毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ナントカごころと 秋の空

2016年10月10日 12時56分01秒 | ふと思うこと


きょうの空



画像フォルダの半分近くが空の写真という空フリーク貴秋、こんな爽やかな秋晴れのもと 天にカメラを向けずにいられるわけがない \(^o^)/

この一枚、デスクトップの背景にもしちゃいました




そういえば、この季節になると 「女心と秋の空」 だとか いやいやそれをいうなら男心だろうとかいう声をちらほら見聞きしますが、「○○心」 が定まらぬもの ・ 当てにならぬものを指すのならば、貴秋は 「マインド思考と秋の空」 とでも言わせていただきましょうか(笑)

いやもうほんと当てになりませんから (^_^;)

今ここ以外のあらゆる時空に思いを飛ばし、記憶や想像から物語を紡いでは 自作のそれに振り回されて一喜一憂したあげく 体調さえ左右されるのですから、つくづくご苦労様なことです。

。。。。なんていって 今これを書いているのもマインドなのだから、なんともフクザツな心境ですが




瞑想がからっきし苦手だった貴秋が、感覚フォーカスによって 言葉を止めて “ ただ在る自分” に集中できるようになったのは、この上なくラッキーなことでした。

きのう書いた 津留晃一さんのメッセージに 当初反応しなかったのは、今思えば 「ハートで感じる」 ということが まるでわからなかったからでしょう。

「ハートで感じる」 「ハートに自分の中心をおく」 という記述は 津留さんの他の文章にもたびたび出てきますが、意味わから~んということで 無意識にスルーしてたものと思われます ( ̄∇ ̄*)ゞ

それまでは、不安に駆られっぱなしのマインドのおしゃべりが どうにもこうにも止まらず、言葉を使わずにいるということが どんな状態を指すのかさえ 想像つかないありさまでしたから。

感覚フォーカスの体験を重ねて初めて、問題を作り出しているのも それを解決しようとしているのも すべてマインドであり、マインドのおしゃべりが止まれば その一切合財が消滅する、そもそも問題も何もなかったのだとわかる、ということを 身をもって確かめる機会に恵まれたのです。




マインドが悪いというわけではありません。

マインドにはマインドならではの役目があり、形が意味を持つこの世界では その働きはなくてはならないものです。

ただ、マインドが先頭切って 言葉をもって万事を取り仕切ろうとすると 面倒なことになるのですね。

問題を生んでは解決し 生んでは解決し、の一人芝居を えんえんと味わう羽目になります

それが楽しいうちは 楽しめばいいだけですが、本氣でそこから抜け出したくなったら そのときは 言葉をすっかり手放すことを思い出す必要があります。

女心だろうが男心だろうが 言葉で構築された世界というのは、およそ当てにならない蜃気楼のようなもの。

ひとしきり戯れたあとは おのずともっと確かなもののほうへ向かいたくなるように、もともと私たちはインプットされているようです。
























分岐点

2016年10月02日 08時25分47秒 | ふと思うこと


おかしなものです。

これだけさんざん 「私たちは 自分の素晴らしさを体験したくてこの世にやってきた神のかけら」 などと書いておいて、そういう見方が いつ どこで 何から どのようにして入ってきたのかが まるで思い出せないのです。

あの 「勝手に師と祀り上げた人」 の勉強会で そういう類の話があったのはたしかだけれど、それが最初だったかというと。。。。。う~ん

少なくとも 成人するまでは 見聞きした覚えのない話ですが (23、4歳ぐらいまでは 貴秋も五感の世界オンリーだったのです) 、それ以降のその方面の記憶はぼやけたまま。

たぶん、あまり氣に留めぬまま あちこちで繰り返し見聞きして じわじわ浸透したものと想像されますが、もしかすると まったく初めての情報を知ったというより もとから記憶の底に沈んでいたものが呼び覚まされたという感じで、インパクトが薄かったのかもしれません。

あの 映画 「インセプション」 の 「始まりがはっきりわかっている夢を見たことがあるか? いつだって 氣がつけばすでにその中にいるのが 夢というものだ」 という話のようなものでしょうか。




五感を超えた世界は 五感の世界の法則や常識がまるで当てはまらず、言葉を介するか介さないかで 感覚 ・ 感触が まったく違ってきます。

言葉に支配される世界は平面的で、言葉の及ばない世界は立体的とでもいいましょうか、同じ絵だって 遠近法を使って描いたものと使わず描いたものでは 別物のように見えますよね、そんな感じ。。。。ってどんな感じだ




とりあえず ひとつ言えるのは、五感の世界の 「体験して初めて信じる」 という順序は、五感を超えた世界では通用しないということ。

先の 「インセプション」 の夢の話や、ミヒャエル ・ エンデの 「はてしない物語」 の 「あると決めれば ずっと昔から存在する」 という言葉のように、五感の世界とは異なる法則で成り立っているのが 五感を超えた世界のようです。

「それが確かかどうか 証明されて初めて信用する」 ことよりも、「なぜかわからないが とにかく信じよう ・ 受け止めようという氣持ちになった」 ことが 大きな意味を持つのですね。

「体験したから信じる」 のではなく 「信じるものを体験する」 のが 創造者の世界というものらしい。

五感を超えた世界では そんな 「ひたむきに信じる真摯な取り組み」 も、五感の世界にもってくれば 「妄想にとらわれた危なっかしいありさま」 となりかねません。

二つの意識を行き来する中で、形ある支えを持たないまま “自分をどこまで信じられるか” が 重要な分岐点になりそうです。
























溶け合うほうへ

2016年09月25日 12時11分22秒 | ふと思うこと


父が いつのまにかテニスファンになっていて、テレビで試合中継があると 必ずといっていいほど見ています。

きのうも東レパンパシフィックの女子準決勝ということで テレビの前にバッチリ陣取り観戦。

私も お彼岸のおはぎ作りの合間に ちらちらお相伴しながら、その昔一度だけ行ったテニススクールのことを思い出していました。




スクールといっても本格的なものではなく、テニス好きの友人主催で 運動公園のコートを借り、簡単な手ほどきやアドバイスなどしてもらいながら みんなで楽しみましょう、ぐらいの氣楽な集まり。

テニスはそれまで一度もしたことがなかったのですが、「 『ワン』 でボールを落としてバウンドさせ、『ツー』 で跳ね上がってきたボールをラケットの芯でとらえて打つ」 というのを教わってやってみたら、すっかりハマりました。

ラケットの真ん中に球が当たる感触、当たった球が氣持ちよくのびのびと飛んでゆくさまが、得もいわれず心地よくて♪

これをひとりでやってるあいだはよかったのですが、二人向き合い さあ思う存分行ったり来たりさせるぞ☆ とのワクワク感は、相手からの強烈な返球と共に打ち砕かれました。

そっか~、テニスって 相手に打ち返させないように競うものだったのね

ワクワク氣分はどこへやら、以来テニスは一度もしておりません (T_T)




これまでの人生で、戦って勝者になる快も 敗者になる悔しさも たっぷり味わってきましたが、今の貴秋は 競って勝者と敗者にふるい分けられるのは もう十分かな。

テニスだって 二人協力し合って ただ無心に 「打つ」 という行為を楽しむなんていうのもあっていいんじゃない?

競争のフラストレーションはもうたくさん、今は ひとりであれ誰かとであれ ありのままの自分から どんどん楽しみを引き出したいです。

ひとつに溶け合うほうへ行きたいです。




思い込みやわだかまりが減るほど、戦う ・ 競うという意欲がなくなっていくようです (*^^*)






















利点

2016年09月07日 11時19分29秒 | ふと思うこと


今振り返ると、今回の 「こころとからだの相関関係」 の試みは、これまでひたすら感情の側から実行していた感覚フォーカスを、日ごろからだに現れるさまざま感覚そのものからもアプローチしてみたら? というお勧めだったように思うのですが、そこから見えてきたこの手立ての利点は、記憶に上がってこない “インセプション” についても 解除できること。

根深く植えつけられた思い込みほど 記憶の定かでない幼いころに取り込まれていますから、いちいち 「あのときこんなことがあって、それでこんなふうに思い込んで 傷ついて」 などとマインドでたどろうとしたら、相当やっかいです。

でも 記憶はまずからだの感覚として残るものですから、そちらが解放されれば それがどういう感情やストーリーと結びついていたかがわからないままでも大丈夫、ちゃんといい影響が現れます。

実際私は、からだの痛みやこわばりがとれて 柔軟度が増すにつれて、ハートが開きやすくなり 明るいイメージが以前より頻繁に湧き起こるようになりました。

いちいち子どものころの辛い出来事を思い出さなくても、心地いい変化を体験できたのです。




私たちが 自身のネガティブな面に目を向けるのを つい避けてしまうのは、その物語の記憶が あまりにも辛いからではないでしょうか。

でも、私たちが見つめるべきは 物語でも感情でもなく そのおおもとである感覚だとなれば、話は大きく違ってきます。

私は 「感情の前に まずからだの感覚がある」 という情報と出会い 活用できたことを、心からありがたく思っています (^o^)

























継続中

2016年09月07日 08時11分09秒 | ふと思うこと


「こころとからだの相関関係」 テーマ、ブログ記事はいちおう終りましたが、探究実験は継続中。

っていうか、この手の探究に終わりはないですね。

どこまでいっても 新たに知りたいことが出てくるから、きっと彼岸に渡るその日までやってると思います (笑)

そしてあちらに行ってから一連を振り返って、「うわ~ あんなことやこんなことぐらいでいちいち引っかかってたのか~」 なんて苦笑することになるんだろうなぁ (^_^;)




この話、何の本で読んだか どうしても思い出せないんですが。

あるとても太った女性が 心療ケアを受けながらダイエットしたら、減量の折々に その体重だったときの 辛い思い出 (体型をからかわれたとか 試験に失敗したとか パーティに誘ってもらえなかったとか) がよみがえり、ついに父親の死を思い出したところで泣き崩れ、それ以上続けられなくなってしまったのだとか。

今回の試みの最中に ふとこの話を思い出しました。

根深い思い込みの感覚は いったん手放しても また繰り返し起こってくるけれど、からだに感じる強さは だんだん薄れてきます。

それって、思い込みが強化されていった道筋を 逆にたどっているといえるんじゃないかなって。

このままずっと続けていったら なんのわだかまりもなかった赤ちゃんのころのようなピュアな心に戻れるかな、なんて想像すると、なんだかわくわくしてきます (*^^*)




フォーカスされるために上がってくる感情も、だんだん微細なものへと移行しています。

最初は 怒りとか苛立ちとか すごくわかりやすいものがほとんどだったけれど、最近は 物悲しさとか侘しさとか空しさとか 俗に 「イタキモ」 なんて呼ばれるような 辛い中にも微妙に快が入り混じった感覚が しきりと上がってくるようになりました。

これらは 言葉抜きの純粋な体感として捉えるのが いささか難しいですが、時には詩的に表現したくなるようなこういう感情さえ 感覚に変換すると すべてただの無機質な信号でしかなくなってしまうことが ちょっと驚き。

しかも 圧迫感とか硬直感とか からだに起こっていることは、派手であれ微細であれ どの感情についてもほぼ同じで、その組み合わせや強さの加減が違うだけだということもわかってきました。




私たちは このからだに刻まれた信号の記憶を 言葉を介して感情に置き換え、そこから再生される過去の物語を生きてるんだなぁ、と つくづく思います。

それが味わって楽しい物語ならいいけれど、こんな もとはといえばただの信号でしかない 不快なストーリーに振り回され 一生を左右されるのは もうたくさんだなぁ (- -;)

そんな思いに駆り立てられて、きょうも探究実験は続きます




このテーマ記事をお読みくださった方で、「ありがとう」 や 「ホ ・ オポノポノ」 はどうなったの? と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ごめんなさい、あれについてはまだ探究中なのです。

最近氣づいたことですが、体感が薄れたおかげで ネガ記憶の上がる頻度は落ちたものの、いったん記憶の一場面がよみがえり それをわずかなりとも物語に変換してしまえば、そこから先は 強い体感を味わっていたころと なんら変わりなくなるようです。

つまり いかに迅速に言葉と切り離すかが勝負で、物語が立ち上がってしまえばもはやそれまで、以前と変わりなく七転八倒する羽目に。

さらに いったん物語展開してしまってからの感覚フォーカスには、言葉化前とは比べものにならないほどの時間とエネルギーを要します。

なので、「とにかく言葉化しない」 が当面の課題ですが、並行して 辛い記憶そのものを薄れさせることができないものか、そこにセルフクリーニングを役立てられるのではないか、との仮説が浮上しています。





何よりの動機は とにかく毎日軽やかないい氣分で過ごしたい、本来の自分に戻りたい、という思い、そこに 「さらに先へ行ったらどうなるのかな」 という好奇心が加わって、貴秋の探究実験は どこまでも続いていくのです (*^▽^*)ゞ
























毎日が宝探し☆

2016年07月29日 11時32分01秒 | ふと思うこと


きょうの空、晴れ



下方にはすでに入道雲がもくもくと、午後には表情ががらりと変わりそう♪




ゴーヤの実を発見



初生りだなぁ、まだちっちゃいけどね

こっちは下に花が残ってる






地植えのミニトマトにも花が咲いたよ♪






プランターの苗は こんなふうに枝葉を枯らせながら 実をしっかり残してくれている






南天の枝に セミの抜け殻発見 w( ̄o ̄)w



この殻の主も 毎朝元氣に鳴いているメンバーの一員かな? (^^)




相変わらずの小さな小さな庭だけど、その氣で探せば あちこちに宝物、見つけるかスルーするかは 自分次第。

ちょっとした喜びを見つける、心喜ばせるものにフォーカスする、と決める意志が、少しずつ大きくなって ハッピーな世界を創ります。

うれしくないものに出会ったら、嫌ったり責めたりせずに そっとフォーカスを外すだけでいい。




毎日のささやかな努力で 自分の世界が大きく変わる、とは、真我さんが氣づかせてくれたこと。

「天の神さまの言うとおり」 ならぬ 「内の真我さんの言うとおり」 な毎日なのです \(^o^)/

























記念日

2016年07月19日 23時33分04秒 | ふと思うこと


きょう2016年7月19日は、和歌山に移って満15年の記念日。。。。といっても、今いるところは奈良なのだけれど (^^ゞ




まだ真我の存在もよくわかっていなかったころのことだったのに、思いもよらない行動を促すその静かな声に なぜか乗ってしまったところから、新しい流れが始まったのです。

まだ 小我 = 自分 と思い込んで疑わず、普通ならマインドが首を縦に振るはずのない思いつきだったのに、あのときばかりは 和歌山行きが 何よりも大切なことなんだと思えて、心配するより先に どんどんからだが動いて、手筈を整えてしまった。

マインド主体の人間でも、いざとなるとああいうことが起こるんだな、と 今も感慨深く思い出します。




あのころの 「これからどうなるんだろう」 という不安げなつぶやきが、「さてこれからどんな人生にしていこう」 という まっすぐ前を見据えた積極的な意思の言葉にとって替わった今、真我主体という新しいバランスを構築し 育て上げるという 未知の時間を過ごしています。

どの方向に進むかはわかっても、実際にどのような形で何が起こるのかは まるでわからない、石橋を叩いて叩いてなおも渡ろうとしなかった 15年前の自分には 想像もつかないような日々を送りながら、それでも あの旅立ちに深く感謝して 必死に勇氣を振り絞った当時の自分を祝福したくなる私がいます。

マインドをはるかに超える 決して間違わない力が導いてくれる、そうためらいなく信じられる今の自分に 15年分の成長を感じ、もっともっと進もう、新しい世界を生きよう、ほんとうの自分を取り戻そう、との決意を新たにする貴秋です(^^)


























「とと姉ちゃん」 と 「サマーウォーズ」

2016年07月19日 15時13分56秒 | ふと思うこと


※最初の投稿に不備があったので、投稿しなおしました。



朝の連ドラをせっせと見続けるなんて 何年ぶり、いや 何十年ぶりのことでしょう。

「とと姉ちゃん」、このドラマには いささかの思い入れがあります。

だって、小学生のころから大ファンだった 「暮しの手帖」 にまつわるお話なんだもの♪




小学校最後の2年間 クラスで孤立した私は、学校が終るとそそくさと家に帰り、ひとり本など読んで過ごしていましたが、そんなとき ふと手に取ったのが、母が愛読していた 「暮しの手帖」 。

小学生の心を なにがどう捉えたのか、家にあったバックナンバーすべてを繰り返し熟読し、大きな喜びと安らぎを得ていたのです。

あのハンパなく氣合入った商品テストや 花森安治さんのまっすぐ心に響く文章と 印象的な表紙絵、あと 藤城清治さんの影絵や 湯木貞一さんの 「吉兆味ばなし」 など、今思い出しても ぱぁっとなつかしく心によみがえります (*^^*)

そうそう、大橋鎭子さんがお書きになっていたとは当時は知らなかったけれど、「すてきなあなたに」 も大好きだったなぁ




私って 子どものころから ほんとうに 「暮らし」 っていうものが 好きでたまらなかったんだねぇ♪

日々の暮らしが何よりも大切、という思いを込めて作られた 「暮しの手帖」 、わがインナーワールドの大きな構成要素のひとつです。

いよいよ 「暮しの手帖」 (ドラマでは 「あなたの暮し」 ) 創刊へと佳境に入らんとする 「とと姉ちゃん」 、これ見たさに9月末まで奈良にいたりして




唐突に梅雨が明けて いよいよ夏本番、「暮らし」 といえば この季節感と相まって もうひとつ思い出すのが、細田守監督の映画 「サマーウォーズ」 。

長野の旧家の大家族の暮らしと ネットの仮想世界 「OZ」 という対照的な光景の中で、私がやたらと親近感を覚えるのが、この大家族の暮らしを支える 裏方の女性たちの言動。

世界の命運をかけて 暴走するラブマシーンとの電脳大合戦の準備をせっせと進める男たちの裏で、長老 ・ 栄おばあちゃんを失った悲しみにくれつつも 日常の家事や 葬儀の準備をこつこつこなす その対比的スケールのちっちゃさ ・ 地味さ、遺影は 饅頭はと いちいちおろおろハラハラするさまが なんともおかしい。

が、命がけの大合戦だって ハラが減っては戦はできぬ、世界規模 ・ 歴史規模の大事件だって その陰には 地道で堅実な日常の暮らしと その担い手たちが控えているのだ、そうやって足元がしっかり固められてこそ 世界も歴史も動くのだぁ と思い返すと、そのちっちゃく地味な作業に真剣な女性たちへの なんともいえないいとおしさがこみ上げてくるのです。

幼いころ関西圏に引っ越して めったに顔を合わせることもない親族が寄り集まる葬式や法事での 母やおばたちの思い出とも重なって 「あるある~」 な場面の数々に ふと郷愁を覚えます。




人工知能の発達めざましい今、思いっきりフィクションでありながら 妙にリアルなラブマシーンとの攻防に手に汗握り 、自然豊かな長野の大家族の日常のほほえましさにほっこりする、ひとつで二度美味しいステキな映画、「サマーウォーズ」 。

これと 「とと姉ちゃん」 を並べてみると、ごく平凡な暮らしを心底大切にし、そんな暮らしを豊かにするための雑誌を 精魂込めて創り続けた 在りし日の花森安治さんの思いが重なります。

そして私も、五感を超えた世界を探究するのと同じぐらいの情熱で 日々の暮らしも楽しく紡ぎ続けようとの氣持ちが 新たになるのです。












p.s.

なぜかおしまいのほうがちょん切れた状態でアップされてしまっていました ( ̄∇ ̄;)

慌てて席を立ったもので 氣づかなかった~

中途半端な記事を読まれた方、申し訳ありません、ごめんなさい m(__)m





















意識のシェイク、そして書き換え

2016年06月20日 21時28分55秒 | ふと思うこと


変化、続いております。

まあ 常に変化はしているのだから とりたてて言うようなことでもないのですが、真我の自分ってこんなんか~ と思い知る機会が増えてきた感じかな?




「あんたが大将」 などと真我に言っておきながら、相変わらずピーチクパーチク前面にしゃしゃり出てこずにいられない小我の私ですが、それでも 自分がすべてでも主役でもないと悟った時点で なにがしかの目覚めはあったのでしょう、その現れのひとつなのか 「ピラミッドの頂点などではない、他の生物と同等の ひとつの種としての人間」 という視点が じわじわ拡大しつつあります。

小我は 「私」 という 全人口分の一の意識に特化していて、万事を自己の利益中心に見るのが当たり前になっていましたが、そんなちっちゃな個を超えた真我の存在感が増した結果 起きた変化なのでしょう。

きざしは半年~一年ほど前からありましたが、これほど 人間社会の枠組みを外れた一生物として 物事を見、考えるようになったのは、初めてのような氣がします。





この視点を通して 日々のニュースなど眺めていると、人間という存在の異質さ ・ いびつさが、いやおうなく浮き彫りになります。

これまでも 何かにつけて感じていたことではありますが、喉元過ぎればという感じですぐ忘れていたものが、真我の出現率アップにつれて 「ヘンだよ、人間」 という氣持ちが常駐するようになり、「パパラギ」 の酋長ツィアビのような目で 自分たちの所業を眺めていると氣づくことが多くなりました。

自然破壊や環境汚染は その際たるもの、自分で自分の居場所をわざわざ壊したり汚したりして 命を縮めるようなマネをする生き物なんて、人間ぐらいのものでしょう。

そして、そんな異様な行動にも 人間ならでのそれなりの理由が ちゃんとあるんですね。

小我としての自分しか知らず、自分と他者はまったくの別物でバラバラ、自分はこの大きな世界のほんのちっぽけな一部に過ぎない 無力な存在、という認識に、この世は恐ろしいところ、いつなんどきどんな悪いことが起こるかわからない という不安や怖れが加わると、何よりもまず自分を守らねばとの本能から 目先の安全や利益ばかりに目がいき 優先せずにいられなくなるのも 無理ないこと。

そんな不安ベースの人間が増えた結果が 今のこの世界の奇妙なありさま、ということでしょうか。




そして そういうものが 今の私の目に映る世界であり 人間であるなら、それは紛れもなく 少し前の小我の私の意識が生み出した結果であり、私自身の世界観が そんな不安に満ちたものだったということ。。。。。目に映るすべては、私の意識の投影なのですから。

となれば、いつもながら 変えるべきは世界ではなく 自分の意識 ということになりますが、マインドの不安や怖れを 言葉で説得しようとしても なんの効果もないのは、これまでお話してきたとおり。

今思いつける最善の選択は、すべてであり すべての答を知っている真我の先導に任せること、真我の視点を通して万事を見、そのひらめきに従うこと。。。。。と、結局そこに戻ってくるんですね (^^ゞ




小我の思い込みや怖れが織り成す恐怖の物語は、真我の視点を通せば 仮初めの姿でしかないことが露呈して やがて消え去ることは よくわかりましたが、不慣れなゆえか フォーカスがすぐ小我に戻ってしまうせいで、天国と地獄の間でシェイクされるような日々が いまだ続いています ( ̄∇ ̄;)

同時に、何度引き戻されようとも あきらめず真我にフォーカスし続ける その繰り返しこそが、小我 = 自分 という見方に慣らされていた意識をじわじわと書き換え、真我 = 自分 という新たな認識を創り上げ がっちり固めてくれている、とも思えるのです。

そして、これまでにないありようの自分を感じる機会も少しずつ増え、よくはわからないけれど、なんかこれまでにないすごい時を過ごしてるんじゃないかな、と。

折に触れ、そんな新たな意識にふと映るものを ちらほらスケッチしてみようかと思います。



























還ってきた

2016年06月09日 20時04分59秒 | ふと思うこと


ひさびさのフォトブログ、きのう投稿しそこなったので 一日前の写真ですが (^^ゞ


しばらくカメラの存在を忘れるほど 内にばかり氣がいっていたけれど、そんな間にも 季節は確実に変化していて♪





今が盛りの紫陽花







年ごとに赤味が増してきたのは、土の成分が変わってきているから?

私は淡ブルー系が好きなので ちょっと残念だけれど、これはこれで美しいよね



くちなしも咲き始めて 風に乗って えもいわれぬ香りが





オリヅルランも。。。。可憐な花





ミニトマトも 次々花をつけ





いちばん最初の実が色づきました





今年もこぼれ種から生えた青ジソが 庭のあちこちに、毎日のようにありがたくいただいています (^^)





そして うれしいこれ



切られてしまったローリエも ひこばえがすくすく育って 葉っぱをたくさんつけたよ \(^o^)/



こんな小さな庭にも、季節に応じて さまざまないのちの形がお目見えし、心楽しませてくれます




内側の変化も 着々と進行中、もう少し時間が経って 距離を置いた視点からでないと くわしいご報告はできそうにありませんが、「他のどんな生物よりも強大な力を持つ人間様」 という立場から、いのちのひとつの形というか 表現というか、個性はあっても特別ではない 地球の一メンバーへと、立ち位置がじわじわ変わりつつある氣がします。

自我さんのとりとめないおしゃべりが聞こえたり テレビのニュースに目がいったりすると、批判や自己卑下ではなく 「なんだこのけったいな生き物は」 なんて氣持ちが ふと起こったりして、そんなよくも悪くも独特な人間という種が 本来のいのちそのもののあり方に 今かえろうとしていることが 無性にうれしく思えたりするのです。

もう特別な何かになって 評価されたいなんて思わない、思いつくままに ちょこまか動いて ささやかな暮らしを紡ぐ この平凡で穏やかな日常が、じんわり幸せで かけがえのないものに感じられる毎日。

特別な者になろう、すごいと思われようと懸命だった人生から、一周まわって還ってきた、この穏やかさが もともとずっと自分の下にあったのだ、という感覚に、苦笑しつつも そのありがたさをかみしめる日々です。