関山 中尊寺の境内で見つけたウメモドキであります。『天然ボケ記念物酔っ払い御一行様』は、岩手県一関市の「厳美渓」を後にし、遂に東北地方のエルドラド…中尊寺に辿りついたのであります。中尊寺は、西暦850年、比叡山延暦寺第3代座主「慈覚大師・円仁」の開山と言われております。東北地方では、山形県の山寺として有名な「立石寺」や宮城県松島の「瑞巌寺」もまた円仁の開山とされております。高僧円仁の略歴を調べてみますと、西暦838年に遣唐使として中国に渡り、以来9年間中国に不法滞在したことになっておりまして、中国五台山を踏破したり、仏教を学ぶために精力的に活動されたようであります。開山から250年の時を経て、奥州藤原氏が興ると初代藤原清衡公が、現在の地に中尊寺の造営を始めたと言われておりますが、1337年の大火により多くの伽藍が焼失し、当時の姿を残したのは金色堂(1124年造営)だけと言われております。
日本では奈良時代に陸奥国(現:宮城県域)で砂金が産出されたと言われ、その後、平安時代に入り莫大な量の金が奥州で産出されたことと、駒、剣などの地場産品によって奥州藤原氏三代の栄華が続くのであります。
現在の金色堂は1962~68年にかけて復元されたもので、覆堂(鞘堂)を外から撮影することは出来ますが、ガラスケースで外界と遮断された本堂は撮影禁止であり、パンフレットの画像を見ていただくしかありません^^;
「極楽浄土」とは、阿弥陀仏のいる世界であり西方十万億土の彼方にある、まったく苦しみのない理想郷であります。無数の仏土を経て阿弥陀様のいらっしゃる「浄土」に到達するには、凡人では適わないことなのでありましょうか?「浄土」にある建物や樹木は、金銀珠玉が散りばめられていると言われ、藤原清衡公は、この世に極楽浄土の再現を図ろうとしたのでありましょうか?金箔や螺鈿・漆細工の伽藍には、藤原三代の遺体と四代泰衡公の首級が納められていたとのことであります。
『天然ボケ記念物酔っ払い御一行様』は、「こんな金ピカな御廟に納められたら、オチオチ眠って居られない。」などと、お門違いな独自解釈を始めるのでありました。第一、このようなお墓に入れるようなお金持ちは、御一行様の中には存在しないのだから、心配する必要もないのでありますが…^^;
このように栄華を極めた奥州藤原氏は、何故滅んだのでしょうか?当然、鎌倉幕府による出兵・追討の結果ではありますが、関東の背後に独自政権があることへの不安が、そのきっかけと言えます。四代目当主藤原泰衡公…家も四代続くと傾く…そう、私も夢屋家第四代当主でありました…暴飲暴食好色は慎みましょう^^;
中尊寺境内で見つけた苔生す石灯籠(左)でありますが、『夢屋国王』が適当に積み上げた自宅前の石組み(右)も中々の風情であります。マルコポーロも伝聞だけで書いてしまった「ジパング」は、民家も黄金で建てられていたとか^^;『夢屋王国』に金の産出する山はありませんが、多少の古物はあるんです。奥州藤原三代と競ってみても詮無きことではありますが…。(黄金郷の旅はまだ続く。)