夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京郊外は今年初めて30度を超え、我が家は扇風機が元気よく活躍して・・。

2013-06-15 14:49:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報を見たら、
朝の6時は23度、昼下りは30度前後、夕暮れの6時は26度前後、
朝のうちは曇りとなりますが、次第に回復して快晴となり、
梅雨の間の初夏のような暑さになります、と報じていた。

私は寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは32度ぐらいでは平然としている。
こうした風変わりな夫婦なので、
困ったなぁ、と少しばかりため息をしたのである。

家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプであり、
毎年、夏の初め梅雨の時節は我が家は『冷たい戦争』となる。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐えてきたのである。

私が若き40代の当時、サラリーマンで奮闘していた時、
休日の時、テレビで確か主婦連の女性が、
夏のクーラーは程々に倹約して27度を超えたら、体調を配慮してクーラーを、
このような発言をしていた。

我が家は古い温度計しかなかったので、
やむなく私は真夏日の日曜日に渋谷のデパートに出かけて、
西ドイツ(現在・ドイツ)製の堅牢な温度・湿度計を購入したりした。
               
                我が家の居間にあるが、今回は特別に移動して記念写真とした。
そして、この後の暑い日になると、
『XXちゃん・・30度を超えているょ・・
主婦連だって・・体調を配慮してクーラーを・・と言っていたよ』
と私は温度計を指して、家内が見た後、クーラーの冷風をセットするのが、
ここ20年の我が家の習性となってきた。


午前10時過ぎに陽射しが燦燦と照らし、居間の温度計も29度を指していた。
我が家は網戸越しに、微風は吹いてくるが、私は暑さを感じて、
やむなく私は扇風機で風を強くしたり、
テラスに下り立つ時は、団扇(うちわ)で扇(あお)いだりした。

この後、私は平素の買物専任者の身であるので、
歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。
夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、
汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりした。

そして帰宅後、もう一軒のスーパーが特売していたので、私は買い物に出かけた。

そして独りで日常の買い物を終えた後、帰宅後は洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。


この後、私たち夫婦は昼食を頂いている時は、30度を超えていたので、
私は扇風機の風に吹かれて、家内と話したりしていた。

『節電の時世・・数年前、確か政府は28度ぐらいの室温に協力を・・と言っていたよねぇ・・』
と私はエアコンの冷気が苦手な家内に言ったりしたのである。

『そうでしたよねぇ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『確か・・25年前頃・・主婦連の方たちが、夏のエアコンの最適な温度は、
27度ぐらいが理想的・・と記憶しているが・・』

『あの当時は・・エアコンは冷やすものだと・・
各家庭が寒いぐらいに冷やしていた時代だから・・適温を言ったのよ』
と家内は笑いながら私に言ったのである。

『先ほど、そこにある温度計・・30度を超えていたよ・・
我が家でも、今年初めてのエアコン・・セットしょうか?』

『今頃から・・エアコンのお世話になると、非国民と言われますよ・・』
と家内は私に言ったりしたのである。

『非国民かょ・・XXちゃんも昭和24年生まれなのに・・よく知っているねぇ』
と家内より5歳ばかり齢上の私は苦笑したりした。

こうした時、昨年の場合は私は昼下り、2階の和室で、夏掛け布団を掛けて、横たわり、
扇風機の風を受けながら、本を読みはじめたりすることか多かった・・。

今年も同じようになるかしら、と私は微苦笑した。

そしてこの先、梅雨明けの後に真夏日の多い夏を迎えるので、
ここ数年は記録的な猛暑が続いたりしてきたので、
『今年の夏は・・余り熱くならないでねぇ・・』
と私は秘かに呟(つぶや)きながら、天上の気候の神々に祈願したりしている・・。

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雨上がり、青葉梅雨(あおばしぐれ)の中、遊歩道を散策すれば・・。

2013-06-14 14:18:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していたので、
私は出かけた。

私の住む地域は、過ぎし11日の午後より本格的な梅雨の時節となり、
雨時々曇りの日となり、昨日の13日も小雨が降りしきる日となった。
          
今朝も小雨が降り、午後から天候は回復し曇りとなります、と地元の天気情報は報じていたので、
私は自宅の近くに流れる野川の遊歩道を歩いて、『喜多見』駅の近くの歯科医院に行く予定であったので、
小雨の降る中、傘を差して遊歩道を20分ばかり歩けば、
長ズボンの裾が濡れるかしら、と思いめぐらせたりした。

そして9時半過ぎに玄関を出て、門扉に向かうと、
何かしら雨が上がり、天は我に味方せり、と心の中で叫んだりした。

しかしながら小心者の私は、長い傘を持ち歩きだした。

やがて遊歩道の隣接した数多くの樹木を眺めたりし、
          
川沿いの遊歩道は、歩道沿いに小公園となっているので、樹木の枝葉は伸ばし、たわわな葉は色合いを深め、
人影も殆ど見かけず、雨の匂いを感じたりした。

ときおり、枝葉から雨粒が舞い降り、私の肩などに落ち、私は苦笑したりした・・。

古人たちは、雨の後の樹木の葉から、ときおり落ちる雨雫(あめしずく)の情景を青葉梅雨と称したりしているが、
どんよりと曇り空であるが清涼感もある。

そして橋を渡る時に、野川の両岸も、樹はうっそうと生い茂り、
深緑の情景となった。
   
その後、駅前のスーパーの洗面所で、湿度が高い中を歩いたので、
少し汗ばんでいたので顔を洗い、少し身だしなみを整えて、 歯科医院に行った。
いつものように受付の女性に挨拶しながら、
雨は上がりましたが、少し蒸しますねぇ、と明るく私は言ったりした。

             
やがて『喜多見』駅の近くの歯科医院で治療を終え、
そして駅前のスーパーで家内から依頼された品を買い求めた後、帰路も遊歩道を歩いた。
   

この野川の両岸の遊歩道は、桜の樹が多く桜並木のようになってる処が多く、
過ぎし3月下旬の時は、桜花が満開の中、私は春の陽射しを受けながら、
小躍りしながら、鑑賞してきたのであった。

そして今の私は、雨上がり緑陰の中を歩き、季節のうつろう情景を実感させられながら、
歩いた・・。

湿度は程ほどになった曇り空の中、樹木の枝葉のトンネルのような下を歩き、
思い出したように雨粒が落ちたが、わずか数えるばかりとなっていた。

そして私は色合いを深めた数多くの葉は、雨上がりの情景にふさわしく、
          
清涼感を深く感じながら、私は自宅に向かった。

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ときには高齢者の私でも、遅寝、早起き、そして昼寝して、元気な児となり・・!?

2013-06-13 13:54:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は自主的に平素の買物担当となり、毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策してしている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしている。

こうした中で、買物、散策の時などで、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、あふれる思いを
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
                    

こうした年金生活をしているが、朝は6時前後に起床し、夜は11時前後に寝付くことが多い。

しかしながら、過ぎし4月初旬にNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』を視聴した・・。

NHKの解説に寄れば、
《アメリカの映画監督オリバー・ストーン氏が、脚本を歴史学者のピーター・カズニック氏と組んで、
制作したドキュメンタリー・シリーズ》
何かしら10回に及び放送される、と私は4月8日の月曜日の午前中のひとときに知り、
この日から体力の衰えた高齢者の私でも、逐次放送されるたびに、
貴重な作品と感じ、同時にブルーディスク・レコーダーにセットして、録画しながら視聴してきた・・。

確かに優れた作品で圧倒的に魅了されているが、放送時間は深夜の12時から50分の放送時間である。
たとえば、前回の時は、
5月6日(月)深夜(火曜0:00~0:50)「第5回 アイゼンハワーと核兵器」
5月7日(火)深夜(水曜0:00~0:50)「第6回 J.F.ケネディ ~全面核戦争の瀬戸際」
5月8日(水)深夜(木曜0:00~0:50)「第7回 ベトナム戦争 ~運命の暗転 」
そして今週に、
6月12日(水)深夜(木曜0:00~0:50)「第8回 レーガンとゴルバチョフ」
6月13日(木)深夜(金曜0:00~0:50)「第9回 “唯一の超大国”アメリカ」
6月14日(金)深夜(土曜0:00~0:50)「第10回 テロの時代 ブッシュからオバマへ」


こうした時の私は、作品を鑑賞した後、感動の余韻もあり深夜の2時過ぎに寝付き、
朝は平常通り朝の6時に起床して、やがて午後2時過ぎに眠くなり、
寝室の布団の中で、本を読みながら、その後は昼寝をしたりした。

この作品の原作のオリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1』
(早川書房)の日本訳を4月初旬に読み、
その後、続編の『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 2』(早川書房)が5月1日刊行と知り、
買い求めて、読み耽(ふけ)ったりした。
              
この後、最終巻の『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 3』(早川書房)が6月1日刊行と知り、
私は6月2日から購読してきた・・。

私は場合は原作の本を読んでから、テレビのドキュメンタリー作品を視聴してきたが、
単細胞の私は、この間にアメリカの近代史に関連する関係の本を3冊ばかり再読してきたので、
ここ4月初旬以来、物狂いのようにアメリカ近代史に熱中してきた。
          
そして逐次テレビで放送される日には、
高齢者の私でも、遅寝、早起き、そして昼寝して、元気な児かしら、と微苦笑している。

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梅雨の時節、齢ばかり重ねた私でも、圧倒的に魅了される花は・・。

2013-06-12 13:00:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
昨日の午前中は霧雨がときおり降った後、午後より雨が本降りとなり、
今朝も降り続き、梅雨の時節としては余りにも雨が降る日が少なかったので、微笑んだりした。

朝食後に、居間のはずれにある机の前の椅子に座りながら、
ぼんやりと雨が降る小庭を眺めたりした・・。
          
そしてテラスのはずれに下り立ち、雨の情景を見つめたりした。
          
この後、モミジの樹の周辺に下草として植えている半夏生(ハンゲショウ)は、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられ、
齢ばかり重ねた私は、ほのかな妖艶と感じたりした。
         
この半夏生の花は、私たち夫婦が私の生家に近い処に1978〈昭和53〉に家を建てた時、
家内が中学生の時から師事してきたお茶の先生から、小判草(コバンソウ)、唐糸草(カライトソウ)と共に頂いた茶花である。

毎年、5月の初旬頃に、地から芽を出る宿根草のひとつで、日増毎に成長する。
      
       2週間前の寸景                             本日の寸景

この後、真夏の頃には、先端の数枚の葉は化粧を落としたうに白さは消え去り、深緑の葉となり、
やがて晩秋には茶褐色の葉となった後、そして落葉となり、
私は来年お逢いしましょう、と愛惜しながら幹を切り落としている花である。


この時節、園児でも魅せられる紫陽花(アジサイ)の花も、齢ばかり重ねた私でも、魅了される。
無念ながら我が家にはなく、私は自宅の周辺を散策したりし、
ときおり小公園などで見かけて、立ち止まり長らく見つめることが多い。
   
私は人の多い所は何かと苦手となってきたので、鎌倉のアジサイの名所として名高い寺よりも、
自宅の周辺で平日の雨上がりの午前のひととき、
人影のない静寂な所で鑑賞できるのが最上と確信を深めている。


この時節、忘れてならない菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)は、
底知れぬ美の極致と、思いを寄せたりする。
               
この梅雨の時節、私なりの散策をしながら、
歴然とした美を享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

私は5月の季節を迎え、やがて梅雨の時節まで何かと気になるのは、
菖蒲(あやめ)、花菖蒲(はなしょうぶ)、そして杜若(かきつばた)の花である・・。

幼年期に農家の児として育った私は、生家の田んぼの外れに咲いていた花菖蒲を見て、
これこそ何よりも気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきた。

しかしながら、20歳過ぎても、菖蒲、花菖蒲とよく間違えることがあった。
          
その後、秘かに菖蒲は乾燥地で育って、新芽が赤味を帯び、
花菖蒲は、やや水湿地に育ち、新芽が緑色と覚えたりした・・。
そして杜若は、水湿地に育ち、葉先が垂れている、と判断したりしている。
    
私の拙(つたな)い記憶によれば、
遠い昔、私が35歳の5月の下旬の頃、家内と明治神宮を散策している時、
小雨降る中の花菖蒲が最も深く心に残っている。

いつの日だったか忘れてしまったが、何かの本を読んでいた時、『花言葉』が掲載されていたので、
私は机の引き出しあるメモ帳代わりとなっているカレンダーに、
少しボケてきたので、書き込んだりしていた。
                         
菖蒲(あやめ)は、『よき便り』
花菖蒲(はなしょうぶ)は、『優雅な心』
杜若(かきつばた)は、『幸運は必ず来る』

このように明記されていたので、つたない私は悦こんだりした。
          

そして過ぎし2007〈平成19〉年の6月初旬に、
杜若(カキツバタ)の秘められた句頭を学んだりした・・。

この当時の私は、『CUE!(キュー)』の命名された小田急電鉄の生活月刊情報誌を
たまたま読んでいた時である。

この中の特集記事として、『日本あやめ物語』で、6月の時節に相応(ふさわ)しいと思ったりした。

サブタイトルには、《 日本の美意識が生んだ雨に気高く咲く花に、恋する6月。》
と明示され、私は微苦笑したりして、解説を読んだりした。
《・・世界に約250種がある。
あやめ属の植物の中に日本原産の代表といえば、
杜若(かきつばた)、菖蒲(あやめ)、花菖蒲(はなしょうぶ)。

春から初夏にかけて少しずつ時期をずらしながら花の時節を迎え、
平安の時代から霊験のある花として大切にされてきました。

江戸中期、花を愛でることが武士のたしなみのひとつと捉えられてからは、
野生の野花菖蒲を元にたくさんの園芸品種がつくられ、
同時に江戸郊外の葛飾・堀切花菖蒲園を筆頭とする、菖蒲園が開園。

水辺に群生する花を観賞するという独特の文化は、このとき生まれたものだそう。
梅雨どきの煙る雨のなか、そして低くたれ込めた雲の下こそ映える、凛と咲くあやめの姿。
日本独自の情緒を、しっとりと味わいに行きます。・・》

以上が解説のように綴られているが、
多分女性の編集者のひとりが書かれたと私は思い、私は微笑ましく読んだりした。
          
この特集の記事の中で、小さいコーナーがあり、無知だった私は何よりも魅了された。
《・・日本文学の中で、最も杜若が印象的に書かれているのは、
平安時代・初期に成立した『伊勢物語』。
九段・八つ橋の中で、「かきつばた」の五文字を句頭にして旅の途中の気持ちを、

 からころも
 着つつなれにし
 つましあれば
 はるばる来ぬる
 旅をしぞ思ふ

と詠み、故郷の妻を思う気持ちが書かれています。・・》

この杜若の句頭は、私は無知で恥じているが、良質な情緒に私の心は魅了された。
          
私は学生時代、残念ながら国文学を専攻しなかったので、
やむなく気ままに独学の結果、ときおりこうした綻(ほころ)びが生じている、と苦笑したりした。


このように梅雨の時節、齢ばかり重ねた私でも、圧倒的に魅了される花は、
微風を受けて揺れる半夏生(ハンゲショウ)、そして紫陽花(アジサイ)、
或いは菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)となり、ここ10年ばかりこの季節、私なりに秘かに心を寄せている。

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雨の降る前に、東京郊外に住む私は、周辺を散策すれば・・。

2013-06-11 14:25:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は20度、昼下がりは24度前後、そして夕方の6時は23度前後、
午前中は曇り、所に小雨が降り、午後から雨の降ります、と報じられていた。

私の住む地域は、梅雨の時節としては余りにも雨が降る日が少なく、
どうしてなのょ、と大いに戸惑っていた私は、久々に雨の降る情景になる、と微笑んだりした。

平素の買物専任者の私は、雨の降る前の午前中の早めに、スーパーで買物の責務を終えた後、
11時過ぎにいつものように散策をした。

どんよりとした曇り空の中、長袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキングシューズ、
小型バックを斜め掛け、折りたたみ傘を持参し、その上にたまたまコンパクトのデジカメを首回りから掛けて、
近くに流れている野川の遊歩道に一分足らずで出た。
   

そして本日は、下流の小田急線の『成城学園前』駅と『喜多見』駅の中間点に流れる地点まで、
めざして隣接した遊歩道を歩いた。
               
そして遊歩道の近くに、美麗なアジサイを見て、私は足を止めて、見惚(みと)れたりした。
          

この後、私は対岸の遊歩道に向かう為に、歩道橋を渡る時、
定年後から何かと魅せられている情景をデジカメで撮ったりした。
   
そして左手が本日であり、右手は3週間前の情景であるが、
梅雨の時節なのに水量が乏しくなり、天上の気候の神々の采配に憂いたりした。

そして近くの公園に入園した後、園内を歩くと、夏椿(ナツ・ツバキ)かしら、と私は眺めたりした。
          
その後、園内で私の魅せられている場所で、色合いを深めた樹の枝葉を長らく見つめたりした。
               
再び歩きだす、まもなく木槿(ムクゲ)かしら、と思いながら、
早くも咲いてくれた花を眺めたりした。
                

この後、いつもは歩かない花コーナーに寄ると、
高齢者の男性の私でも、何かしら乙女チックのような心情になった。
          

そしてこの時節の樹木、花を見て、季節のうつろいを享受した私は、自宅に向かった。
               

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梅雨の時節、年金生活の我が家で、何よりも孤軍奮闘するのは、『洗濯・乾燥機』・・?!

2013-06-10 14:54:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭の中で古惚けた一軒屋に住んでいる。

作日の9日も梅雨の晴れ間の朝を迎え、家内は早朝から、掃除、洗濯に奮闘し、
台所で皿洗いなどをしていた。

この時節は梅雨の時節であり、今年は天上の気候の神々が心変わりとなり、
梅雨の晴れ間が多くなっているが、やはりお天気が不安定で、ときおり小雨が降る時もある。

こうした時は洗濯後の外干しが出来ないので、家内は少しばかり意気焦心しながら、
掃除も半減し、小雨降る情景を見たりし、雑誌を読んだり、或いはテレビを視聴することが多い。

こうした梅雨の日々は、洗濯機の乾燥機能付きが、
日中の時、殆ど廻っているので、私は微苦笑したりしている。

この我が家にある乾燥機能付きの洗濯機は、
過ぎ去りし年の2010(平成22)年の1月初旬に買い求めた・・。
               

この当時の2010(平成22)年の1月2日、
家内は朝6時過ぎに、いつものとおり洗濯を始めたのである・・。

家内は原則として毎朝、この頃の時間に始めているが、
昨日の元旦ぐらいは洗濯をやめていたので、大変と張り切っていた・・。

まもなく家内が、
『洗濯機が突然に停止し・・何回も電源のスイッチを押しても・・ダメみたい・・』
と私に言ったのである。

私は電源コードなども含めて、色々と試みたが、
肝要の洗濯機の電源ランプが点(つ)かないのである。

この後、購入した時に添付されてくる『取扱説明書』の
《 困ったなと思われたときは 》の欄を見たが、該当しないのである。

電源基盤の故障と思われるが、いかんせん新年早々なので、
メーカーの修理相談窓口も年末年始の休暇と思われ、
やむえず家内は意を決して、風呂場の洗い場で手洗いの洗濯を始めた・・。
          
この後、ときたま家内は私を呼び、
パジャマ、バスタオルの大きなものは、お互いに両端を手で持ち、絞り上げようとしたりした。
水が搾(しぼ)り出されて、洗濯機の脱水の能力は凄いね、
と私は言いながら、苦笑したりした。

そして、タオルなどの小さなものは、お互いに絞り、
先程、最小限の洗濯ものの最小限を終え、外の干し場にかざしていた。

しばらくした後、家内は、
『洗濯物・・凍(こお)っているわ・・』
と私に言ったので、私は干し場に行ったりした。

そして物干し竿にハンガーにつるされた私のパジャマの上は、
確かに凍って、奴っこ凧(だこ)のように角ばっていて、私は苦笑したりした。

このように新年早々、我が家では予期せぬ出来事に、私たち夫婦は戸惑ったりした。

そしてこの後、家内は第2次の手洗いの洗濯をはじめている・・。


その後、家内はメーカーの仕事始めの4日頃の修理依頼をし、
修理が完了する日まで、やむなく手洗いの洗濯を決意したりした。

私は家内の手洗いの悪戦苦闘が余りにも可哀想ので、
年始でコイン・ランドリーの営業稼動している所をネットで調べ上げて、
家内に伝えたところ、もうしばらく手洗いをするわ、と言ったりした。
          

やがて4日の朝、この洗濯機のメーカーの修理相談窓口が朝の9時過ぎに連絡できる前に、
この洗濯機の『保証書』などを確認したところ、
1999(平成11)年5月5日、購入日となっていた。

そして2003(平成15)年3月には、
コントローラ、回転センターの修理を依頼して、数万円要していたことも想いだされた。

私は家内に10年は過ぎているので、たとえ修理をしたところ、
数年過ぎたら故障すると思われるので、
この際、買い替えをしょう、と私は家内に言ったりした。

しばらく家内はためらっていたのであるが、ようやく買い替えを決意した。

私はネットであるメーカーの洗濯機の画面を開き、家内と交代した。
家内はA型の性格らしく、几帳面に一時間ばかり検索して、
乾燥機付きの時代なのね、とポッリと言ったりした。

そして希望の機種をふたつ選択して、パナソニックの商品相談口に電話をして、
商品の特徴などを確認した後、あとはお値段だわ、と私に言った。

この後、私は家電のある量販店に電話をして、価格と納品日を交渉した後、
家内に伝えて、やっと新たな洗濯機の機種が決定した。

そして、家電量販店は電話で確約ができない、と私は言われて、
やむなく私は4日の午前中に家電量販店に行き、機種を確認した後、
価格と配達日の再確認をしたりした。

このようなことで、私は日中の大半を要し、少しは疲れたかなぁ、と苦笑したりしたが、
もとより、家内は手洗いをしてきたので、やはり手洗いの洗濯は大変だわ、
と家内はぼやいたりしていた・・。

このように洗濯機に関して、過ぎし年の2010(平成22)年の新年早々に我が家では騒動があった。
          

我が家の敷地の西側は、10メートルぐらい隣接した場所にマンションがあり、この関係で、
冬の時節は陽当たりが半分程度となり、
家内は外干しをした後、2階の陽当たりの良い洋間に干したりしてきた。
そして家内は乾きに満足しない場合は、ガスファンヒーターの温風で乾かしたりした。

もとより雨の降る時は、やむなく室内干しとなり、
その後はガスファンヒーターの温風で乾かしたりした。

私は買い改めた機種の10年前の頃から、敷地の関係で陽当たり良くない時期もあるし、
第一ガスファンヒーターの温風で乾かしたりすると、肺に良くないよ、
と幾たびか乾燥機を買い求めよう、言ったりしてきた・・。

家内は決断つかないらしく、これまで躊躇(ためら)ってきたりした。

結果的に新婚時代からの2代目が故障して、やっと3代目は乾燥機能付きの洗濯機となった。

こうした関連で我が家は、特に冬の時節、そして梅雨の時節は、
朝から洗濯の後、外干したりし、その後に乾燥機能が昼下がり過ぎまで、活躍することが多い。

我が家の乾燥機能付きの洗濯機は、洗面所の横に設置しているが、
昼下がり過ぎに乾燥機能が1時間ぐらい回転している状況を、ときには私は眺めると、
あたかも孤軍奮闘しているように健気(けなげ)に回転している状況に、
微笑みながら見たりすることもある。

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ときには懇親会、ビール、ワインを飲みながら、9時間ばかり談笑を重ねて・・。

2013-06-09 13:01:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日、私の現役サラリーマンの時代に勤めていた中のひとつの会社の懇親会が開催されて、
出席した・・。

私は25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に、何とか中途入社できた。

そしてこの音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応(ふさわ)しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。
          
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の1月から数が月程、通った後、
5月に本社が六本木に移転した。
               
この後の海外の親会社の要請で、
資本系列が同じのあるレコード会社と統合される1993(平成5)年の4月までの22年ばかり、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。

その後の私は統合されたレコード会社に勤め、渋谷に近い池尻大橋の本社に勤め、
やがて音楽業界がリストラ烈風となり、
まもなく私は取引先のCD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
やがて2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
          

今回の懇親会は、私が25歳の時に新設されたレコード会社であり、
統合されるまでの22年間勤め会合であり、
前回は2000〈平成12〉年以来で、久々であった。

こうした中で社員の人事募集は、統合されるまでであったので、
一番若い人でも、40歳以上であり、現在でも音楽業界で栄進されご活躍される方もいるが、
殆どの方は第一線を離れた65歳以上の方たちであった。

そして本社が22年ばかり六本木に所在していたので、懇親会の場所も六本木となり、
一次会は午後の2時から、その後の二次会は午後の5時半と、
幹事役の方の指定文書に認(したた)められていた。

私は自宅の付近から路線バスに乗り、そして小田急線の成城学園前から千代田線の乃木坂で下車した。
私の現役時代に通勤したコースであったが、六本木の情景は大幅に変貌してきた。
               
1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となった当時は、
中心地の四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルで勤務し、
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、そして喫茶風の飲食店の『アマンド』、或いは三菱銀行の六本木支店があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。

やがてレコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』出来たり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
          
こうした中で六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。

私は最初にこの正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。
                                 

私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。

やがて防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」が出来たり、
この少し前には四丁目の近くに「六本木ヒルズ」が完成したりしたが、
私は六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
この威容なビル群は、魅力もなく興味がないのである。
                    

そして指定された場所に私は30分前に到着したが、
早くも30数名の方が談笑されていた。

私はこの会社の時は、管理畑の商品管理、情報のコンピュータ関連などを務めいたが、
制作畑の邦楽、洋楽のポピュラー、クラシック、録音など、
営業畑の販促、営業所、そして総務、人事、経理など多彩な人々の中、
私はビールを飲みながら、盛んに談笑を重ねた。

そして『XXさん、お元気そうで・・』と私は殆どの人に話しかけて、
しばし談笑したりした。
或いは『XXさん、少しお肥(ふと)りになられましたねぇ・・』
と懐かしい人から声を私は声をかけられ、談笑したりしていた。

こうした一次会の出席者は90名前後の中、首都圏にお住まいの方が圧倒的に多い中、
地方の都市にお住まいの方も参加して頂き、更に盛会となった。

そして今回やむなく参列できなかった82名方もいたが、
何よりも無念ながら早くも亡くなわて天上の人となった30名の方に、
私たち一同は黙祷を捧げたりした。

このように3時間半は早くも過ぎ去り、散会となった。
          
その後の二次会は近くのワインを中核とした食事処で、
40名近くの人の中、やはり私もワインを飲みながら、各部署に勤められた方たちと談笑を重ねたりした。

そして9時過ぎになると、有志の10名の方たちと三次会となり、
付近の食事処で、ビール、日本酒を飲みながら談笑し、
お開きとなったのは夜の11時過ぎであった。
                    
私は名残り欲しく、また逢う日まで、と言ったりし、独り『乃木坂』駅に向かい、
途中でタクシーに乗車し、自宅に向かい、帰宅したのは12時少し前であった。

このコースは、私が40歳の前後に於いて、システム開発、部分改定などで、
深夜まで奮闘し、帰宅は深夜の2時過ぎが多い時期でタクシーを利用してきたので、
30年前の頃だった、と思い馳せたりし、車窓から懐かしい情景を見たりした。

尚、一次会は、『Paradis Tokyo(パラディ・ウキョウ)』、
二次会は、『LB6(エルビーシックス)』、そして三次会は『ようざん』であったが、
もとよりプライベート保護に伴い、撮影はお互いに自粛したので、今回も心象記となったことを付記する。

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季節のうつろいを友とし、限りなく愛読させられる本は・・。

2013-06-08 08:14:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む68歳の高齢者の身であり、
東京郊外で農家の児として生を受けて、
中小業のサラリーマンを35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
サラリーマンを卒業した年金生活の9年生である。

古びた一戸建てに住み、小庭の雑木、草花を眺めたり、
周辺の遊歩道、公園を散策をしたりして、日々季節のうつろいを何よりも教示されている。

ときおり、家内との共通趣味の国内旅行などをして、
各地の四季折々の限りない美に心を留め、齢を重ねるたび愛惜が深まっている。

このように感じ受け止めて日々を過ごしたりしているが、
何かと無知な私は、書物で、改めて日本の歳時などを謙虚に学んでいる。

例えば、藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)、

飯倉春武・著の『日本人のしきたり』(青春出版社)、

朝日新聞社・編の『色の彩時記~目で遊ぶ日本の色』(朝日新聞社)、
               
          この本は確か1987〈昭和62)年の頃、店頭に置かれたのを偶然に手に取り、
          日本の古来の風土、文化から発生した色彩を四季をめぐり、
          各分野から取り上げられた内容の濃い一冊である。
          こうした本に触れると、季節を通して日本の文化が匂い立ってくる、
          不思議な力のある内容であり、圧倒的に魅了され、これ以来の愛読書のひとつとなっている。

講談社・編の『茶花歳時記』(講談社)、
               
野呂希一、荒井和生・共著の『言葉の風景』(青菁社)、
               
          この本は、写真・構成・文を野呂希一、文・荒井和生の両氏による写真とことばのビジュアル・ブックである。
          帯の解説の綴りには、
          《四季折々のことばを自然写真で紡ぐ
           残ってほしい言葉がある。
           忘れたくないことば、
           つかっていきたいことばを、
           四季の光景に見つけました。

           ほほえみ、きざし、このめおこし、
           たけなわ、のどか、なごり、
           こもれび、たまゆら、
           つるべおとし、ひとしお、
           うつろい、しぐれ、ゆきしまき、
           しばれ、はるとなり---。》
          と紹介されて折、丁重に装填された中味の濃い本である。
          
          私は定年後の翌年2005(平成17)年に古本屋で偶然にめぐり逢い、
          瞬時に魅了されて買い求めた本であった。
          尚、この本は、2000( 平成12)年に『文字の風景』の姉妹篇として発刊された本と付記されている。
      
長谷川 櫂・著の『四季のうた』(中公新書)、

松田 修・著の『古今・新古今集の花』(国際情報社)、

道行めく・著の『美しい日本語帳』(永岡書店)、

などが私の机の横にある小さな本箱にあり、
定年後に幾たびか読み返したりしてきた本である。

そして齢ばかり重ねた無学な私は、ときおり国語の辞書を置き、
そおっと開いたりしている・・。
久松潜一・監修の『新潮国語辞典 ~現代語・古語~』(新潮社)であるが、
二十歳以来から何かと教示を受け、私の秘かな言霊(ことだま)の恩師となっている。


私は定年退職後に自宅にインターネットを開設した遅れた身であるが、
Webの世界の進化に驚き、ため息をしたひとりである。

そして、まもなく『日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~』を知り、
ときおり開き、学んでいる。
http://iroha-japan.net/
☆【 日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~ 】

このサイトを開き、知りたいことを検索し、
こうだったの、と赤面したりしながら学んだりしている。

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雨乞いしてきた私、八代亜紀さんの『雨の慕情』の歌を秘かに唄っても・・。

2013-06-07 12:01:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、テレビのニュースの終わりの頃の天気情報を視聴していたら、
明日の7日の早朝から午前中に、久々に雨が降ります、
と報じられて、私は微笑んだりした。

私の住む地域に於いては、過ぎし5月29日に『梅雨入り』宣言を気象庁が公表されたが、
翌日の30日に午前中のひとときに小雨が降った後、
初夏のような陽気が続き、梅雨の間の晴れ間、と言われても、少し長すぎますょ、
と私は空を見上げたりして、天上の気候の神々の采配に戸惑ったりしてきた。

私は平素の買物の専任者であるので、毎日のように最寄のスーパー2店に行ったり、
或いは駅前まで徒歩で15分コースのスーパー6店の中の数店で、買い求めたりしてきた。
この後は、その日の思うまま自宅から数キロの範囲を適当に散策したりし、季節のうつろいを享受している。

こうした中で、近くに流れる野川の遊歩道を散策したりしてきたが、
清流を眺めたりすると、日増しに水の流れが元気をなくして、
困るよなぁ、と私は憂いたりした。
          
もとより梅雨の時節は、農作物などの発育には肝要の時節であり、水不足は天敵となり、
増して私たちの日常生活は、水は欠かせなく、水源地が枯渇となるのは甚大な影響を受ける。

一昨日の5日も陽射しを燦々と小庭を照らしたりし、
長らく雨から遠ざかっている日々が続き、
雑木、草花も何となく覇気がないので、私と同様に早くも夏バテなのかしら、と苦笑したりしてきた。
      
そして、水を大切にしましょう、と叫ばれている昨今、
ご近所の方から、非国民と非難されないように、
私はこっそりと草花だけに水道水を散水したりした。
          
その後、古来の人たちは雨を待ちわびる時に、雨乞いの行事をしていたことを思いだし、
高齢者の私でも、秘かに小庭のテラスに下り立ち、
ひとつの歌をかぼそい声で唄いだしたのである・・。

 ♪心の中が忘れた あのひとも
  膝の重さを 覚えてる

【『雨の慕情』 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路、唄・八代亜紀 】


今朝、小雨降る朝を迎えたが、その後は降ったり止んだりしている。
          
朝食後、私はテラスに下り立つと、小雨が降りだしてきた・・。
私は小庭に小雨の降る情景を眺めて、心の中で歌を唄いだした。

 ♪雨雨ふれふれ もっとふれ
  私のいいひと つれて来い

【『雨の慕情』 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路、唄・八代亜紀 】

私は少し苦手な八代亜紀さんのように巧く唄えないが、
せめて願いをこめて、心の中で唄ったりしたのであった。

この後、居間に戻ると、まもなく小雨が止んだりした。
          
私は、どうしてなのょ、と空を眺めたりしながら、
やはり主(あるじ)の私が音痴なのせいか、 或いは祈願不足のせいか、
と思ったりした。

まもなくして思い当たるとすれば、私はこの歌のように、
♪膝の重さを 覚えてる・・、
私は結婚前の独身時代に於いて、確か8人の女性と交遊をしてきたが、失恋の方が多かった。
そして確固たる情愛、そして性愛の深淵を深めた良いひとに、めぐり逢えなかったことを気付き、
つたない私としては、雨乞うの歌には相応(ふさわ)しくない、と大いに反省をさせられたのである。

そして空は明るくなり、私は苦笑したりしている。

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野に咲く花のように、と私の年金生活の目標に、改めて微苦笑して・・。

2013-06-06 13:37:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、駅前の本屋に向う途中、少しばかり住宅街から離れた道を歩いたりした。
そして道端で咲く花に見惚れたりして、足を止めたりした・・。

やがて駅前の景観が観えた時、野に咲く花が私には相応(ふさわ)しいかしら、
と微苦笑しながら、そして安堵(あんど)したりした。
               
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
               
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。

この発想の根源は、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。

その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
          

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944〈昭和19)年9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とし、この根源は、
松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。

こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
          
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられた。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と共に、礼金も重なる暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
          

そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

私はこの1985〈昭和60〉年以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきたのであった。
         

こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。
・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。
          
このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、早くも9年生となっている。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民の無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、やすらぎを覚えるのである。

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上高地、この時節の新緑の時、過ぎ去り年に訪れた時のささやかな想いは・・。

2013-06-05 15:29:57 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、朝食を家内と共に頂きながら、私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行であるが、
これからの旅行案を話したりした・・。

こうした時に、この時節の過ぎ去り年に、長野県の上高地に訪れたことの思いで話しとなり、
しばらく談笑したりした。

この後、私はテラスに下り立ち、梅雨の間の晴れ間となって、陽射しが燦々と照らす小庭を眺めながら、
過ぎ去り2008〈平成20〉年の6月中旬に、新緑の上高地に一泊二日で訪れたことを
思い馳せたりした・・。


     第一章  20数年ぶりの上高地は

ある有力な通販の旅行会社の特別企画として、
団体観光バスツアーを活用し、上高地の山岳ロッジに宿泊し、散策などを自在に、
というプランに私たち夫婦は参加したのは、6月16日であった。

新宿の都庁駐車場を8時半過ぎに出発し、高速道路の中央自動車道で諏訪湖を眺め、
長野自動車道の松本ICで下り、野麦街道を通り抜け、
大正池の景観が見えたのは、昼下りの1時半であった。
          
この間、サービス・エリアで休息をしたり、昼食を諏訪ICに近い食事処でしたりしても、
わずか5時間ばかりで秀麗な上高地の情景を観られるのである。

この手前の5キロ前あたりから一般の自動車は乗り入れが規制されているので、
路線バス、タクシー、或いは私達のように観光団体バスを利用するしかなく、
その上に4月から11月までの期間しか営業稼動されていないのが多く、
環境保護が重視されている地域でもある。

私たちを含めたツアー参加者の1部は、大正池で下車され、自然研究路を散策される方、
或いは上高地帝国ホテルの付近で下車されて、散策される方もいたが、
私たち夫婦は最終地の上高地のバス・ターミナルで下車した。

そして私たちのような数多くの観光客で賑わう中、
河童橋を渡り、かっては山の旅舎と称された『五千尺ロッジ』にチェック・インしたのは、
午後2時少し前であった。

この『五千尺ロッジ』は、梓川の河童橋の最寄にあり、
梓川の対岸に本家のような大正時代の初めの頃から存在している由緒ある『五千尺ホテル』があるが、
このロッジは10数年前に新装オープンした、可愛らしい妹のようなお洒落な宿舎である。
http://www.gosenjaku.co.jp/lodge/
☆【『五千尺ロッジ』ホームベージ 】☆

私たちのツアーの参加者は、旅行会社とこのホテルのさりげない企画のお陰で、
小石に絵を描くストーン・アート、
プラスチックに塗り絵のように描き、この後は熱を加えられ、縮小し、アクセラリーになるイベント、
そしてどなたでもささやかな景品が頂ける抽選会もあったりした。

そして目玉となる企画は、上高地NPG(ナショナル・パーク・ガイド)に導かれて、
ナイト・ハイクと称される夜の散策、
翌朝の早朝ハイクや明神池までの散策が設定されていた。
             

   第二章 自然研究路を散策すれば

梅雨の間の快晴の昼下り、
私たち夫婦は、田代湖を通り抜けて大正池まで散策しょうと、『五千尺ロッジ』を出たが、
その前に旅行会社とホテルのご好意に寄る『五千尺ホテル特製ケーキセット』があり、
私たち夫婦は由緒ある『五千尺ホテル』に入った。

この喫茶室も私達のような観光客で多く、
合席となった60代のご夫婦もコーヒーを飲みながらケーキを食べられていた。

この当時の私は呑兵衛のひとりだったので、洋菓子のケーキなどは婦女子の食べ物と確信し、
夕食は美味しくなくなるので、アイス・コーヒーを飲んだりした。
家内はコーヒーを飲みながら、私の分まで食べ、軽食代わりとしていた。

河童橋から下流の大正池までの遊歩道を右側に梓川の清流を眺め、
雄大な穂高連峰を見上げ、川沿いの整備された路を歩いた・・。
          
そしてシラビソ、サワグルミ、ケショウ・ヤナギ等の原生林の中を通ったり、
突然に視界が開け、シロバナ・シャクナゲやレンゲ・ツツジの可憐な花も観られ、
湿地の中には枯れ木が忽然と残ったりしていた。

大正池は余りにも有名な景勝地であり、
最寄に聳(そび)える焼岳が大正の初めの頃に大爆発をした折、
梓川の清流を堰(せ)きとめて、浅い池が点在する情景となり、
樹木は立ち枯れとなったのが数多く観られる静寂な美景のひとつである。
          
私たち夫婦は20数年前、この地の景観を初めて訪れたが、
焼岳は活火山もさることながら、年々土砂が流れ、
浅瀬の大正池を狭(せば)めている、と聞いたりしていた・・。

現地の方たちは、今でも土砂を取り除いたりしていると聞いたりしていたが、
こうした美景も自然の力の前では、いつまで観られるとは、
と思いながらも私たち夫婦は立ち去った。


   第三章 星と月明りの中、ナイト・ハイク

午後6時からの夕食のバイキング形式の時、私たち夫婦は有料の『フリー・ドリンク』を申し込み、
社員の身分証明書のような首からぶら下げたカードを身に付けて、レストランに入った。

私は通常の料理を頂き、そしてトンカツのソース煮、山菜の天ぷらを誉(ほ)めながら、
地酒を4合ばかり呑んだりした。
家内は赤ワインとビールを少し呑んだりしていた。

そして8時からの『ナイト・ハイク』と称せられた夜の散策コースに私たち夫婦は参加した。

NPGの好意に寄り、真っ暗な上高地の森の小道を散策するのであるが、
私たちのグループ10名は、ガイドさんの懐中電灯の足元を照らす光、
そして星と月明りの中をガイドに導かれて歩いた・・。

もとよりデジカメでフラシュで撮ることなどは論外で、
私たちのグループはデシカメを宿泊先に置いて、おぼつかない足取りで前を歩いたりした。

私は夜の闇は幼少の頃は歩いたが、
この齢になっても真っ暗の中は独りで歩いたならば、恐怖心がつのり、ただひたすら謙虚になる、
と改めて自覚させられたりした。

そして忽然に視界が開かれ、穂高連峰が観え、
沢の幾筋の残雪が雪明りとなり、周辺まで山すそが観えたのである。
そして頂(いただき)の上空には、星が煌(きらめ)いていた・・。

私は神々(こうごう)しく厳粛な心持となり、立ちすくんでいた。

こうして1時間ばかりの闇の中の散策であったが、深く心に残った。

そして解散後、私達の宿泊している所からわずかに河童橋にあるので、
私たち夫婦は橋の中間点に立ち、山すそを眺めたりした。

月が山すそに隠れ、わずかな月の光を観え、
そして30数分の後、恥ずかしげに月が頂の上から現(あらわ)れた・・。

そして私は夜の散策で、星の光、沢の雪明り、そして月の光を鑑賞できた稀(まれ)な体験をし、
寝付いた時、夢の中で再来するかしら、と深く思ったりしていた。


   第四章 上高地は神降地であり

翌日、梓川の清流の音で目覚め、白樺の枝葉越しに清冽な流れを見つめたり、
そして朝の陽射しを受けた山すそを眺めたりしていた。

朝食後、『明神池コース』の散策に参加するまでの間、
河童橋から上流の50メートル前後の場所の遊歩道にたたずみ、
梓川の流れ、後方に陽射しを受けた穂高連峰の美景を観たりしていた。
          
尾根、雪が残っている沢筋を見つめたりし、こうした景観があたかも額物に入った一幅の絵のようである。
          
そして、ベンチに座り眺めていたが、見飽きることがない情景であった。


明神池コース』に散策する人は、10数名であり、
私たちは5名のグループとなって、NPGの若き女性のガイドに導かれて、
歩き出したのは午前9時であった・・。

左側に梓川を眺め、上流にある明神池への遊歩道であったが、
驚くほど平坦な路であった。
   
シラビソ、サワグルミ、ケショウ・ヤナギなどの樹木を眺めたり、
そして固い樹のイチイ、寒冷地に多いダテカンバも見つめたりしていた。
          
そして誰袖草(ダレソデグサ)、深山唐松草(ミヤマカラマツグサ)などと命名された
お洒落な草花をガイドさんより教示されて、私は思わず微笑んだりした。
          

こうした情景を眺め、樹木、草花を誉(ほめ)めながら、
1時間ほどの道程をゆったりと2時間ほどで歩き、明神池の入り口周辺に到着した。
          
この地点でガイドさんと名残りほしく別れ、私たち夫婦は明神池に向かった。

この明神池は穂高神社の神域なので、拝観料を払ったら、バンフレットを頂き、
明神池 神降池(かみこうち) と明示されていた。
          
明神池は、一之池と二之池に別れて折、一之池は水面に数多くの樹木もあった。
          
そして、柔らかな陽射しの中で、マガモは子ガモを引率しながら、のんびりと遊泳したり、
岩魚(イワナ)もゆったりと水中を泳いでいた・・。
          
渡り鳥と知られているマガモであるが、
この地のマガモは飛び立つことがなく、この地で四季折々住みついている、
と教示させられたりした。

そして私は、マガモにとっては、余程居心地の良いところかしら、
と思いながら眺めたりした。
          
この後、ニ之池に行ったが、岩があり、小島には白樺、松などが観られ、
私は生きている石庭と深く感じながら、この光景をしばらく見つめたりしていた。
          

下流にある河童橋までの帰路は、
左手に梓川を眺める治山林道と称された遊歩道を下った。
          
視界の開けた湿地帯には、レンゲ・ツツジ、シロバナ・シャクナゲを眺めたりし、
          
1時間半ほど歩き、河童橋に到着した後、
宿泊したロッジの前にあるベンチに座り、休息をしていたら、
          
若き女性のガイトさんが、さりげなく呟(つぶ)いた言葉が思い出された。
『私・・神降地(かみこうち)という地名が・・この地域一帯は相応しいと思うの・・』


この後、私たち夫婦は、食事処に入り、ビールを呑みながら昼食としたが、
窓辺から梓川を眺めたりしていた・・。

そして集合時間も近づいて来たので、この上高地の光景に別れを感じはじめた・・。


このような新緑時に上高地を訪ねて、ささやかな旅路であったが、
特にナイト・ハイク、そして周辺の散策に圧倒的に魅せられた私たち夫婦は、
心の片隅に今でも残り、ときおり話し合うこともある。

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都心にあこがれ、そして長年苦楽を共にした私は、定年後は遥か遠い存在となり・・。

2013-06-04 16:50:44 | 定年後の思い

昨日、私たち夫婦は、久々に新宿の『伊勢丹』(デパート)に買い物に行き、
帰路も小田急線を利用して、最寄駅のひとつの『成城学園前』で下車した後、
私は人出の多い都心は、定年後は何かと苦手意識を増しているので、
地元の地域に還(かえ)った、と安堵したりした・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私が住んでいる近くに生家もあり、この地域で1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの60数年間をこの地で過ごしてきた・・。
                    
過日、正井泰夫・監修の『東京の昭和 ~地図で暮らしを読む』(青春出版社)を再読したりした。
概要としては首都の東京都心の敗戦後から今日まで急激に変貌してきた実態を
それぞれの街並みを誰でも理解できるように表現した本であった。

私は読みながら、そうでしたよねぇ、と感じたり、未知のこともあり改めて教示されたりした。
こうした中で、六本木の外れの『東京ミッドタウン』に関しての記事を読んだりすると、
遥か遠い世界のようだ、と微苦笑しながら感じたりした。
          

私は2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
少しばかり理由により年金生活に入り、平素の買物は私は自主的に専任担当となり、
もとより独りで買い物に行ったりしているので、
家内と共に2人で買物に行くことは月に1度ぐらいとなっている。

私は自宅から最寄のスーパーに行くことが多いが、
週に1度ぐらいは京王線の『仙川』駅、小田急線の『喜多見』駅などの駅前に散策を兼ねた出かけて、
本屋に寄ったり、コーヒーショップの『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている。

このような生活を9年近くしていると、調布市の中核の京王線の『調布』駅の駅前さえも、
人の多さに驚き、まして『新宿』駅の付近の専門店、デパートに買物をしたりすると、
ただ人の多さに圧倒されて、疲れが増すのが定年後の心情となっている。

ときおり家内と京王線の『調布』の駅前に買物に行ったりしたが、
『パルコ』の中の衣料専門店で家内が婦人衣料品を眺めだした時、
私は『ドトール』でコーヒーを飲んで待っている、と告げて、
私は本屋に寄り、一冊の本を買い求めて、『ドトール』で煙草を喫いながら、本を読んだりすることが多い。

私は高齢者4年生の68歳の身であるが、齢を重ねるたびに、人の多い場所は疲れ果てて、
苦手意識を増している。
          

        第一章

私の現役サラリーマン時代は、中小業の音楽業界の苦楽が激しいあるレコード会社に35年ばかり勤め、
音楽に直接携わる制作畑でなく、管理畑の情報システムの部署が多く、
開発・運営に奮闘していたので、大半は都心の本社に勤務していた。

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、
1960〈昭和35〉年の春から都心の高校に通学した。

それまでは幼年期に於いて、母に連れられ、新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりして、
階段の踊り場、そして新宿の地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりした
映画少年のひとりで、
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物の酔いで私はしょげたりした・・。

確かあの当時の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
          
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、独りで映画館に立ち寄ったりしていた。
こうした中で、『小田急デパート』が開業したり、やがて『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌し、その後に高層ビルが林立していった。

こうした中、私は読書も好きだったので、神保町の古本街に行ったり、
ときにはロードショウと称された映画の封切館で上映された日比谷の映画街なども通ったりしていた。

1964〈昭和39〉年の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。

           
        第二章

大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには新宿御苑を散策したりした。

その後、映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、芸能専門養成所のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画は益々衰退して、脚本家で飯(めし)が食えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

そして私は文学青年に転身して、契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
          
もとよりこの時代は高度成長期であったが、大学を中退し、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。
          
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店も数多くあったが、私は喫茶店を利用できる程度であった。

この当時も赤坂は、銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身の私は、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が六本木に移転したので、
この後の1992(平成4)年までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。


        第三章            

1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、三菱銀行があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。

レコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
          
こうした中、 私は1972(昭和47)年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。


この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。
          

私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。

このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力もなく、興味がないのである。
          
1992(平成4)年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策したパルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだりした後、
東急の文化村を知ったりした。

私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した程度である。
          
つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。


       最終章 

定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がない。

ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、『京王デパート』、
或いは登山、ハイキングのアウトドアの専門衣料店で買物はするが、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
          
何より気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
コーヒーか煎茶を飲みながら、家内とおしゃべりをしたり、
食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、自宅の周辺を散策したり、或いは川沿いの遊歩道を歩いたりしながら、
小公園の常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
                         

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で料理、和菓子、日本酒をほめ、仲居さんにからかわれたり、
或いは温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、
私の心は遥か彼方遠くなっている。

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ときには都心のデパートに、年金生活の私たち夫婦でも、買物に行き・・。

2013-06-03 16:27:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ一週間前の頃、家内から、
『あなたの・・夏用のシャツ・・新調したら・・』
と話しかけてきた。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職した後、
国内旅行が私たち夫婦の共通趣味のひとつであり、
確か登山・ハイキングなどのアウトドアーの専門店で、
フィールド・ジャケット、スボーツ・シャツ、長ズボンなどの冬用、スリー・シーズン、夏用は買い改めてきた。

しかし、ときには人出の多い苦手な都心などに出かけることもあり、
ときおり私たち夫婦は都心のデパートに行き、それぞれ季節に応じた衣服を買い求めてきたが、
私の夏用は3年前に買い求めたが、やはり少し古びてきたのである。

私は衣服に関しては、気に入った品を買い求め、
都心に小用、国内旅行で着たりした後、この後は平素の買い物に行ったり、
その後は私の室内着となり、最後は庭の手入れなどで長らく愛用して着る男のひとりであり、
たとえ少し高価な品でも、買い求めるタイプなので、イギリス風かしら、と微苦笑する時もある。
          
                自宅の付近に、この時節に咲く花を記念に撮った
     

そして定年退職時、170センチ、70キロだった私は、
その後の年金生活で現役時代の緊張感が無くなり、気楽な生活を過ごしている為か、
昨今は75キロ前後となり、少し肥満体かしら、と苦笑したりしている。

こうした理由もあり、ここ5年は都心の新宿にある『伊勢丹』デパートで、
《大きいサイズ≫ 取り扱っている店舗で買い求めたりしてきた。
http://www.isetan.co.jp/icm2/jsp/store/shinjuku/mens/7f_sm.jsp;jsessionid=D333D4E24716AEBC6C72F9629F4A3C5D
☆【伊勢丹 ホームページ】==>メンズ館==>7階】

私はデパートに於いては、幼年期に母に連れらて新宿の『伊勢丹』で、
その後も高校生になってからは、独りで買い物を始めて、
『伊勢丹』、『小田急』、『京王』デパートで買い求めたりしてきたので、
早や50年近くなっている。


私たち夫婦は10時過ぎに家を出て、近くの路線バスに乗り、成城学園前で下り立ち、
小田急線を利用して新宿駅に行ったが、
この経路は私の現役時代の多く、或いは国内旅行に行く時のコースであり、
自宅から40分足らずであり、この後は歩いて『伊勢丹』のメンズ館に到着した。

そして私は夏用の半袖のスボーツ・シャツは有ったので、
長袖のスボーツ・シャツを探したりした・・。

家内の薦(すす)める品もさることながら、私はワイシャツ風の綿製のお洒落着、
そして遊び着として麻製を選定し、男性の40前後の店員さんにアドバイスを頂いた後、決定した。
          
                自宅の付近に、この時節に咲く花を記念に撮った

その後、私たちは食事処で昼食をしたり、
帰路も小田急線の最寄駅のひとつの『成城学園前』で下車した後、
私は人出の多い都心は、高校生から苦楽の多い私の歩みがあり、
定年後は何かと苦手を増しているので、地元の地域に還(かえ)った、と安堵したのである。

そして路線バスに乗り、自宅付近のバス停に下りのは午後2時過ぎであった。

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都立『神代植物公園』、我が心の故郷のひとつ、この時節に訪ねれば・・【花・篇】

2013-06-02 14:58:55 | 定年後の思い
このサイトに於いて、前回は都立『神代植物公園』の樹木を見ながら歩き廻り、
私が感じた心象を綴ったが、今回は花を見て感じたことを記載する。

しかしながら私は幼年期に農家の児として育ったので、畦(あぜ)道の観られる花、草花、
田んぼの中の蓮(ハス)、宅地の片隅の花畑でダリア、ユリなど里花については、少しは解るが、
女性でたとえるならば、高嶺の華(はな)のような存在のシャクナゲ、シャクヤク、バラなどの花には無知である。

まして温室にあるランなどは、暖かな空調で育てられているので、
路地に咲く環境から程遠く、苦手な意識を今でも、私の根底にある。

このような田舎者育ちの私は、この時節に『神代植物公園』に訪れたので、
樹木ばかり見ないで、花を鑑賞しょうと歩いた。

そしてシャクナゲ、シャクヤク園を歩いたが、この中で魅了された花に足を止めた。
          
この花であったならば、齢ばかり重ねた私でも、美を感じた。
そして少し歩くと、素敵な花、と思ったりした。
          
そして無知な私は、こっそりと品種を明示されている札を見た。
           

この後、温室からの前方には、バラ園が広くあり、数多くのバラが咲いて、
多くのお方が鑑賞していた。

私はバラも無知であったので、大きな樹の近くにあるベンチに座り、
入園した入口の近くで頂いた『神代 花だより』(NO.213、平成25年5月)に於いて、
バラについて解説されていたりで、読んだりした・・。

《・・バラは、北半球の新旧両大陸を中心に広く分布する植物で、
世界に約120~200種の原種があると言われています。

バラの栽培は、古代オリエントで始まったといわれており、
薬用・香料として、ギリシャ、ローマ時代には盛んに栽培されるようになりました。

ヨーロッパやオリエント原産のバラは一季咲き(春のみ開花)で、
長い間、バラは春しか咲かないものでした。

その一季咲きまバラに、四季咲きの性質を中国産の「コウシンバラ」や「ロザ・ギガンティア」の系統が掛け合わされ、
四季咲性の現代のバラの第1号は、’ラ・フランス’といい、
このバラま作出された1867年をもって、
それ以前に作出された系統のバラをオールドローズ、
それ以降に作出された系統のバラを現代バラ(モダンローズ)といいます。

現代において栽培されているバラは、
主にこの現代バラと呼ばれる栽培品種群で、多くの品種がありますが、
この栽培品種群は、わずか8種の野生種から作り出されたものです。

その8種とは、ロサ・ガリカ、ロサ・ダマスケナ、コウシンバラ、ノイバラ、
テリハイノバラ、ロサ・ギガンティア、ロサ・モスカータ、ロサ・フォエティダです。

神代植物公園には「野生種・オールドローズ園」というバラ園があります。
このばら園には、中国や日本の代表的な野生種、オールドローズのうち、
現代バラに作出に当たり大きな役割を果たした野生種やオールドローズ、
現代のバラの第1号の、’ラ・フランス’などのバラが産地や系統別に植栽され、
現代バラの作出の歴史をたどことができます。・・》

このような解説を私は読んだか、ともかくバラを見てから、と思い、
私は30分ぐらいバラ園を鑑賞した。
          

                 

          

こうしてバラを見たりしたが、私が魅せられたのは2つのバラであった。
          
バラ園を歩いていた時、下草のように小さな薄紫色のバラに気付いた。
そして私は足を止めて、1分ぐらい見惚(みと)れた・・。
               

この後、10分後に、このバラだったならば、誰でも好かれるのかしら、と見つめたりした。
          

この後、私は無念ながら高嶺の華(はな)のようなバラには、理解できないので、
せめて秋になったら、このバラ園を彩(いろど)る数多くのバラを鑑賞しょうと思い、立ち去り、
落葉樹の雑木林を散策している中、木槿(ムクゲ)の花は咲き始めたかしらと思い、
『むくげ園』をめざして歩いた。

初夏を彩る木槿(ムクゲ)の花は、数多くの品種が植えられていたが、
この時節は早く、たったひとつの花が咲いて、しばし眺めていた。
          

この後、『神代植物公園』に隣接している『水生植物園』にある杜若(カキツバタ)は、
咲いているかしら、と思い、『水生植物園』に向かった。

途中の道沿いに紫陽花(アジサイ)に気付いて、足を止めた。
          
しかし幾えかの色合いの花で、落胆をした。
          
私が魅せられるのは、淡い紫色、透きとおる青色の色合いが私の好みであり、
まもなく立ち去った。


そして『水生植物園』に入園すると、
多くの人が菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)の咲いている周囲の歩道にいて、鑑賞していた。
          
こうした中で、私は人の多い場所を避けて、めぐり逢えたねぇ、と心の中で呟きながら、
記念に撮ったりした。
               

この後、園内は真新しい木で造られた歩道を中央に歩くと、蓮(ハス)が観えて、
私は微笑んだりした。
私の幼年期には、祖父と父が田んぼの中で、蓮の専用とした一面があり、
私は四季折々眺めてきたので、私には懐かしい状景であった。
          

その後、杜若(カキツバタ)の品種別に区分けされ、植えられている片隅の処に、
          
このような品種別の一覧表があり、この横には作付表あったりした。

そして一番はずれの面には、数多く作付されていたが、
この中でたったひとつの花が咲いて、私は眺めているうちに圧倒的に魅了された。
          

私は今回『神代植物公園』、そして隣接している『水生植物園』のこの時節の花の一部を鑑賞してきたが、
これだけ観れば、私は今宵の夢の中で、再現されると思ったした。
そして私が夢の中で、再会できる花は・・と思いながら、帰宅に向った。

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都立『神代植物公園』、我が心の故郷のひとつ、この時節に訪ねれば・・【樹木・篇】

2013-06-01 16:21:59 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
今朝、カレンダーを一枚破り、皐月の5月に別れを告げ、新たな水無月の6月に、
『ようこ~そ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

過ぎ去った5月の私の思いは、
このサイトに余すことなく心の発露として綴っているので、省略する。

私の住む地域は、気象庁が5月29日に『梅雨入り』宣言をして、
平年より12日ぐらい早く、天上の気候の神々は、せっかちな性格に変貌したの、
と私は微苦笑をしたりしていた。

今朝は燦々と雲ひとつない青空で迎え、朝の6時は15度、昼下りは25度前後、
そして夕暮れの6時は21度前後が予測され、
梅雨の間の晴れた一日となるが、平年並みの陽気かしら、と感じたりした。
          
この後、ぼんやりと6月の時節になると、
雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。

主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたし、
ほのかな妖艶と感じ受けとめている。

庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。


我が家では、無念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物、散策の時、川沿いの遊歩道の一角、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが私の好みであり、
小雨が降ったり時、散策の折、偶然に見かけると、
傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんでいる。

この時節、忘れてならない菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)は、
底知れぬ美の極致と、思いを寄せたりする。

この梅雨の時節、私なりの散策をしながら、
歴然とした美を享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
ここ7年ばかり梅雨の時節は、私なりに秘かに心を寄せている。
          

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、がく紫陽花(ガクアジサイ)等は、特に魅了される。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦がれる。

このように私は、この『梅雨』の季節を過ごすことが、平年の習性となっている。

このようなことを思い馳せていると、
私の家から徒歩50分ばかりの都立『神代植物公園』を訪ねてみょうと、
と思いたった・・。
          
雑木林のこの時節の情景、そして紫陽花(アジサイ)、木槿(ムクゲ)など、
そして『神代植物公園』に隣接している『水生植物園』にある杜若(カキツバタ)など、
咲いているかしら、と思ったりしたのである。


私は『神代植物公園』を長らく四季折々に訪ねているが、
いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあった。

この当時は神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであり、
私は1960(昭和35)年の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961(昭和36)年の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された。
          
私は中学時代は、自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を
下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

そして私がそれぞれの時期に心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過(ろか)を浄化されたりしてきたので、
私にとっては心の故郷(ふるさと)のひとつとなっている。


私は晩秋の雑木が黄色、朱紅色に染められる錦繍の時節、そして落葉の季節、
冬木立、やがて早春に芽吹きを迎える頃までは、数多く鑑賞をしてきたが、
桜が咲き、やがて初秋の頃までは、訪ねることが少なかったので、
久々に何年振りかで、この時節の本日に行って観よう、と根底にあったのである。
          

都立『神代植物公園』のホームベージに公表されている通り、
《・・現在、約4,800種類、10万本・株の樹木が植えられています。
園内はバラ園、ツツジ園、ウメ園、ハギ園をはじめ、植物の種類ごとに30ブロックに分けており、
景色を眺めながら植物の知識を得ることができるようになっています。

また、古くから伝わる日本の園芸植物の品種の保存や植物・園芸に関する催しや 展示会を開き、
都民の緑に対する関心を高めるのに一役買っています。
昭和59年には大温室が完成し、珍しい熱帯の植物が集められ、冬も彩り鮮やかな花々を 鑑賞できるようになりました。》

このように多彩な植物公園であるので、
この篇は、私が園内で観た『樹木』特集として、次回に『花』特集とする。
          

私が樹木の中で、特に落葉樹に魅せられるのは、
季節のうつろいを明晰に情景を現すことであるが、やはり幼年期に農家の児として育てられたことが、
多大に影響されている。

私は1944〈昭和19)年の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家で、
長兄、次兄の次に私は三男坊として生を受けた。

私が地元の小学校に入学する昭和26(1951)年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
          
このような情景は1951〈昭和31〉年前後から、
都心に勤められる方たちのベットタウンとして急速に変貌し、やがて住宅街となった・・。

こうした失われた情景に愛惜感を秘めている私は、
程ほど近い『神代植物公園』の雑木林に、故郷の原景に思い重ねて、歩いているのである。
          
上記に掲載した写真は、本日園内で歩き廻った雑木林の情景である。

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