処遊楽

人生は泣き笑い。山あり谷あり海もある。愛して憎んで会って別れて我が人生。
力一杯生きよう。
衆生所遊楽。

ミチクサ先生

2023-11-14 10:14:59 | 

著 者 伊集院 静

出版社 講談社

頁   上巻 301 下巻 291

     

先々月読んだ沢木耕太郎、そしてこの伊集院静。かつて貪り読んだ作家たち、ある時から憑き物が落ちた如くに、離れ、忘れ、別の読書世界を長らくほっつき歩き、気が付けば懐かしき昔に戻ってきている自分がいる。
このお二方とはほぼ同世代、時代を経て、老いた自分の変わりよう或いは変わらないサマの確認をしたかったのかしら。

今更漱石論?と思われる向きもありそうだ。が私には刺激的で面白かった。勉強になった。
文学や芸術は、出来も不出来も作品がすべてである。志と思想と構成力、技術、訴求力などだろうか。ところが本書は、『吾輩は猫である』『こころ』などの作品論ではない。作品以外、つまるところ漱石の人間性・ひととなり、文学仲間との往来、教え子や弟子との日常、家父長金之助=漱石とその家族の生活などが、あたかも著者自身が時空を超えてその場に居、ドキュメントを活写しているのである。これが面白い。

上巻では子規との交流が主に描かれている。出会いから子規の壮絶死に至る二人の友情と文学論や俳諧・短歌界の潮流などが彼らの会話で語られている。
アメリカから渡来のベースボールの和名 "野球"は子規の命名とする説があるが、事実ではない。子規の幼名は升(のぼる)といい、そこから自身の雅号の一つに野球(のぼーる)を使っていたのだという。著者は命名者は中馬庚であったと触れている。

ともに一高の同級生。伊勢本の寄席で圓遊を楽しんだ帰りが邂逅というのは、その後の二人の人生を思うと不思議な縁と言えそうだ。

この時期、日本の歴史における "小説"の位置・未来は定かではない。高校教師・帝大教授の途を歩んできた漱石が、その未知の小説の世界に舵を切るかとの決断に至る重要なシーンがある。鏡子夫人の病気療養で鎌倉に暮らした時期に夫婦で森戸の浜に出かける。鏡子が指さした方角に夏の夕陽に光る江の島があり、そのむこうに空一面の朱色の中に富士山が浮かび上がっていた。=それは相模一帯でもっとも美しい富士の風景だった。「私は、こんなに美しい富士山と海を、旦那様が、どんな文章でお書きになるのか、読んでみとうございます」金之助は鏡子の言葉に胸の奥の何かが揺れ動くのを感じた=というくだりである。他頁にも二カ所に同趣旨の文章が出てくる。著者が金之助の作家転向への心象を強く確信してることが伺える。

漱石の人生と作品の上で朝日新聞との関係がこれほど深かったことは初めて知った。小説家としてベストセラー作家として漱石を文豪に押し上げたのは同紙主筆の池辺三山である。と同時に早逝たらしめたのも同紙(氏)と言えるか。漱石享年49歳。巻末の執筆一覧によると作家生活を初めて3年間10作品以外の、後の8年間16作品は朝日時代の上梓である。

交遊の広さには質量ともに目を瞠るものがある。子規の友人としての繋がりから、高浜虚子、河東碧悟桐、陸羯南、浅井忠。英国留学時代には、美濃部達吉、池田菊苗、田中考太郎。弟子(門下生)には、寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、安倍能成、中勘助、島崎藤村、志賀直哉、芥川龍之介、滝田樗院など。まだまだ森鴎外や秋山真之などが多数が行間に散見できる。

丁度このタイミングで、柄谷行人の漱石論に出会った。(11月8日付朝日新聞。『柄谷行人回想録 私の謎 ”漱石論じて新人賞 「偶然」の導き)曰く 戦前はともかく戦後は、漱石は文学的に優れているとは考られていなかったと思います。それは戦後の日本ではフランス文学がもてはやされていたことと関係があるでしょう。漱石は英文学者でしたからね。やや古いとみなされていたし、彼の文学評論も重視されていなかった。(中略)僕も子供のころから娯楽として読んでいた。それが一般的でした。僕の印象では、漱石が論じて以後、立派な文学者といことになった。

果たして伊集院漱石は、現下の漱石論に一石を投じるのだろうか。

挿画は福山小夜さん。そういえば、現役であちこち出張生活をしていた頃、車内誌を読むのが好きだった。とりわけ東北新幹線の『トランヴェール』の伊集院氏の随想は楽しみの一つだった。その中で季節を描いていたのが福山小夜さんだった。『花火』を暫し眺めていたのだった。作家と挿画家。特殊な世界だけに相性とか呼吸というのがあるのだろう。あれから14年経った。

 

 

 

 

 


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