毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

目覚めつつあり

2014年07月31日 11時04分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうも朝から薄曇り。

早朝など、涼しいのを通り越して いささか肌寒く、熱い紅茶がしみじみ美味しかったほど。

おかげで 本日もゆっくりパソコンに向かえるなぁ (*^^*)





エノラ・ゲイの最後の乗組員、セオドア・バンカークさんがお亡くなりになったようです。

CNNの記事はこちら

息子さんによれば、広島原爆投下について 「後悔の念はなかった」 とのこと。

それもありね.

心からそう思っていたにせよ、そう思い込ませていたにせよ、その人の思うこと・信じることが その人の真実。

ただ、余計なことながら ふと思う。。。。人に言うのとまったく同じことを、自分自身にも矛盾なく言えていただろうか? って。

またひとつの旅を終えて 彼岸に戻り、来し方を振り返って 何を思っておられるんだろう。。。

もしインタビューできるものなら そっちのほうを聞いてみたいなぁ.





以前の白黒きっちり判断つけずにおれなかった自分だったら、↑みたいな思いは まず湧いてこなかったと思います。

原爆投下は悪、それを正当化するアメリカ人はひどい人たち、しばらく前の私なら、躊躇なく言い切ったことでしょう。

でも今は。。。。





同意する・しないっていうのは もちろんあります。

自分はどうするか? なにを選択するか? っていうことなら、即決にせよ、迷った挙句のことにせよ、決められる。

でも、人について決めつけることは・・・・・・・・いや、できる部分もあるな。

昔ながらの思考回路は、今もちゃ~んと残っているもの。

ただ、そこにアクセスすると、なんだか居心地悪いんだなぁ。。。。





ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 で、一番驚いたのは、


        「ヒトラーは天国へ行ったのだよ」


との 神のひと言。

当時は・・・って もうかれこれ10数年前のことだけれど、うっそ~、なにそれ!? Σ(゜Д゜;) って思いましたよ。

世間のあらかたがそうだろうように、ヒトラー = 悪、と考えることに いささかのためらいもなかった。

でも今は、「ヒトラー」 「悪」 のいずれも 私の中で存在が曖昧になっているので、賛成反対以前に、ヒトラー = 悪 の図式自体が成立しなくなっちゃってるんですね。






神ご自身の言葉については、ぜひ本をお読みいただきたいと思いますが、このひと言に出会って10数年後のいま、自分が思うのは、


             「(悪の象徴としての)ヒトラー」 も「悪」 も、自分の中に 後付けで取り込んだ 幻だった


っていうこと。

以前は、どちらも 自分の外に ありありと存在することに なんの疑問もなかったし、忌み嫌い憎んで当然と決めつけていました。

でもね・・・・

なぜ憎むの? って言われると、答えられないんだなぁ、これが





自分の外にあるものなら、本来どうとでもなるはず。

別にわざわざ憎まなくても、感情を交えず 他人事として眺めるだけでもいいし、心地よくないなら スルーすれば済むこと。

なのに、その単語を見聞きするたび、執拗に意識を貼り付け ワルモノ扱いせずにいられなかったのは、それが自分の中にあって、不快なのに手放せずにいたからなんだよね☆





赤ん坊の頃は、命を守るために 快・不快の区別はついたと思うけれど、それ以外の 善悪とか 正誤とか、そういう対立概念は、言葉がわかるようになってから 後付けで刷り込まれたもの。

そして その基準は、自分ではなく 外の世界にあったんですね。

世間的に受け入れられるものが善で正、受け入れられないものが悪で誤。

正しい人間なら 善や正を受け入れるべきで、それができなければ、つまはじきにされようと 制裁を受けようと 文句は言えない。

でもじゃあ、「世間」 ってなに?

答えられないよね、決まった形があるものじゃないんだもの。

その都度姿形を変えるものさしを、「これが世間」 と思い込んで 握り締めていた自分がいただけ。

そのものさしを振りかざして 「悪」 だの その象徴ともいえる 「ヒトラー」 だのを分け出し、外の世界に投影していたのも、他ならぬ自分。

これが腑に落ちたところから、そのジャッジも基準も 投影されたものも、私の中で 力を持たなくなったんだと思います (^^)





どうやってここまでたどりついたのかはわかりません。

最初は 本などを手がかりに 考えたり検証したり こつこつと、そして最近は、理屈抜きでからだが訴えるものを見つめるところから、意識せぬうちに少しずつ 揺らいでは剥がれ落ちていったものがあったのでしょう。

氣がついたら いつのまにか、「悪」 だの 「ヒトラー」 だの そういう言葉に力めなくなっている私がいた、と。





あれは幻だったんだ! という確たる認識があるわけではないのです。

夢から醒めるときって、リアルだったはずの夢が どんどん色あせて薄くなって、いつのまにか起床時の意識にとって代わられているっていうふうでしょう?

あんな感じ。

認識はないけれど、ジャッジしたり憎んだりできなくなっている自分に氣づいて、ああどうやら変わったらしいな、ってわかってきたんですね。





力めなくなった自分って、心安らかで 消耗しなくて ラクです

内に抱え込んでいた矛盾が、すっかりとは言えないまでも かなりのところ なくなったから、自分や人を責めることが 格段に減ったものね。

外の世界では、互いに責め合う揉め事も まだいくらも目につくけれど、このままさらに 自分の中の影を拭い続けていくうちに、そんな世界での自分の役割も見えてくるだろうし、時間はかかっても いずれはみな目覚めて 落ち着きどころを見いだすものと信じます。





きょうのブログのきっかけになってくれた セオドア・バンカークさんの魂が 安らかでありますように。

そして、もうすぐまた巡ってくる 8月6日・9日の原爆犠牲者の方々の魂に、彼らが身を挺して与えてくれた課題に、感謝の手を合わせつつ。























ちょっと補足☆

2014年07月30日 11時50分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


朝の陽射しに 「きょうも土用干し日和~♪」 と 嬉々として梅の盆ザルを出したら、じきに翳り始め、以後曇りっぱなし (;T▽T)

まあ、おかげで氣温がさほど上がらず、この時間でもまだパソコンやっていられるんだもんね♪

なんにでも、いい面ってあるものです





ここで前記事にいささか補足をば。

「見えない力をどう使う?」 なんて言われると、見ようによっては ハウツーっぽかったり、自分のトクになるように使えばいいのね、なんて印象になっちゃったりすることもあるかな? という懸念がちらと起こったもので (^^ゞ





たしかに私、旅館の仕事で 「おっかない人」 「愚痴や文句の多い人」 と評判の高かったお姉さんと組むときなど、まず自分の身を守るために(おい)、そして その方がどう変わるか知りたいという好奇心から(こら)、意図的に使ったことがあります。

ホメられたことじゃないですね

でも、ひと口に使うといっても、ただ聞こえのいいことを言えばいいっていうものでもないようです。

相手を感じないで 口先だけのお世辞を言っても、相手に伝わるのは、その白々しさだけ。

逆効果になってしまいます





前記事で、「ストックホルム症候群」 という言葉を使いました。

「ストックホルム症候群」については、こちら をどうぞ。

で、このストックホルム症候群、ポイントは 本氣で相手に感謝したり好きになったりする、というところ。

なにしろ 命がかかっているもの ((((;゜Д゜)))

命がけだからこそ、感謝や愛と縁のないような場面に、そういう思いを出現させることができるんですね。

でもほんとうの氣持ちでないのは、身の安全が確保されたとたんに けろりと消えうせることでわかります。

厳しい相手に 「教えてくださってありがとう」 なんて言うにしても、内心 「けっ」 としか思っていなかったら、伝わるのはそちらのほう。

エネルギーや波動は ごまかしが効きません。

どんなことにも相反する二面があると信じ、ついつい否定的なほうに偏りがちになる心のクセを飲み込みつつ、まずは自分の中のとんがりや身構えを解き、明るく開かせた上での 「ありがとう」 だから、それなりの結果になったんだと思います。

そこはまあ オノレを変える努力もしましたぞ・・・・って、ストックホルム症候群が後押ししてくれた面も否めませんが (^_^;)





ないものをあると言いくるめるのではなく、どんなにネガティブな面しか見えないところにも 必ずポジも存在するんだ、と理解して信じて、そこから言葉を発するからこそ、それに見合ったものを相手から引き出せるんだと思います。





考えたらすごいことですよね。

どんなわちゃ~な人にも物事にも、見えないところに必ずお宝が埋まっているんだから。

それを見つけられるかどうかは、こちらの日頃の心のあり方次第、っていうことかな?





(^^)






















見えない力を どう使う?

2014年07月30日 06時35分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前のブログ、見ようによっては 楽天的に過ぎるという印象になるかもしれませんね。

なにかを変えたいなら 行動あるのみ、座り込んできれいな言葉をいくら並べたって なにも変わらないでしょ? みたいな (^_^;)

人の意識は 多層構造になっていて、五感がすべての世界から 五感を超えた世界まで、さまざまな次元の意識が同時に存在し、どれにアクセスするかで 思うことが大きく(ときには真反対といっていいぐらいに)変わると感じています。

五感で触れる世界がすべて、という層が 自分の世界だと思い込んでいるときは、誰よりもこの私自身が、ああいうブログを書いた私につっこみたくなっちゃう(笑)

でもね。





10年前、とある大きな旅館で働いていたとき、新米の私は いろんな先輩方に付いて あれこれ教わりながら仕事をしていました。

そのとき、組んでいる相手の態度によって、自分から引き出されるものが180度変わるという体験をしました。

ダメ出しの連続で 否定され続けると、また何か言われる、とびくびく萎縮してしまい、かえって失敗が多くなります

そこにまた小言をかぶせられ、相手が言うとおりのダメダメな自分にますますなっていく、さらに その中で、納得いかないけれど言い返せない、というフラストレーションが次第に溜まって、自分の内側と 場の空氣をどんどん悪くしていく、そんなプロセスを つぶさに体験しました。

納得いかないのは、自分の負の反応が 相手によって引き出されたと どこかで感じているから。

でも、見える現象だけ取り出せば、「あなたはダメだ」 と言われ、そのとおりダメなことをしでかしているわけだから、「おっしゃるとおり」 で反論できないんですね (T_T)

ただただ理不尽な目に遭っているという 自分でもよくわからない怒りや恨みばかりが残り、そんなどんよりした氣持ちに足をすくわれ、またいっそう仕事の能率が悪くなる





その一方で、こちらを好意的に見てくれる人と組むと、別人か? と思うほど 生き生きと実力を発揮できる自分がいました \(^o^)/

ほめられればうれしいし、よ~し もっと! と張り切る氣持ちも湧いてくる

その人を喜ばせ、いい仕事をしたい、と意欲的になるから、ますます氣持ちよくテキパキ動ける。

ふだんしまい込んでいる力まで引っぱり出して、疲れ知らずでがんばれちゃうんですね♪





なにしろ人数の多い職場だったので、いろいろな人と組んで いろいろな体験ができて、そのうち 自分から積極的に “実験” してみるようになりました。

まあ、「実益を兼ねて」 ということだったんですけれど ( ̄∇ ̄*)ゞ

相手から好意的な反応を引き出したいとき、「あーもう この人文句ばっか」みたいな場面でも、にっこり笑って 「いろいろと教えていただいてありがとうございます」 と言ってみる。

そうすると、明らかに相手の反応がやわらぐのです。

ひどくいら立って仕事をしていた先輩が、まめまめしく面倒をみてくれる親切な先輩に変わったりして♪

同じ相手の態度でも、こちらが 「うるさいなぁ」という意識をぶつけるか、「教えてもらってる」 と好意的にとるかで、相手から引き出されるものがまるっきり違ってくるんですね☆





半年間 意図的にたっぷり場数を重ね データを集めさせてもらった あの体験は、今でも大きな財産です。

ひとりの人間の中に、「できる・できない」 「うれしい・うれしくない」 「好き・嫌い」 など、さまざまな 相反する要素が表裏一体となったものが ぎっしりしまい込まれているようです。

それが表に出るときは、必ずどちらか一方の面としてしか現れることができないのです。

どちらが出るかは、本人が自覚していれば、かなり意識してコントロールできます。

でも、そういうものだと知らなかったり、おおぜいの意識が集まって 外から強い力で働きかけられたりすると、自分に向けられるものによって 大きく左右されます。

逆に言うと、まだ起こっていない、可能性として見えない形で存在するものから、私たちは 自分の意識の向け方次第で、どちらの面でも 自在に引き出すことができるのです。





この力を無自覚に使うことで、好意的でない相手に 自分のフラストレーションを それと氣づかず上乗せして 不快な氣持ちをぶつけてしまい、相手から返ってくる反発のエネルギーがますます大きくなって、争いがエスカレートしていく。

ニュースをさっとひとわたり眺めるだけで、世界中のあちこちで このからくりが働いて、争いが激化していく様子が見て取れます。

私たちの見える世界は、見えない意識によって動かされています。

見える世界だけで判断すれば、状況を変えるのは 行動によってのみ、と思えるのも 無理ないこと。

でも、目に見える行動に 目に見えない意識が どれほど強く影響するものか わかっていれば、まず変えるべきは 意識の方だということもわかります。

まだるっこしく見えても、なんであれ きっとできる・うまくいく、という意識を持ち続けよう、発し続けよう、と思えるのは、あの半年間に渡る実験の手応えを 今も持ち続けているから。

最悪! と思える状況でも相手でも、必ず真反対の要素を内包しているもの。

自分の意識の向け方次第で、最悪なものをさらに発展させることもできれば、反対の要素を引っぱり出し 具現化させることもできるのです。





あの半年で氣づいたのだけれど、人って誰でも 自分のことをよく思いたい氣持ちがあるようです。

だから、かなりしんどい状況で、ストックホルム症候群ですか と言いたくなるほど 自分の意識を曲げてでも、好意的な意識を向けると、ウソっぽいと反発されるかと思いきや、けっこうしっかり乗ってきてくれるケースが多いと知りました。

意識してないけれど、互いに協力し合って 場の空氣をよくしているんですね (^^)

生きものはみな 不快より快を求めるようにできている。

この傾向を味方につけ、人やものごとのよい面に 意図的に光を当てて そちら側を引っ張り出す、そんな積み重ねが けっこう大きな力になるような氣がします。

さらに、おおぜいが心を合わせてそれをやれば、すごいパワーをもって 事に当たれるとも感じます。

意識や言葉の見えない力、なかなか強力です

























小さな灯り 大きな光

2014年07月29日 02時23分32秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「目に映るものすべてが 自分の心の投影」 と たびたび言ったり書いたりしていますが、その意識で 最近のニュースの見出しをさっと眺めるだけでも 冷や汗が出ます ( ̄  ̄;)

意になじまない他人の所業を 自分に引き寄せて眺めるのは、なんてしんどくて 勇氣のいることか。

そして、だからこそ 必要な作業でもあるのですね。

他人の顔は見えても 自分の顔だけは直接見ることができないように、自分の心というのも 限りなく見えにくいもの、鏡があって ようやく見ることができるのだから、そこに映ったものに文句を言っても始まらない





そうはいっても、庶民から奪うことをためらわない政治家や官僚、いのちに害をなすものを流してでも利益を得ようとする事業者、などのオンパレードを見ていると、「いくらなんでも 私こんなことしないもん」と 思わず叫びたくなります。

でも、そこで思考停止せず、彼らにそういう行動をとらせる さらにその大元に目を向けると、見えてくるものがあるんですね。

自分の利益を守るためなら、他の生命の安全をおびやかし、エネルギーを奪うこともいとわない、世間で起きている現象から そんな要素を抜き出して、自分に当てはめると。。。。

あるんだなぁ、これが





たとえば、過食。

ありがたいことに、このところはかなり 心身共にいいバランスを保っていますが、白浜にいたときを見ればわかるように、多少なりともストレスがかかると、この方向に走りやすい傾向は、今も健在。

心が不安定になると、食べる量の加減がわからなくなり、しかも やたら甘いものやしつこいものが欲しくなります。

こういうときは、口にするものが安全か、からだにいいもの・必要なものか、という基準が吹っ飛んでしまうので、質・量共にからだにダメージを与えるような食べ方を、平氣でしてしまいます。

一部の意志が、全体に悪影響を及ぼし 害をなす行為を選んでしまっている、と。

自分を 世の中全体の縮図に見立てると、当てはまるんだよね、ちゃ~んと

過食に限らず、依存症と呼ばれるような中毒行動は、大なり小なり 身に覚えのある人が多いのではないかなぁ。





明らかに 自分全体に害を及ぼす行為を、一部の意志が暴走して 選択してしまう。

では、なにがそんなことを引き起こしているのかといえば、思い当たるのは 「不安」。

つきまとう不安をどうしていいかわからなくて、さらされ続けることが耐え難いので、とにかく一時的にでも忘れようという強迫観念にかられて動いてしまう。

それが楽しくてするのではなく、とにかく不安から逃れたい一心での行為なんですね。

そんな自分を やたら責めても、事態はかえって悪化するのが関の山。

過食でいえば、強引にダイエットなんかしたところで、結局はリバウンドしてしまうのがオチです。

およそ勧められる行為でないとはいえ、身を守るためと信じて必死でやっているんだもの、強引にやめようとするのは 安全弁を奪うこと、どうしてもブレーキがかかってしまう。

意に反してやめられないから 「中毒」 なのですね。





ひるがえって、これを今の世の中に当てはめると。。。。「害をなす」 と思われている人たち、どれほど大きな不安にとらわれているんでしょう (T_T)

戦いに走る傾向、からだに悪い食品や 怪しげな医薬品の流通、放射能の止まらない原発、どれひとつとっても 地球全体に害が広まるのは目に見えていることなのに。

自分たちにだって いずれは害が及ぶことが、わからないわけではないだろうに。

でも、過食に走っているときの自分に置き換えると、「それ 栄養バランス悪いよ」 「添加物いっぱい入ってるよ、からだによくないよ」 なんていう声が聞こえたところで、振り払わずにはいられないのです。

あとでツケが回ってくることは 重々承知しているんだけど、耐え難い怖れが先行してしまっているので、聞く耳を持つ余裕がまるでないんですね。

そのときの自分の心理を思い返すと、今世の中を動かす立場に立っている人たちって、いったいどれほどすさまじい不安にさらされているんだろうと、胸が痛くなるほどです。

同じ要素を自分の中にも見いだしてしまえば、それはもう他人事じゃないものね (- -;)





こうして 大宇宙たる世の中と 小宇宙たる個人に 相関関係を見ることができれば、今の自分にできることも見えてきます。

ちっぽけな個人が 徒手空拳で いきなり世の中を変えることはできなくとも、自分という個の調和を図ることはできる。

たとえ団結して、意に染まないものを 力任せに叩き潰そうとしても、抵抗は相手の力を増すだけ。

一見まだるっこしそうに見えても、自分の心をしっかり見つめて 怖れを払い 安定させることができれば、その反映である世の中全体も きっとよくなっていくはず。

鏡に映るものを変えたいなら、映像をどうこうするより、まず元のほうを変えないとね





ジョン・レノンじゃないけれど、想像してみて。

自分の心の中に点在する黒い闇、それを取り巻くように ちっちゃな灯りが ひとつ、またひとつと 灯っていくさまを。

野火のように 闇に散らばるちっちゃな灯りが どんどん増えていって、やがて集まり 大きな光になって、闇を照らす。

ひとりひとりの心の中であれ、世の中全体であれ、戦わなくても 脅かさなくても、闇を払うことはできるんだよね♪





ちっぽけな自分と 限りなく広い世界を イメージの中で行き来して、今すぐにでもできることを見つけて、きょうも貴秋は、小さな自分の暮らしを楽しみながら、ささやかな灯りを灯すことに専念します。

ひとりひとりの明るい氣持ちが、いつか必ず大きな光になって あかあかと世界を照らし出すと信じて、ね(^^)

























盛夏ならではのお楽しみ♪

2014年07月27日 08時35分15秒 | 日々の楽しみ


きょうも この時点ですでにあっつぅ~いです

セミの大合唱、遠くから草刈り機の音、夏の風物詩だなぁ♪

きのうから梅干しの土用干しを始めました。

陽射しがあまりにも強烈なときは、それを生かせることをするに限ります。

厚地のものの洗濯、冬布団干し、乾物作り、などなど☆

また、掃除道具を洗って 殺菌を兼ねてがっちり干すと、次から氣持ちよく使えるし♪

こういうのって、照りつけが強いほど トクしてる氣がして、いい氣分になれるでしょ

またまた猛暑記録を更新したらしいきのうなんて、土用干しにはうってつけ♪

この調子なら、去年よりずっといい出来栄えを拝めそうです(*^^*)





人間がめげそうなほどの猛暑日には、ぜひドライトマト作りをどうぞ♪

ミニトマトを半分に切り、切り口を上にして ザルに並べ、ひたすら日に当てて干すだけ。

以前ドライトマトの作り方をいろいろ研究したことがあって、オーブンなどを使うのもいいですが、やっぱり最高なのは天日干し。

といっても 通常の陽射しで干しただけでは、干し足りずにカビてしまいやすいので、こういうケタ外れの晴天のときが狙い目。

異常と言いたいほどのトンデモ晴れだからこその、貴重なドライトマト日和♪

切ったトマトに ぱらりと塩を振って、キッチンペーパーなどで水氣を吸わせると 乾燥させやすいですが、欲張りな私は トマトの濃厚なエキスをムダにしたくないので、切っただけでいきなり日に当ててます。

数日がかりで干し上げ、水氣がなくなり、二まわりぐらい縮んで 全体にぐにゃっとレーズンっぽくなってきたら、出来上がり。

すぐ使うならそのままでもいいですが、天日干しは 常温でも冷蔵でも やはりあとあとカビやすいので、オリーブオイルに漬けておくと、長期保存できます。

干したてのをそのままパクッといただくと、トマトの濃縮した旨味がもうたまりません

おやつにもおつまみにも最高! \(^o^)/





青ジソの乾燥したのも、長期にわたっていい香りを楽しめます。

さっと洗って水氣をふき取ったシソの葉を、ザルに並べて 陰干しするだけ。

家の中で、お天氣がよければ 一日で乾くから、お手軽です。

こちらは しっかり乾燥させてあれば まずカビたりしないので、ビンに詰めて 常温保存OK。

海苔と同じように 手でもんで細かくして、薬味にしたり、うどんやパスタにかけたり、ご飯に混ぜたりと、何にでも使えます♪





夏の暑さを逆手に取った お楽しみの数々で、毎日をいい氣分ですごしましょ♪

常温暮らしの貴秋、きょうもばりばり元氣です (⌒∇⌒)ノ





















自由選択

2014年07月27日 06時42分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


突然 胸の奥から痛みがこみ上げてきて、涙がにじむことがあります。

それも、え? なんで今? と思うような状況で。





書きかけのブログを うっかり消しちゃった、とか、洗濯機のスイッチを入れ忘れて ぜんぜん洗えてなかったとか、きちんと保存しておいたはずの食品が傷んでいた、とか。。。。

それはまあ ショックなのはわかるけれど、この深くインパクトある痛みは、そんな日常的な原因と ダイレクトにつながっているようには どうも思えない。

これはぜひとも探らねば、と 痛みのもとをたどってみると。。。

まだ言葉もしゃべれないほど幼かったころへと導かれます。





生まれて間もないころの私たちは、まだ “大いなる ひとつ” であったころの記憶や感覚を 多分に残しているようです。

だから、頼りない身の赤ん坊も、少しも心配していない。

ありのままの自分でいるだけで大丈夫、万事滞りなくうまくいく、と信じ切っている。

それが、すでに本来のあり方からだいぶかけ離れてしまった大人との関わりによって、いきなりガン!と 違和感の壁にぶち当たり、なにこれ!? なんで? とショックを受けるようです。

こんなはずでは。。。。なんでうまくいかないの? と、思い通りに進まないことへの恐怖や痛み、いらだちをを覚えるようです。

実際にそんな年ごろの記憶が残っているわけではないので、直感の示唆の下、あとは想像を働かせるしかないのですが (^^ゞ





で、ショックを受けるたびに、わぁ~っと泣いて発散してしまえば それで済むのだけれど、少し大きくなって、「泣いちゃいけません」 「怒っちゃいけません」 と押し留められてしまうと、抑圧された感情が 行き場のないまま内に溜まって、持ち越しとなるようです。

そして、解消できるだけの力がついたと判断されたとき、なんらかのできごとがきっかけとなって 突然記憶のフタが開いて、わっとこみ上げてくる、と。





私たちは、幼時の記憶が抜けているから、どうしても目の前のできごとと 上がってきた痛みや涙を直接結び付けてしまうけれど、そのできごとというのは、実はそのほとんどが、押し込められていた痛みや涙を誘い出すきっかけに過ぎないみたいです。

期待していた結果が起こらず失望した → 自分への信頼が揺らいだ、というパターンは 昔も今も共通なのだけれど、できごと自体と湧き上がる感情との度合いが違い過ぎる。

この二つがつり合っていないと、自分のことでも他人のことでも 「感情に走りすぎ」 「大人氣ないなぁ」 などと異様に思ってしまうけれど、幼い子どもが感じた怖れや悲しみだったとわかれば 理解できます。

否定も非難もせず、ずっと持ち越されていたそれを しっかり味わって表現して 終わらせればいいだけです。





身のまわりで頻発するトラブルを 苦の種にしていたころもあったけど、あれは 自分の心のありようを知らせるとともに、押さえ込みっぱなしだった感情を解放するチャンスを与えてくれてもいたんですね。

それを、「いい年してみっともない、情けない」 などと 大人の分別で またしても押さえ込もうとしたから、同じことを 繰り返し体験するハメになったのだけれど、痛いものは痛い、怖いものは怖い、と率直に認めて、その場で泣くだけ泣いて、怒るだけ怒って、出し切って終わらせてしまえば それでよかったんですね。





さらに、必ずしも自身の体験でなくとも、実話やフィクションなどを通じて流す涙も、うまく使えば 同じ役割を果たすようです。

そう氣づくと、泣ける小説や映画、ドラマ、ドキュメンタリーなどに これだけ人氣が集まるのも納得です。





この辺のことがわかってからは、不釣合いな感情でもなんでも、むしろ進んでたっぷり味わい ためらうことなく発散して、心の大掃除をさせてもらっています。

と同時に、人のことも なんでこの程度のことで こんなに怒るんだろう? 落ち込むんだろう? と驚いたりあきれたりしなくなりました。

表には見えないところで、その人なりにいろいろあるんだって わかってきたから。

大人氣なくてもみっともなくても構わない、自分のほんとうの氣持ちをわかって 受け止めて 解放してあげるだけで、自分もまわりもどんどんよくなっていけるんですものね。

一度しっかり出し切ったものは、それ以上は戻ってこないようです。

私自身、何度も繰り返すうち 残量が少なくなったのか、以前のように激しい感情の揺れが長時間続くことは ほとんどなくなりました。

その分、前にも書いたように 内と外のバランスがとりやすくなってきたのかもしれません。





長いこと、自分が悲しい思いや腹立たしい思いをするのは、そうさせるものが外にあるからだと思っていました。

でも実際には それは内側に、心の中にあったんだと氣づきました。

ある意味、外のせいにしてしまえば楽なんですね。。。。自分はなにもしなくて済むから。

でもそれは、自分は無力だと宣言するも同じこと、そして そんな意識どおりに 「無力な自分をいいように翻弄する」 世界が どんどん広がり 進行していきます。

自分の思いが 自分の世界を創るのだから。





ここから先は、各自の自由選択ですね。

あなたの世界をどんなふうにしたいですか? 今のままでいいですか?・・・・・連日目にするさまざまなニュースの見出しに 問いかけられているような氣がします。























ゆだねる

2014年07月26日 08時21分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あれはもう10年以上前になるのかな。。。。

とあるワークショップに参加したときのこと。

いくつもの小ワークが組み合わせられた 半日がかりのプログラムだったのですが、その中に、二人一組で 片方が目隠しをし、もう片方が相手をエスコートして 公園の決められた範囲を一周するというのがありまして。

ポイントは、言葉を一切発しないこと。

だから、介添役は 声によらないなんらかの合図方法を工夫して伝えながら 相手を導かないとならないわけ。

私はまず先にエスコート側になって、スマートとは言えないながらも なんとか無事にお相手をゴールまでお連れし、続いて自分が目隠しをして 先導してもらうことになったのですが、これが想像以上に不安で怖くて。

いえ、相手の方のフォローはしごく的確で 私よりはるかにわかりやすく なんの問題もなかったのですが、じゃあ なにがそんなに不安だったのかといえば、ひと言で言うと 信頼が足りなかったんですね。

日ごろ使い慣れた五感の中でも 特にウェイトの大きい視覚を塞がれ、その状態に適応できないまま 自分でなんとかしようとあがき続けて、せっかく 「進んでOK」 の合図をもらっているのに、怖くて次の一歩が踏み出せない。

ふと、そんな自分のあり方のおかしさに氣づき、そして思ったのです、こんなに上手に誘導してもらっているのだから、自分でどうにかしようというそのがんばりを放棄して、万事お任せすればいいんだ、と。

で、頑固に抵抗して突っ張っていたものを 思い切って外し、素直に導かれるにまかせてみたら。





すぅっと怖れが遠のき、力が抜け 氣が楽になって、すっかり楽しくなってしまったのです。

あの氣分は、親を信頼して すべてを預け切って遊ぶ 幼い子どもそのままでした。

そして、ゆだねるというのが これほどまでにうっとりくつろげることだというのを、きれいさっぱり忘れていた(知らなかった?)自分に氣づかされました。

そこからは 無性にうれしくて、すっかりお母さんに甘えた子どもに返って、口元がほころびっぱなし。





そして、これはあとから聞いたのですが、相手の方は、私がにこにこ微笑んでいるのを見て、もっともっと楽しませてあげたいという思いが募ったのだそうです。

この方、自己紹介のときに ご自身の特徴を 「お母さん」 とひと言でおっしゃっていましたが、まさにそのとおり、母性愛溢れるフォローで、とりあえず一周すればそれでいいのに、わざわざ水道まで連れて行って 手に水を垂らしてくれたり、ブランコに座らせて そっとこいでくれたり、と、いろいろなくふうで彩りを添えてくれたのでした。

なによりも、その優しい思いやりが伝わってきて、じ~んとなったのを覚えています。






自分でも元をたどれないほど 記憶にないところで当然のように長年居座っていた不安。

デフォルトだと思い込んでいたそれに取り巻かれているときは、無意識のうちに 常に氣を張って身構えていました。

うっかり氣をゆるめると いつどこで どんな災難に見舞われるかわからない、それが人生だと思い込んでいて、緊張を解くことができなかったのです。

そんな自分を、行動ではなく あり方から変えようと心に決めて、これと思うことを片っ端から実行していく中で、からだの感覚に集中する という情報に出会い、ひたすら試すうちに、当然のごとくつきまとっていた不安が 次第に薄らいできて、そこで初めて 身も心も 力を抜くことを覚えました。

自分で人生をコントロールしないと、という張り詰めた氣持ちを、初めてゆるめることができたのです。

そんな変化が、前回書いた「 内側と外側の調和」 にも反映されて、からだ本来の力が よりいっそう発揮できるようになったんですね。





ゆだねているとき、もっとも力が抜けていて、ゆえに もっとも力が出しやすいと感じます。

どんなに頑張るよりも、すっかり力を抜き切っているとき、もっとも強く、もっとも守られているみたいです。

赤ちゃんは、世話をしてくれる大人がいなければ 生きていくことができない立場なのに、そんな不安を感じている様子は みじんもありません。

いつも満ち足りて 氣持ちよさそうで、見ているこちらまで 幸せな氣分になって、ついつい大切にお世話してあげたくなってしまう。

なんの力みもがんばりもなく、まわりを自然とその氣にさせて、しかも双方心地よくいられる、これが 「ゆだねるものの強さ」 なんじゃないかな。

成長するに従って ついつい忘れてしまうけれど、そろそろ再び 思い出して吉、なのかもしれません。





今でもまだ、うっかり緊張のスイッチが入ってしまうことは ままあります。

でも、そんな自分の引っかかりを見つめつつ、あのワークで味わった ゆだねて甘える幸せを思い出して、再び力を抜き、やってくるすべてを受け止めようと思いなおすのです。

私たちが長年 ゆだね切れず抗うことで作り出してきた、負の副作用を伴う社会システムや 便利さの数々、それらをクリアに戻して 壊れかけた環境を整え、迎えつつあるピンチを救うのは、そんな試みのもと取り戻す、無垢な赤ん坊のようなやわらかい心なのかもしれません。









p.s.


パワフルママさんへ

こんなところからですみません。

いただいたコメントにお返事さし上げたいのですが、けさから欄の調子がおかしくて、文章が途中までしか反映されず うまくアップできません。

会社に問い合わせていますので、もうしばらくお待ちくださいね m(__)m
























内と外

2014年07月26日 01時18分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうは。。。。いや、もうきのうになっちゃったけど、全国的にかなりの暑さだったようですが、こちらもこの夏一、二を争う高氣温だったんじゃないかな。

特に午後からは、薄曇りになった分、湿度が上がって、すごい蒸し暑さ。

でも そんな中、相変わらずクーラーなし生活で、貴秋は元氣いっぱいなのです \(^o^)/





心の変化に伴って からだのほうも変わってきているみたいです。

昨夏は 氷を使わず、飲食物は冷蔵室で冷やすに留めていましたが、今年はなんと 冷蔵すらせず、常温でいただいています (≧▽≦)

クーラーなしの部屋で 熱々の料理も食べるし、飲み物も 水からお茶、コーヒーまで すべて常温。

これがなんかいいみたいなんです♪





今年は梅雨明けが遅く、7月に入ってからも けっこう涼しい日が続いたので、梅雨明けから一転猛暑になると聞かされて、一時はビクついていたんですね。

そんなとき ふと思ったんです。

なんのかんの言っても、二昔前ぐらいまでは、冷房も冷蔵庫もなくたって、みんな当たり前に夏を過ごしていたんでしょ?

たしかに ここ数年は異常氣象で 温度の上がり方も半端ないし、都会ではヒートアイランド現象なんかもあるから、一概には言えないけれど、ならば 50度近い砂漠で暮らす民族の方々はどう?

そんな過酷なところでも、やっぱり冷房・冷蔵庫なしで、人間ってちゃんと生きられるものなんだよね?





こういうことを考え出すと、ついつい 人間本来の身体能力をどこまで取り戻せるか、挑戦したくなっちゃうのが サガなんだなぁ ( ̄∇ ̄*)ゞ





映画 「ガイア・シンフォニー」 の監督・龍村仁さんの著書 「地球(ガイア)のささやき」 に、こんな話があります。

撮影のため 50度を越える高温のアフガニスタンの砂漠を車で移動中、いっそこのすさまじい暑さと仲良くなってやろう、この暑さこそ 砂漠のメッセージであり、それをからだの全感覚を開いて受け止めることこそ、砂漠と付き合う第一歩なのかもしれない、と心に決めて、ひたすら耐える龍村さん。

たどり着いたオアシスの茶店で、旅人たちがわざわざ熱い紅茶を飲んでいるのを見て、奇妙に思いつつも試してみたら、道中でもう出切っていたと思われた汗が噴き出し、身も心も軽やかになって、耐え難かった暑ささえ 心地よく感じるようになった、というのです。



      外の世界から吹き込んできた “風” が私のからだの中を吹き抜けてまた、外へ出てゆく。

      自分のからだが砂漠の “風” の通り道になってしまったような、そんな氣分だった。



そんな時、スタッフのひとりが突然苦しみ出します。

車の中でも さかんに冷えたコーラを飲んでいた人で、さらにオアシスの井戸水を頭からかぶったところ、急に息ができなくなってしまった、というのです。

本来スムーズに循環するはずの 内側の自然と外側の自然が、彼が外側の自然(暑さ)を怖れて 冷たいものを飲み続けたことで うまく順応できず、さらに冷水をかぶったことで、毛穴が開きっ放しの状態になって、皮膚呼吸ができなくなってしまったのでした。



      人間のからだ、すなわち内側の自然は、本来、外側の自然、すなわち環境に順応するための、神技としか思えないほど見事なシステムを持っている。

      だからこそ人間は、氣温五十度を越える砂漠地帯でも、マイナス四十度の氷原でも、平均体温を三十六・五度に保って生きてこられたのだ。

            (中略)

      外側の自然の変化を怖れ、それに抵抗しようとすればするほど、内側の自然の順応力が低下する。

      まず心を開けば、からだが開く。

      からだが開けば、内側の自然は、しぜんに外側の自然への順応力を高める。

      砂漠の民が、冷たいものを飲まず、熱い紅茶を飲むのも、外側の自然との長い付き合いの中から生まれた知恵なのだ。

      心を開いて現地の人々の知恵を学べば、私たちも氣温五十度の砂漠で生きることができる。





この話が、ずっと心に残っていたんですね。





これまでずっと、いつも怖れに取り巻かれて暮らしていた私。

氣候に対しても例外ではなく、猛暑だ厳冬だと聞けば、ついつい身構えて 立ち向かう姿勢になっていました。

そうやって抵抗するほど、「相手は大きくなる」 。

これはもう 万事に言えること。

だったら、私も龍村さんのように 暑さに心を開いて 順応して、持って生まれたからだの力を目一杯高めて、たとえ地球の異変から起こる暑さであっても 乗り切れるんじゃないかな?

禁糖のときもそうでしたが、こういうことをふと思いつくと、あとはちょっとしたノリやきっかけで ひょいと始めちゃうのが、私のクセ





実際やってみて思ったのは、自分がこれまで 冷たい飲み物や食べ物を欲しがるたびに、あのスタッフさんのように、やはり暑さを怖れて抵抗する氣持ちが働いてたんだな、っていうこと。

そのせいで、私の内側と外側に 文字通りにも比喩的にも 「温度差」 が生じ、暑さをいっそう際立たせ、苦にさせていた。

でも、これまでもずっと思ってきたように、真夏の外氣も 私のからだも、同じ夏のエネルギーが作用しているんだよね?

だったら、炎天下で 刈っても刈ってもたちまち伸びる草々のように、私もこの強烈なエネルギーに負ける代わりに 生かされることもできるのでは?

と そんな期待をひそかにしてみたんですが。





ここ2~3日の高温の中で 実感しました。

たしかに 暑さを感じてはいるのです。

きのうなんか、この夏一二を争う氣温なのが はっきりわかったし。

でも、暑いと思うことと、それを辛い苦しいと思うことは、別のことなんですね。

暑いなぁと思いつつも、その中で ちゃんと発汗機能で調節しながら、動くときには動いて、休むときには休んで、普段どおりの暮らしが 自然にできる。

これまでのどの夏よりも、暑さを苦にせず過ごしている自分がいる。

早く温度下がってくれないかなぁ、とか、一雨くればいいのに、とか、イライラと考えることもなく、他の季節と同じように 淡々と一日が過ぎてゆく。

からだ以上に、そんな抗わない心が 日々を過ごしやすくさせてくれているんですね。

たぶん、内側の自然が 本調子で作用していて、外側の自然との調和が取れているんじゃないかな♪





もちろんこれは、豊かな自然に囲まれて、朝晩はぐっと氣温が下がるこの土地だからこそ、うまくいっているのかもしれません。

誰もみな 同じようにすればいいなんて、極端なことを言うつもりは毛頭ないです。

ただ、実験してみて、砂漠の民ほどまでとはいかずとも、人の持って生まれた身体機能って やはりかなりのハイスペックらしいとわかったよっていうことを、ちょっとご報告したくなりました。

からだと心をうまく調整できれば、自分の中にも まだまだ思いがけないほどの強さがそなわっているんだって想像するだけでも いい氣分になれて、毎日の暑さが ちょっとでもしのぎやすくなるんじゃないかなぁ、って思って、ね☆





普段は 文明の利器を愛用していても、それぞれの環境・状況に応じて 少しずつでも内と外の調和をはかっていって、いざというとき、眠っていた自分本来の力のすごさに感動していただければ なによりです
























      

ノーテンキノススメ

2014年07月23日 23時23分30秒 | ふと思うこと


あれはたしか去年の夏ごろだったか、実家に行ったときのこと。

突然妻に先立たれて まだ1年ちょっとにしかならないというのに、慣れない家事に苦戦しているかと思いきや、けっこうマメに買い物したり ご飯作ったりと しっかり主夫している父。

いや、食生活のみならず、掃除洗濯から 季節のものの入れ替え、ワイシャツのアイロンがけに至るまで、80過ぎての主夫デビューとは思えない行き届いた暮らしぶりに、助っ人に行くたび 感心しきりだったのですが、さすがにまだそうそう万事要領よく・・・とまではいかず、仕事が忙しくなると、予定していた料理を作るひまがなくなり、そのまま冷蔵庫に入れっぱなしの食材を ちょいちょいダメにしてしまうことに。

そこで生活者の先輩としては、長年の研究成果を披露して 冷凍庫の活用を勧めるのですが、なぜか素材を冷凍することに抵抗のある父、使わずじまいでダメにしてしまうほうがよほどもったいない、という私と 論戦することたびたび。

そこで、ダメになるのもさることながら、傷みかけたものをうっかり食べて、食中毒にでもなったらどうするの? との問いかけに、父の答えたひとことが、

         「俺は、胃酸ほどの強力な酸にかかれば、どんな細菌もたいがい死ぬと思ってるから」



ちょっと待ったぁぁぁ~

なんなんですか、その非論理的結論は




以前にも書きましたが、私が子どものころのわが家は、親子の意見が対立するたびに行われる話し合いが とてつもなく理屈っぽく、ほとんどディベートといった様相で、それでいて 最終結論は 決まって親側に軍配が上がるのがお約束という理不尽さに、長年の怒りが溜め込まれて えらいことになってしまったわけなんですが、どちらかというと感情的で 話を都合よくもっていく母に対して、父は几帳面な論理派。

理数系思考に強く、反面 非科学的なことには 聞く耳持たないようなところもありますが、常に冷静で、母の理不尽さとは対照的に、感情に左右されることなく 客観的に話を進める父には、その四角ばった話の運びにげんなりしながらも、いちおう一目置いていたのですが。

その父が。。。。

どんな駄々っ子の言いわけですか? と思いきや、けっこうあっけらかんと そう信じることに決めてます、みたいな顔してるし (^◇^;)

サルモネラ菌だろうが ノロウィルスだろうが、万事胃酸でなんとかなるものなら、毎年この季節に これだけ食中毒が騒がれるわけないでしょうが

と 思いっきり反論しかかったのですが、

ん? ちょっと待てよ?

ふと思ったのです。

この 長年積み重ねてきた緻密な論理思考を 一瞬で吹っ飛ばすような アホな言い分こそ、実は どんな理屈も越えて 最強なんじゃないかなって。





そもそも いのちの世界って、そうそう理路整然と筋道立ったものじゃありません。

不動の固体である岩が、同時にスカスカで 常に動き回る微粒子の集まりでもある、なんていう矛盾が成立しているのが、私たちが生かされている この世界。

ガンにかかっても、なぜか突然ガン細胞が跡形もなく消えちゃう人だっているし、薬と思い込んで飲んだ粉砂糖で 頭痛が治っちゃうとか、熱した鉄の棒だと思い込んだガラス棒で腕をなでられたら 火ぶくれができちゃうとかいう話だってある。

科学や医学がいくら論理的に発達したところで、しょせんは この世の神秘のほんの一部を切り取って 辻褄が合うように話を組み立てているに過ぎないわけで、まだまだ未知の領域の方がはるかに多いのが実情。

どんな細菌でも病原菌でも、同じように取り込んだ人が 同じように発症するとは限らない。

その差を分けるのは、常日頃からの肉体の健康度なのかもしれないけれど、その健康度にしたって 「病は氣から」 なんて言葉があるぐらい、理屈では割り切れないものに左右されているんだよね。

ならば、なんでも自分に都合のいいように考えて それが実現するのなら、これ以上の守りはないっていう話ではありませんか☆





日頃 「自分の世界は 自分の思いが創ってる」 なんて言い続けている私が、非科学的な話は受け付けないはずの父のひと言に、自分の思い込みを氣づかされたっていう逆転の構図がミソなわけですが、ここで いつもどおり理屈通しなさいよって私が父に迫るより、思いがけない父のご都合主義に 私がひょいと乗っかっちゃう方が、なんだかうまくいきそうで 楽しいような氣がしてきたのです (≧▽≦)

まったくどちらも ノーテンキで適当な 似たもの親子だわ(笑)





しかしながら、このところやたら目につくように、世界のあちこちで戦闘だのよくわからない事故だの起こってるわ、政治も経済もややこしいことになってるわ、氣象もなんだか異常だわ、みたいな世の中で、筋道立てて行く末だの身のふり方だの考えたら、悲観的にならざるを得ません。

なにしろ、世の成り行きの方が、これまでの理屈だの予想だのをはるかに超えて おかしくなっちゃってるんだから。

こんな定まらない流れの中でも それなりにうまくやってゆけるのは、なんでも自分に都合よく解釈する したたかでいいかげんな精神の持ち主なのかもしれません。

根拠なく 「自分はだいじょーぶ」 と思い込む お氣楽なノーテンキさこそが、「信じるものは救われる」 明るい未来を生むカギなのかもね♪

悲観的なニュースに律儀に怯えながら身を守ろうとするより、こういう人のほうが 案外しれっとしぶとく生き残るのかもな~、と、妙に感心しながら 改めてわが父親を見直したものでした。





実際 こんな時代だからこそ、「正しいかどうか」 にこだわるよりも、「いい氣分でいられるかどうか」 を大事にして、みんなで明るく乗り切っていけたらいいですよね♪

以来、「胃酸でたいがいなんとかなる」 というこの考え方、ありがたく採用させていただいております
























名づける ・ その3

2014年07月23日 07時46分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、「アッシー」 なんて言葉が流行ったことがありましたが、仲間内で アッシーくんの報われない尽くしぶりや 傍目にこっけいな姿などを 揶揄的に取り上げて盛り上がっていたとき、横で冷静に聞いていた人の 「で、ほんとうにそういう人に会ったことあるの?」 というひと言に、ハタとわれに返って バツの悪い思いをしたことがあります。

面白半分で、ありもしないものに実体を持たせるようなことを 無自覚にやらかしていた自分の危なっかしさに氣づいて。

そんなことをしてまで 目を背けたかった、自分の心の貧しさをつきつけられて。

流行り言葉を ノリやテンションだけで使うことの意味を思い知らされた瞬間でした。

内容のない空っぽのイメージに 名前をつけて さも実在するかのように語ることは、自分もまわりも欺いて、エネルギーを無駄遣いさせたり、ひどいときには 悪意のこもったものをわざわざ生み出してしまったりするのですね。





「はてしない物語」 の幼ごころの君の 「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができる」 というのは、こういうことも含んでいるのかな、と思ったりします。

その本質や役割を正しく表す名前をつければ、正しい働きをしてくれるけれど、誤った名をつければ、本来ないはずのものがあるように見えたり、善意から生まれたはずのものに 否定的な意味合いが生じたりしてしまう、と。

これは、名前をつけた人だけでなく、使う人にも当てはまることなんですね。

ジョークや軽いノリで使う言葉に いちいち目くじら立てることもないけれど、それが大切なこと・重要なことであればあるほど、名を持つものの本質的な部分をちゃんと理解して 感じ取って使うかどうかで、自分の周りの世界が大きく違ってくる。

自分の愛するものによかれとの願いを込めて それに見合う名前をつけることも大事だけれど、それ以上に慎重になったほうがいいのは、好きになれないもの、力を与えたくないものに名づけるときなのかもしれません。





たとえば、「嫌韓」 なんていう言葉にしても、人それぞれにいろいろな過去があるのだし、そこから好き嫌いの感情が生まれてしまうのは ある程度仕方がないことなのかもしれない。

ただ、自分にとっての 「韓」とは 具体的になにを指すのか、「嫌」 とは どういう感情を表すのか、ちゃんとその “現地” をわかったうえで使うのならまだいいけれど、なんとなくのキャッチフレーズみたいなものに うっぷんばらしのエネルギーを乗っけて言い放ってしまうとしたら、それは怖いことのような氣がします。

なんといっても、自分が発したものは、自分に返ってくるのだから。

自分で責任持って受け止められないエネルギーを 八つ当たり的に野放しにしてしまうのは、誰にとってもいい結果になろうはずがない。

今の世の中で なにかとフラストレーションが溜まりやすいのはわかります。

でも、ほんとうに解消したいと願うのなら、そのできる限り元の部分をしっかり見つめるしかない。

でないと逆に、自分がフラストレーションの製造元になってしまいかねません。

「抵抗すれば、相手は大きくなる。見つめれば、消える」 なのですから。

どちらも ( 特に前者を多く ) やってみた身として、まったくそのとおりだと思います。

イヤなもの、なくなってほしいものに わざわざ名前をつけて 憎しみや非難の的にするのは、その存在にはっきりした形や居どころを与え、エネルギーを注いで強化して、怒りや苦しみを大きくするだけ。

もちろん、なにを選択するかは それぞれの自由だけれど、自分の捉え方、意識の向け方が、ほんとうに自分の望む結果に結びつくのか、名づけることの意味と考え合わせて よぉく観察する方がいいんじゃないかな?





自分が名づけて分け出したもので、自分の世界が創られる。。。。ある意味 神的といってもいい創造行為。

せっかく与えられた力なら、自分のほんとうの望みどおりの世界を創るために うまく使うほうがよくないですか?

私たちみんな、“ 大いなる ひとつ ” のひとかけら、いわば神の分身なんだもの。





自分が世界を創っているなんてあり得ない、って思います?

でも、私たちみんな ひとり残らず その力を持ってるし、現に生まれたときから 今この瞬間に至るまで 日々刻々使ってもいます。

自分のまわりの世界と、自分の心をじっくり照らし合わせて見つめてみれば、きっと思い当たることがあるはず。

あとは、その力を無自覚に使うか、意図して望むものを創るのに使うか、その選択だけ。

今いる世界が氣に入らないなら、創り変える力を 誰もが持っているんですよ \(^o^)/





名前と聞いて もうひとつ思い浮かぶのが、この曲、ゴダイゴの 「ビューティフルネーム」。




      名前 それは燃える命

      ひとつの地球に ひとりずつひとつ

      Every child has a beautiful name

      A beautiful name,a beautiful name

      呼びかけよう名前を すばらしい名前を




そう、子どもたちだけじゃなくね。

名づけられた誰もが、なにもが、みんな命を吹き込まれて この世界に息づいている。

そこに どんなエネルギーを乗せるかな? 入れるかな?





あなたは どんな世界を 創りたいですか? (*^ー^*)






長文をお読みくださって ありがとうございました。