その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

こだわりやしがらみ…

2024-02-26 10:42:01 | 巡礼

「トラノオモミ」か?「ハリモミ」か?

昨日は勤め人時代の元上司の一般焼香に参列し、久し振りに元同僚たちと顔を合わせました。「こういう場所でしか顔を合わせなくなってしまったねぇ…。」繰り返される同じフレーズに、高々10年程度の期間なのに、人間とは一気に老け込んでしまうものらしいと改めて感じたところであります。
画像は、置賜三十三観音第26番 遠山観音(西明寺・真言宗)…ご本尊は「十一面観世音菩薩」とのことである。何故に「十一面」なのか?「十一面観音」は「十種勝利(現世での10種類の利益)を与えてくれるというから、これに阿弥陀如来の「仏相」を加えて「十一面」ではなかろうかなどと、また勝手な解釈をしております。(数に関する明確な由来は存在しないようである^^;)般若心経が「空」という世界観を説いたものとするならば、「十一面観音」は、病気、災難から逃れ、金銀、食事に困らないとされているのだから、仏教伝来の折りに庶民の信仰心をくすぐるには最上の『布教アイテム』だったような気がしてきますなぁ。(バチあたりもんが!)
お堂の傍らにある「トラノオモミ」(植物学的には「ハリモミ」とのことである。)は、奥方の病気平癒を願って、上杉藩四代(謙信公を初代とした数え方^^;)藩主 上杉綱勝公の手植えとされているから、360年の樹齢ということになる。「トラオノモミ(トウヒ)」ならば、本州中部の亜高山帯に分布し、「ハリモミ」であっても日本海側の多雪地帯には、ほとんど分布しないとのことであるから、これまたありがたい…『おやじぃ』は「トラノオ」と聞いて「虎の尾を踏む」という言葉を思い出す…「仰げばぁ尊し~♪」と大木を見上げながら、足は『尾っぽ(根)』を踏んでいるという罰当たりであることに変わりはないようである(笑)


こちらは「桑山観音」の絵馬ですが…

さて、『おやじぃ』の『小さな巡礼の旅』も3分の1ほど巡り終え、いい加減に唱える『うろ覚え 般若心経』も、 こうしてお堂に掲げられている絵馬にも『何故』がつきまとってしまうのでありますよ。人間や動物の行動には、何らかの『意味』があるはずである。こちら武者絵の絵馬も天保十二年とあるから、時代は「天保の改革」と時期を同じくする。天保八年には大飢饉があり、貨幣経済が進むとともに、農村では離農が相次ぎ、「人返し令」が出されるほどだから経済も疲弊していたようである。豪商、豪農が我が子の健康丈夫を願い掲額したものか、武家社会への反目かなどと考えること考えること^^;
はてさて、般若心経が説く「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげいこ うむくふ)」…「罣礙」とは「こだわり」や「しがらみ」を指すらしい。一切が『空』と断じてしまわれると、そもそも我が人生とは何だったのかとまた考え込んでしまう。(何も大層なことを行ってきた訳でもないくせに…。)しかし、元上司と共に励んだ『仕事』とは一体何だったのかとまた問い返し、人間の手によってできる『救済』のひとつを叶えたではないかなどという思いも消せるものでもない。そうそう「十一面観音」の裏側の「お顔」は「大笑面」と言われ「悪への怒りが極まって、悪行を大口を開けて笑って滅する。」という意味が込められているのだとか…。泣いたり笑ったりの人生ではなかったか?仏さまとて、怒りや笑いの顔を見せるのだから、生身の人間が「こだわり」から逃れられる訳もない。「即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦」…覚えたての「真言」を故人に伝え、かつての『有能な部下』は、もう少しだけこの世で修行を積んでから参りますと心で誓ったのでありましたとさ(笑)

 

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