私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
昼のテレビのニュースをぼんやりと視聴していた時、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、と報じられていた。
そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われる中。
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、お茶を摘む情景が映しだされて、
いいよなぁ・・、と瞬時に魅了されたりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/24/7b8c92cb8eef27093fbcd2dbf5dcd6e5.jpg)
☆気象庁の公式サイト【tenki.jp】より、この写真をお借りしました。
そして何かと単細胞の私は、心の中でひとつの歌を唄いだしてしまった・・。
♪夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る・・【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】
この後、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。
私は1944年(昭和19年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学する1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方たちの手助けもある中、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有している田んぼの中には小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。
こうした中、この当時のこの地域の程々の農家は、お茶の樹を持ち、
自宅用にまかなっていた時代の頃である。
私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。
確か3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方の欅(けやき)を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。
その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。
この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。
5月の初旬の頃になると、祖父の指示により、新芽を手摘みをしていた。
一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった御方にも支援も借りたりしていた。
私は幼児の3歳頃は、邪魔をしないように、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、置いていた、
と後年に母から教えてもらったりした。
そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉(も)んでいた・・。
やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年を愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した御方に1部の方に差し上げたりしていた。
こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/ab/58ad49f91e7be806133fe0c233020ff7.jpg)
もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。
やがて1955年(昭和30年)の頃から、生家の地域一帯は、
都会に住んでいた人たち達が、移転して周辺に家を建てられ始めたりした。
私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。
お茶の葉は、冬の寒い時期にゆっくりと養分を蓄えて育ち、春になると少しずつ芽を出し始め、
4月から5月頃に、いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、
その後に摘まれる茶葉よりも、栄養価やうまみ成分が多く含まれている、と伝えられている。
このような関係で、古人から新茶は、「新茶を飲むと病気にならない」、
「八十八夜のこの日にお茶を飲むと長生きする」など名言を思い重ねたりした。
昨今の我が家は、年金生活の中で、私は家内の茶坊主の真似事となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、しぐさを思い浮かべることがある。
そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる御方の労力に感謝して、頂いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/7c/30bf80f4c9d753fd9695f522840f8ccc.jpg)
余談であるが、私は煎茶をこよなく愛飲しているが、ここ4年買い求めているのは、
百グラム千円以内として、選定した煎茶は、一番摘みの《・・渋みと苦みを抑えた コクのある旨味・・》
と明記された掛川茶となっている。
昼のテレビのニュースをぼんやりと視聴していた時、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、と報じられていた。
そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われる中。
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、お茶を摘む情景が映しだされて、
いいよなぁ・・、と瞬時に魅了されたりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/24/7b8c92cb8eef27093fbcd2dbf5dcd6e5.jpg)
☆気象庁の公式サイト【tenki.jp】より、この写真をお借りしました。
そして何かと単細胞の私は、心の中でひとつの歌を唄いだしてしまった・・。
♪夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る・・【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】
この後、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/89/b6bb1a8498a3a1d0d861a0f20657a9ce.jpg)
私は1944年(昭和19年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学する1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方たちの手助けもある中、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有している田んぼの中には小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。
こうした中、この当時のこの地域の程々の農家は、お茶の樹を持ち、
自宅用にまかなっていた時代の頃である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1e/05d8084298fd9714498df149ebfa3b70.jpg)
私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。
確か3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方の欅(けやき)を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。
その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。
この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/70/5dac35b31cb214b7f38cb6db9d1b8707.jpg)
5月の初旬の頃になると、祖父の指示により、新芽を手摘みをしていた。
一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった御方にも支援も借りたりしていた。
私は幼児の3歳頃は、邪魔をしないように、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、置いていた、
と後年に母から教えてもらったりした。
そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉(も)んでいた・・。
やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年を愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した御方に1部の方に差し上げたりしていた。
こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/ab/58ad49f91e7be806133fe0c233020ff7.jpg)
もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。
やがて1955年(昭和30年)の頃から、生家の地域一帯は、
都会に住んでいた人たち達が、移転して周辺に家を建てられ始めたりした。
私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/de/48651bf30c29aa01116c307e8a4eca98.jpg)
このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。
お茶の葉は、冬の寒い時期にゆっくりと養分を蓄えて育ち、春になると少しずつ芽を出し始め、
4月から5月頃に、いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、
その後に摘まれる茶葉よりも、栄養価やうまみ成分が多く含まれている、と伝えられている。
このような関係で、古人から新茶は、「新茶を飲むと病気にならない」、
「八十八夜のこの日にお茶を飲むと長生きする」など名言を思い重ねたりした。
昨今の我が家は、年金生活の中で、私は家内の茶坊主の真似事となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、しぐさを思い浮かべることがある。
そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる御方の労力に感謝して、頂いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/7c/30bf80f4c9d753fd9695f522840f8ccc.jpg)
余談であるが、私は煎茶をこよなく愛飲しているが、ここ4年買い求めているのは、
百グラム千円以内として、選定した煎茶は、一番摘みの《・・渋みと苦みを抑えた コクのある旨味・・》
と明記された掛川茶となっている。