先程、ヤフー・ジャパンが配信している記事を見ている中で、
『 「死ぬ間際」にほとんどの人が後悔する「たった一つ」のこと 』、
と題された見出しを見たりした。
こうした中、ふたりの叔父さんは御自身の意思はなく、多大な手厚い延命治療を受けて、
やがて病院で亡くなってきた。
もとより延命治療は断り、 痛みだけを執(と)って下さる平穏死を選ぶょ、
と私は家内に幾たびも言ったりしてきた。
家内も胃ろうや人工呼吸器などの延命治療は、お断りですから・・ と私に言ったりしている。
このような話を私たち夫婦は、幾たびも話し合ってきた・・。
結果としては、それぞれ延命治療は断念して、
「延命治療は望みません。痛み止めだけは処置をお願いします」
と明示するために、
私たち夫婦は、それぞれ『日本尊厳死協会』に入会したりしている。
そして私は外出する時は、
お財布と共に持ち歩いたりしている。
こうした理由は、万一、外出時に救急車で病院に運ばれても、
過剰な延命処置を避ける為てあり、そしてメモ用紙も入れて、親族関連の連絡先が明記している。
このような私は、今回《・・「死ぬ間際」にほとんどの人が後悔する「たった一つ」のこと・・》、
どのようなことですか、と思いながら真摯に学びたく、記事を読んでしまった。
《・・ いつかは、誰しも最期の日を迎えます。
そのとき後悔しないために、「死に方」について考えておいて損はありません。
医師である著者が「理想の死」と語るのは、意外な死に方でした――。
*本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
☆上手に死ぬ準備
いつ来るともしれない地震や津波に備えるよりも、大事ではないでしょうか。
常々私はそう発言し、そのための情報提供もしてきましたが、
まだまだ目を背けたまま何の準備もしていない人が多いようです。
最後は病院に行けばいい、医者に任せればなんとかしてくれる、
そんな不吉なことは、考えたくないなどと思っている人です。
上手に死ぬためには、まず死を受け入れることが、大事だと前著に書きましたが、
その死を受け入れるというのが、むずかしいのだ、
というご意見をたくさんいただきました。
何も今すぐ受け入れろと言っているのではなく、死に瀕したらということですが、
それもやはりむずかしいのでしょう。
理由は簡単。人間は本能的に、死を拒むようにできているからです。
むかしはそれでも特段、問題はありませんでした。
あまり苦しむ前に、自然が死をもたらしてくれていましたから。
ところが医療が発達したせいで、いつまでも死を拒んでいたら、
たいへんなことになる時代になっているのです。
死が世間の目から隠されてしまったことも問題です。
家で亡くなる人が多かったころは、死は日常の一部で、深い悲しみはあるものの、
自然なものとして、受け入れられていました。
しかし、今、死は非日常で、あり得べからざるもののように拒絶されています。
メディアでも、死は絶対悪で、全否定すべきものという論調がもてはやされます。
そこに理性は感じられません。
死を受け入れるためには、長生きの苦しみや、終末期医療の悲惨を見るのがいちばんですが、
ふつうの人には、その機会はまれでしょう。
高齢者施設の職員で、過剰な長生きを肯定し、
自分もそうありたいと思っている人は、まずいないでしょうし、
医療者も最後の最後まで、病院で医療を受けたいと思っている人は少ないはずです。
両者とも適当なところで、死ぬことの大事さ、快適さ、効率のよさを実感しているからです。
自分が死ぬときは、医療の手を離れ、自宅や施設で、
自然な最期を迎えたいと思っている人が、大半だと思います。
☆あのとき死んでいれば…
私も自分のこととして、上手に死ぬための準備をしているつもりですが、
実際はどうなるかわかりません。
あれだけ延命治療は無駄、無意味、有害と言いながら、
気づいたらチューブだらけで、機械で生かされている状態になっているかもしれません
(そうなったら大いに嗤ってやってください)。
上手に死ぬための準備は、もっぱら病死を含む自然死を前提にしていますが、
そううまく死ねるともかぎりません。
たとえば、先日、私は自転車で走行中、
出会い頭の事故で、あわや死ぬかもという状況になりました。
大阪市内の信号のない四つ辻で、スピードを落としつつ右を見て、左を見ようとした瞬間、
左から来たワゴン車と衝突したのです。
あっと思った直後、一瞬、意識がなくなり、
気がつくとアスファルトに、自転車ごと倒れていました。
どれほどの怪我かわからないので、まず手を動かし、肘を曲げて、
腕の骨折がないことを確かめ、大きく息を吸って肋骨の骨折もないことを確かめ、
次いで太ももと足首を曲げ伸ばしして、骨折のないことと、
脊髄損傷のないことを確認して、ほっと一息つきました。
どこか痛いところはないかとさがすと、ズボンの膝頭が破れていて、
血が滲んでいました。
しかし、膝蓋骨は無事のようだったので、手を突いて身体を起こすと、
立ち上がることもできました。
自転車も前輪の一部が歪んでいましたが、さほどの変形はないようでした。
ワゴン車を運転していた女性が車を止め、青い顔で駆け寄って来ましたが、
たいした事故ではなかったので、「大丈夫です」と言うと、
「申し訳ございませんでした」といきなり土下座したので驚きました。
「警察を呼びます」と言うので、「いや、けっこうです」と断りました。
私も次の予定があって急いでいたからですが、
このままその場を離れると、女性はひき逃げになるので、
警察を呼ぶべきだったと、あとで知人に叱られました。
それからふと思ったのですが、もしもあのとき、即死していたらどうだったのか。
あそこで私の意識が途絶え、その後は何もない。
であれば、これほど楽な死に方は、ないのではないか。
周囲の人間は、まだ若すぎるとか、やり残したことがあるだろうにとか、
あまりに運が悪いとか、中にはざまあみろとか、いろいろ言うでしょうが、
死んだ私本人は何もわかりません。
悔しがることも、未練を感じることも、家族や友人との別れを惜しむことも、
ましてや相手の運転手を憎むこともないでしょう。
死とはそういうもので、あれこれ思うのは、周囲の人間だけ。
本人には何もわからない。
つまり、よく言われる通り、一人称の死はないということです。 ・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
《「死ぬ間際」に・・ほとんどの人が後悔する「たった一つ」のこと》、
私は学びながら、多々教示させられたりした・・。
私は過ぎし35年近くのサラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
ここ20年過ごしてきた年金生活は、予測した以上に安楽な生活を享受している。
こうした中で、誰しも高齢者になれば、いつの日か、
自身が亡くなる時を思い馳せる時があると思われ、
何かと単細胞の私でも、漠然としながらも思案する時がある・・・。
たとえば、いつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中で幼年期以来、オシッコを一度だけ漏らしたりして、
死去後のことなどを家内に伝言する・・。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そして、この間に家内からは 『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。
やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。

このような私は、自身の終末期を私は思いめぐらしてきたが、
大病に遭遇、或いは介護・要、そして死去の時期にしても・・こればかりは、
神様か仏様の采配される世界だと、親兄弟、知人を見たりしてきたので、思い深めている・・。