日本文学の歴史を振り返ると、元々宗教と文学は切り離せないものだった。
源氏物語も平家物語も、後世に残り我々を感動させる物語は、
宗教と文学の入り組んだ関係を描き続けてきた。
寂聴さんは、そうした伝統の中にすっぽりと入る。
日本文学の最も正統な流れを引き受けて表現してきた。
だからこそ生々しいところもあり、大衆的な魅力もあった。
その意味で、源氏物語の現代語訳をする最も適した人物だったと言える。
寂聴さんとしては、言いたいことを言い、やりたいことをやり、書きたいことを書いてきた。
それがそのまま日本文学の伝統につながっていたというまれな人物だった。
明治以降の文学は、宗教的な要素をはぎ取ってしまった。
現代人は「あの人はお坊さんなのか、小説家なのか」という疑問をすぐに発する。
それが現実の文壇であり、論壇であり、ジャーナリズムなのかもしれない。
そういう意味では孤独な仕事だったとも言える。
晩年のエッセーでは、高齢になれば人間は変わると書いておられた。
信念や信仰や確信を貫くのが立派な人生とみんな思っているが、
そんなことはなく、人間は刻々変わる。それは高齢者の宿命だと。
僕も90歳になって同じことを感じる。
宗教や哲学や文学を超えた境地におられたのではないか。
そういう状況の中ですーっと息を引き取られたのだとすれば、きっと自然に帰っていかれたのだろう。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、《・・晩年のエッセーでは、高齢になれば人間は変わると書いておられた。
信念や信仰や確信を貫くのが立派な人生とみんな思っているが、
そんなことはなく、人間は刻々変わる。それは高齢者の宿命だと。・・》、
つたない人生航路を歩んだ私でも、定年後の年金生活17年が過ぎた今、
確かに齢を重ね、振り返った時、変貌してきた、と実感させられているので、
この人生の晩秋期に、《・・人間は刻々変わる・》同意しながら微苦笑をしたりしている。
余談であるが、「逝去」は、自分の家族や身内以外が亡くなった際は、相手を敬い「逝去」を使い、
「死去」は、家族や身内が亡くなった際に使う、と私は高校時代に国語の先生から学んできた。
昨今のマスメディアは、義務教育の『国語』を学んだのかしら、と苦笑している。
信念や信仰や確信を貫くのが立派な人生とみんな思っているが、
そんなことはなく、人間は刻々変わる。それは高齢者の宿命だと。・・》、
つたない人生航路を歩んだ私でも、定年後の年金生活17年が過ぎた今、
確かに齢を重ね、振り返った時、変貌してきた、と実感させられているので、
この人生の晩秋期に、《・・人間は刻々変わる・》同意しながら微苦笑をしたりしている。
余談であるが、「逝去」は、自分の家族や身内以外が亡くなった際は、相手を敬い「逝去」を使い、
「死去」は、家族や身内が亡くなった際に使う、と私は高校時代に国語の先生から学んできた。
昨今のマスメディアは、義務教育の『国語』を学んだのかしら、と苦笑している。