夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

盆花の禊萩(ミソハギ)、私の幼年期のささやかな想いでのひとつ・・。

2014-08-17 13:54:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
午前中のひととき、脇机に置いてある茶色の書類箱を整理していた。

私は新聞、雑誌などで関心のある記事を切り抜いたりする習性があり、
年に数回ぐらいは不要と思われる記事を破棄したりしている。

今回も切り抜いた記事を不要かしら、と選定している中で、ひとつ記事を読み返してしまった・・。

《 見ごろを迎えたエゾミソハギ=山形市神尾の市野草園 》と題された記事で、
読売新聞の2010年8月10日の朝刊に掲載されていた記事であった。

無断ながら転記させて頂く。
《・・お盆の時期に満開になることから「盆花」と呼ばれるエゾミソハギの紫の花が
山形市神尾の市野草園で見頃を迎え、家族連れらの目を楽しませている。

同園によると、エゾミソハギは、高さ約1メートル~1メートル50で、
県内では山の沼辺や田んぼなど、湿地の近くに生息する。
今年は発芽後の5月下旬に気温が低い日が続き、
例年より1週間ほど遅い7月下旬の開花となったという。

現在は7分咲きで、今週中には約100株が先端まで花をつける。

子ども2人と来園した同市東青田、主婦渋谷美帆さん(34)は
「一つの茎にたくさんの花が咲き、繊細な美しさを感じる」と笑顔で話していた。・・》

私は記事に添付されてエゾ・ミソハギの写真を見たりして、
私は幼年期から見た禊萩(ミソハギ)よりも、エゾ・ミソハギは、何かしら色合いも違うようだし、
茎も高いかしら、とぼんやりと感じたりし、
やがて私が幼年期に見たミソハギの情景に思いを馳せたりした・・。
          
            ☆7月23日に『水生植物園』で撮った☆

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

こうした中で、田んぼの中には小川に流れたり、ある処には湧水(わきみず)があったり、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
幼年期の私は、何かと湧水に魅せられて、夏も冬も変ることこんこんと湧き出る水を不思議に思ったりしていた。
そしてこの湧き水は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。

初夏になると湧水の周辺は、朱紅色したミソハギの花が咲きはじめ、
そして蓮の花が莟(つぼみ)になりはじめていた。

私は父、祖父が亡くなる小学三年生の頃までの、この頃を思いだし、
記憶を頼りに思い浮かべていたのである・・。

そして父、祖父が病死される私が小学生の前半までは、毎年この時節は幼いなりに甘受していた。

7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
やがて8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

そして私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて独り楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、どうしてあんなに白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
          
              
やがて生家のお盆は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

そしてお盆の迎え火は、7月30日の夕方に行われるが、
この日の午前中には、仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、
仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、馬は祖先の霊に乗って、この世に戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉に茄子を小さく刻んだのを浮べ、
淡い紅紫色のミソハギを小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合の花などの草花を飾り、この中で蓮(ハス)の花が中核となっていた。

このような情景を思い出したりしていたが、
お盆に深く思いだされるのは、やはり蓮の花、百合の花、そしてミソハギが、
瞬時に私の心の残っている。
          

こうした心情を秘めてきた私は、生家の近くに家を建てた1978年(昭和53年)の春に、
やがて生家の長兄宅の宅地の片隅に植えられたミソハギを少し頂き、
我が家の庭に植えたのであるが、数年後の乾期の時が過ぎた時、枯れ果ててしまった。

そして私は、ミソハギに関しては、
周辺を散策して、あるお宅の片隅、或いは近い所の旧家の畑の片隅に植えられたミソハギを見かけたりするが、
やはり幼年期に見た湧水の周囲の光景が深く残っているので、違和感を感じたりしている。

その後の私は、3キロばかり離れた都立『神代植物公園』の近くにある『水生植物園』に植えられている、
蓮の花、ミソハギを観るために、
この時節に45分ばかり歩いて、過ぎ去り30数年に幾たびも観賞し、心を寄せたりしている。

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何かと愚図でグウダラな私でも、ときには『おひとりさま』の独りぼっちの生活を過ごせば・・。

2014-08-16 12:45:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身として、洗濯、掃除、料理、買物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官のように責任を果たしてきた。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もあったりした。
          

私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある・・。

こうした間、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。

こうした中で、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
このブログのサイトに毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。
                               

こうした中で私たち夫婦は、10日に一度ぐらい駅前に出かけたりして、日常の雑貨品などを買い求めたり、
年に数回はデパートに行ったりしているが、
このような時の私は、家内のボディガードそして荷物持ちのお供のような状態となっている。

こうしたありふれた私たち夫婦の年金生活に於いて、
ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と社交辞令のような言葉を頂いたりしている。

私たち夫婦は39年ばかり寝食を共にした結婚生活の中で、
お互いの欠点に目をつぶり、そして特に定年後の年金生活になると、お互いの趣味を尊重し、
それぞれの時間を『ひとりを愉しむ』時を過ごすことが多くなっている。

こうした私の根底として、こうした生活がいつまでも続けば良い、と思ったりしているが、
いずれのどちらかは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
強く思いの趣味を持てば、残された方は失墜感が少なくなると思え、
その後の『おひとりさま』の生活は少しでも心がやすらぐ、と思ったりしている。
                                  

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、まもなく10年となる・・。
               
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行っていた。
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

家内の母は、平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。

そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。

しかしながら、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。

そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
          

たまたま今回、家内は過ぎし8月13日より家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごしたりしている。
               
そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
いつも感じさせられることは、主婦はさりげない知恵と体力で日々の責務を果たしている、
と実感を深めたりしてきた・・。
          

何かと愚図でノロマの私の『おひとりさま』となっている昨今、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に5分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりした。

朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』としている。

私は何かと単細胞の為か、キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜とした後、
五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしてきた。

昼食は冷茶、インスタントのアイスコーヒーを飲みながら、
キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを食べたりしながら、フランスパンを食べたりしてきた。

夕食は2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、冷茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。
          

洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
スポーツシャツ、肌着、タオルなど2日に1回、まとめて、あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って、
心の中で呟(つぶや)くことが多かった。

日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたりしているが、
本音を発露すれば、埃が多少あっても生死に影響はない、と3日1回ぐらいとなっている。

こうした中で、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりしているが、
現役時代の業務よりも、ただちに成果が明白なるので、水遊びを兼ねて楽しんだりしている。
こうした時は、なぜかしら古き良き時代の歌謡曲をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをしたりした。
    

この間、平素のように本を読んだり、居間でビデオ棚から映画の作品を観たり、
或いは音楽棚から聴きたいCDを取りだして聴いたり、
ときには昼寝を甘受したりしてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、もとより家内のいる平素の日常生活から落第生となっている。

そして年金生活の当初の頃に、作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言を学び、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は恥ずかしながら劣等生であった私は、
やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。
          

こうした中、何かと愚図でグウダラな私でも、つたないながら過ごしている。

余談であるが、年金生活されている男性諸氏の一部の中で、愛妻にまとわりついて頼ってばかりいる諸氏、
ときには愛妻を解放して、お友達たちと数泊でも旅行でも行ってらしゃい、といったような言動をしないと、
残されて独り住まいとなった時、泣くのは諸氏である。

このような意味合いの言葉を、私は敬愛している作家の曽野綾子さんのご著書から数多く学んでいる。

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終戦記念日、無力な私は都心に向かい、2度ばかり黙祷をして・・。

2014-08-15 13:40:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
朝の6時過ぎ洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷した・・。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。

そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、都心の皇居に向かい黙祷した・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ47年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
          

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。


私はここ8年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
          
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。
          

午前11時50分、私は居間にあるテレビの前で立った・・。
もとより本日は69回目の『終戦記念日』を迎え、政府主催の『全国戦没者追悼式』が、
NHKテレビ放送でも実況中継されるので、視聴した・・。

式の当初、天皇、皇后両陛下をお迎えしている時、私もソファの椅子から立ち上がり、
背筋を正して視聴していた・・。
そして国歌を斉唱になると、かぼそい声ながらも私は唄いだした。
          
この後、安倍首相の式辞を拝聴した・・。
そして私は、首相として相応しい式辞のお言葉を発露された、と感じたりした。

この後、正午の時報に合わせて黙祷の時、私もテレビの前で、襟を正して黙祷をしたりした。

そして天皇陛下のお言葉を拝聴した後、
戦争の犠牲となった少なくとも約310万人(軍人・軍属約230万人、民間人約80万人)に対して、
改めて無力ながらご冥福を祈ったりした。

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齢を重ね気弱な私、蝉(セミ)、鈴虫(スズムシ)より、蟋蟀(コオロギ)に愛(いと)おしさを増し・・。

2014-08-14 14:49:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昼下がりの今、小庭の四方で幾種類かの蝉(セミ)が盛んに鳴いて、
今鳴かなくて何日鳴くのよ、といったように煩(うるさ)いほど鳴いている。

私は指揮者のいない混成合唱団が、まとわりつかないまま勝手に唄っている、
と思えて苦笑したりした。
          

昨日の朝、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、花梨(カリン)の枝にたわむれている。

そして私は、たわわな紫紅色の花の木槿(ムクゲ)を眺めたり、
          

或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
或いは一週間前の頃から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
齢ばかり重ねた私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。


我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように健気(けなげ)に鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

やがて夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と思ったりしているが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。
          

過日、小庭の手入れをし、草むしりもしている中、塀際の一部だけは、
鈴虫(スズムシ)と蟋蟀(コオロギ)の安住地と願いながら、あえて草は放置した。

夜のひととき、予定通り鈴虫(スズムシ)は盛大な合唱の中、
定年退職後の年金生活の中で、何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

鈴虫(スズムシ)は少なくとも平安朝の頃から、
夜のひととき月明かりの下で音色を奏(かな)で、愛されてきた・・。

私は思いを重ねるように、若き頃の私は千年の歳月も超越して確かに風流だよねぇ、
と心の中で呟(つぶや)くこともあったりした。

しかしながら、ここ10年は鈴虫(スズムシ)は盛大な合唱団の音色より、
蟋蟀(コオロギ)に愛(いと)おしさを増している。

少し遠慮しながら哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはオトナシクなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。

このようなことをここ数年、この時節の夜のひととき、思いながら過ごす時もある。

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お盆休暇の多い中、高齢者の私は、我が家で遅寝、早起き、元気な児、と過ごし・・。

2014-08-13 13:50:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、家内は掃除の合間にも居間でテレビを視聴していた。

私は居間のソファーに座り、新聞を読んでいたら、
テレビからは麗(うるわ)しき若き女性のキャスターが聴こえてきた。

《・・お盆の帰省ラッシュは、下りの新幹線と高速道路で13日が混雑のピークと予想されています。
日本道路交通情報センターによりますと、下りの高速道路では、
東名高速・伊勢原バス停付近、中央道・相模湖インターチェンジ付近、関越道・東松山インターチェンジ付近などで、
午前中に35㎞の渋滞が予想されています。

新幹線でも下りが混雑のピークです。
指定席は、東京駅から青森や秋田など東北地方に向かう列車が午前中満席となっています。
東海道新幹線でも、博多や新大阪などに向かう列車が午前中ほぼ満席です。・・》

このように報じていたので、お盆休みが始まった、と私は教えられた・・。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいるが、
私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、お盆は8月1日の変則地域で、
私たち夫婦は実家の長兄宅を訪れ、長兄夫婦、親戚の方たちと談笑した後、お墓参りをしてきた。

家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。

その上、私の両親も亡くなり、家内の父も死去し、天上の人となり、
家内の母は私より14歳の齢上で、身体は衰えあるが心は溌剌で独り住まいとなっている。

このような状況となっているので、帰省ラッシュは私たち夫婦にとっては、
遠い世界の出来事と感じたりした・・。
                    

しかしながら私は、サラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷(ふるさと)の生家に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。

この根底のひとつとして、夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の過ぎた半年を回顧したり、今後の心の整理に良いのではないか、と想像を重ねたりしていた。

こうした中で、生家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。

いずれにしても、せっかくの貴重なお盆休みの休暇の時、往還の交通は混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。

このように心情を思い馳せると、私は毎年ひとつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。

文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』であり、遊歩道を散策して、
人影のない所で、時折かぼそい声で唄ったり、或いは心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。
                    

こうした帰省される方があったりする中、
お盆休暇を活用して、国内、海外旅行をされたり、行楽地に行かれたりする方も多いと思われる。
私も現役サラリーマン時代は、家内と国内旅行をすることが多かった。

或いはお盆休暇も関係なく、通常通り働いて下さる諸兄諸姉も折、
何かと大変ですね、と私は感じたりしている。
          

私は年金生活を過ごしているので、もとより原則として毎日が日曜日の気楽な身分となっているが、
ここ3日ばかり、遅寝、早起き元気な児となり、過ごしている・・。

朝は4時少し前に起床して、新聞が配達されるまで、ネットでニュースを見たり、
ブログ上で愛読している方の投稿文を読ませて頂いたりしている。

やがて家内と共に朝食をした後は、新聞の朝刊をゆったりと読んだりし、
10時過ぎた頃に、平素の買物専任者の私は、独りで毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策している。

帰宅後は昼食をしたりした後、ブログの投稿文を綴り送信したりしている。
その後は殆ど買い求めてきた本を読むことが多く、深夜まで読書ねぇ、と過ごしたりしている。

今回、机の片隅に置いてあるのは、月刊総合雑誌の『文藝春秋』(9月特別号)、『中央公論』』(9月特別号)であり、
単行本は、本屋で見かけて敬愛している作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)・著作の『年をとったら驚いた!』(新講社)、
そして北海道新聞社・編集の『聞き書き 倉本聡 ドラマ人生』(北海道新聞社)の4冊となっている。
          

もとより月刊雑誌は旬もあるので、優先的に読ンだりしているが、
敬愛している両氏を読みたくて、深夜まで読書の時間となったりしている。

このように高齢者の私でも、早起き遅寝の悪い癖が3日ばかり続いている。
こうした中、夕暮れ時は眠くなり、洗面所に行き顔を洗ったりした後、読書をしている。

しかしながら現役サラリーマン時代だった時と違うことは、
いざという場合は年金生活の特効薬として昼寝もできるので、
何よりの読書こそが思索を深める時間だ、と思いながら我が家でのんびりと享受している。

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ブログを書いている人は認知症になりづらい、と学びながら、高齢者の私は微笑み・・。

2014-08-12 13:55:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は現役サラリーマン時代の58歳の時に、同僚が難病で死去されたり、
定年後の2年過ぎた頃、私より健康溌剌の2歳先輩の方が、突然に病死されたりし、
昨今、長寿社会といわれても、60代でもこの世とお別れする方もいるのである。

このような心情を秘めてきた私は、せめて60代は五体満足で生かしてくれ、
この後の70代は余生と思ったりしてきた・・。
そして認知症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

こうした中で、何よりも私が恐れているのは認知症であり、
ひたすら自宅の周辺3キロ範囲の遊歩道、小公園などをほぼ毎日歩き廻ったりしている。
                    

昨夜、ネットでニュースを見ている中で、
【公務員や教員は認知症になりやすい!?】と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックしてしまった。

そして読んでいる中、『週刊SPA!』に於いて、8月11日に配信された記事であり、
働いて下さる現役の諸兄諸姉向けの記事であったが、多々教示を受けたりした。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140811-00673145-sspa-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
       <==『週刊SPA!』<==『公務員や教員は認知症になりやすい!?』

こうした記事の中で、認知症専門医の長谷川嘉哉・医学博士のアドバイスに寄れば、
《・・(略)・・「ずっと脳に与えられてきた刺激が突然途絶えるのも、認知症のトリガー(注・要因)になります。(略)
かように、脳は絶え間ない刺激を求めている。・・(略)・・

読書や映画観賞によっても扁桃核は刺激されますが、重要なのはその刺激をアウトプットすること。
感想を人に話すのもいいですが、ブログに書くのはさらに効果的。

ブログを書くことの利点は、次なるネタ探しのためにインプット用のアンテナが立つことで、
このスパイラルが脳に効くんです。
ツイッターでさらっと流すだけでは、こうはいきませんよ・・(略)・・」》
          

このような《ブログを書くことの利点》を学び、ブログを書き続ければ認知症になりづらい、
と私は解釈して、微笑んだりした。


私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

       
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
          
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、筆力が乏しいながら
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

そしてブログの投稿文の長さは、世間が何かと多忙の為か、
原稿用紙の2枚の800字ぐらいの短き投稿文が好評されている、と私は学んだりしてきた。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になることが多いのである。

そして投稿文を送信した後、何かと言霊(ことだま)に対する自己格闘が甘く、文章修業が足りないょ、
と反省することが多く、いつになったら随筆風の散文の投稿文が書けるの、
と項垂(うなだ)れたりしている・・。
                             
           
こうした中で投稿文を重ねてきたが、ときには昨年の今頃はどのように感じて過ごしていたのか、
或いは年金生活の始めた頃は、どのような思いで過ごしてきたのか、
投稿文を読み返して、微苦笑したりする時もある。

この間、コメントを頂き、私は悦びながら返信を数多くしてきた。

そして多くのお方の投稿文を読ませて頂き、
たとえば日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに、圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

        
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。

          
こうした中、数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、
そのお方にコメントをしたりしている。
               
       
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

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年金生活を始めると、私はケチな性格に変貌して、早や10年生・・。

2014-08-11 15:02:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

       
年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
そして散策し帰宅後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしている。

こうした間、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。
                    

このような年金生活の中、私は平素の買物専任者とあり、買物をする前に、
家内は新聞の折込みチラシのスーパー、ドラッグ・ストアーなどに、
家内は赤のサインペンで丸印し、これが我が家の当日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、
たとえばインスタント・コーヒーなどが、『お一人さま、一点限り』、
そしてティシュ・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』などを見たりすると、
なぜかしら私は微笑んでしまうのである。


我が家は恥ずかしながら自動車もなく、私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。

そして私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
               ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
                ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

こうして最寄りの店は徒歩で10分前後、
或いは駅前の店であったならば20分前後の道のりを歩き往復しているのが多い。


我が家は住宅街のはずれに古ぼけた一軒家に住み、小庭の樹の剪定は、
ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流でしているのが定年後の実態である・・。

                   
私が定年前は、5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに50万円前後を要してきたので、
この間は私が物真似て剪定してきた。
そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
          

私は民間会社に35年近く私なりに奮戦したサラリーマン時代の時は、
恥ずかしながらインスタント・コーヒーなどの日常品の価格は無知であった。

私は中小業の会社で月曜日から木曜日まで、時間無制限のように奮闘して、
金曜日ぐらいは早めに退社して、7時半過ぎから仲良しグループ、或いは親睦会、歓送迎会などで、
呑みながら、交流を深めることが多かった。

そして私の40代の頃は、血気盛んであったので、殆ど二次会は参加した後、
自宅の最寄駅で独りで居酒屋などで、週末の祝杯をして、タクシーで帰宅したりしていた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったことは人生の誤算であったが、
私たちの同世代の男性の多くは、夫は一家の主(あるじ)として程ほどの収入を得て、家計の責務を負い、
妻は専業主婦で何かと後方支援に努めてもらう典型的なサラリーマン家庭であり、
私もこうした方たちと時代を共にしてきた。
         
                        
昨今の私は目指したスーパーなどで、家内の要望品を買い求めて帰宅した後、
なぜかしら『お一人さま、X点限り』が気になり、
もう一度、あのスーパーに行って買ってくる、
と私は家内に言った後、再び買い求めるために、スーパーに向うこともある。

我が家の家計の収入は、私たち夫婦の年金の厚生年金と企業年金であり、
もとより定額か五年毎に見直しで減少の傾向がある上、
この他の程ほどの国債、定期貯金の金利は、信じられないくらい低利であるので、収入は限度がある。

そして程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな生活をしているが、
もとより貯金は確実に減少してきたので、こうした真情のせいか、
私は年金生活をしていると、現役時代から大きく変貌して、
気弱で小心者の私は『ケチ』の性格に変わり果てた、と苦笑する時もある。
                          

本日も台風一過の後、陽射しが燦々と照らし、風も強く吹く中、
2店ばかりの買物の責務を終えた後、
我が家の片隅にはインスタント・コーヒー、ビールなどの趣向品や調味料など、
或いはティシュ・ペーパーなどの保管場所を見ながら、
これでしばらくは我が家の安全基準在庫だ、と私は微笑んだりする悪い癖となっている。

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ネットの世界は「弱者の強者化」と学び、年金生活の私は微苦笑して・・。

2014-08-10 13:01:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

         
    
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活の日々の思いのことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

          
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          
               
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
         
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

こうした中で、先ほどネットで各種のニュースを見ている中で、
【ネットで賢く生きる方法 SNSでいかに自分が弱者かアピール】と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックしてしまった。

私は齢ばかり重ねても、好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と信念のある身なので、
この記事を精読したのである。

この記事は『NEWS ポストセブン 』の8月9日(土)に於いて配信された記事であり、
無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

《・・ネット社会でどう生きるかは多くの人にとって重要なテーマだ。
ネットニュース編集者の中川淳一郎氏はこうアドバイスする。

2014年、ネットで賢く生きる方法を紹介しよう。
【1】いかに自分が傷ついたかをアピール
【2】いかに自分が弱者であるかをアピール
【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことの3点だ。

これをネットでやっておけば、まぁ、強い強い! 【1】~【3】のコンボを出されてしまったら、もはや勝てない。
「弱者の強者化」である。
【1】、【2】については、持病があること、貧乏なこと、父親からDⅤを受けたことなどを
SNS等のプロフィール欄などに書いておくことが重要だ。
これにより「弱者様」になれるし、この方々を批判すると人でなし扱いされ、
「彼女は心の傷を負ってるんですよ! 彼女に謝ってください!」なんて話になる。

(略)重要なのは、自分の努力ではどうしようもならないことを書いておくことです。(略)・・》

このような3つのネット上の哲学のような記事を読み終わった後、私は微苦笑してしまった・・。
          

これまでの私の多くの投稿文の中には、、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。
たとえば
◎母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった。
◎私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
◎或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
 ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、私たち五人の子供は成人したこと。
◎又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

◎そして私自身の場合は、幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であった。
◎大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、新人賞に3回応募したが落選し、やがて敗退したこと。
◎或いは定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
                    

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、間接的な意味合いからして同じかしら、と思ったりしている。
       
このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名した。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。

そしてこのように私は、これまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思い発露してきたのである。

このようなことであるが、上記の【1】、【2】には該当しない、と思ったりしている。
          

悩ましいのは、【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことである。

私の場合も専門知識のなく疎(うと)い身ながら、ときおり政治、外交、軍事、経済、社会の出来事を綴ったりしてきた。
しかしながら、一時的な感情だけで吐露(とろ)し、後で後悔することが多かったりしてきた。

その上、心の奥に感じてきた危険な事柄は、心の節度として抑止してきた。
たとえば、
◎XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
◎XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
◎社会を震撼させる卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、

このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、心の節度して平坦な発言の投稿文となってしまうことが多かった。
          

しかしながら余りにも政治家が心の節度が欠けたと感じた時は、幾たびか投稿したこともあった。
過ぎ去り年、民主党は衆議選の公約のひとつとして、基地を県外移設などど掲げて、政権の交代をした後、
やがて鳩山政権の中、『普天間基地の移設問題』も混迷していた時であった。

【鳩山首相、5月4日沖縄訪問の時は、『沖縄県民の前で土下座をする責務がある』】
と題して2010年4月30日、投稿したりした。
今回、あえて一部を再掲載する。

【・・今回の『普天間基地の移設問題』に関しては、ときおり注視してきた。
このことはこのサイトに於いても綴ってきたので省略するが、
何よりも鳩山首相の言動に困惑してきたひとりである。

国の根幹となす防衛のひとつの『普天間基地の移設問題』であるが、
沖縄県民はもとより国民の多くを愚弄してきたことは罪は重く、国際の主要国もあきれ果ている現状である。

鳩山首相がそれなりに沖縄に対して深い思いがあるならば、
就任後、いち早く関係国のアメリカはもとより、国内の関係者に働きかけるべきであり、私は不可解であった。

今回、昏迷している『普天間基地の移設問題』を解決する第一歩として、
沖縄訪問の際は、少なくとも沖縄首脳陣の方たちはもとより、数多くの県民の前で、
少なくとも土下座してこれまでの昏迷したことにお詫びする・・、
これしか私には対応策として浮かばないのである・・。

今回のような迷走となっている場合は、鳩山首相が沖縄に下り立った時、
たとえ警察官の守られながらも、県民の多くから石を投げつけられてやむえない現状であるので、
せめて鳩山首相ができることの第一歩として、
ひたすらお詫びを重ねながら土下座をし、スーツが泥まみれになっても、
こうした言動こそ私は切望するのである。・・(略)・・】
          

こうした投稿をしたのであるが、今回の【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことである、
該当するかしら、と私は苦笑してしまった。

たかがブログ、されどブログの投稿文の内容は、ときには気楽でなく、真摯で苦渋する時もある、
と高齢者の私は微苦笑したりしている。

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『長崎の鐘』の歌、高齢者の私は西の空に向かい、心の中で唄い・・。

2014-08-09 10:13:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、洗面した後、玄関の軒下に下り立った・・。

どんよりとした曇り空の中、朝涼を感じ台風の影響かしらと思ったりした後、
襟を正して、西の空に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄っていたことに気付いた・・。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

          
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、冷酷にも人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の本日『長崎被爆』、
そして15日の敗戦となった『終戦記念日』は、二十歳過ぎに自覚して、これ以来黙祷を重ねている・・。

そしてかの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信して、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
          
そして本日の9日、長崎市は69回目の「原爆の日」を迎える。
平和公園(長崎市)で開かれる平和祈念式典は午前10時35分に始まり、
被爆者や遺族の代表、安倍首相ら政府関係者、各国大使らが出席し、
原爆投下時刻の同11時2分に全員で黙祷を捧げることとなっている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


私は過ぎし2009年(平成19年)2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代に、
多くの同級生と共に強制的に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私たち夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、2月にしては暖かな陽射しの中を独り歩いたりした。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
          
永井隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。


私は東京の郊外で農家の児として育つ中、
1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
母に連れられて、私は生まれて初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも心の片隅に残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。


私は長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時代を含め、この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、
責務として数多く撮った結果、当人の永井 隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20年)6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆(ながい・たかし)氏は、この当時は妻子がある身で、
この時に妻に自身の余命を告げるのであるが、この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。

その後は、9日の当日、爆心地からほど近い長崎医大の診察室にて被爆し、重傷を負いながらも救護活動にあたり、
やっとのお思いで10日、独り残した妻(ふたりの子供は疎開させていた)の元に帰宅すれば、
焼けただれて崩壊した家の台所跡で、骨片だ程近い状態となった遺骸を発見する。

そして妻の愛用していたロザリオで、遺骸は妻と判明し、その骨片を拾い埋葬する。
その後、救護班を組織したりし、被爆者の救護に専念する・・。
          


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井隆(ながい・たかし)氏の軌跡に、
圧倒的に感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・この子を残して・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・》
               
『平和塔』の書物の『如己堂(にょこどう)』と題された中に於いては、
《・・如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ無力な私としては、これしか言葉にできない。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
               

私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
               
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ66年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。

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『立秋』が過ぎ、我が家は秋の予定を思案を始めて・・。

2014-08-08 16:54:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
昨日の朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『立秋〈りっしゅう〉』と明示されて、秋に入る日、と教示されても、
もとより暦(こよみ)の上での旧暦のことであり、何かと暑さに苦手な私は微苦笑した・・。

この後、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、花梨(カリン)の枝にたわむれている。

そして私は、たわわな紫紅色の花の木槿(ムクゲ)を眺めたり、
              
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
或いは一週間前の頃から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は27度、昼下がりは34度前後、夕暮れの6時は30度前後で、
快晴の一日と表示されている。
そして、この先の一週間は台風の影響で、幾分涼しくなるかしら、微苦笑したりした。


今年の夏は平年より熱く、35度前後の日々が多く、何かと暑さに苦手な私は、どうしてなのょ、
と天上の気候の神々の采配に戸惑い、ときおり青空を見上げたりしていた。

そして私は高齢者5年生で、何かと単細胞の性格なので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は、お互いに熱中症に気をつけましょう、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

   
            この夏季の長き日々、我が家の小庭は、数多くのアメリカン芙容が咲いている。

我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように健気(けなげ)に鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。
               
いずれにしても立秋を過ぎれば、『暑中お見舞い申し上げます』に別れを告げ、
『残暑お見舞い申し上げます』と先人の人たちが、時候の挨拶として伝えられているが、
私は暑さに苦手な身なので、余り熱くならないでねぇ、と青空を見上げて、懇願しているのが、
昨日の日中のひとときであった。


こうした中で、昨日の夕食の時、私は家内に、
『秋になったら・・庭の手入れを頻繁(ひんぱん)にして・・秋の装(よそ)い相応(ふさわ)しいようにするよ・・』
と私は何か小庭の手入れにサボってきたことに、言い訳も言ったりした。

この後、『久々に秋の旅行でも行こうか?』
と言ったりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希(こき)と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、何かと雪舞い降る旅が好きで、
幾たびも冬の時節に旅を重ねてきたが、落葉樹が朱紅色、黄色に染められる錦繍(きんしゅう)の旅路は、
数えるばかりとなっている。

たまたま私は古希(こき)入門、家内は高齢者入門となるので、
ささやかな記念の旅路を漠然と私は思案したりしてきた。

私たち夫婦は海外旅行が苦手なので、やはり家内の好みの源泉のある観光ホテルで、
ゆったりと滞在して、周辺を歩き廻るのが最適かしら、と思ったりしてきた。

この後、私たち夫婦は錦繍(きんしゅう)の時節に、いつの日にか訪れたい源泉の観光ホテルで、
8か所ばかり選択して、やがて3箇所を選定したプランを話し合ったりした。
                    

本日の日中のひととき、私たち夫婦は駅前で買物をした中、
ときおり利用している旅行代理店を訪ねた。
そしてある観光旅館に3連泊、次の観光旅館に1泊、その後の観光旅館に3連泊の旅程を相談したら、
最終の観光旅館だけは3連泊は叶わず、2連泊となった。

こうした中、家内は3連泊は叶わず落胆を深めたりしたが、
『この人生は・・ときには妥協も必要・・』
と私は苦笑しながら、家内に小声で言ったりした。

そして私は、特に最終の観光旅館は、錦繍(きんしゅう)の時節に人気が高く、
30数年前に作家・嵐山光三郎さんが随筆で描かれた為かしら、と微苦笑したりした。

『立秋』が過ぎた今、我が家は秋の予定を少しづつ思案を始め、
果たして、今年の錦繍(きんしゅう)の情景は・・と思い馳せたりしている。

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『介護予防問診票』が配達され、高齢者69歳の私は、やがて微苦笑して・・。

2014-08-07 11:24:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          
          
昨夕、私は門扉の近くにある郵便受け入れ箱を開けると、
A4サイズの封筒が入っていたので、取りだして見たら、
私の住む調布市の福祉健康部高齢者支援室より、『介護予防問診票』在中、と明記されていた。

そして居間に戻り、開封したら、
『介護予防のための問診票』と題されて、要旨が明記されていた。

《・・調布市では65歳以上の偶数年齢の方に、介護を要する状態になることを防ぐ介護予防のための問診を
介護保険法に基づき行います。
今回は8~11月にお誕生日をむかえる方に送付しています。

表面の介護予防問診票(基本チェックリスト)にご記入の上、
下記の期日までに同封の返信用封筒でご返送ください。(略)・・》

こうした文面の下に、備考のひとつとして、
《・・すでに要支援(1・2)、要介護(1~5)の介護認定を受けている方は対象になりません。・・》

こうした文面を読んだ後、確か私が68歳の誕生日の前に、
介護予防問診票(基本チェックリスト)を記載して、送付したから、2年ぶりだよなぁ、
と思いながら、今回の介護予防問診票(基本チェックリスト)を見たりした・・。
          

そして問診の項目は32項目あり、読んでいく中で、微苦笑させられたりた。

例えば、《 階段を手すりや壁をつたわらずに上っていますか 》、
《 15分位続けて歩いていますか 》、
《 週に一回以上は外出していますか 》、
《 自分で電話番号を調べて、電話をかけることをしていますか 》


私は定年後の年金生活を始めた当初から、自主的に日常の買物の専任者となり、
家内から依頼された品を求めて、殆ど毎日行ったりしている。

最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしていることが多い。

このような状況の為、上記の問診の項目の回答には、論外かしら、と微笑んだりした。
          

いかしながら《 今日は何月何日かわからない時がありますか 》
この問診には、苦笑させられたりした。

私はまもなく年金生活10年となり、何かと日常の緊張感が無くなり、曜日の感覚が薄らいで、
朝方にカレンダーをぼんやりと見たりすると、今日は金曜日かょ、
或いは13日かょ、と独りで苦笑する時もある。

確か2か月前、郵便局で振込み依頼をした時、
所定の書類を私は記入していた時、年月日の記載項目があった。

そして私は日付の処で、10日・・11日か確信できず、迷いながら、
窓口の担当者のお方に、
『本日は全国的に・・11日ですよねぇ?』
と私は訊(たず)ねたりたりした。

『お客様のおしゃる通り・・6月11日です。』
と窓口のうら若き担当者のお方は、微笑みながら応(こ)えて下さった。

このような恥ずかしい体験があったので、
この問診の回答欄の『はい』か『いいえ』には、微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮闘し、2004年(平成16年)秋に定年退職した。
そして多々の理由で60歳より年金生活を始めたが、
高齢者入門の65歳の頃から、体力の衰えを実感している。

現役サラリーマンの時代は、数多くの諸兄と同様に睡眠時間を削りながら奮戦してきたが、
年金生活をしている中で、緊張感も薄らいで、ときおり微苦笑する時もある。

こうした中で、私は幸いにも介護制度の要支援、要介護のお世話ならず、
介護保険料は程ほどの額を厚生年金から差し引かれて支払っているが、
何とか健康の身のひとりとなっている。

もとより心身ともに自立し、健康的に生活できる期間を健康寿命と称せられているので、
果たして・・いつまで・・ときおり思案したりして、ひたすら歩くことが多いのである。

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『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、恥ずかしながら7年前に教示され・・。

2014-08-06 07:05:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の5時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
          

本日は、69回目の原爆の日を迎える。
そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、安倍首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなっている。


私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして47年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
          


こうした中で、『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、と私は学んだのは、
恥ずかしながら7年前であった。

私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004年〈平成16年〉の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、独り住まいの生活をされて、まもなく10年となる。
そして特に家内の母が独り住まいの生活をされた頃からも、
私たち夫婦は家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた。
              
こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、
私たち夫婦と家内の母と3人で、過ぎし2008年(平成18年)2月中旬の時に長崎を訪れた。


家内の母の根底には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代、
多くの同級生と共に軍事工場で労働にした身である。
この当時の日本は敗戦にたどる時期、殆どの国民は幾たびか空襲の中、悲惨で過酷な時期であった。

こうした家内の母の体験もあったので、特に独り住まいとなった頃から、慰霊の心情を深めてきた。
そして私たち夫婦は、家内の母と共に沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』などの旅を重ねてきた。


そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

私は旅立つ前に、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、2月にしては暖かい陽射しの中を独り歩いたりした。
               

やがて『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。
           

こうした中で私は年金生活をしている今、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

そして永井隆・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』の関係する本と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』に関連する昭和近代史に関しては、
数多く乱読しているが、今回は省略する。

このような私の真情から、永井隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思いながら、早や7年が過ぎている。

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『日記を書くメリット』を学び、ブログ10年生の私は、微笑み返して・・。

2014-08-05 14:49:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。
          
                    
私が定年退職する数ヶ月前、遅ればせながら我が家に於いてインターネットを開設した。

この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後から自由な時間のひとときにすればよいと思いがあった・・。
         
私は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑としてコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の進化した環境には、驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
          
                             
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかし無念ながらホームページのソフトを購入して開設までの技量に乏しく、
更に無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

          
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活の日々の思いのことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

          
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
          

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
           
私は文章を綴ることが好きなので、ブログの世界を知る前に日記形式で綴っていた・・。

若き20代の頃は、原稿用紙のように升目のある分厚い日記帳、
その後は原稿用紙のノート型で綴ったりしていたが、いずれも手書きであった。

やがて40代の頃からは、自宅に備えたワープロで入力し、フロッピー・ディスクに記憶させたりしていた。

これ以前として、私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983年(昭和58年)の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。

         
やがて1998年〈平成10年〉夏に、会社と自宅で使う為にパソコンを買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。
そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは『日記』専用のソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。
          

しかしながらこの『日記』専用のソフトは、ハードディスクに記憶されて、
無念ながらバックアップの方法は、私は無知であった。
          
こうして3年過ぎた頃、このノートパソコンのハードディスクが壊れて、
修理にだしたが、無念ながら修整不能となり、やむなく新品のハード・ディスクに交換した。

この間、私は過ぎ去った日々の思いの散文が消え去ってしまったことに、茫然とした・・。
あの日の思いを真摯に綴ってきたのに、どうしてくれるのょ、と自身に対して、じくたる思いであったりした。
          
もとより私はハードディスクは故障することもある、と知ったりしていたが、
まさか我が身のノートパソコンが・・と思いで、後悔を重ねたりした。
          

こうした苦い私の出来事があり、インターネットの中に於いてのブログの世界は、
私が数多くの投稿文を重ねても、プログを管理して下さる処理先のサーバーで記憶しているので、
たとえ私のパソコンを買い替えても、投稿文の先のサーバーで保管されているので、
簡単に復旧でき安心である。

しかし年に数度は、ネットの世界は不可解な出来事もあり、
プログ管理側のサーバーが万一故障し、修整不能となった場合に備えて、
私は加入ている【gooブログ】のバックアップ機能を活用し、バックアップをしたりしている。

こうした心情の根底には、10数年前に『日記』専用ソフトが消えてしまった苦い体験から、
保険代わりに実施しているのである。
          
               
                  
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。
                        
       
このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

         
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

                   
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

          
その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
          
                                              
こうした中で、『にほんブログ村』に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

          
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
          
                                             
先程、ネットの公式サイトで【初心者のための日記習慣】と命名されたサイトにめぐり逢えた・・。
この中のひとつの課題として『日記を書くメリット』を読んだりした・・。
《・・
◆思い出をいつまでも保存しておける

人間の記憶というものはいい加減なもので、大切だとおもっていた思い出も
月日が流れるうちにいつの間にか曖昧になり、やがては忘れてしまうものです。
日記を書くことで後から当時の自分を振り返ったとき、
忘れかけていた想いを思い出すきっかけとなったり、自分の自信を取り戻す機会になることさえあるとおもいます。
          

◆気持ちの整理ができる

文章を書くにはある程度冷静にならなければ文字にすることができないので、
日記を書くという行為によって、客観的に自分を見つめることができます。

一日の終わりに自分を見つめ直すことは、今日やるべきことがやれたか確認できたり、
将来の目標に近づくために自分が行動できていたかチェックする機会にもなります。

結果的に昨日より今日、今日より明日、とより魅力的な自分に成長するきっかけにもなります。
楽しかった思い出はいつまでも残しておくことができるし、辛かった思い出も、文字にすることで少し心が落ち着き、
文字におこすことで、思い悩んでいたほどたいしたことがないことのように思えることもあるでしょう。
          

◆自分の成長が実感できる

日記に記録しているときは自分にとって何気ない日々の一部だったりしますが、
何年も経って読み返すととても貴重な時間だったことに気づく方もいらっしゃると思います。

書いている自分は月日の流れとともにいい意味でも、悪い意味でも変化していきます。
物事に対する捉え方であったり、その人に対する気持ちであったり…。
日記を続けることで、そういった自分の変化を実感することもできます。・・》
          

このように60歳前後の女性の方が、過ぎ去り人生に愛惜を重ねるように綴られたと思われるが、
確かにそうですよねぇ、と微笑み返しのように、同意させられたりした。
   

        
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

          
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熱中症より怖いのは “夏血栓”と学び、高齢者の私は戸惑いながらも・・。

2014-08-04 15:43:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
家内からの依頼品を確認した後、最寄りのスーパーに向った・・。

そして夏季の制服のようになった半袖のスポーツシャツ、長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、
ウォーキング・シューズで足元を固め、
そしてB5サイズのバックを斜め掛けにして颯爽と歩いたりしてきた。
          

しかしながら熱いこの時節は、燦々と陽射しが照らす中、歩いたりすると汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりし、
ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりした。

そして体力の衰えた私は、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励したりした。

この後、買物の責務を終えた私は、近くに流れる野川の両岸にある遊歩道を30分ばかり歩き、
夏の情景に心を寄せたりしたが、熱中症が怖くて、帰宅に向った。

ここ3週間ばかり熱いこの時節の午前中、このように準じたことで過ごしている。
          

家内と共に昼食代わりの素麺(そうめん)を居間の食卓で頂いた後、
エアコンの冷気の中、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【この夏、熱中症より怖い! “夏血栓”って知ってます?】と見出しを見て、
夏血栓って・・どういうことなの、と思いながらクリックしてしまった・・。

何かしら若き男性向けの『週刊プレイボーイ』に掲載された記事のひとつで、
『週刊プレイボーイNEWS』としての7月28日に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・関東地方も「梅雨明け宣言」が出され、ついに夏本番を迎えた日本列島。
そんなときに気をつけたいのは「熱中症」だが、もっと怖い障害が起こり得ることをご存知だろうか。

それが「夏血栓(なつけっせん)」だ。
つまり、夏に起こりやすい血栓だから「夏血栓」。
          

まずは血栓のメカニズムについて、池袋大谷クリニック院長の大谷義夫医師に説明してもらおう。
具体的には、夏に起こる心筋梗塞(しんきんこうそく)や脳梗塞(のうこうそく)、肺血栓塞栓(そくせん)症などだというが、

「血栓は、イメージとしては水道管などの曲がっている部分やふた股などに分かれている部分に
さびができたりゴミがたまったりするのと同じです。
血管の中に、血液に含まれるタンパク質や血小板などがたまってしまうのが血栓です。
これは誰にでも起こり得ます。

そして、この血栓の塊がはがれて血管の中を流れ、脳の細い血管に詰まって、
そこより先の細胞が壊死(えし)すれば脳梗塞になります。
心臓に詰まれば心筋梗塞になり、肺に詰まれば肺血栓塞栓症になるわけです」
          

血栓ができやすい要因は大きく分けて3つあると大谷医師は言う。

【1:血管が障害を起こしている】
高血圧や脂質異常症、糖尿病などによって、血管の内側が傷ついているときなど。

【2:血流が悪い】
飛行機やクルマなどの狭い座席に長時間同じ姿勢で座ったりして、血管が圧迫されているときなど。

【3:ドロドロ血】
脂質異常症や脱水症状などで、血液の成分がドロドロになっているときなど。

そんな血栓が夏に起こりやすいのは、熱中症と同様に、脱水症状が関係している。
          

夏血栓の予防を呼びかけている日本ナットウキナーゼ協会の原弘之氏が語る。

「冬の血栓症は暖かい部屋から急に寒い室外に出たときなど、
急激に血管が収縮し、血流が早くなって血栓がはがれ、脳や心臓の血管に詰まることが多いといいます。

一方、夏血栓は脱水症状などで血がドロドロになることが主な要因です」

もちろん、ドロドロ血に加え、長時間同じ姿勢をして血流が悪くなれば危険度はさらに上がる。

「トラックの運転手の方やデスクワークの方など、何時間も同じ姿勢でいると肺血栓塞栓症を発症しやすくなります」(前出・大谷医師)

また、外回りでなくデスクワークだからといって安心していると、
エアコンの風のために汗をかいた自覚がなくても、知らないうちに脱水症状になっていることもある。

つまり、夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある、ということだ。

しかも、そこで間違った処置をしてしまうと命を落とす危険が一気に増す。

「例えば、急性肺血栓塞栓症と診断が確定され治療した場合の死亡率は、2%から8%ですが、
夏血栓とわからず適切な治療が行なわれなかった場合の死亡率は、30%に上ります」(大谷医師)

やっかいなのが、素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。
          

「熱中症の場合は、体を冷やすなどの処置をしますが、
脳梗塞などの場合は血栓を溶かす作業をしなくてはなりません。
判断を間違えたために障害が残ったという症例もあるようです」(前出・原氏)

そのため、熱中症だと思って日陰で休んでいたら、突然、死んでしまうという恐れも……。

「急性肺血栓塞栓症の死亡例の40%が、発症1時間以内の突然死です。
症状は発熱、冷や汗、動悸(どうき)、咳、呼吸困難、胸の痛み、血痰など。
もし苦しいと感じたら、自分で判断しないで早めに病院で検査を受けたほうがいいでしょう」(大谷医師)


では最後に、夏血栓の予防法、ズバリ教えてください!

「日頃からドロドロ血にならない食べ物を取るのも大切です。
例えば、納豆に含まれているナットウキナーゼは血栓を予防する効果があります」(原氏)

「とにかく同じ姿勢でいないこと。そして脱水症状にならないようにこまめに水分補給をすることです」(大谷医師)
(取材/村上隆保)・・》
          

私は恥ずかしながら「夏血栓(なつけっせん)」は、初めて学んだ。
そして何よりも怖いのは、《夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある》、
《素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。》
その後の処置、治療を誤れば・・怖い、と感じたりした。


私は過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、
大幅に改善されている。

お酒大好きなの呑兵衛の私は、日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとしてきた。

この間、最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は朝夕の食事を頂く前に、大皿にキャベツを中心とした野菜の盛り合わせを頂く習慣が、
ここ4年ばかれ続いている。
          

そして殆ど毎日、買物に行ったりしているが、いずれの方面の路線バスの利便性は良いが、
年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら日々歩いている。
          

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄うこともある。

今回の夏血栓(なつけっせん)を学び、改めて歩き、よく寝て、程ほどに食べて・・
日々を過ごせれば・・と思いを深めたりしている。

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家庭用ルーターのサイバー攻撃を知り、ネット技量も乏しい高齢者の私は、戸惑い憂い・・。

2014-08-03 13:56:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えないので、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
          

こうした中で、昨日の2日の朝も、いつものように購読している読売新聞の朝刊を開いた時、
一面のトップに於いて、《 ルータ―攻撃 ネット障害 》、
《 家庭用を標的 》、《 480万世帯、一時不通 》こうした見出しがあり、
どのようなことなのょ、と私は記事を精読してしまった・・。

やがて記事を読み終えた後、ネット技量も乏しい高齢者の私は、戸惑いながら憂いたりした・・。

この詳細記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の中のひとつのニュースとして掲載されていたので、
無断ながら転載させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/it/20140801-OYT1T50196.html?from=yartcl_popin
☆【YOMIURI ONLINE】==>【IT&メディア】
      ==>8月2日3時34分配信『初心者ハッカーも可能、ルーター攻撃多発』☆

私はこの記事を読む途中で、ルーターについての解説文を読んだりした。
《インターネットで通信する際、パソコンやタブレット、スマートフォンなど複数の端末を同時に接続できる機器。
無線電波を発する無線LANルーターなどがあり、家庭用は数千円から2万円程度で販売されている。》
と読んだりし、
図表の『ルーターを狙った攻撃による通信障害』を見たりした・・。

そして原因と内容として、《・・一部の家庭用ルーターが、本来受け付けない外部からの通信に応答してしまう弱点を悪用し、
攻撃者がそのルーター経由でプロバイダーのサーバーにデータを送ると、
データが数十倍に増幅される。
これを繰り返してサーバーに過大な負荷を与え、ネット利用を一定期間できなくさせる・・》
          

そして具体的な通信障害の実態として、
《・・今年5月末以降、この攻撃による通信障害を明らかにしたプロバイダーは、
ジュピターテレコム(JCOM、東京都千代田区、利用者282万世帯)、
ケイ・オプティコム(大阪市、150万世帯)、
アルテリア・ネットワークス(東京都港区、56万世帯)、
DTI(渋谷区、非公表)などがある。

このほか昨年8月には、NTTコミュニケーションズ(千代田区)が運営する最大手の「OCN」(815万世帯)でも、
約40分間にわたってネット利用ができなくなった。・・》

私は何よりも驚いたのは、《・・この攻撃は「DNSアンプ攻撃」と呼ばれ、
大量にデータを送りつけてサーバーを使えなくするDDoSディードス攻撃の一種。
・・高度な技術を必要としないため、初心者ハッカーの腕試しではないかとみられている。》
であった。
          

私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で無知であるが、
せめてと思いながらパソコンでブロクだけはここ9年半投稿している・・

こうした中で、ブログのサービスサイトが数多くあり、私が知っているサイトでも、
私が加入している『gooブログ』以外でも、『アメーバブログ』、『ココログ』、『はてなダイアリー』、『ブログ人』、
『楽天ブログ』、『FC2ブログ』、『Yahoo!ブログ』など、
まさに満天の星空のようにサービスサイトの中で、数多くの方が多彩に投稿文を展開されている。

そして、日本だけでも数千万人の方がブログを利用されている、と学んだりしてきた。

しかし私は恥ずかしながら、ネット技量も乏しく、
たとえば私の投稿文をパソコンから発信した時、ルーターを通して『gooブログ』の管理下のサーバーに受発信、記憶の保管管理、
或いは私が愛読している人の投稿文を読む時、ルーターを通して受信はするが、
ときには応答時間(レスポンス)が平素より時間が要した時は、
『gooブログ』の管理下のサーバーに於いて、受発信が殺到して、処理時間を要している。

この程度しか認識力がないので、ネットの通信技術、背景も無知で、
その上にネットの環境の開発、運営なども知らず、まるで幼児のように何かと無知なのである。

今回、《・・初心者ハッカーの腕試しではないかとみられている・・》の方は、
私から見れば頭脳明晰の方であり、こうした家庭用ルータのサイバー攻撃により、一般の人を困苦させ
各ブログのサービスサイト管理元を困窮させるより、
誰しもから尊敬にされる高度なネットの技量の開発に時間を活用されれば、
と何かと無知な私は感じたりしている。

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