私は東京の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅に住んでいるが、
生家の実家も近くにあり、私の幼年期の遠い70数年前の頃は、
『餅つき』は、歳末の近くになると私の生家で行っていた。
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、今住んでいると近くで農家をしていた。
祖父、父が中核となり、戦前からの小作人だった御方たちの助すけを借りて、
程々の広さの田畑を耕していた。
私が小学一年生の1951年(昭和26年)の12月でも、
江戸時代からの名残り農家の六人組で、たとえば『餅つき』などの場合でも、
お互いに20日過ぎた頃から、この日はあそこの家で、
『餅つき』をする互いの助成制度の風習が残っていた・・。
具体的には、祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
こうした中で祖父の家の順番になると、
この一週間前の頃に、父が俵(たわら)に入ったもち米をリヤカーで積んで、
甲州街道に精米専門店があり、精米して頂き、
精米された餅米を俵(たわら)に入れ、排出されたもみ殻、糠(ぬか)も含めて帰宅していた。
やがて『餅つき』の前日には、精米された餅米を水に漬けたりしていた。
そして当日になると早朝から生家で大きな竈(かまど)に、薪(まき)を燃やして、
生家で最も大きなお釜(かま)が水が沸騰する少し前に、
餅米を入れた二尺近い正方形の大きな蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、やがて蒸(む)した。
ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の生家の人である。
祖父、父、母、叔母、そして長兄、次兄に続いて、
6歳の私なり手伝いをしたりしていた。
午後になると、大人3人掛かりで、
杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つい)たりした・・。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。
やがて餅になると、お供(そな)え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。
この当時の生家に於いては、年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。
このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
夕方の6時頃になると、搗(つ)きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。
こうした時、ご近所の叔父さんが、私に言った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』
『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は言った。
『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この児きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔になってしまった叔父さんは、私の父に笑いながら言ったりしていた。
後年、私が30代後年より、お酒は日本酒の純米酒の辛口をこよなく呑み、
呑兵衛のひとりとなったので、この叔父さんは的言されたりした。
やがて1956年(昭和31年)の頃になると、
私の周囲の農家の代々の家も、時代の波が押し寄せ、
田畑、竹林、雑木林が消え去り、住宅街に変貌し、このような風習は、消えた去った・・。
このような私の幼年期の頃、生家で『餅つき』をしていた当時の頃を思い浮かべ、
綴ったりしていたが、私にとっては餅つきの情景は、限りなく深い愛惜感も秘めている。
そして私たち夫婦は47年近く生活している中、餅に関しては、
初めて10年ぐらいは、和菓子屋で年末に長方形の『のし餅』を買い求めてきた・・。
その後の今日まで、スーパーで殆ど一年中販売されているシングルパックされた『切り餅』を
ときおり買い求めたりしているので、季節感がなくなってしまった、
とお互いに微苦笑しながら食べたりしている。
そして新年に頂くお雑煮に入れる餅も、シングルパックされた『切り餅』となり、
お供(そな)えもスーパーで販売されている可愛らしい小振りを2セット買い求めたりしている。
このような我が家の元旦の朝の情景となり、私は戸惑いながら時の流れだよなぁ、
と苦笑して早や40年過ぎている。