夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私たち夫婦は長き結婚生活の中、御節(おせち)料理、年末年始休暇、大きく変貌をして・・。

2014-12-26 07:57:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の昼過ぎ、家内からスーパーのチラシを私は手渡しされて、
『悪いけれど・・このスーパーで買って来て下さる・・お願い』
と私は言われて、家内は多忙の中、せめて買物メール・ボーイしかできない私は、
『はい! 了解致しました!』
と私はボケてはいけないと思いながら、若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をした。

この後、私はチラシを見ると、20分ばかり歩く駅前のあるスーパーで、
散歩代わりに身体に良いよなぁ、と何かとプラス思考の私は微笑んだりした。

そして家内がいつものようにサインペンで赤丸の印を付けた購入品を視(み)たりした。

今回、買い求める以外の商品には、
《 蒲 鉾 紅白は祝いの色
  数の子 子孫繁栄を願って
  伊達巻 巻物の形から文化発展を願う縁起物 》
などと明記されて、御節(おせち)料理に欠かせない品々に付記されていたので、
私は上手(うま)い文面を書く人だなぁ、と微笑んでしまった。

やがて家内から依頼された品を買い求めて帰路に向う時、
私たち夫婦の39年の結婚生活の中、御節(おせち)料理に関しても、年末年始の過ごし方も、
大きく変貌をしてきた、と思い馳せたりした・・。
                 

私が東京郊外の調布市の長兄宅の生家から離れたのは1972年(昭和47年)の春で、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら、隣接に住んでいる母の宅に同居した後、
やがて千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごしたりした。

そして私の生家の近くに一軒屋を構えたのは、1978年(昭和53年)の春であった。

この当時の私は33歳の若さで世間知らず、家内は中学生の時から茶事を学んできたので、
気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。

何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったりした。
まもなく専業主婦だった家内は、契約社員などで、3年ぐらい我が家の生計の強力な援軍となったりした。
       
     

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節(おせち)料理の完成を私に告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重を風呂敷でしっかりと結び、
私は家内から受取り、私は独りで母の所に届けたりした・・。

やがて私は途中で酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったりした。
その後、母の宅で、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたりした。

こうしたことは、母の亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年まで、
20年間続けた。
        

こうした年末年始休暇の中で、毎年の新年の2日の私の生家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準備などをしたりした・・。

そして私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

やがて3時頃に『新年の祝い』は散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、そして長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで、長く続いた。
              

私たち夫婦が1978年(昭和53)年の春に新居を構えた後、
年末年始休暇を利用して、私たち夫婦は家内の両親、家内の妹夫婦などと、
毎年1泊2日の新年会を兼ねた短き旅路を重ねたりした。

この後、確か1980年(昭和55年)の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
『お年取り』は大晦日(おおみそか)夜に年を取ることを祝って行う儀式である。

私たちは新婚時代の時、家内の両親宅に招待されて、御節(おせち)料理の頂きながら、
日本酒、ビールなどを呑みながら、談笑したりした。

こうした『お年取り』を我が家でも真似て、私たち夫婦は家内の両親に来宅して貰らった。
そして私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私たち4人ながら心身盛り上がったりした。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、殆ど昼下りに家内の両親は帰宅されたりした。
その後、ときには家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい続いたりした。
                                               

1998年(平成10年)の新春に私の母は死去した後、この年の晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
そして年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私の根底にあった・・。。

世間の人々の多くには、残された息子は幾つになっても父親の死より、母親の死の方が落胆を増すと聞いたりしていた。
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも、心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に言った。

そして私たち夫婦は、私の定年退職する2004年〈平成16年〉の前年まで、
年末年始の休暇を利用して、4泊5日前後で国内旅行に行ったりしていたので、
もとより御節(おせち)料理は我が家では、お休みとなった。
          

家内の父が2004年(平成16年)の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようになっている。

ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、私たち夫婦と3人で年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅される。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵で設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

こうしてお互いに齢を重ねてきたので、御節料理は簡略となっている。
駅前、最寄りのスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

このように私の母が生前した時代は、家内は黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、
そして御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げていた事は、今や省略している。
       

余談であるが、私の御節(おせち)の好みの品は、数の子を食べながら、
純米酒の辛口を呑むことが好きである。

そして蛸(たこ)は、高級と称される明石の『蛸(たこ)』よりも、
何故かしら廉(やす)い北海の『酢だこ』が好み味で、何かと食べまくり、
家内は呆れ果てて早や36年ばかり過ぎている。

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