東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
昨日の朝、朝食を頂きながら、
『選挙・・何時ぐらいに出かけよぉうか?』
と私は家内に訊(たず)ねた。
『10時過ぎにしませんか・・洗濯も掃除も終えた後ですから・・』
と家内は応(おう)じた。
私たち夫婦の指定された選挙投票所は、我が家から歩いて7分ぐらいの所にあるNTT中央研修センタである。
私の住む地域は、東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれであり、
生家も近く結婚前後の5年を除き、この地を65年ばかり過ごしている。
そして我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。
いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
私は家内と1976年(昭和51年)の春に結婚して、千葉県の市川市の国府台にある賃貸マンションで、
新婚生活を2年ばかり過ごした後、
生家の近くに一戸建てを新築して、やがて今日に至っている。
もとより当初は家内としては不慣れな地域であったで、
私は休日になると、家内を誘い、自宅の周辺を散策したりし、
小学生の時に通った道などと共に旧街道の小道まで案内をしたりした。
そして付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、
住宅は確かに密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
今回のNTT中央研修センタは、私が小学3年生の1954年(昭和29年)頃は、
日本の電話電信を管轄していた日本電話電信株式会社(現在・NTT)の中央研究所のひとつであり、
中央電通学園と称されて、私たち地元の人々から親しまれていた場所となってきた。
特にこの中にある円形のドーム屋根にある建物は、この当時としては珍しい大型のテレビが設置され、
私たち地元の人たちは幾たびかボクシング試合中継、水泳の中継などを視聴させて頂いた場所でもあった。
そして幾10数年、私たちの地域の選挙の投票所となった上、
調布市から指定された防災の避難所ともなっている場所でもある。
朝の10時過ぎに、初冬のまばゆい陽射しの中、私たち夫婦は自宅を出た・・。
そして路線バスも走る大通りの道を避けて、旧街道の小道を歩いて行くことにした。
やがて霞嶺(かすみね)神社の脇道、やがて明照院(みょうしょういん)が表通りを歩いたりした。
この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60年)に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。
私は1944年(昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978年〈昭和53年〉の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社は小高い丘が聳えるようになり、陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、
高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催されたりした。
或いは初詣、節分の時は豆まきをした懐かしい場所でもあった。
そして隣接している明照院は、室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
やがて私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
このように何かとお世話になった明照院にも愛惜を秘めている場所で、
35年前の頃に家内を案内して、幾たびも話してきた所である。
この後、40数年前に住宅地に変貌した都営住宅のある地、そして幾つくマンションのある住宅街を通り過ぎ、
やがて切通しの坂道を歩いたりした。
この切通しの坂道も私は小学生の頃から歩いてきた道で、以前は丘陵の坂道を切り開いた素朴な土壌の道であったが、
10数年前からコンクリート壁と植木の垣根に変貌してしまったが、私の好きな散歩道のひとつである。
この付近には、新たなマンションが建てられる工事中となっている。
そして今回は、選挙に立候補にされた方たちのポスターが掲載されて、
こうした所までかょ、と私は苦笑したりした。
やがて坂道を上がれば、路線バスも通る大通りとなり、少し歩くとそしてNTT中央研修センタが見えた。
やがて私たち夫婦は、衆院選の小選挙区選出、比例代表選出のそれぞれのささやかな清き一票、
そして私にとっては不可解な最高裁判所裁判官の国民審査に、
何も記載しないのが賛意と知り、苦笑しながら有権者の責務を終えた後、買物にスーパーに向かったりした。
そして今回は、私の心のふるさとのひとつの中を家内と共に歩いたりしたが、
ときには過ぎし年の原景を観たり、そして現世の密集した住宅街が身近に交差できる私の住む地域に、
若き頃は複雑な感情であったりしたが、40代を過ぎた頃から、愛(いと)おしさを増してきている・・。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
昨日の朝、朝食を頂きながら、
『選挙・・何時ぐらいに出かけよぉうか?』
と私は家内に訊(たず)ねた。
『10時過ぎにしませんか・・洗濯も掃除も終えた後ですから・・』
と家内は応(おう)じた。
私たち夫婦の指定された選挙投票所は、我が家から歩いて7分ぐらいの所にあるNTT中央研修センタである。
私の住む地域は、東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれであり、
生家も近く結婚前後の5年を除き、この地を65年ばかり過ごしている。
そして我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。
いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
私は家内と1976年(昭和51年)の春に結婚して、千葉県の市川市の国府台にある賃貸マンションで、
新婚生活を2年ばかり過ごした後、
生家の近くに一戸建てを新築して、やがて今日に至っている。
もとより当初は家内としては不慣れな地域であったで、
私は休日になると、家内を誘い、自宅の周辺を散策したりし、
小学生の時に通った道などと共に旧街道の小道まで案内をしたりした。
そして付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、
住宅は確かに密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
今回のNTT中央研修センタは、私が小学3年生の1954年(昭和29年)頃は、
日本の電話電信を管轄していた日本電話電信株式会社(現在・NTT)の中央研究所のひとつであり、
中央電通学園と称されて、私たち地元の人々から親しまれていた場所となってきた。
特にこの中にある円形のドーム屋根にある建物は、この当時としては珍しい大型のテレビが設置され、
私たち地元の人たちは幾たびかボクシング試合中継、水泳の中継などを視聴させて頂いた場所でもあった。
そして幾10数年、私たちの地域の選挙の投票所となった上、
調布市から指定された防災の避難所ともなっている場所でもある。
朝の10時過ぎに、初冬のまばゆい陽射しの中、私たち夫婦は自宅を出た・・。
そして路線バスも走る大通りの道を避けて、旧街道の小道を歩いて行くことにした。
やがて霞嶺(かすみね)神社の脇道、やがて明照院(みょうしょういん)が表通りを歩いたりした。
この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60年)に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。
私は1944年(昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978年〈昭和53年〉の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社は小高い丘が聳えるようになり、陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、
高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催されたりした。
或いは初詣、節分の時は豆まきをした懐かしい場所でもあった。
そして隣接している明照院は、室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
やがて私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
このように何かとお世話になった明照院にも愛惜を秘めている場所で、
35年前の頃に家内を案内して、幾たびも話してきた所である。
この後、40数年前に住宅地に変貌した都営住宅のある地、そして幾つくマンションのある住宅街を通り過ぎ、
やがて切通しの坂道を歩いたりした。
この切通しの坂道も私は小学生の頃から歩いてきた道で、以前は丘陵の坂道を切り開いた素朴な土壌の道であったが、
10数年前からコンクリート壁と植木の垣根に変貌してしまったが、私の好きな散歩道のひとつである。
この付近には、新たなマンションが建てられる工事中となっている。
そして今回は、選挙に立候補にされた方たちのポスターが掲載されて、
こうした所までかょ、と私は苦笑したりした。
やがて坂道を上がれば、路線バスも通る大通りとなり、少し歩くとそしてNTT中央研修センタが見えた。
やがて私たち夫婦は、衆院選の小選挙区選出、比例代表選出のそれぞれのささやかな清き一票、
そして私にとっては不可解な最高裁判所裁判官の国民審査に、
何も記載しないのが賛意と知り、苦笑しながら有権者の責務を終えた後、買物にスーパーに向かったりした。
そして今回は、私の心のふるさとのひとつの中を家内と共に歩いたりしたが、
ときには過ぎし年の原景を観たり、そして現世の密集した住宅街が身近に交差できる私の住む地域に、
若き頃は複雑な感情であったりしたが、40代を過ぎた頃から、愛(いと)おしさを増してきている・・。
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