夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

戦争を知らない無力な私でも、広島に向かい、黙祷をして・・。

2011-08-06 11:23:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となる。

しかし、少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして35年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


今朝8時15分少し前、私の住む調布市では、
近くの高台の拡声器からは、
『広島に原爆を落とされた日です・・
皆様で・・亡くなわれて多くの人たちに・・哀悼の意を表して・・黙祷しましょう・・』
とゆったりと判りやすいように、伝えられた・・。

私は思わず、姿勢を正して、広島の方面に手を合わせて黙祷した・・。

その後、私は若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
本日の6日の『広島被爆』はもとより、
6月23日の『沖縄慰霊の日』、
8月9日の『長崎被爆』、
そして8月15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』・・
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。



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我が家の居間にあるエアコン、この熱い時節に10数年奮戦し、やむなく敗退宣言をして・・。

2011-08-06 00:41:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

我が家のエアコンは、一階の居間の17畳ぐらいの広さに壁掛けのセパレート型の冷房専用機があり、
二階の和室兼寝室の6畳には、通常の壁掛けの暖冷房のセパレート型がある。

一昨日の4日の昼過ぎ、雨上がりの蒸し暑い中、私は買物を終えて帰宅したが、
洗面所で顔を洗い、着替えた後、
居間のクーラーを点けて、冷風に心身ゆだねていた・・。

家内はクーラーの冷風が苦手で、独りでいる時は、32度ぐらいの外温までは殆ど平常であるが、
私は暑さが何よりも苦手なので、室温が28度いじになると、冷風をこよなく愛している。
このような風変わりなカップルなので、この熱い季節になると、
静かな冷たい戦争が、ときおり我が家で発生する。

しかし寒い季節になると、家内は寒がりなタイプなので、
居間の暖房は、ガスファンヒーターで暖かくしているのが平年の状況であり、
私は幼年期に農家の児として育ったせいか、なぜかしら寒さには強く、
微苦笑している。


一昨日の午後3時過ぎ、私が居間の片隅で冷風に身をゆだねていたが、
肝要な冷房専用機のセパレート型の下部から、水滴が落ちはじめて、床を濡らしはじめた・・。
家内が最初に気づき、私はバケツを持ってきた、水滴の落ちるあたりに置いたりした。
水滴がポトリ、ポトリと落ち、どうしたのよ、と私は心の中で叫び、見つめたりしていた。

この冷房専用機は、私が定年退職の4年前の2000〈平成12〉年の初夏に購入し、
遅ればせながら、初めて居間に設置したものである。

私は定年後は買物と散策以外は、殆ど家の中で過ごすことが多い。
読書をすることが圧倒的に多く、ときには映画をテレビを通して鑑賞したり、
或いは音楽を聴いたりすることがあるので、
肝要の冷暖房機がこの熱い時期に10数年に及び奮戦してくれたが、
敗退宣言のように下部から、涙雨の水滴が落ちてきても、困惑するばかりであった。

家内は、寿命かしら、と云ったりし、
やむなく私はネットで最新のエアコンの情報を検索したりした。

そして、私たち夫婦は、昨日の5日にある家電の量販店に開店時をめざして行き、
通常の壁掛けの暖冷房のセパレート型を買い求め、設置日を明日の7日とした。


帰宅の途中、私たち夫婦は食事処で昼食をしたが、
私はビールを飲みながら、エアコンに関して、思いを馳せたりした。

我が家は、二階の和室兼寝室の6畳だけは、
新築した後の3年目の1980〈昭和55〉年の初夏に、
通常の壁掛けの暖冷房のセパレート型を設置した後、
老朽化したので、私の定年退職の一年前に、買い改めたりした。

一階の居間は、家内の冷風に苦手なこともあったが、何よりも家計の住宅ローンなどの重みもあり、
何かと耐久商品の購入の優先度が低くなり、延ばし延ばしとなり、
やっと設置できたのは、私が定年退職の4年前であった。

この間の熱い季節は、居間では扇風機、団扇〈うちわ〉、扇子〈せんす〉が活躍となり、
簾〈すだれ〉も掛けたりして、暑さに対処していた。


私はサラリーマンで数多くの人と同様に多忙で、
帰宅後は、お風呂に入った後、夜の11時過ぎに晩酌をしながら、3品ぐらいの副食を頂き、
今日の出来事をお互いに話し合ったりしていた。
そして冷風のある二階の寝室で寝付いたりしたことが、多かったのである。

休日の時は、私は居間の暑さに耐えられなかった時は、
二階の和室兼寝室で、本を読んだり、テレビを視聴したり、
或いは昼寝をしたりして過ごしたりしてきた・・。

家内は冷風に苦手な身とはいえ、猛暑の時は・・、
このようなことを私は馳せながら、
家内に話しかけたりして、あの当時のことを話しあったりした。


帰宅に向かう途中、エアコンの冷風に享受した昨今、
確かに過ぎ去った日々のような暑さをしのぐ生活にも戻れない、
と私たち夫婦は微苦笑しながら、言葉を交わしたりした。


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東京郊外の私は、秘かに少年期の頃から『里彦』と愛称して、早や55年は過ぎ・・。

2011-08-05 08:01:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、日常を過ごしている。

世田谷区と狛江市に隣接して地域であるので、調布市の片隅みとなるが、
私としては結婚前後の5年を除き、60年間この地域に生活していることになる、
と35年を寝食を共にしている家内に、一年に一度ぐらい私は云ったりしている。


私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は小学生の時、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむえず里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。


このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりしている。


私が初めて海を観たのは、小学6年の夏、
独りで江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、呆然としながら長らく見つめたりした。

定年退職した直後、私は肩書きを失くした名刺となり、寂しさもあり、
やむなく里彦からヒントを得て、調布の里っ子、と付記した名刺を作成し、
友人らに恥ずかしげに手渡したりした。


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東京の郊外は、乙女のような変貌多い天候となり、高齢者の私は戸惑いながら・・。

2011-08-04 18:59:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夜、NHKのテレビの天気情報を見ていたら、
明日の4日は朝の6時は23度、昼下がりは25度前後、そして夕方の24度前後で、
曇りの日中であるが、午後の3時過ぎから小雨、と報じていた。

私は暑さに苦手な身であるので、涼しい中で買い物、散策できる、
と秘かに喜んでいた。


今朝は淡い陽射しの朝を迎えて、家内は洗濯を朝食前に終えて、
いつものように外干しの洗濯竿に盛大に干していた・・。

この後、10時半過ぎ、予告もなく突然に小雨が降りだし、
あわてて家内は洗濯物を取り込んだり、
私はアルミ製のガラス戸を、簾〈すだれ〉、網戸越しに開けていたので、急いで閉めたりした。
そして本降りとなり、午後3時過ぎから小雨の予報より早かったので、
天上の気候の神々は、せっかちな性格に変わったのかしら、
と私たち夫婦は苦笑した。

そして私は、買物と散策の時間は、しばらく待機しょうと、雨降る庭を眺めたりしていた・・。
その後、一時間ぐらい過ぎると、雨は上がり、急激に明るくなり、
空いっぱい青空となり、陽射しは燦々と照らしだした。

湿度も多く蒸し暑い夏空の中、私は近くの銀行、郵便局、そしてスーパーで買い物を終えた後、
どんよりとした曇り空となり、私は帰宅を急いだりした。

この後は、青空の夏の陽気となったり、どんよりとした曇り空となり、
再三くりかえし夕暮れとなった。


私は苦笑しながら、少年・少女の多感な心情かしらと思ったり、
そして乙女の移り変わりの不安定な気持ちと同じかしら、と思いを重ねたりした。
確かフランスの女流作家は、その昔に、三月生まれ、と表現していたが、
今の時節は8月なのに、と私はきまぐれな天候に戸惑った日となり、
どうしてなの、と空を見上げたりしている。


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齢ばかり重ねた私、『心のふるさと』を恥ずかしながら、発露すれば・・。

2011-08-04 01:18:11 | 定年後の思い
私は齢を重ねた66歳の年金生活の身であるが、
過ぎた日々の半生を振り返えったりすると、ときおり私の心の源泉は、
と問い続けたりすることがある。

そして、どなたも同様と思われるが、
やはり私は幼年期、少年期にときおり思い寄せたりしている・・。


私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として、1944〈昭和19〉年の秋に生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に囲まれて、乳児の時を過ごした・・。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が、
今でも鮮明に残っている・・。


長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、今度の3番目として女の子を期待していたようであった、と私は後年に知ったりした。
私の後に生まれた妹の2人を、何かと溺愛していたので、
私は幼児なりに感じ取り、いじけた可愛げのない幼年期を過ごした。

この間、祖父と父は大学に学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、長兄が小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

そして長兄は、当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、
祖父、父はもとより周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。


このした中で、私は小学校に入学しても、
通信簿は『2』と『3』の多い劣等性であった。
父が小学2年3学期、祖父がまもなくした小学3年の一学期に死去し、
大黒柱をなくした農家の我家は、没落しはじめたのである・・。

この当時の私は、お兄さんたちは出来たのに、と担任の先生のため息をさせ、
相変わらずの劣等生で、いじけた影の子であった・・。


後年、都心の私立の高校に通った頃から、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに伸び伸びとして育ち、勉強の楽しさも初めて実感し、程ほどの成績となり、
映画、文学、そして歴史などに深く興味を持つ高校の時代を過ごした。

この後は、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、挫折した後、
何とか大企業の中途入社でき、サラリーマンを35年ばかりし、
定年退職を迎えたのである。


私は20代のなかばの頃まで、
地元を振りかえることをなるべく避けていた・・。

私が中学生の頃までに、私の住む地域は急激に住宅街への変貌する状況に、
戸惑いが多く、心身の波長が耐え切れなかった面があったが、
何よりも劣等性だった小・中学時代を思い出すのも、
負い目もあり、つらく、ふるさとなんかは、と思い続けていた。

30代のなかば、実家の近くに家を構えた時、
家内と散策するたびに、小・中学校に通った路とか、
かっての情景を幾たびか私は家内に語ったりした。

そして定年退職後、私は肩書きを失くした名刺となり、
やむなく、調布の里っ子、と明記しながら、
友人らに恥ずかしげに手渡したりしている。


ここ40年ぐらい、心のふるさと・・数多く使われているが、
この言葉を最初に使われたのは、私のつたない読書歴のメモに記載している。

旅行専門の月刊誌の『旅』の編集長をしていた紀行作家・岡田喜秋が、
作家・立原正秋に紀行文の連載を依頼した時、
『心のふるさとをゆく』とタイトルを命名されたのである。
1968〈昭和43〉年の新年号から1年間連載されていた。

余談であるが、私の青年期に於いて、
数多くの小説、紀行文、随筆などを、とりとめなく乱読してきたが、
今は亡き立原正秋氏の著作された作品から、圧倒的に感銘し、
私は自己形成時に、まぎれなく影響を受けたひとりである。


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東京郊外の我が家は、日中は蝉(せみ)の合唱となり、夕暮れから鈴虫、こおろぎ・・。

2011-08-03 17:38:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、日常を過ごしている。

我が家の小庭では、鈴虫が鳴いて、蝉も負けじと盛んに鳴いて二部合唱で、
この時節の朝を迎える。

日中の暑い中は、蝉がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように元気いっぱいで鳴き響いている・・。

鈴虫の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、
と私は思ったりしている。

夕暮れの6時過ぎになると、蝉は鳴き声が途絶える。
私は暑さの日中に蝉は盛んに鳴いていたので、
鳴き疲れてお休みの睡眠時間となったと思ったりしている。

鈴虫は夜行型、蝉は日中型と理解は出来るが、
我が家のこおろぎは、耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫の盛大な合唱の中、
定年退職後に気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
少し遠慮しながら鳴いているのである。

可哀想なこうろぎであるが、やがて初秋になれば、
蝉が消え果てるので、ライバルは鈴虫となる。

鈴虫も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願望したりしている。


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遠い昔、私が初めて食べたパンは、恥ずかしながら『こっぺパン』であり・・。

2011-08-02 22:00:42 | 食べ物、お酒
私は定年後に平素の買物担当となって、早や7年生となっている。
スーパーのパン・コーナーにも寄ることが多く、
ときおり紡錘形で底の平たいパンを見かけ、近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記され、
何となく気になるパンの一種である。

3年前の頃、このパン・コーナーで初めて見かけた時、
見惚〈みと〉れながら、懐かしさの余り、ひとつ購入した。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学し、
確か3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。


この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。


このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。

やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。


後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつの『こっぺパン』が一人一食相当分と知ったりした。

そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
1950〈昭和25〉年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
とこの当時は農家が多く、商店も少ない地域であったことを思い浮かべ、苦笑したりした。


3年前に、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。

遠くなったあの当時は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材などを含めて。パンを焼く技術を備えた高級なパン屋さんは、
1部の裕福な地域しかなく、
何よりも私も含め、多くの人は貧しかった時代であった。


今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、と感じたりしている。
或いは、ときおり私はアンパンを食べたりしている。

そしてスーパーで『こっぺパン』を見かけると、
ときおりあの当時の思いが甦〈よみがえ〉ることもある・・。


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高齢者2年生の私、ときには庭の手入れで、汗まみれ泥まみれとなり孤軍奮闘し・・。

2011-08-02 16:58:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
朝の7時過ぎの天気情報を眺めていたら、
朝の6時は22度、昼下がりは29度前後、そして夕方の26度前後で、
曇りの日中であるが、午後の3時過ぎから小雨、と報じていた。

私は暑さに苦手な身であるので、庭の手入れを怠(おこた)っていたが、
明日より30数度の暑さとなるので、
曇り空の中、庭の手入れをしょう、と思い立ち、9時過ぎに庭に下り立った。

剪定をしたり、草抜きをしていたのであるが、
少しばかり蒸し暑く、風もないので、たちまち汗まみれ、
樹木の下などに這いつくばって草抜きをしたりすると、泥まみれになった。

一時間後、家内に声をかけて、冷茶を飲んだりし、水分補給をしたりした。
その上、午後の3時過ぎから小雨が予測されていたので、
昼食抜きで孤軍奮闘したりした。

この時節は、蚊がいるので香取線香を四方に於いていたのであるが、
予期しなかったのは、蟻〈あり〉に好かれたことである。

古びた長袖のワイシャツで樹の枝葉の下にもぐるように草取りをしていた時、
たまたま私の首筋から蟻が入ったらしく、
室内で掃除をしていた家内に声をかけて、私の背中を見てもらった・・。
3つばかり蟻がいるわ、と家内は笑いながら、取ってもらった。

その後、この汗まみれのワイシャツを着替えて、
二枚目の古びた長袖のワイシャツを着て、雨の降る前に、何とか目途がつくまで、
と奮闘したが、
まもなく体力の限界を感じて、ほぼ七割方であるが、やむえず中断したのが3時過ぎであった。

私は先程、風呂から上がり、庭を観たりしているが、
自身の願望と結果が狂うことがしばしばあり、体力も衰えているので、
やむえないかしら、苦笑している。


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なぜかしら我家は、いつも街一番となり、私は微苦笑を重ねながら・・。

2011-08-01 18:59:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は、それぞれのゴミ出し日が調布市から指定されている。
確か7年前の頃から、原則として、道路に面した敷地の一角に決めた場所に置くのが、
市の収集される方たちとの暗黙の約束となっている。

我家も住宅街の片隅にある一軒屋であるので、門扉を開けて、
内側の一角に、市の指定された燃えるゴミ袋、燃えないゴミ袋、缶などを指定日に置くのある。

市から指定された有料ゴミ袋制度であるが、
ゴミの収集、1部再利用化などを総合的に配慮すれば、
東京郊外の住民のひとりとして、最良の制度かしら、と私は秘かに絶賛している。


今朝も指定されたゴミを家内の指示棒で、
のろまな私なりに、整理の補助をしているのであるが、
付近のそれぞれの家より、一番早いと思われる。

少なくとも朝の6時前に、我家では門扉を開けて、
指定された場所に置くのである。


収集時間は、早くても9時過ぎであるので、
『XXちゃんさぁ・・まだ5時半よ・・
この付近のお宅の中で・・一番早いじゃないの・・』
と私は家内に云ったりしていた。

私は最初の頃は、ボヤいていたが、
何事も早めにすれば後が楽だわ、と家内の性格で致しがたいと思い、私は従順に補助役に徹している。


過日の月曜日の朝の6時前、いつものように家内の指示により、
私は門扉で『燃えないゴミ』袋を置こうとしていた・・。

この時、たまたま近くにお住いの60歳前後の麗〈うるわ〉しき奥様がウォーキングをしていて、
私と目があってしまい、
『あらぁ・・XXさんのお宅・・いつも早いですわねぇ・・
この付近では・・一番ですょ』
と奥様が微笑みながら、私に云ったりした。

私は返事に困り、
『奥様こそ・・早朝から新鮮の空気の中で・・ウォーキングをされて・・』
と大きな声で明るく云ったりした。

私は小学生から大学を中退するまで、恥ずかしながら学業の成績は一番になったこともなく、
特に小学・中学生の時は、劣等生であったので、一番と云われても、遠い世界であった。
こうした思いが私の根底にあり、ゴミ出し一番、と云われても、私は独り微苦笑を重ねたりした。


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私の住む地域に於いて、8月1日のこの日には、『お盆の日』を迎えて、お墓参りとなり・・。

2011-08-01 00:28:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。

私は父、祖父が亡くなる小学三年生の頃までの、この頃を思いだしたりしていた。
遠い55年以上の前のことであるが、記憶を頼りに思い浮かべていたのである・・。


【迎え火】

7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉に茄子を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。

この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。


【お盆の日の当日は・・。】

叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をし、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。


【送り火】

お盆の日の当日の夕刻、
家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。


その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。


このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。


私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりしたりすることが多い。
このようなことが6年ばかり続いている・・。


長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

その後、路線バスに乗り、お寺に着く。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえるのが、
毎年の習性のような情景となる。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。

私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎えているので、
8月1日のこの日は、朝の8時過ぎには外出する準備を家内と共にするのが、
毎年の習わしとなっている・・。


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