夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内 、77歳の私は学び、涙を浮かべて・・。

2021-11-05 11:33:19 | 喜寿の頃からの思い
私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなっている。



私が2004年(平成16年)の秋に定年後する直前に、
家内の父が病死され、家内の母は我が家より遠い地で、独り住まいとなっている。

そして家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
11年ぐらい恒例となっていたが、これくらいは我が家では私は『おひとりさま』の生活となってしまったが、
気分転換で良好と思ったりしてきた。

やがて6年前の頃より、家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                           
やがて家内の母が『要介護2』となり、長女の家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

こうした事情で、我が家では私が『おひとりさま』の生活が加速されて、
私たち夫婦の年金生活の予定事項が定まることが少なくなり、
少し困苦してきたことも事実となっている。

このように私たち夫婦は、年金生活の中、何かと家内の母の状態に左右されることもあり、
家内は老々介護の中で、家内の思いをできる限り叶えようとして、疲労困憊になる時もある。

『お義母(かあ)さんは・・娘ふたりに介護されて良いけれど・・
我が家では子供もいないので、頼れる人はいないし、お互いの頑張りだよなぁ・・』
と私は微苦笑しながら、ときおり家内に言ったりしている。

『そうよねぇ・・あたし達が晩年期まで・・しっかりとしないと』
と家内は苦笑しながら、私に言ったりしている。


                        
この間、確か15年近い頃だったと私は記憶しているが、
家内の母は年金として月平均14万円前後で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
とこのような意味合いの言葉を、長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べたりした。
『リバースモーゲージ』は、老後資金がどうしても不足してしまう場合には、自宅不動産を活用し、
自宅を担保にお金を借りて、慣れた自宅を手放さず、死亡後に担保を売却して元本を返済する方法である。

まもなく家内は関係先に孤軍奮戦した結果、家内の母の住む市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。
                         
私は家内に結婚してまもない時に、
お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても、僕は関係ないょ・・と私は家内に言ってきた。

こうした私の根底には、私が結婚する時、私の母から、
男子(だんし)たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だからねぇ、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。

やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代を預けるから、と家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、
お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。

                                                                       
しかしながら私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

年末年始の時節になると、独り住まいの家内の母に年末に我が家に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうした過ぎし10年前のある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

まもなく家内から私は聞いたりした時、私は家内の母が100歳になる事は、
私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。
                                   
家内の母が百歳まで生きられたら、老々介護以前に、
私たちのどちらかは片割れになるか、或いは夫婦ふたりとも死後の世界、
と思ったりしたのが根底であった。

人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。

                       

そして家内の母は、娘ふたりに介護されている中、
『私・・このようになること・・思ってもいなかったわ・・』
と数が月前に、私に電話で詫びたりしたことがあり、私は微苦笑したりした。

この後、家内は大病した後、体調はおぼつかなく、
やむなく家内の妹に介護をお願いして、
やがて家内の母は介護施設に入居して、月の数日だけ自宅に戻り、
この時は家内の妹が、宿泊しながらお世話をしている。

そして私たち夫婦が、どちらかがいつの日にか介護・要になったり、
やがてどちらかが死去して、おひとりさまになった時・・
予測した以上に多事多難があると思われる・・。

このように私たち夫婦は、年金生活の中、家内の母が老後で介護されるまで、
実感させられてきた・・。

こうした思いを秘めて、今回の《・・死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内・・》、
真摯に学びたく、記事を読んだりした・・。

この記事は、『週刊現代』2021年10月2・9日号に掲載された記事で、
関連の【 現代ビジネス 】に於いて、11月3日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・

☆息子の嫁と二人暮らしで

薬も飲まず、風邪もひかないという浪川正二郎さん(104歳、千葉県在住、仮名)が、
遠い目をしながら明かす。

「15年前に妻が、長男も5年前に死んでしまいました。
日中は、庭の草むしりくらいしかすることがないから、
ただ悲しさとともに生きるだけです。

それまで空を照らしていた太陽が、地平線に隠れて、
すっかり辺りは、暗くなってしまった。
今の私は、そんな人生の日暮れ時を迎えています」

正二郎さんは現在、亡くなった長男の妻と2人きりで、戸建て住宅に暮らしている。

—自分を見守ってくれる家族との折り合いはどうですか?

そう正二郎さんに尋ねたところ、苦しい胸の内を明かした。

「この家は、私と息子の資金で建てたので、追い出されずに済んでいます。

ただ・・・息子の嫁さんが、つくってくれるのは、
味気ない味噌汁に、野菜と魚を煮たものばかり。

塩分を気にかけてのことだろうけど、
あるとき『美味しくないよ』と愚痴をこぼしたら、怒られてしまってねえ。

本当はマクドナルドのハンバーガーが大好きなんだけど、
嫁さんが『そんなもの食べるな』と口うるさいから、
孫が家に来るときに、こっそり買ってきてもらうんだ。

嫁さんの機嫌が悪いときは、呼びかけても、無視されるんだよ。
私の生き死には、嫁さんに握られているし、
彼女は、『お前より一日でも長生きしてやる』って、そればっかり言うんだ。
もう聞き飽きたよ」

面倒を見てもらい、ありがたいと思う反面、自分が家族の足枷になっている、
その人生を奪っているのかもしれない、と考えてしまうつらさ。
家族関係のひずみもまた、長く生きるうえでは避けがたい悩みである。

 

103歳を迎える田岡ヨネさん(福岡県在住、仮名)は
戦後まもなく、夫とともに酒屋を創業した。
街の居酒屋やスナックなどに酒を卸し、生活必需品を提供する商店としても繁盛した。

80歳を超えるまで、一日も休まず、
その日の売り上げと利益を計算し、帳簿をつけてきたという。
ただ、最愛の夫は12年前に亡くなった。

ヨネさんを介護する長男が語る。

「母は時々、自分の預金通帳を眺めて、
『こんなに(残高が)減ってしまった』と嘆くことがあります。

私が介護などの必要な経費に充てているから、といちいち説明するのですが、
自分でおカネを管理できなくなったのが寂しいようです。

持病はなくても、筋力が落ちていくので、自分でできることが少なくなってゆく。
会話もおぼつかなくなっていますが、それでも生き続けてしまうことが、苦しいようです」



☆死にたくても死ねない

100歳まで生きる人の中には、
「死にたくても死ねない」という苦悩を抱く人もいるようだ。

孤独感や介護にかかる費用面での不安や、
介護してくれる家族に、いつまで迷惑をかければよいのか、という申し訳なさ。
本当は、早く死んでしまったほうがいいのかもしれない・・・ヨネさんもそう思っている。

「母は毎朝目が覚めるたびに、
『また、今日も生きている・・・』と思うそうです。
長女を78歳で亡くしたときは、『なぜ私だけが、まだ生きているのか』と嘆いていました。

母のベッドのそばに、父の遺影が飾られていて、
『お爺さんのところに早く行きたい』と言いますが、
身体に悪いところはとくにないから、死ねない。

母の世代は、天寿を全うするのが当たり前と考えていますから、
自死などはせず、自然死を望んでいます。

なので、死にたいと願いながらも、生き続けてしまうことに
葛藤を抱えているようです」(ヨネさんの長男)

100歳を超えての人生とは、生と死をめぐる葛藤と矛盾という微妙な感情を抱え、
自分も、周囲も、生きていくことに他ならない。



昨年、103歳の生涯を閉じた精神科医の高橋幸枝さんは、
亡くなる半年前に出版した著書で、「生きることとは、不安と共生しているようなものだ」と語っている。


普段は「いつ死んでもよい」と威勢よく話していても、
いざ発熱に見舞われたときは、とうとう死ぬのではないか、と不安な気持ちになる。
死への願いとともに、生への執着も、併せ持つ矛盾を抱えていると記すのである。


100歳を過ぎれば、すでに健康を失ってしまった人もいる。
幸せなのか、不幸なのかという気持ちを感じることも、
自分が生きているかどうかも判然としないまま、生きているケースも多い。

今年100歳を迎えた川崎ヨシエさん(東京都在住、仮名)は、66歳の時に下半身不随になった。
ほどなくして直腸がんが見つかり、認知症も患った。
それから実に33年間にわたって、ヨシエさんを在宅介護し続ける次女が告白する。

「10年前から認知症がひどくなり、
実の娘として判別してくれないこともあれば、
『食事に毒が盛られている。私を殺そうとしている』
と暴言を浴びせられることもありました。

今は、自分が100歳を迎えたことも、わかっていないでしょう。
マスコミが取り上げる元気な100歳というのは、ほんの一握りだと思います。

認知症が悪化しても生き続けているのは、
本人にとって幸せなことなのか、よくわかりません」

9月20日の敬老の日に合わせて、
ヨシエさんのもとに”ある物”が届いたが、それも意味がないと次女は語る。

「菅総理の名で100歳を記念する祝い状と銀杯が贈られてきました。
さらに地方自治体からは、巾着袋と布製のカード入れ、
そして袋に詰められた紙吹雪が贈られてきた。

お祝いに使うようにとのことなのでしょうが、
認知症の進んだ母にも、私たちにとっても、無用の長物ですよね」

これからの時代、あなたも100歳まで生きる可能性は十分にある。

日本では、人口が急激に減少してゆく一方で、100歳以上人口はどんどん増え続ける。
2067年にはなんと、100歳以上の人々(56万6000人)が、
日本に生まれてくる新生児の数(54万7000人)を上回ると予測されているのだ
(国立社会保障・人口問題研究所の推計による)。

100歳を超えてどう生きるかは、国民的な課題となっていくだろう。


☆成りゆきに任せて生きる

長生きすることは、果たして幸せと言えるのか。

どんなときに幸せを感じるか・・・
やや耳が遠い丸山平九郎さん(103歳、長野県在住、仮名)にそう尋ねた。

すると、長女を通訳代わりに、丸山さんはこう話してくれた。

「好きなときに起きて、好きなときに寝る毎日ですから、ストレスも不自由もありません。
時間は、たっぷりあるので、ゆっくりいろんなことを見ていますね。
見る角度で、お顔が変わって面白いので、仏様をずっと見るのが好きです。

それと今は、一年にたった一度しか咲かない月下美人を、温室で育てています。
5年以上も咲かなかったのに、急に咲きだすこともある。

時間と根気だけは、人一倍あるから、一人で黙々と育てているのが、何よりの幸せです。
若い人たちには、この先のことを心配していても、仕方がないから、
明るい世の中のことを想って、生きてほしいと伝えたいです」

 

103歳の野呂健吉さん(北海道在住)も、前を向いて生き続ける。

健吉さんは、趣味の弓道を12歳で始めて以来、
戦争への従軍などで、ブランクはあったものの、今まで続けている。
弓道範士九段という最高位を持つ腕前で、全国各地を飛び回って指導してきた。

「週に2回は、弓道場に出かけて弓を引いていましたが、
コロナ禍で、弓道場がすべて閉まってしまった。

今は前向きに、再び開くことを願いつつ、週4回ほどデイサービスに通いだしました。
軽い運動や体操、習字などで、大勢の人たちと交流する時間を共有できて、とても幸せです」

前編【周りはみんな死んでいったが…“100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」】に
登場した日本人男性最高齢者の上田幹藏さんもこう語る。

「年老いて人間関係に悩む人は、多いと思いますが、あまり深刻に考えても意味がない。
クヨクヨ悩まず、ただ成りゆきに任せて、生きることも大切な技術だと思います」

考えすぎても、キリがない。
長く生きれば、人生の重荷も増えていく。
だが、それも天の配剤だ。どんなことも、やがてあるべき場所に還り、なるようになる。

100歳を超える人々は、そう考えて今を生きている。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、《・・ 死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内・・ 》、
学びながら、 やがて目頭が熱くなり、涙を浮かべたりした・・。

特に私は深く学んだことは、
《・・103歳の生涯を閉じた精神科医の高橋幸枝さんは、
亡くなる半年前に出版した著書で、「生きることとは、不安と共生しているようなものだ」と語っている。

普段は「いつ死んでもよい」と威勢よく話していても、
いざ発熱に見舞われたときは、とうとう死ぬのではないか、と不安な気持ちになる。
死への願いとともに、生への執着も、併せ持つ矛盾を抱えている・・ 》

こうした晩年期の深淵を学び、復誦(ふくしょう)するように心の中で、
思い重ねたりしている。

コメント (4)
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