夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

お茶を摘む情景を視聴して、やがて私は失われた時を求めて、幼年期の生家に思いを馳せて・・。

2018-05-02 14:28:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
昼のテレビのニュースをぼんやりと視聴していた時、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、と報じられていた。

そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われる中。
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、お茶を摘む情景が映しだされて、
いいよなぁ・・、と瞬時に魅了されたりした・・。

          
          ☆気象庁の公式サイト【tenki.jp】より、この写真をお借りしました。

そして何かと単細胞の私は、心の中でひとつの歌を唄いだしてしまった・・。
♪夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る・・【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

この後、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。

                         

私は1944年(昭和19年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方たちの手助けもある中、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有している田んぼの中には小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

こうした中、この当時のこの地域の程々の農家は、お茶の樹を持ち、
自宅用にまかなっていた時代の頃である。

                         

私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。

確か3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方の欅(けやき)を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。

                         

5月の初旬の頃になると、祖父の指示により、新芽を手摘みをしていた。

一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった御方にも支援も借りたりしていた。
私は幼児の3歳頃は、邪魔をしないように、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、置いていた、
と後年に母から教えてもらったりした。

そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。

そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉(も)んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年を愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した御方に1部の方に差し上げたりしていた。

こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
               
やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

          

もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。

数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

やがて1955年(昭和30年)の頃から、生家の地域一帯は、
都会に住んでいた人たち達が、移転して周辺に家を建てられ始めたりした。

私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。

                         

このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。

お茶の葉は、冬の寒い時期にゆっくりと養分を蓄えて育ち、春になると少しずつ芽を出し始め、
4月から5月頃に、いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、
その後に摘まれる茶葉よりも、栄養価やうまみ成分が多く含まれている、と伝えられている。

このような関係で、古人から新茶は、「新茶を飲むと病気にならない」、
「八十八夜のこの日にお茶を飲むと長生きする」など名言を思い重ねたりした。

昨今の我が家は、年金生活の中で、私は家内の茶坊主の真似事となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、しぐさを思い浮かべることがある。
そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる御方の労力に感謝して、頂いている。

          

余談であるが、私は煎茶をこよなく愛飲しているが、ここ4年買い求めているのは、
百グラム千円以内として、選定した煎茶は、一番摘みの《・・渋みと苦みを抑えた コクのある旨味・・》
と明記された掛川茶となっている。


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