私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
今年の9月に古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
こうした中で、明日の見えない日々であったが、根拠のない自信ばかりで習作活動に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した・・。
こうした落胆している中、やがて30代を迎えた時を想像すると、家庭を持ち妻子を養う自信がなく、
あえなく敗退し、挫折した。
そして人生航路を変えて、民間会社に中途入社する為の手段のひとつとして、
コンピュータの専門学校のソフト系を一年間学んだ。
この後、 1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。
そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
しかしながら最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心の本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。
そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。
或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた。
そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。
年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したりした。
、
やがて年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
こうした根底には、私も現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙であった。
そして家内は、我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。
そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。
このような60代年金生活を10年過ごしてきた直後、
幸いに大病もせずに程ほどに自由に過ごせてきた私たち夫婦は、多く人たちに恵まれる中、享受してきた。
そして私としては、定年退職するまで敗残者の航路であった為か、
今までの人生の中で、60代の年金生活が何よりも享受できた、と実感を深めながら、
心の中で、万歳三唱だよねぇ、と呟(つぶや)いたりした。
しかしながら私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
やがて私は70代の歳を迎えてまもない時、70代以上の方は自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った知人、ご近所にいる3軒のご夫妻と何かと談笑したりしている。
そして確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、しなやかに日々を過ごせれば、
と念願しながら、過ごしている。
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今年の9月に古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
こうした中で、明日の見えない日々であったが、根拠のない自信ばかりで習作活動に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した・・。
こうした落胆している中、やがて30代を迎えた時を想像すると、家庭を持ち妻子を養う自信がなく、
あえなく敗退し、挫折した。
そして人生航路を変えて、民間会社に中途入社する為の手段のひとつとして、
コンピュータの専門学校のソフト系を一年間学んだ。
この後、 1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。
そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
しかしながら最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心の本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。
そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。
或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた。
そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。
年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したりした。
、
やがて年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
こうした根底には、私も現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙であった。
そして家内は、我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。
そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。
このような60代年金生活を10年過ごしてきた直後、
幸いに大病もせずに程ほどに自由に過ごせてきた私たち夫婦は、多く人たちに恵まれる中、享受してきた。
そして私としては、定年退職するまで敗残者の航路であった為か、
今までの人生の中で、60代の年金生活が何よりも享受できた、と実感を深めながら、
心の中で、万歳三唱だよねぇ、と呟(つぶや)いたりした。
しかしながら私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
やがて私は70代の歳を迎えてまもない時、70代以上の方は自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った知人、ご近所にいる3軒のご夫妻と何かと談笑したりしている。
そして確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、しなやかに日々を過ごせれば、
と念願しながら、過ごしている。
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