毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

取り戻せる

2015年02月27日 13時06分37秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


おとといのグループ読み聞かせ、無事終わりました (^^)

今回初めて ちょっとした小道具を作ったのですが、これがなんとも楽しくて




私、子どもの頃は 図画工作って 得意でも好きでもなかったんです。

授業にも氣が乗らなければ、自分の作品にも まるで愛着が湧かなくて。




それからウン十年後の今になって、必要に迫られての作品作りが こんなに楽しかったとは



大型絵本に登場の ある鳥さんを、キーパーソンならぬキーバード(?)として強調するために、大きく描き写して プラカードのように持ち手をつけたのですが、生まれて初めての作業だというのに 何を使い どう動けばいいかが 難なくわかるのです♪

色づけ用のクレパスだけ リーダーからお借りして、あとは わが家にあるダンボールやら空き箱やら古カレンダーやら板切れやらを組み合わせ、切ったり貼ったり塗ったりと、子どもに返ったように♪

そして、何をどこにどう使い、どういう手順で作業を進めるか、そんなのやったことがないにも関わらず ぴんぴんひらめいて、いささかの不安も懸念もないまま 順調にスイスイ進んでいくのです。

もともとのんびりやの私が ひとつひとつの工程を 慌てることなく大いに楽しみながら進めていったので、時間はたっぷりかかりましたが、それだけに 完成したときの喜びや満足感もひとしお \(^o^)/

そして当日 無事お役目を果たした鳥さんは、記念のオブジェとして わが家に飾ってあります。

眺めるたびに いい氣分です (*^ー^*)




先日の鍵閉じ込み事件のときにも思ったんだけれど、不安が大きく減ると、入れ替わりのごとく インスピレーションが冴え渡るようです。

たぶん、本来の私たちは インスピレーションの連続で、ごく自然に アドリブを味わい重ねるように生きている存在なのでしょうね。

それが時として、不安やら自信のなさやらで 曇って見えなくなってしまうだけで。




私は、子どもの頃ずっと母から 不器用な子だって言われ続けていました。

で、自分でもすっかりそう信じ込んでいたのですが、40歳を過ぎたあるとき、鶴の飾りのついた爪楊枝入れというミニチュア折り紙をいくつも完成させながら、ふと あれ? って思ったんです。

こんな小さなものをいくつもきれいに作れる私が、ほんとうに不器用なの? って。

そこで一氣に思い込みが解けました。

実際には、教え手である母の忍耐が足りなくて すぐイラつくものだから 萎縮してしまって うまくできなかっただけで、半ば八つ当たり的に投げかけられた言葉をそっくり信じ込んだため、そのとおりの自分を実現していただけだったのでした。

つまりは 自己催眠っていうことだったんですね (^_^;)

それからは 事あるごとに、「私は器用、貴秋ちゃんすっご~い♪」 って 逆催眠をかけ続けて(笑)

そこへもってきて、自信のなさと連動していた 怒りや苛立ちが激減したおかげで、本来の自分が戻ってきてくれたのでしょう




セルフイメージが大切とは よく言われることだけれど、このところの自身の変化を見るにつけ、ほんとうに これほど大事なものはないといってもいいぐらいだと思います。

たとえ無意識であっても、自分がイメージしたとおりの自分になるのです。

どんな素敵な才能を持って生まれてきても、いったん否定的なセルフイメージが染み込んでしまったら 活かせないまま、自信をなくして。。。。なんて、せっかくの人生が あまりにももったいなさ過ぎる




生まれたばかりの頃から 不幸せそうな子、自信のない子なんていません。

自分の存在に 充足と安らぎを感じていて 当たり前。

もし、それらを欠いていると感じるなら。。。。。。取り戻す方法は 必ずあります。




私・貴秋には からだの感覚フォーカスがこの上なく効果的だったけれど、こういうのって How toではないと思うし、おそらく人の数だけ 道筋もあるのでしょう。

だから、みなさんとにかく感覚フォーカスしてみてくださ~い って旗振りする氣にはなれません。

ただ、これだけは 声を大にして言いたい。

私たちは もともと幸せで 輝いて 満ち足りている 素敵な存在なんです。

赤ちゃんを見れば、きっとわかるはず。

もし そこから外れてしまったとしても、戻る手立ては必ずあります。

「いって かえる」 を体験した者として、今は思いを込めて きっぱりそう言えます。




うらうらと もうまるで春、というような日ざしに包まれて、幸せ氣分を満喫すればするほど、人の 特に若い人の不幸なニュースが 胸にこたえます。

これを書いている途中 ふと見かけた こんなニュースの見出しに、言葉のほうから転がり出たような きょうのブログです。




















ビフォーアフター

2015年02月25日 07時46分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうの午後は お隣小学校の学習発表会で、 私たちの読み聞かせグループも出番あり。

普段はひとりずつに分かれて ふつうに読み聞かせをしていますが、年に2回 こうして全校生徒や先生・父兄の方々の前で 複数メンバーで大がかりな発表をする機会があり、今回はこれまでで最多の5人参加なので、演出を考えるやら 小道具を作るやら 音楽をつけるやらで、ここ数日おおわらわ。

そんな忙しさのクライマックス、きのうの夕方 講堂でのリハーサルのため 家を出ようとしていたときのこと。

いかにすぐ隣とはいえ、すでに約束の時間にさしかかり いささか慌てていた私、家の鍵の閉じ込みをやらかしてしまったのです。

もともと玄関扉の鍵しかなかったこの家に越してすぐ、内側のガラス戸にも鍵を取り付けたのですが、その内側の鍵を部屋の中に置いたまま 施錠してしまいました

幸い持っていく荷物は全部出してあったので、練習に支障はありませんが、なんともマズイことに ( ̄  ̄;)

しかし、最悪ガラスを割ってでも 入ることはできるのだから、と氣を取り直し、とにかく練習に出かけました。




練習は大成功、持参した紅茶や手製のカップケーキ、他のメンバーが持ってきてくれたチョコレートなどで “ちょこっとティータイム” まで取れて、すっかりいい氣分。

驚くべきことに、心配性でネガ思考だったはずの私が この状況で、練習中はそちらに完全集中、講堂を出ようというときまで 待ち構えているピンチのことなど忘れ去るほどの冷静さだったのです。

そして、いざ家の前に立っても、ええい こうなったらできる限りのことをするだけよ、と。。。。なにこの落ち着きぶり Σ(゜д゜ノ;)ノ



そこからは、まず荷物を安全な場所に下ろして、思いつく限りのことを試みましたが、うまくいかず、ついに最終手段もやむなしと判断、ガラスを割って鍵を取ろうとしたのですが、今どきの強化ガラスと違い 昔ながらの薄い板ガラス、難なく割れるものと思い込んでいたのに、これが 渾身の力で叩いても割れません。

しかし、驚いたのは その事実以上に、このピンチでの自分の反応。

頭では、たしかにマズイ状況だとわかっていて、黄色信号が点滅しています。

でも、感情的には 微塵も動揺しないのです。

こんな私、ありえない

何もないときですら 常にどこかびくついていて、何か起こればパニック大王、からだの力は抜けるわ、心臓はバクバクいうわ、頭の中は引っ掻き回したような大混乱で なすすべもなかった、この私が。。。。

パニックどころか、本氣で叩きつけても キズひとつつかないガラスを前に、これこんなに頑丈だったんだ~、これなら災害でも侵入者でも安心だなぁ、などと 感心する声が聞こえる始末(笑)




そして、そのあとがすごいのです☆

日が長くなったとはいえ 5時半を過ぎるとだんだん暗くなってくるし、これは区長さんのところにでも行って 大がかりな道具と灯りを借りてくるしかないか、と一度は観念したのですが、なぜか冷静に いやもう一回やってみようと促す声があって、あれこれ試みたら・・・・わが家への侵入の段取りを公開するわけにはいきませんので 詳細は控えますが(笑)、それまで思いもよらなかった方法で どこも壊したり傷つけたりすることなく 無事戸を開けることができたのです \(^o^)/

さらに、部屋に入るとすぐ 淡々と荷物を片付け 持参したカップや水筒を洗い。。。。と、何事もなかったかのように。


もう一度・・・・・・・・・・なにこの落ち着きぶり.




ここしばらく、これまでの努力の成果を試すかのように、以前とシチュエーションやメンバーがそっくりのアクシデントがちょいちょい起こり、そのたびに前とは違う反応を示す自分をうれしく思っていましたが、今回は極めつけでした。

そして、確信したのです、やはり感情より先に スイッチとなるからだの感覚があったんだ、その多くを解放できたから 動揺が起こらなくなったんだ、と。

感情が立ち騒がなくなると、頭の働きも冴えるし、直感もひらめきやすくなるのですね。

あのハッピーな結末は、感情の嵐にさえぎられることなく この二つがしっかり作用してくれたおかげ。

感じとしては、リサイクル料理や 衣類のリフォームなどで 素敵なアイデアを思いつくときと似ています。

何もなかったところに ぽん、とひらめくものがあり、すっとからだが動く、その連続で 形になって 大満足




こうなってみると、これまでにうまくいかなかったことって、力がなかったのでも 運が悪かったのでもなく、解決手段は潜在的にちゃんとあったのに、動揺したために それを引き出すことができず、自滅しただけだったんですね ( ̄∇ ̄;)




それにしても、このビフォーアフターの変わりよう。

パニック映画などで、真っ先に命を落とすモブキャラから、強運と強心臓の申し子のような主役に格上げです。

テレビ番組 「大改造!!劇的ビフォーアフター」 の建物並みです。




人間、ほんとうに変われるものなんだ。

身をもって知ったこの事実があまりにうれしくて、ちょっとご報告したくなりました (^^)




ではでは、読み聞かせ楽しんできま~す (⌒∇⌒)ノ


みなさまも どうぞよい一日を♪





















対立の向こうの幸せ ・ 映画 「ショコラ」

2015年02月22日 21時40分07秒 | 大好きな本・映画・ほか


唐辛子入りココアから思い出した、大好きな映画 「ショコラ」 。

ラッセ・ハルストレム監督、日本公開は2001年、出演は、ジュリエット・ビノシュ、ジョニー・デップ、ジュディ・デンチ、アルフレッド・モリーナ、レナ・オリン、キャリー=アン・モス 他。




伝統と規律を重んじる フランスのとある小さな村に、謎めいた母娘がやってくる。

断食期のその村で、母親ヴィアンヌは 老女家主アルマンドから借りた店舗で、チョコレート店を開く。

村人たちの好奇の目が集まる中、持ち前の暖かさと それぞれにぴたりと合うチョコレートを当てる不思議な才能で、少しずつ友人を増やしていくヴィアンヌだが、信仰の名の下 伝統を守り 村人たちを統率する 敬虔な村長のレノとは、その奔放な性格や 価値観の違いにより 真っ向から対立。

そんなところにある日 川下りのジプシーの一団がやってきて。。。。




今回も盛大にネタバレしておりますので、ご注意くださいね。












*             *             *             *













前にこれを見たときは、ヴィアンヌに感情移入してて、レノ伯爵に好感を持てずにいたんだったなぁ。

あの頃は、自分がバリバリ二元対立の人だったね (^^ゞ

今回久しぶりに見直して、新しい角度から物語を眺めている自分に氣がつきました。




レノ伯爵は、自分が良かれと思ったことにまっすぐな人なんですね。

規律に従うことを厳格に求めるのも、それが村にとって一番いいことだと信じているから。

だから、まずかったと思えば ごまかしなしで 誠実にあやまる。

酒場の亭主・セルジュが暴力夫だったことが発覚したときも、おしまいのほうで 自身がヴィアンヌの店でやらかしてしまったことに氣づいたときも。




対照的に描かれているのが、女家主のアルマンド。

おそらく彼女は、この村の厳しいしきたりに反発を覚えるほどに 氣も生命力も強かったんじゃないかな。

例のチリペッパー入りホットチョコのあとにちらっと出てくる 娘時代の思い出話から、若い頃の彼女の奔放な様子が窺えます。




一見正反対のこの二人ですが、実はどちらも しきたりや戒律という 形のないものに翻弄されてきたという共通点があります。

レノ伯爵は、おそらく子どもの頃から 偉大なご先祖様を讃える話をたっぷり聞かされ、やはり厳格だったであろう親のもとで よき模範たれと常に言われながら育ってきたのでしょう。

氣づいてはいなかったかもしれないけれど、彼が重んじてきた規範は、外付けの借り物だった。

だから、時として 本心との間に深刻な葛藤が生まれるわけで、それが 浮氣して出奔してしまった奥さんの服をはさみでジョキジョキやるシーンや、終盤で 「道が見えない」 と嘆き苦しんだ後の 危なっかしい決断に表れています。




アルマンドは、まわりの大人たちの厳しさに反発し、反抗的に ダメだと言われたことを片っ端からやって、自由を勝ち取ったつもりでいたのかもしれません。

でも、それはやはり本心からの望みの実現とは違っていて、結果 実の娘とはうまくいかなくなり、孫とも合わせてもらえず からだも悪くして、自分のことを 「へそ曲がりの婆さん」 と自嘲するまでになってしまいます。

両者とも、立場は真逆でも、精一杯やってきたのに どうして結果がついてこないんだ、と苦々しく思うところは同じなわけです。




物語のもうひとつの対立要素、アルマンドと娘のカロリーヌ。

想像するに、カロリーヌは子どもの頃から、母親のことで いろいろと肩身の狭い思いをしてきたのでしょう。

ヴィアンヌとアヌーク親子とちょっと似ていますが、自己肯定しているヴィアンヌは わが子にもたっぷり愛情を注げる人だけれど、自分を受け入れられないままきてしまったアルマンドとの親子関係は もう少し複雑で 辛いものだったのかもしれません。

それでも自分なりの道を見つけて 誠実に生きているカロリーヌですが、アルマンドへの反感や 息子のリュックへの過干渉などから やはり子ども時代の苦悩の影響が見え隠れします。




そんな村に新しい風を吹き込むヴィアンヌが 村人たちを徐々に感化していくのですが、だからといって 彼女自身 神のごとく万能というわけでもなく、孤立状態になったり わが子に反発されたりすれば、怒りも落ち込みもする。

そんなヴィアンヌが 村人たちに大きな影響をあたえることができたのは、懐の深さや 自由でおおらかな心、暖かいまなざしと思いやり、そして 「心のカギを開ける」 とされる チョコレートの魔力でしょうか。

本質的に心地いいものに出会うと、めいめいの心の奥に押し込められていた本質的部分が共鳴して、表に出てくるのかもしれません。

だから、ジョゼフィーヌのように 弱者として苦しんできた者ほど 早くからヴィアンヌに心を開いて、ほんとうの自分に立ち返ってゆく。




この物語は、勝ち負けで 対立の決着がつくのではなく、みなが本質に立ち返ることで それぞれの束縛から解放されるお話なんですね。

「精神の目覚め」 「古い因習からの解放」 による大団円。

ハリポタのときとは対照的に、どちらか一方に軍配が上がるのではなく、対立そのものが消えてゆく、ほんもののハッピーエンド。

この村にだって これからもいろいろとあるだろうけれど、この人たちならきっと乗り越えて 「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」 でやっていける、と思わせてくれるエンディングです (*^ー^*)




ヴィアンヌとルーの恋物語もめでたく成就、「ワンス アポンナ タイム (昔々) ~」 で始まったお話が、心地よい余韻を残し 深い満足感と共に終わりを迎える、極上のおとぎ話、「ショコラ」 。

何度見ても 満ち足りた氣分にさせてくれる、大好きな映画です
























ほろ酔い ・ 春  そして下世話な。。。。

2015年02月21日 13時21分03秒 | 日々の楽しみ


春です (⌒∇⌒)ノ

この日ざし、この暖かさ、空の色も 風の匂いも、これはもう どうみても春です

ウグイスの初鳴きも聞こえたよ♪

ケキョケキョ鳴き交わす声まで なんだかうれしそう。

浮き浮きが止まりませ~ん




話変わって、頂き物の壜詰めで どうしてもフタの開かないのが二つありまして。

中の汁氣が壜とフタの間に回って固まり 接着状態になってしまうとか、脱氣の勢いでフタが吸い付いてしまうとか、原因はいろいろみたいですが、いずれにせよ困りもの。

力持ちの男性でもいれば 「お願いね♪」 でホイッと渡してしまえるのですが、ひとり暮らしの身では そうもいかず。




こういうとき、一度では開かないものも、何回分もの力が重なれば いずれは開くということで、根氣よくトライします。

実家にいた頃、どうしても開かないということで 家族の間を回されていた壜が、私に渡されたとき ウソのようにあっけなく開いたことがあり、家族は私を怪力認定(笑)したけれど、あれは 私のところに来るまでに みんなの加えた力が合算してのことと思っていて。

以来、たとえひとりでも、何度も繰り返し試み続けていれば いずれは開くというのが信条。




で、くだんの壜も 挑戦し続けていたら、一つ目が10日ほど前、 そして二つ目がきょう、めでたく開きました~ \(^o^)/

中身は ラム酒漬けのベリー、うれしさのあまり 大きい実をひとつ ぱくりとやってしまったおかげで ただいまほろ酔いかげん、キーボード打つ手元もアヤシい有り様です ( ̄ー ̄;)ゞ




という次第で、タイトルの 「ほろ酔い」 と 「春」 に 直接の関係はありません(笑)




いまさらくどくど話すまでもないけれど、なんであれ 「継続は力なり」 って ほんとうですね♪

魂磨きも同じ、何度もくじけそうになったけれど、あきらめなくて ほんとうによかった (^^)

こんなにうれしく春を迎えられる日が訪れたんだもの

アルコール駄目な私には、さっきのベリーが祝杯代わりかな




まだ生真面目で堅苦しい内観しかできなかった頃、心に関する分野と 暮らしにまつわる分野には、いささかの距離がありました。

深刻に考え込む世界と 氣軽に楽しみたい世界が、うまく溶け合えなかったんですね。

それが今は ぐっと近まり ほとんど重なった観があります。

心が軽くなるほど、暮らしもますます楽しくなる♪

そんなありようを ひと言で表現できる言葉を考えてみて、ふと浮かんだのが、



         下世話なスピ





il||li_| ̄|○il||li




いや、言葉的にはもう少しどうにかならんかという感じですが、イメージとしては 妙にぴったりで、フクザツな氣分の貴秋です (-_-; )

























面白きこともない世を 面白く♪

2015年02月20日 11時29分25秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


タイトルは、ご存知幕末の長州志士・高杉晋作の辞世の歌から。

いうまでもなく、高杉さんの御歌に ♪はついておりません




貴秋の人生キーワードに 「面白い」 というたぐいの言葉が入り込んできたのは、秋の白浜でたまたま見た 阿川佐和子さんと所ジョージさんの対談番組から。

所さんの 「面白がればいいんですよ」 というさらりとしたお言葉と ややシニカルがかったゆる~い雰囲気に、なにやら新しいスイッチを押された氣がして。




生まれつき生真面目な性格というのもあるのかもしれませんが、かつてのネガ全開の私、面白がるなんていう思考回路が育つ余地は まったくといっていいほどなかったらしい。

そういう視点って 氣持ちにゆとりがあってこそ持てるもの、いつどこからどんな災難が降って湧くかと 絶えずピリピリ張り詰めていっぱいいっぱいな人間には、とうていムリな話。

せっかくキーワード入りした 「面白がる」 ですが、まだまだ余裕のなかった白浜でのこと、他のもろもろのワードや思いつきと同じく いったんは忘れられ、再び日の目を見るまでには そこそこの時間がかかりました。




「面白がる」 の復活は、ごく最近のこと。

恐れや不安が 相当量溶かされ薄れて ゆとりが出てきたのでしょう、これまで ひたすら真摯の一点張りだった内観も、ちょっと様相が変わってきて。

やたら真面目で深刻なだけって もう飽きた、退屈ー と言い出す声が聞こえてきたんです。

例の反抗期の子でしょうか (^_^;)




「反抗期」 って、端から見れば たしかに反抗なんだけど、本人からすれば 生命力の発露なんですね♪

自己の意思がはっきりしてきて 行動力もついてきて、そこに方向性が加わって、「こうやりたい」 「こうやる!」 と、ごく自然に。

そんな純粋なエネルギーを 力づくで押し留めようとすれば、反発が起きるのは 当然のこと

ここは、見守る大人の腕の見せどころですね☆




やや話がそれましたが、「面白がる」 。

長年心にかぶせていた自制のフタに 亀裂が入り、いささかいびつではありますが、生命力・意志力・行動力が すきまからぐいっと漏れ出てきたような。

それにつれて、心の底に沈んでいた 「面白がる」 が 再浮上したようです。

深く考え込んでるときに 無意識に浮かべている 自身の眉間のシワやへの字口を見ただけで、今はなんだか笑えてきます




面白がるって、そうなろうとしてなれるものじゃなさそうですね。

内心の緊張や力みがとれて 初めて浮かび上がってくる境地なのかと。

シニカルな笑いは、多少氣が張ったり尖ったりしているときでも出てくるけれど、心からおかしがる、面白がるっていうのは、もうちょっとふわっと力が抜けて 初めて表れるような氣がします(^^)




ニュースは 相変わらず見出し程度しか見ませんが、笑えない・シャレにならない話題の多そうなこと。

そんな中にも 例のアイ○ラとかI○ISちゃんみたいな話もあって、元の話の深刻さと 笑いに内在する皮肉のトゲが デンジャラスな流れを呼び起こしそうなのが氣がかりですが、これ以上悲惨になるぐらいなら 笑いのほうへ持っていってしまえ、という思いは、まあわからないでもない・・・・かな。

これらについては 不謹慎のそしりをまぬがれないとしても、武器をかざし 利権を巡ってにらみ合うような力みを中和する ゆとりある心の人が増えるだけで、世界の動きは変わる、みんなよくなる方へ動く、そんな氣がします(*^ー^*)

以前に書いた フラッシュモブなんかも、そんな流れの一環なんじゃないのかな♪




まあ、こんな山の中で ろくすっぽテレビも新聞も見ないちっちゃな個が 世界を語るなんておこがましいことですが、少なくとも 身の回りに小さな平和ぐらいは実現させたいもの。

それにはまず 足元から。

ようやっと調和や明るさが生まれ始めた心でもって、きょうはなにを創りましょうか




世を面白くするのは案外、そんなありふれた暮らしを存分に楽しむ 庶民の領分なのかもしれませんね






















唐辛子入りココア ・ 2回目♪

2015年02月19日 09時57分05秒 | 日々の楽しみ


けさもかなり寒い中 早起きし、ストーブ上の小鍋のお湯が沸いたところで思いついて、唐辛子入りココアを また試してみることに。

前回 もう少しピリ辛感があってもいいような氣がしていたので、今回は 鷹の爪の種を抜き、さやをみじんに叩いて細かくし、それを普通に淹れたココアにぱらりと振り入れて、よ~くかき混ぜてみました♪

うん、辛みはまずまず。

さらに刺激的にしたくなって、シナモン・ナツメグ・カルダモンの粉末を振り込んでみましたが、量が足りなかったのか 口中での香りはいまひとつ。

カップを傾けた瞬間の湯氣は そこそこスパイシーなんだけどね。

これはホールで煮出したほうがいいのかなぁ、などと思いつつ、さいごの一口をごくりとやったら。。。。。

カップの底に残っていた鷹の爪がいっせいに口の中へなだれ込み Σ( ̄□ ̄;)




火を吹かないで済んだのは、鷹の爪が 以前虫除けにお米の中に入れていた 古いヤツだったからかも。

そういえば、スパイスの効きがいまひとつだったのって もしかしたら、鷹の爪のみじん切りのとき 鼻腔をいたく刺激されて くしゃみ鼻水がたいへんだったんだけど、その後遺症?

・・・・・・・・・・・・・試しだからと古いほうを使って正解だった。

もし新しいのだったら。。。。。。( ̄∇ ̄;)

うん、次回はまた 煮出し方式に戻そうっと☆




映画 「ショコラ」 では、ヴィアンヌがおおまかに砕いたチリペッパーを けっこう大胆にカップに放り込んでいたと思うんだけど、アルマンドは おしまいの一口 大丈夫だったのかな?

あの偏屈お婆さんに火なんか吹かせたら どうなったことやら

まあ、根はいい人だったんだけれどね。。。。名優ジュディ・デンチの存在感、素晴らしかったです♪

あれはココアじゃなくてホットチョコレートだったから、もっと濃厚なお味だったんでしょうね。

ホイップクリームもたっぷり乗せて、いかにも美味しそうだったけど、私はクリーム入れるなら チリよりも ラム酒フレーバーのほうが好みかも
























楽しんだもの勝ち (^_-)

2015年02月19日 07時37分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


反抗期街道絶賛驀進中 (笑) の貴秋ですが、これもまた得がたい体験だなぁ、という氣がしています。

幼い子どもの氣持ちを、外から推し量るのではなく 自分のこととして 内側から感じ取れるのですから。

さらに、成長していく上でのあらゆる段階が もっとも効果的な並びやタイミングで用意され、しかも うまくそれを掴めなかった者にも 再チャレンジの機会が限りなく与えられているところに、個である私たちを見守る “おおいなるひとつ” の愛を感じます。

「アナ雪」 のときにも書いたと思うけれど、飛ばしていい段階なんてないのですね。

ひとつのステップをきちんと踏むことが、次のステップへ進むための条件になっている。

そうやって 着実に進んでいく者は、バランスの取れた心の持ち主として 生まれ持った役割を果たしながら、輝かしい世界を創ってゆくメンバーの一員として活躍し、充実した人生を送ることになる、と。




そう思いながら 今の世の中を振り返ると、自分も含め どこかのステップの途中で立ち止まってしまっている人がけっこういるのかな、という氣もしますが、それもまた ひとつの行程、いくらだって仕切りなおせるわけだし、悲観することなんてないのですね

マズイ方にどんどん針が振れて、ヤバイ、もうどうしようもない、っていうところまでいったときこそ、反転のチャンス♪

限界まで追い詰められ 反発や正当化の氣力もなくなって初めて、ありのままの現状を受け入れ それを変えようという気持ちを持てる。

うまいことできてるなぁ。。。。なんだか 「ししおどし」 みたいだね (笑)




同じような状況に立たされても 自分のように カッとなることも恨みがましく思うこともない人がいることを知って、うらやんだことがありました。

でも今は、どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれに違った道のりや役割があるだけなんだとわかります。

他との比較は意味がなく、この形ある世界に授かった自分なりの人生に感謝して 一瞬一瞬 目一杯味わうだけだと。

その中で 生まれる前に決めた道筋を思い出して 実現できるなら、それは一段と楽しい旅路となることでしょう。

どんなに回り道や無駄足に見えようとも、そのためにたどるルートに 無駄・無意味なものなど 決してないのだから、心配なんてしなくていい。




彗星探索家で臨死体験者の木内鶴彦さんがおっしゃっていたのですが、経済システムが大きく変化するこれからの もっともいい生き方は、「一品持ち寄りスタイル」 だろうと。

それぞれが 自分に一番合ってて楽しいことをやりながら、その成果を持ち寄り 分かち合って、みんなで無理なく豊かに暮らす。

ああ、それいいなぁ! って思って (≧▽≦)

思いっきり自分を生きて、氣の合う者どうし 自然と流動的に寄り集まって、あとは楽しんだもの勝ちってことね☆




自分の道を知り 授かった役割を確実に果たしてゆく人たちが、この世のすべての大元である “おおいなるひとつ” の指揮の下、優秀なオーケストラメンバーのように めいめいのパートを奏でつつ すばらしいハーモニーを生み出す。。。。そんな世の中になれば、不安も恐れも必要なく、誰もが充実した人生と それを喜び分かち合う仲間に恵まれて 生きていけるはず

もうすでに そんな未来の一端が見える氣がするよ(*^ー^*)




今 目の端っこにちらちら映る世界が どのように見えようとも、それは 過去の自分の意識から生まれたもの。

今の自分を なんとなくいい感じ って思えれば、それだけで 未来は変わってゆくものね (^o^)




















反抗期です ( ̄∇ ̄;)

2015年02月18日 08時10分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ただいま反抗期真っ盛りです☆







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私が。







いや、ほんとうに。







(^◇^;)







昨秋の白浜での仕事の頃から予兆があったのですが、どうやらめでたく半世紀遅れの第一次反抗期を迎えることができたようです・・・・・って めでたいのか? Σ(゜Д゜;)




相当抑圧的に育てられた私、第一次・第二次どちらの反抗期も まともに通り抜けていないようなんですね。

それが、以前の 「アナと雪の女王」 の 「Let it go」 絡みの記事に書いたように、どんな自分も受け入れて、これまで順当に通過できずに来た 心の成長プロセスを きちんと歩み直させようと思えるまでになって。

だから、たとえ遅ればせであっても やり直しのチャンスをつかんで 大切な課程に改めて足を踏み入れることができたのは、喜ばしいのですが。。。。

ただ、やはり物事には それなりの時期やタイミングというものがあると痛感したのも また事実。

半世紀遅れの第一次反抗期って どうよ (- -;)




グループで仕事をしたり、何かを話し合って決めたり、そういうときに 理不尽な (と自分には見える) ことを押し付けられたり 意見を十分聞いてもらえそうにない氣配を感じたりすると、「やだー」 と反抗期のお子ちゃまが 猛然と顔を出す。

以前ならぐっと抑えつけて済ませられたものが、今は常識の諫言など聞きやしない。

まあ、氣持ちはわかるんだけどね。

でも、3歳児が駄々こねる姿は 「かわいいね」 で済んでも、いい歳した大人が同じことすれば 正氣の沙汰と思われないのは確実。

この外見と中身のとてつもないギャップ。。。。。 il||li_| ̄|○il||li




中身に従った場合、まっとうな社会人の規範から 大きく外れることになるのは目に見えています。

まさか 中身だけ半世紀若返ったなどと 誰にわかるはずもなく、非常識のそしりはまぬがれない (T_T)

といって、外見に合わせて 無理やり中身を抑えつけるのでは、これまでとなにも変わらない。

不安や怯えから半世紀縮こまっていた子が、やっとのびのび自己主張できるようになったのに、それではあんまりかわいそう (-"-;)




進退窮まりながらも よくよく考えてみれば、子どもの心のありさまを 大人の意識で観察するチャンスなんて めったにあるものではありません。

よし、ここはひとつ前向きに、からだの感覚と併せて じっくり観察してみよう




まず感じるのは、スコーンと突き抜けるように一直線なエネルギー。

自分の中に浮かんだ 「こうする」 というイメージと それを行動に移そうという意志の間に 一分の隙もなし、ためらいや迷いなど かけらも見当たりません。

自分を他人の目線から見直す視点がないので、こうしたらどう思われるだろうとかいう逡巡が まるで起きないんですね。

やりたい → やる で完結。

分離していない人間のパワーのすごさを感じます。

そしてまた、すごく純粋で力強いエネルギーだけに、それを阻まれたときの抵抗感もハンパない。

理不尽な扱いを受けたという恨みみたいなものって、こういうところから生まれるんだろうなぁ




今回、幼い子どもの視点と分別ある大人の視点を併せ持つというけったいな立場に 期せずして立ったわけですが、大人側から子どもを観察して しみじみ思いましたよ。

この幼子のまっすぐな思いを受け止めようとせず 大人の都合だけで抑えつけてしまうのは、今まさに開かんとするつぼみを 無残に踏みにじるようなものだって。

この一点の曇りもない輝きを 一瞥もせず封じてしまうのは、あまりにももったいなさ過ぎる。

それなりに形付けることを教えながら エネルギー自体は極力削がないように掬い上げてあげられれば、愛と喜びのすばらしい大人に成長すること間違いなしの純粋さだもの。

たとえば、子どもがふすまに落書きしたがったとして、それをただ 「だめ!」 と叱っておしまい、ではなく、別のものに書くことを提案するとか、どうしてもふすまがいいなら、上から模造紙でも貼ってあげるとか。

やり方には いろいろな選択肢やルールがあるんだよということをそれとなくわからせつつ、子どもの 「やりたい」 というエネルギーは最大限活かしてあげるという関わり方。

そんなこと当たり前にやってるよ、という親御さんも多いのだろうけれど、恨みつらみを抱えたまま ひねた大人に育ってしまった私には、親側として また人として 教えられることの多い 貴重な体験でもあります。




それはそれとして 私自身はどうするのかといえば、ここは大人の私が賢いおかあさんになって 子どもの私を受け止めつつ 外見にそぐわないふるまいで破綻をきたさないようにするしかありません (^_^;)

かつては揉め事を恐れて やたら抑え込むか、にわかに対極に傾いて攻撃的な主張をするか、というアンバランスな状態でしたが、今こそ育てなおし&修正のチャンス♪

自分のほんとうの思いをかみしめつつ、時に右に左に行き過ぎては冷や汗をかきながら、適度な自己表現というベストバランスを探り続ける毎日です。

からだの感覚を通して思いを語りかけてくるちっちゃな私を 丸ごと受け止めて、ね (*^^*)

















恵まれる

2015年02月17日 10時49分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


過去ログに関する記事が挟まってしまったのですが、その前の 「抱き参らせる」 からの一連の話、もう少しありまして。

相変わらず長くてすみません m(__)m




二元対立の問題は、どちらかに軍配を上げるのではなく 対立概念そのものを乗り超えることで、しかるべきところに収まると思っています。

そこで目に留まったのが、「悪をも抱き参らせる」 という言葉。

そして、その 「抱き参らせる」 にどうしても素直になれない 「奪い返さずにおくものか」 という不毛な執念を乗り越えさせてくれるのが、“すべては魂である自身が望んで仕掛けたこと” という自覚であり、さらに その視点が確立する中で 本来やり遂げると決めていた 天職 (天命・お役目・ミッション) も見えてくるのだ、と。




三記事数千語にわたって書きまくってきたものが わずか4行で要約できることにショックを受けつつ、続きいきます ( ̄∇ ̄;)




*             *             *             *





「抱き参らせる」 についてですが、具体的にはどういうこと? っていうと、いま私が試し続けていること = 言葉を使わず ただ感覚を受け止める、というのが それに当たる (もしくは近い) んじゃないかという氣がします。




言葉というのは、分け出す性質を持っています。

「私」 と言えば、私が 私以外のすべての人から分け出される。

「きのう」 と言えば、きのうが それ以外の日々から分け出される。

分けないと、言葉では拾えないんですね。

しかも、曖昧模糊として 境目がない本質の世界から 言葉で分け出したものは、すべて分け目がくっきりしていて、本質とかけ離れたものに変っている。



さらに、言葉は ジャスト “今” を語れない。

「今そこで見かけたんだけど・・・」 なんていうときの 「今」 は、すでに過去になっている。

“今” は 言葉ではつかめない、感じるしかないんですね。

過去か未来しか語れない言葉は、時間概念に捕らわれざるを得ないので、時というものがない本質の世界をぴたりと表すことは やはりできない。




つまり、言葉を使った時点で どうしても本質から離れてしまうことを避けられないんですね。

でも、抱き参らせるとは、善悪という分けられた概念を超えて、本質に立ち戻ること。

方向が真逆です。

だから、いったん悪として分け出してしまったものを抱き取って元に返すには、言葉を使わず 感じるしかない。




言葉を使わずに感じることで 内に溜まったわだかまりを解放しようという試みは、まだまだ経過観察中なので、確信を持って言葉にするのは もう少し後のことになると思いますが、今の見えない大きな流れに照らして、これからは 五感で捉えられないもの・言葉を超えて感じるところを もっと大事にする社会になっていくんだろうな、という予感はしています。

これまでは、目に見える成果を出さないと認められず、世間の名のもと 特定の価値観に合わせることを強いられ、命ある人間が 機械である時計に合わせて暮らさないとならない、などなど、五感重視の生命エネルギー軽視 みたいな生き方が主流でしたが、その結果世の中がどうなったかを見れば、おのずと新たな選択を模索する動きも出てくる (出てきている) でしょう。

以前のままの意識で生きていると、想定外の事態の連続に、頼れるものを失った心もとなさを覚えることも多いと思いますが、それを もっと命が輝く新しい拠りどころを手にするチャンスと見ることもできるのです。




私が今やっていることって、わざわざ自分の立っている足元を壊して、どこに通じているかもわからない奈落に進んで飛び込むようなものかな、っていう氣もしますが、それがスリリングで面白く感じられるのも、こんな時代ならではなのかもしれません。

そういう意味で、こんな時代に立ち合わせてもらえる自分は もしかすると すごい幸運に恵まれているのかもしれないな などと ちょっと浮き浮きしてしまったりする貴秋なのです (*^ー^*)





















過去ログから

2015年02月16日 11時20分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


たまたま行き当たった過去記事に目を通して、うひゃ~~~ ってなりました

正直リンク張るのもあまり氣が進まないけれど、読んで下さる方はなんのことやらわからないだろうし。。。。。

いちおうそっとここ に。




たぶん からだの感覚の探求を始めて まだそう経っていなかったときのことだろうなぁ (- -;)

怒りが たいした痕跡も残さず すみやかに消えていくって 喜んでる。。。。

うん、たしかにそうなんだけど。

今読むと、なんとも無邪氣で楽観的・・・・・このあとたどる道筋を知らなくてよかったね、って声かけたくなります。




一番の悩みの種だった 激しい怒りのスイッチとなる からだの反応が薄らいだのは、たしかにうれしいことでした。

ビフォーアフターで 身も心もすごく楽になったなぁって実感あったし、「早くゴールにたどりつくのが目的じゃない」 と書く一方で、きっとこれからどんどんよくなっていくんだろうな~♪ って希望に満ち溢れていたのもムリはない。

でも実際には、そうは問屋が卸さなかったのです。




なによりもまず、何かあったら即感覚にフォーカス、っていう道筋が まだぜんぜん確立していなかった。

できるようになったつもりでいたらしいけれど、今から見れば まだまだ。

ひとしきり頭の中で ああだこうだひねくりまわして解釈して、それからようやく感覚の出番、っていうことが多かったよね。。。。うっかり忘れることもあったみたいだし (^_^;)




さらに、怒りが薄らいだらそれで終わり、じゃなかった。

怒りの派手派手しさの陰に隠れていた ほかのネガ感情が、次から次へ 「こっちもなんとかして~」 と現れて、いつになったら終わるの!? って かえって不安が増したほど。

いや その前に、怒りだって ぜんぜんおしまいじゃなかったのです。

感覚が薄らぎつつも、繰り返し現れるところは 前とさして変わらず。

やはり、半世紀近くかけて溜め込んだものが そうあっさり消えうせるはずもなかったのですね。

期待した分だけ、再び現れた 終わりのない感に 氣落ちしたような、ほんとうにこのままいって大丈夫なのかな? って またしても 不安に駆られたような。




それでも ブログタイトルどおりあきらめなかった 以前の自分、ありがとうね




あのころ期待したのとは いささか違う感じではあるけれど、体感フォーカスを 心強い手立てとして自分のものにしたと思えるようになったのは、おそらく今年に入ってからのこと。

あの2度目 (9~12月) の白浜滞在が 大きく力になったかと。

何かあれば、考えるより先に  → → → 感覚に集中、この回路が ようやくクセづいて定着した感があります。

おかげで、日記帳が進まないことったら(笑)

起きている変化のメモ程度にとどまり、ああだこうだと考察・分析することがほとんどなくなったからでしょう。




とか言って、2年後ぐらいにこれ読み返したら、あの頃はこんなに楽観的だったのか、うひゃ~ って またなったりして




実際そういうものなんだと思います。

だから最近過去ログを読む氣になれないんだけれど、前に書いたものが おいおいって思えるのは、成長の証でもあるものね♪

これからも、同じようなことを何度も書いては遡って あの頃ってまだまだ見えてなかったんだなぁ、と溜息つくことの繰り返しになるんだろうな(笑)

それでもぜんぜんやめる氣がないのは、何といっても 楽しいから

曇りが多過ぎて、わくわくが見えてこないよ~って心配だったけれど、なんのことはない、内的探求が 人生で何よりのわくわくっていうことで間違いなかったんだ、って 改めて思いました。

いつになったら ネガ感情をすっかり払拭して わくわくに取りかかれるんだろうって不安だったとき、すでにしっかりわくわくをやってたんですね( ̄ー ̄;)ゞ




今やっていることが 何よりのわくわくであり 今生のお役目ともつながってるとわかったのは、やはり 三次元と魂の ふたつの視点が 同等のウェイトを持つようになったからかな♪




ブログに表れる以上に まだまだな時も多い貴秋ですが、そのまま呑み込まれることなく、やがては渦の外に出て、自分の大好きな道を進んでいけること、心からありがたく思います (^^)