夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』、45年前の頃にオールナイトで観た頃の思いで・・。

2011-08-16 11:11:23 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、NHK BSプレミアムで、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 ~家族編~』に於いて、
小林正樹・監督の『人間の條件』の第一部(純愛篇)が放送され、視聴した。

この『人間の條件』は、6部作の9時半に及ぶ巨編であり、昨夜の第一部から毎夜連続放送して、
最終は8月20日の第六部(曠野の彷徨)までと知った。

私は若き頃に、映画青年の真似事をした時期もあり、
この作品を映画館でオールナイトで上映されたのを、2回ばかり鑑賞したことがあり、
その当時の頃を思い馳せたりした。


東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私はシナリオライターになりたくて大学を中退して、映画館に通いながら名作を観たり、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読していた。
そして、ある養成所の演出科に通い始めた頃であった。

確か1964〈昭和39〉年の晩秋だったと思われるが、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に『人間の條件(全六部作)』を土曜日の夜に、
オールナイトで上映していた。

私は見逃した作品であったので、心身気合いを入れて、この映画館に行き、観賞した。
客層は大学の映研と称される映画研究クラブ、映画熱愛者が多く、
私は小林正樹監督に敬愛を始めた頃であり、この監督から映画の作品に対しての執念を多々学んだりした。
そして徹夜明けの池袋の朝、感動しながら駅に向ったりした。

この後、翌週もこの映画館に行って鑑賞したが、
この日の日中は日比谷の映画館で、ふたつの映画館で2作品を鑑賞した後、
この巨編を徹夜で鑑賞したので、さすがに20歳の私でも疲れ果てて、
日曜日の朝、池袋の街を歩き、帰宅後は寝付いたりした。


その後は、養成所の講師の紹介で、ある新劇の長老から、
『映画は益々衰退していし・・ましてシナリオで飯(めし)を食べていくことは・・大変なことだょ・・
同じ創作をしたかったならば・・小説を書いた方がいいと思うよ・・』
このような意味合いのアドバイスを頂き、私は文学青年の真似事をして小説の習作を始めた。

そしてアルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。

その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。


こうした拙(つたな)い私の映画・文学青年の真似事をした敗退の時期もあり、
今としては、限りなく愛惜がある時代でもあった、と苦笑している。


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終戦記念日、戦争を知らない私でも国民の責務として、朝のひととき皇居に向かい、黙祷を終えて・・。

2011-08-15 07:38:34 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
快晴の朝の陽差しを迎え、洗面した後、主庭のテラスに下り立ったのは、朝の6時半過ぎであった。

そして襟を正して、
皇居の方面に向かい、手を合わせながら黙祷した・・。

私は過ぎし6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』には沖縄に向かい、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』には広島に、
そして9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』には長崎に、
本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日には皇居に向かい、
この日には、手を合わせながら黙祷をして、少なくとも35年になる。

私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となるが、国民の責務のひとりとして、
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれた人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私は、皇居に向って黙祷をする真情は、
かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の風潮に生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


そして、私はここ5年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。


   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         

                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々

                       平成天皇


私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、
詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、
と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを視聴していて、『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の主要国の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、
国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と確信しているひとりである。


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戦争を知らない私でも、わずかながら防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡などの想いで・・。

2011-08-14 00:15:43 | 定年後の思い
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。


北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

250キロの爆弾と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と私達は微苦笑したりした。


私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。


このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落とし、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。


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X JAPANの『The Last Live』ビデオ、高齢者2年生の私でも、大音量で視聴し・・。

2011-08-13 18:09:32 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
家内が今朝から家内の実家に行っている。

家内の父は、私の定年退職時の直前に病死され、残された家内の母は独り住まいなので、
家内は年に5度ぐらい、5泊前後で大掃除、季節変わりの衣料整理などを行っている。

私は昼下がりのひととき、X JAPANの『The Last Live』DVDの2枚組を視聴した。

平素の私たち夫婦は、程々の音量でテレビを視聴しているが、
家内の留守を幸いにして、数か月前に購入したテレビの音響能力も試したく、
久々にX JAPANを大音量で視聴したのである。

私が選定したテレビは50型、スピーカーの実行出力30Wで、
スコーカーは16センチX4センチの角形が2つばかり付き、
ウーハーは10センチの丸型が可愛らしくひとつ付いている。

私は若き頃には、オーディオを少しばかり熱意して購入してきたが、
齢を重ねるたびに、居間で程ほどに音量が出れば良い、と妥協してきた。

このような思いで、X JAPANの『The Last Live』を視聴したが、
想像した以上に、明確な画面と音響に驚き、微笑んだのである。


私がX JAPANに魅了させられたのは、遅ればせながら解散前の頃であったが、
偶然『Rusty Nail』を聴いた時、瞬時に圧倒的に魅了された上、鳥肌がたった・・。
この当時の私は、52歳であった。

それからの日は、明けても暮れても、音楽はX JAPANとなり、
CDアルバムを買い求め10枚を直ぐに超え、今ではDVDを含めと30枚ぐらいとなっている。

このラスト・ライブのコンサートは
1997年12月31日に東京ドームで行われたが、
私の母が危篤となり、無念ながら行けなくなった。

その後、NHKで『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』と題されたのが、
1998年1月30日に放送されて、ビデオテープに収録した。

それからの日々は、このビデオを毎晩観て心酔し、
熱狂の期間は少なくとも6ヶ月ぐらい続いていた・・。

そして友人、知人に、X JAPANは心身のビタミンです、と公言していた。

このX JAPANの『The Last Live』に関しては、
CDの3枚組は、2001年5月に発売され、
今回のDVDの2枚組は、2002年3月に発売された。

従って、齢ばかり重ねた隠れファンのひとりの私としては、
ラストライブに関しては、NHKで放送された『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』を含めて、
この3種類を聴いたり、観たりしている。

尚、ライブは観る物であり、スタジオ盤は音楽を聴く物、
と私は原則として自覚している。

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ぐうだらオジサンの私、この時節の最良の避暑地は、と思い馳せれば・・。

2011-08-13 11:07:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
世の中はお盆休みの人たちが多く、実家に帰省されたり、
国内、海外の旅行に数多くの人もいる、とテレビのニュースで報じたりしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、
家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。

そして、私の実家のお盆は、8月1日だったので、
私は先ほどから、ぼんやりして庭に燦々と照らす夏の陽差しを眺めたりしている。


私の現役のサラリーマン時代だった頃は、夏季休暇を利用して、
家内と国内温泉地に2泊3日前後で滞在し、周辺の観光地をハイキング、散策などをしたり、
或いは人の混雑を懲(こ)りて、汗まみれになりながら庭の手入れに専念したりしていた。

私は暑さに苦手な上、年金生活の自在な身なので、
この時節、小学生の夏休みに対応する期間は、
買物と散策は2日毎とし、ときおり庭の手入れをする程度である。
そして、やむなく家内との共通趣味の国内旅行をする時は、
人出の多い先は出来る限り避けるようにしている。


たまたま昨年の夏の終りの旅路は、8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北新幹線で盛岡経由で在来線の山田線を利用し、
太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある浄土ヶ浜の丘陵にある『浄土ヶ浜パークホテル』3泊し、
帰路する際に盛岡市の奥地に鶯宿(おうしゅく)温泉で、
《源泉100%掛け流しの温泉旅館・・》と称せられる『長栄館』に2泊したりした。

しかし過ぎし3月11日の東日本大震災後、今年2月頃まで私たち夫婦は、
日本の各地を四季毎に旅行をしてきたが、あの大災害の悲惨な状況後、
意欲も気力もなくしてしまった。


このような思いでいる私は、今年の熱い夏の季節の私の最良の避暑地と問われれば、
やはり居間でエアコンの冷気の中で過ごすのが一番かしら、
と微苦笑しているのである。

定年後から自主的に平素の買物担当となり、
この熱い時節は、一日おきにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、
大きな樹の下にあるベンチに座り、緑陰の中で周辺の情景を眺めたりしている。

そして私は昼下がりに簡易ベットに横たわりながら、好きな本を読み、
昼寝をしたければ、夏掛けの布団を掛けて眠れる。
目覚めれば、冷茶かアイス・コーヒーを飲んだりできる。

或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

その上、煙草を喫いたければ、玄関の軒下で庭の樹木、草花を眺めたり、
主庭にあるテラスに隣接している樹木の陰で、
燦燦と照り続ける主庭の樹木、草花を眺め、喫ったりしている。
こうした時、元気のある蝉の鳴き声を聴こえたりする。

このように高齢者2年生の私は、ぐうだらな時を過ごしたりしている。


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この時節を迎えると私は、思い馳(はせ)る歌として、『少年時代』、そして『故郷(ふるさと)』となり・・。

2011-08-12 01:20:04 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、NHKのテレビのニュースを視聴し、
お盆を故郷(ふるさと)で過ごそうとする人たちで、高速道路の下り線の渋滞が始まり、
羽田空港の混雑が映し出され、
そして新幹線も、東京駅発の下りの混雑のピークも12~13日と予想される、
と報じていた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、
家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。


私はサラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。

夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の半年を振り返ったり、今後の心の整理に良いのではないか、
と想像を重ねたりしていた。

実家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。
いずれにしても、せっかくの貴重な休暇の時、混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。

このように心情を思い馳せると、私はふたつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。


ひとつは、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』である。

私はこの歌を最初に聴いた時は、

若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。

と私なりに妄想させられてしまった・・。

この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。

私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。

私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、
長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむえず業界から去っていたりした苦い時代でもあったが、
昨今は愛惜を重ねて、この歌を聴いたりしている。


もうひとつの歌は、文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』である。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

この頃の我が家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林が圧倒的に多く、
のどかな田園地帯であった。

このような心情を秘めている私は、
高度成長期より地方出身のお方達が、大都市で勤務し、生活されている方の大半の人々が、
夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。

もとより時代は大きく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の変貌に驚いたり、悲しみを覚(おぼ)えたりした。

地方出身のお方達も、生家の周辺の大きく変貌し、
帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。


このような思いをしていた私は、失われた故郷の情景、
そして過ぎ去った自身の時の流れに愛惜を重ね、
この時節になると、このふたつの歌が想いだされてしまうのである。


付記)『少年時代』・・作詞・井上陽水、作曲・井上陽水、平井夏美、編曲・星 勝、唄・井上陽水
   『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌


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たかが『キャベツ』されど『キャベツ』、高齢者2年生の私、心身共に最良の愛食となり・・。

2011-08-11 11:33:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨年の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、大幅に改善されている。

何よりも、この時節にビール、冷酒は昨年の秋まで45年ぐらい夜のひととき愛してきたが、
冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、原則として自宅で呑むのは、月に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けているが、
ここ4ヶ月は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となって、
改善努力の成果となっている。

昨今は、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまったりしている・・。
かって呑み放題の生活をしてきた私は、平素の夕食に煎茶、冷茶でもまったく違和感が感じることなく、
8ヶ月過ぎ、私は微苦笑している・・。


思い馳せれば、昨年の秋に『糖尿病』と診断され、私は青ざめて、
昼食代わりにリンゴ、柿を食べて、晩酌もやめて、ウォーキングを盛んにした結果、
たった3か月で、6キロばかり減量となり、糖尿病の対象外となった。

ここ4か月の夕食の時、大皿にキャベツを中心の前菜としている。
通常の肉類の主食の前に、小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを大皿に盛り合わせて、家内がしてくれる。
婦女子の野菜の盛り合わせの量からは、少なくとも5人前ぐらいかしら、と私は思いながら毎晩頂いている・・。

私は野菜のひとつのレタスに関しては、中学生の時に映画の『エデンの東』を観て、
おしゃれな野菜と思いながら、30代の前半まで愛食していた。
しかし私の幼年期は農家の児として育ち、もとよりキャベツの生育を見たりしてきたが、
レタスはなかった為か、
その後はキャベツの方が遥かに美味しいと感じて、回帰してしまった。


昨夜も盛大なキャベツ中心の野菜を私は、ほうばるように頂いていたが、
『貴方・・毎晩・・食べてあきない?』
と私は家内から言われたりした。

『遠い昔・・森繁久弥さんが、胃腸の薬のキャベジンの宣伝に出ていたでしょう・・
あの錠剤の薬より・・こうして新鮮なキャベツを盛大に食べると・・
遥かに胃にも腸にも良いよ・・』
と私は笑いながら、家内に言ったりした。

このように私は言ったりしていたが、
何かしらキャベツを食べると、口の中、喉、食道、胃、腸にも浄化され、
何よりも美味しいのである。
その上、衰えた身体も水みずしくなり、うるおいを感じ、心まで良いのである。

このように私は、キャベツの千切りを毎晩頂き、
この世に心身共々、このような美味しい野菜があったかしら、と微笑んでいる。


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文愛人の私は、燦々の照らす真夏の日中のひととき、駅前に本を求めて・・。

2011-08-10 15:46:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


こうした生活をしているが、今朝いつものように読売新聞を見ていたら、
出版の広告として、本日10日発売の月刊総合雑誌の『文藝春秋』、『中央公論』が掲載されていた。

私は『文藝春秋』に関しては、1970〈昭和45〉年の春から、毎月買い求めているが、
『中央公論』は特集に関心した時は、購読しているのが、ここ40数年の習性である。

今回の9月号の『中央公論』の特集のひとつとして、

《 震災追悼企画
         震災犠牲者の遺したメッセージ 
                 この言葉と ともに 生きていく 》

と明記され、私は《 この言葉と ともに 生きていく 》という題名に瞬時に強く感性をゆすぶられ、
読んでみたい、と強く思ったのである。


私の近くのコンビニ店は、『文藝春秋』はあるが、無念ながら『中央公論』はないので、
駅前の本屋に行って買い求めようと決意したのである。

11時過ぎに自宅を出てたが、雲ひとつない青空で、陽射しは燦々と照らし、34度前後の中、
歩きだした・・。
長いストレッチ・ズボン、半袖のスポーツシャツ、ウォーキング・シューズで、
夏帽子を深くかぶり、そしてサングラスをしていたが、
たちまち汗が流れ、ハンドタオルで拭ったり、ときおり扇子で扇(あお)ぎながら、
少し遠回りの旧街道の蝉しぐれの中を歩いたのである。

20分後に駅前の商店街が見えて、やがて駅ビルの中にある本屋に入る前、
トイレの洗面所で顔を洗ったりした。
そして、いつものように新刊本、新書本、文庫本、雑誌コーナーを見て、
結果として、4冊を買い求めたのである。
本日発売の月刊総合雑誌の9月号の『文藝春秋』、『中央公論』、
そして『吉村 昭が伝えたかったこと』(『文藝春秋』9月臨時増刊号)、
新刊本のコーナーで偶然に見かけた佐野眞一・著の『されど彼らが人生 ~新 忘れられた日本人 Ⅲ~』(毎日新聞社)である。


この後、家内から依頼されて品をドラッグ・ストアー、スーパーに寄って買い求め、
帰路に向かったのであるが、
買い求めた本の内容を、あれこれ想像をしながら、真夏の暑い中を歩いたのである。

私は高校生になって遅ればせながら、読書に魅了させられたのであるが、
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、
書物から圧倒的に魅せられて、50数年となっている。
昨今は、ネットからみ多々読むこともあるので、活字中毒の一辺倒もままならなくなり、
苦笑する時もある。

このような私であるので、昨今は文愛人のひとりかしら、と微苦笑をしている。


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江越弘人・著の『長崎の歴史』、この地の歴史を学ぶには突出した優良書、と確信を深め・・。

2011-08-09 23:45:45 | 読書、小説・随筆
私は本日の9日は、かの大戦の敗戦の直前時に、
長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』した日でもあり、
ぼんやりと長崎県のことを思いを馳せたりしていた。

そして本棚から、一冊の本を取りだして、再読したりしていた。
江越弘人・著の『長崎の歴史』(弦書房)の本であるが、
一昨年の2009年2月下旬に、私は家内と家内の母と3人で、長崎・雲仙に8泊9日で訪れた時に、
私なりに独りで長崎の街並みを歩き廻ったりし、買い求めた一冊である。


『長崎歴史文化博物館』の展示品を拝見した時、
私は長崎県に纏(まつ)わる通史を学びたくて、館内の売店に寄った。

私は小説、随筆はもとより、現代史、歴史書が読むのが好きであるが、
長崎県に伴い、断片的な歴史人物、事柄については、
江戸時代から明治初期の頃までは、少しは知っているつもりであったが、
整然とした通史は無知であった。

こうした心情で、売店の入ったのであるが、
やはり『長崎歴史文化博物館』の館内の売店でもあり、
長崎県に関しての多くの本が並んでいた。

私はこの中で、ひとつの本を取り,パラパラと目次を見たのであるが、
『原始・古代』より、終期にはキリスト教の布教が始まる『中世』、
長崎開港、鎖国に伴う日本の随一の窓口となった異国との交流の『近世』、
明治時代から原爆被災時の『近代』、そして敗戦後から今日までの『現代』
と明示されたいたので、
まぎれなく通史の一冊である、と本書を買い求めたのである。

この本は、本の帯の表には、

《 どこから読んでもおもしろい。》 

《 古代から現代まで、新しい視点と解釈で
  200項目のトピックスが語る長崎の通史。 》

と書かれていたる。


私は江戸時代から、少し読み始めたのであるが、
その人物の息づかい、そして優しいまなざしで綴られていたことに、
行間から感じ始めたりしたので、
未知の著作者の略歴を読んだのである。

《・・ 
江越弘人(えごし・ひろと)

昭和10年、長崎市(旧・高浜村)生まれ。
昭和34年、長崎大学学芸学部卒業。
長崎県公立学校教員(小学校)を歴任。
平成8年、定年退職(最終勤務校、長崎市立鳴見台小学校)

現代、長崎の歴史と史跡について講演やガイドを精力的に行っている。
・・》

この後は、このお方の著作された2冊の本が明記されていたのである。


私はこのお方の人生の軌跡に、
小学校の教師をしながら、長崎の歴史をくまなく学ばれた長い歳月に思いを馳せると、
感動をさせられたのである。


この本のたったひとつの事柄の記載を読めば、
教科書にあるような専門の大学教授が書かれた内容、
或いはその地方に多くいる郷土史家たちの愛着心よりも、
遙かにその事柄の人物の生き生きとした状況が感じられ、
行間からは当事者の息づかいまで感じさせられ、圧倒的に凌駕している。


このように感銘を受けながら、その当時の事柄を拝読し続けたのである・・。

読了した後、
改めて、この本の『まえがき』、『あとがき』を読んだりしたのである。
この著作者の思いは、
本の帯の裏に集約した言葉が掲載されている。

《・・
長崎の地は、昔も今も決して暮らしやすい土地ではない。
様々なハンディキャップを抱いた地域である。
その中で、先人たちは、必死に努力し、業績を挙げ、
或いは挫折しながらも、郷土長崎を
日本の特色ある地域に育て上げてきた。

私は本書を著すに当たって、
長崎という土地に生きた人間に焦点を当たることにした。

・・(略)・・

「まえがき」より
・・》

私はこの著作者の発露された言葉は、
まぎれなく事柄の当事者までの息づかいを感じることができたのは、
筆力はもとより、この著作者の良き人柄から発露されている、確信したのである。


このように最初に読んだ時、深く感じたりした・・。

今回、再読したが、改めて強く感じられたのは、この本書を精読した後、
長崎の街並みを散策すれば、更に深い思いを重ねることができるのは、
もとより言うまでもないことである。


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長崎に向かい、私は黙祷を終えた後、永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された言葉をかみ締め・・。

2011-08-09 13:56:41 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、洗面した後、主庭のテラスに下り立ち、襟を正して、
長崎の方に向かい、手を合わせながら黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
そして本日の9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、
まもなく迎える15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日には、手を合わせながら黙祷をして35年になる。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。
このことは勝利したアメリカの国の歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。


私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となるが、国民の責務のひとりとして、
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


私は過ぎし一昨年の2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の時に、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

この後は、未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。


私は1944(昭和19)年9月に東京の郊外で生を受けたが、
1950(昭和25)年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は無知であった。

その後、私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
1962(昭和37)年であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。


♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆氏の人生の軌跡を思い馳せると、
瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。


このような思いもあったりし、
この時に長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、責務として数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20)年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に自身の余命を告げるのであるが、
この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井隆氏の軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・・・・
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於いては、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ私は、これだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を幾度も聴いたりしている。


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作家・立原正秋(たちはら・まさあき)氏に、私は圧倒的に熱愛していた頃の思いで・・。

2011-08-08 22:23:29 | 真摯に『文学』を思考する時
私は過ぎし4月の下旬に、家内に手伝って貰いながら、本の整理をした。
居間は17畳前後の洋間であり、本棚は3本と小さな本棚が1本あり、
和室の奥の書庫に3本あり、2階の洋室に1本あるが、
収納出来なかった本は、押入れ等にあった。

たまたま若き頃に、映画・文学青年の真似事をした体験もあったので、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後あり、
この際、老後に向かうこともあり、徹底的に処分しょう、と決意したのである。

小説・文学評論が圧倒的に多く、、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎などの各氏の作品も多数あり、
そして福永武彦氏の本は、殆ど所有していたが、
この方たち作家の作品は、今後は読むこともないだろう、と処分した。

こうした中で、ある作家だけは、どうしても捨てきれず、書庫に残すことに決めたのである。


私は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)の頃,
大学を中退し、映画・文学青年の真似事を始めた・・。
そして翌年の夏、立原正秋・著の『剣ケ崎』(新潮社)の短編集を購入し、
深く魅せられて、過去に発売された単行本の『薪能』(光風社)を古本屋で買い求めたりした。

この頃の私は、文学に関する月刊誌は、
純文学として、『新潮』、『群像』、『文学界』、
中間小説として、『小説新潮』、『オール読物』、『小説現代』を精読していた。
そして、欲しい小説の単行本があったならば、
たとえ一食抜いても、買い求めていた時期であった。

私は作家・立原正秋に関しては、これ以降は作品、随筆が発表されるたびに、
買い求めて、熱愛し、精読していた・・。

この当時の私は、アルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。

その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。


この間、昭和55年(1984年)の夏、立原正秋氏は無念ながら亡くなわれたが、
これ以降も追悼などで、立原正秋氏の綴られた未刊の小説、随筆が出版されたり、
或いは立原正秋氏の友人、知人らに寄る氏に関する随筆が出版され、
私は買い求めていた・・。

その後、三周忌記念出版として、『立原正秋全集』全24巻が角川書店から、
昭和59年(1980年)から発刊され、私の書棚には単行本が少なくとも30数冊はあったが、
心新たにの思いで購入したのである。
そして、愛惜を重ねながら、毎月配本されるたびに改めて精読したのである。

私は拙(つたな)い読書歴なかで、小説・随筆に関して、
明治以降の作家の中で、最も影響を受けたのが、立原正秋氏となった。

作品はもとより、文体、そして庭園、茶事、食べ物、日本酒、焼き物など、
私の青年期から30代の終わりの頃まで、多大に教示された人であった。


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暦(こよみ)の上では『立秋』であるが、東京郊外でも残暑は厳しく、思わず・・。

2011-08-08 13:28:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『立秋〈りっしゅう〉』と明示されて、私は思わず微苦笑した・・。

そして、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、
花梨(カリン)の枝にたわむれている。

その後、はたわわな紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)を眺めたり、
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
そして3日前から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
私の汚れきった心を浄化してくれるようで、長らく見つめたりした。


この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は25度、昼下がりは33度前後、夕暮れの6時は29度前後で、
晴ときどき曇りの一日と表示されている。
そして、この先の一週間も、ほぼこのように横並びとなっている。

私は高齢者2年生の身であるので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は熱中症に気をつけましょう、
と解釈したりした。


立秋を過ぎれば、残暑お見舞い申し上げます、と先人の人たちが、
時候の言葉として綴られてきているので、
そうですよねぇ、と私は暑さが苦手な身であるので、苦笑しながら呟〈つぶや〉いたりしている。


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園児からご高齢者の方まで、どなたでも解りやすい『夏バテ完全攻略法』の朗報は・・。

2011-08-07 22:47:38 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む高齢者2年生の66歳の身であり、
暑さに苦手な私は、午前中に買物を終えた後、少しばかり散策している。
そして昼下がりのひととき、居間のクーラーの冷気の中で、
簡易ベットに横たわりながら、本を読んだり、昼寝をしてしまうことが多い。

このように過ごしていることが多いが、
先程、パソコンを開き、たまたま見かけたサイトに思わず微笑んだのである・・。

【goo家庭の医学から癒しの健康までサポート】の中で、
ヘルスケアとして、【夏バテ完全攻略法】が掲載され、遅れせながらぼんやりと見たのである。

《・・
夏バテがおこるメカニズムを解明!

夏になって暑くなると、「なんとなくだるい」、「食欲が無くなる」、「無気力」と感じる人も多いのでは?
夏バテは、はっきりとした痛みや日常生活に差し障るような重大な症状を伴わないことが多いため、
とくに対策をたてないまま、涼しくなるのをぼんやり待ってしまいがちですね。

でも毎日の生活をちょっと工夫するだけで、
あのだるい夏バテは防げるものなのです。
暑い夏を元気に過ごすために、夏バテの原因とメカニズムを知って、
しっかり予防しましょう。
・・》

このように優しく表示され、この下段には、

『夏バテ解消テクニック 』
『夏のコンディションづくり』
『タイプ別夏バテ対策』
『夏の大敵! クーラー病』

このような項目別に、具体的に優しく明示されていたので、
これだったならば、暑さが感じられる秋のお彼岸の9月下旬まで、
園児からご高齢者の方の何よりの強い味方かしら、と私は思いながら、
微笑みながら、2時間ばかり読んだりしたのである・・。

http://health.goo.ne.jp/special/summer/index.html
☆【goo家庭の医学から癒しの健康までサポート】<==【夏バテ完全攻略法】☆


そして、ネットの世界は、
このような優しい教科書は10年数前には、もとより考えられなかったことであり、
齢を重ね体力の衰えた私は、さりげなく甘受しているのである。


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東京郊外は、雷鳴と共に白雨(はくう)の情景となり、そして真夏の熱気は過ぎ去り・・。

2011-08-07 16:20:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
朝方の6時過ぎの天気情報は、日中は曇り空で32度ばかりの暑い日になるでしょう、
と地元のニュースは報じていた。

しかし朝の8時過ぎから快晴となり、陽射しは燦々と照らし熱い夏空となった。
昼前は、32度前後で雲ひとつなく青空で、私は困ったなぁ、と心の中で呟〈つぶや〉いたりしていた。

過日の4日の木曜日に、我が家の居間にある冷房専用機のクーラーが故障して、
やむなく買い改めることにし、本日の午後1時過ぎから、専門技術者の方に設置して頂くことになっていた。

家内は朝方から居間を中心に掃除して、食卓テーブル、椅子などを片隅に置き、
暑さに苦手な私は扇風機の風に身を寄せたり、扇子で扇〈あお〉いだりして、
熱気のある居間のソファに座ったりし、専門技術者の方の来宅を待ち焦がれたりしていた。

そして予定時より少し早めに来宅して下さり、
手際よく故障した冷房専用機のクーラーを撤去して、
新たな冷暖房のエアコンを設置して頂いたが、熱い中の作業であり、私たち夫婦は恐縮したりした。


この後、専門技術者が我が家から辞した後、
私たち夫婦は、新たなエアコンのリモコンを操作したりして、冷風の威力に微笑んだりして、
『やはり最新のエアコンは・・進化しているねぇ・・』
と私は家内に話かけたりした。

まもなく昼下がりの二時半過ぎに、にわかに空は暗くなり、雨がポッリと降りはじめ、
雷鳴が響きわたり、大粒の雨脚が降ってきて、激しく降ってきたのである。
まもなく、稲光が光を帯びて、空を裂き、豪雨となった・・。

私は玄関庭の軒下に出て、煙草を喫いながら、激しく降る雨を眺めたりしていた。
風が少し伴い、樹木は豪雨を受け、枝葉は揺れ、
樹木越しの景色は白いベーエルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいた。
そして、地上の草花は水しぶきを受けて、乾ききった大地を潤(うるお)しているが、
激しい雨を受けて、もう・・だめぇ、といったように草花は震(ふる)わしていた。

私の履いている下駄も水しぶきを受けていたが、
待ち焦がれた雨の情景を見つめていた。
そして付近で落雷が幾たびか響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。

この後、30分前後降り続いた後、雨は小雨になったが、
少し遠い空は、雷鳴が続いている・・。

こうした中で、蝉〈セミ〉は再び盛大に鳴きはじめて、
今の時節に鳴かなかったら、いつ鳴くのよ、といったように健気〈けなげ〉に鳴いたりしているので、
私は苦笑したりしていた。

このような白雨〈はくう〉が去った後、確かに暑さは数度ぐらいは下がった、
と私は実感させられたりしている。


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年金生活の私、果たして深化しているか、或いは退廃しているか、と微苦笑し・・。

2011-08-07 01:42:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は中小業の音楽業界のあるレコード会社に管理畑・情報畑など35年ばかり勤めて、
定年退職を迎えたのは、2004〈平成16〉年の秋であった。

レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が弾力的に社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

私の勤めていたレコード会社も、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

そして先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。

この時に、私たち夫婦は、私の定年時の5年前に、
私たちの老後の生活のことを話し合ったりした。
どのような生活をしたいのか、もとより主体であり、
80歳の頃までを想定して、資金面のことも含めて、具体的に予測できることを配慮して、
年次別に収支概要を立案したりした。

私が出向期間に於いて、各レコード会社はリストラを幾たびか実施し、
私の勤めていた会社も実行され、出向先の会社も大幅にリストラが行われた。
もとより私は出向の身分であったので、荒波から逃れたような状況となり、複雑に心情であった。
そして多くの知人は業界を去り、つらい別れを幾たびかし、
私は何とか出向先で、定年退職時を迎えることができた。


こうした実情のこともあり、せめて退職後の第二の人生は、
趣味の時間で過ごしたく、念願の年金生活とした。

退職後の一年を過ぎた頃、たまたま作家・城山三郎氏の『無所属の時間に生きる』の随筆を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を、強く学んだりした。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。

深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。
・・》

この一節を教訓として、この時から私の人生信条とした。

年金生活の7年生となっている今、
果たして振り返った時、私自身は深化したか、
或いは身体の衰えに甘えて、退廃したか解からない。

私は先ほど、過ぎ去った日々のブログの投稿文を読み返し、愛惜を深めたりしていたが、
やむなく、この人生に微笑み、と私は微苦笑したりしている。


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