日々のブログネタに困っている『夢屋国王』は、奥州平泉の旅で一週間話題を引っ張ることが出来ました^^;
巻頭画像は、休日出勤の代休でスーパー銭湯に行きまして、休憩所に掲げてあった絵画であり、黄金郷の旅とは一切関係がございません。タッチにどこか見覚えがあり、サインもあるのですが作者の名前が分かりません。ただ、モンペ姿の農婦が見つめる視線の先が気になるのであります。彼の将軍様の共和国は、自国民に白いご飯と肉のスープが行き渡ることをスローガンに掲げておりますが、未だ達成出来ていないようであります。ただし、平壌の建設ラッシュは凄まじいらしい。こうした二面性は社会主義国家では珍しいことでは無く、かつて旧ソ連に招かれた労働運動幹部は、盛んに社会主義国家の福祉施策を帰国後報告しておりましたが、それは都市部に限られたことであり、疲弊する農村部にまで足を踏み入れることはなく、只々、社会主義国家の伝道者として使われたと言いたくなる部分もあります。しかし、自由主義経済社会においても、全ての国民が豊かであるかと言えば貧富の差は現実に存在し、それぞれの体制下において、二面性は存在するのであります。
身体の温まる昼食を終えれば、人はこんな表情をするのでしょうか^^;
「毛越寺(もうつうじ)」は、西暦850年、中尊寺と同じ慈覚大師の開山と言われ、奥州藤原氏の二代基衡公・三代秀衡公により、伽藍が建造されたと言われております。数多くの建造物は焼失し、本堂は、平成元年に再建されたものであり、境内は比較的新しいものであります。平安時代末期の建築様式(遺構群)を残す物として学術的価値は高いのでしょうが『天然ボケ記念物酔っ払い御一行様』には無縁の場所であります。
現在の御本尊は薬師如来でありますが、伊達政宗にも庇護された時代があり、当時の御本尊であった釈迦如来三尊が政宗の菩提寺である「瑞鳳寺」に遷されたこと…時の権力者は有難い御本尊様さえ動かしてしまうという傲慢さや、ほぼ完全な形で残っていた遣水の遺構から、平安の雅な時代には、ここで「曲水の宴」が催されたであろうことなど想いを巡らすこともありません。万が一、『天然ボケ記念物酔っ払い御一行様』が「曲水の宴」を催すような事が有れば、盃が流れて来る間に和歌を詠むなどと言う才も無く、むしろ、歌が詠めないことを幸いに、本来ペナルティであるべき酒を喜んで飲んでしまうのではないかという兵揃いでございます^^;
さて、奥州藤原三代の栄華は、時を経て現在の平泉町に観光客という外貨をもたらす遺産となっております。時の権力者の栄華の裏側で、当時の一般庶民の暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか?奥州藤原氏とは何の関係も無い巻頭画像の農婦の眼差しが、虚ろに見えるのは私だけでしょうか?