夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
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中曽根康弘・元首相は100歳を迎え、長寿の秘訣を73歳の私は学び、やがて中曽根首相時代を思い馳せて・・。

2018-05-27 15:58:22 | ささやかな古稀からの思い

今朝、私は配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、
『 中曽根氏100歳 「最後のご奉公」 
          長寿の秘訣は・・「探究心、好奇心」 』と見出しを見たりした。

そして私は中曽根康弘・元首相が27日、100歳の誕生日を迎えたことを知り、
百歳ってことは、大正時代に生を受けられて、昭和の時代、今日の平成の時代、
そして来年は新たな時代となるのだから、大きな4つの時代を過ごされることになる、
と思ったりした。

昨今、世の中は人生100年の時代などと風潮されている今日、
具体的に実践されて100歳の誕生日を迎えられた中曽根康弘・元首相は、
賢人の上、人生の達人だなぁ・・と私は感じたりした。

             

そして記事の中に、健康長寿の秘訣(ひけつ)について掲載されて折、
「規則正しい生活に加えて、常に森羅万象に関心を持つことも大事。
飽くなき探求心と知的好奇心こそ肝要だ」と述べられていた。

私は民間会社の中小業のサラリーマンを卒業して、年金生活をしている73歳の身であるが、
やはり中曽根康弘・元首相は、首相時代も剛腕で実践力のある御方だったので、
長寿の秘訣を明言されることも、賢人の行動力のある御方と感じ深めたりした・・。

中曽根康弘・元首相は、周知の通り、1918年(大正7年)に生まれて、
1947年(昭和22年)の衆院選で初当選し、やがて要職を幾たびか歴任され、1982年(昭和57年)11月に首相に就任し、
1987年(昭和62年)まで5年の長期政権を担った稀な御方である。

そしてソ連との冷戦時代に、アメリカのレーガン大統領と信頼関係を構築して、日米安全保障体制の強化にも努め、
日本の安全と国民の生命、財産を守った御方である。

そして内政では、国鉄、電電公社、専売公社、日本航空の民営化の難題に、
それぞれのできる御方を配置させて、民営化を達成した剛腕と英知に優れた御方でもある。

少なくても中曽根首相の功績を、このように私は評価してきた・・。

             

そして私は、中曽根首相の1982年(昭和57年)11月より、1987年(昭和62年)まで5年間の頃を、
ぼんやりと思い馳せたりした・・。

この当時の私は、あるレコード会社で、コンピュータを活用した情報畑に勤務し、
コンピュータ処理委託をしていた時代から、自社処理となり、開発、運営業務で睡眠時間を削り、
日夜奮闘していた時期であった。

確か1982年(昭和57年)のこの頃、心がはずみ上機嫌な心情を表現した『ルンルン』が、
林真理子さんの著作本などから、世の中は使われた、と思いだしたりした。

そして音楽は、岩崎宏美さんの『聖母たちのララバイ』、あみんさんの『待つわ』が、
街に流れていた。

1983年(昭和58年)のこの当時、サントリー・ウィスキーのCMに於いて、
女優の大原麗子さんが、確か着物の姿で、『少し愛して、なが~く愛して・・』流れていた、
と思い馳せたりした。

そして音楽は、細川たかしさんの『矢切の渡し』、大川栄策さんの『さざんかの宿』などが、
流行(はや)っていた・・。

テレビの連続ドラマは、橋田寿賀子さんの原作、脚本の『おしん』が放送されて、
突出した視聴率になった、と私は聞いたりしていた。

1984年(昭和59年)になると、タレントの所ジョージさんが、
大したことでもないのに、驚いたり誉めたりする時に、
『す、ご、い、で、す、ねえ・・』とテレビ番組で言って、流行させたりしていた。

音楽は中森明菜さんが『北のウィング』、チェッカーズさんの『涙のリクエスト』だった、
と記憶している。

1985年(昭和60年)になると、8月中旬に『日航ジャンボ機』が御巣鷹山に墜落して、
私はテレビのニュースを視聴して、動顛させられたりした。

音楽に関しては、井上陽水さんが『いっそうセレナーデ』、吉 幾三さんが『俺ら東京に行くだ』が、
心象として残っている。


1986年(昭和61年)になると、テレビのあるCMに於いて、
『亭主元気で留守がいい・・』と偶然にテレビを視聴して、私は微苦笑していた。

音楽に関しては、テレサ・テンさんの『時の流れに身をまかせ』、小林 旭さんの『熱き心に』などを、
私はよく聴いたりしていた。

1987年(昭和62年)になると、国鉄が分割して、JRグループが発足して、
私はサービス向上に好感したりしていた。

そしてソ連のゴルバチョフ書記長が、再編、改革、再構築の意味合いのロシア語で、
『ペレストロイカ』をニュースで私は視聴して、注視したりしていた。

音楽に関しては、瀬川瑛子さんが『命くれない』、吉 幾三さんが『雪国』が、
心象として残っている。

             


このようにぼんやりと思い馳せたりしてきたが、
この当時、
私たちが過ごしてきた時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。

             

やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

今、改めて中曽根首相の1982年(昭和57年)~1987年(昭和62年)まで5年間を、
振り返ると、殆どの国民が幸せな時代を過ごせた、と思い深めたりしている。

コメント
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