その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

夢屋王国(黄金郷の旅4)

2011-12-20 12:17:47 | 夢屋王国

某共和国の将軍様が亡くなりました。外国からの弔問を受け入れないとのことでありますから、貧乏な『夢屋王国』で香典を用意する必要は無いようです。元々、国交もありませんけど…^^;
体制が異なったとしても、独立を果たした国家は建国の理念を持ち、指導者たちは国民の安寧を求めて努力するものであります。しかし、時が経てば、政治の中に権力闘争と腐敗が生じ、理想からかけ離れていく…今、「楊令伝」を読みながら、北方氏のフィクションではあるけれども、古き中国の「宋」という国の姿を眺めていると、人の歴史とは愚かな権力闘争の繰り返しであると感じるのであります。
さて、奥州藤原三代の国家はどうだったのでありましょうか。中央政府が正常に機能していれば、出羽・陸奥の国などは未開の『蝦夷の地』であり、決められた年貢が納められれば、それで良とする程度の地方ではなかったでしょうか?藤原清衡は、せっせと金や駒を朝廷や摂関家に献上し、律儀で可愛い田舎豪族程度の扱いではなかったかと思われるのであります。しかし、奥州藤原氏の原資は、豊富な金の産出と北宋交易によってもたらされたものであり、中央政府の権力闘争(平氏源氏の争い)に巻き込まれること無く、独自の仏教文化を形成していくのであります。

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」松尾芭蕉も、衣川辺りに腰を落として、藤原三代の往時を偲び泪するのであります。
「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな(曾良)」同伴した曾良も、源義経の最期を看取ったという兼房について詠んでおります。芭蕉が訪れた時には、既に金色堂は風雨に晒され朽ち果てていたのであります。「義臣すぐって この城にこもり 功名一時の叢となる。」と紀行文に綴っておりますが、藤原三代の栄華と弁慶・兼房にみる義臣に想いを馳せたのでありましょうか…しかし、『天然ボケ記念物酔っ払い御一行様』は、寒くて往時を偲ぶといった余裕がありません。ありがたいお経が収められていたという経堂を見ていても、背中を丸めて寒さを堪えている様子がご覧いただけると思います^^;

 

古い覆堂(鞘堂)は、金色堂の近くに移築されております。鎌倉時代にも覆堂は補修されていると言われておりますが、現存する覆堂は、学術調査によって室町時代中期にこの形になったと記されております。松尾芭蕉もこの覆堂を眺めたのでありましょうか?中には、秀衡公・義経公・武蔵坊弁慶の800年御遠忌(昭和61年)に使われた大型の塔婆が納められております。

人の栄枯盛衰に泪し、いつの世も失せることの無い「酔っ払い」の煩悩を祓うべく、梵鐘を撞くのであります。
「ごぉ~~~~~ん!」合掌^^;

コメント
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