倉さんの映画人生のみならず、
人生哲学や死生観までが記されている。
それは、図らずも日本人の遺言となった--》
注)この原文に、あえて改行を多くした。

私はこの前文、そして高倉健さんにご自身の寄稿文を思い重ねて、改めてご冥福を重ねたりしている。

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