毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

分離から統合へと向かう道筋① ~ 戦いと分断の世界から抜け出すためにできること

2022年08月31日 21時57分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
これまでたびたび 「 “行き” の道は本質から外れて進む分離の道、“かえり” の道は本質へと戻る統合の道」 というようなことを書いてきましたが、今回はこの分離と統合、特に統合について、いま貴秋が実感している範囲でお伝えしたいと思います。




分離については、いまさらご説明するまでもなく 皆さん日々肌で感じておられることでしょう。

持てる者と持たざる者、保守派と革新派、雇用者と被雇用者、年配者と若年者、先進国と途上国、自国民と他国民、都会と田舎。。。数え上げればキリがないほどの対立が 世界中で起きています。

これは 二項対立の性質を持つこの世界の宿命ともいえるでしょう。

誰かが何かを主張すれば 必ず異を唱える者が現れるのが、この世界の決まり事なのですから。




で もう一方の統合とはなんぞや? といえば、分離の対義語らしいのはなんとなくわかりますが、では具体的に私たちの暮らしの中で どのように現れ どのように実現してゆくことになるのでしょう。

貴秋の場合、感覚フォーカス (否定的な感情や その元となるからだの感覚を 言葉をいっさい使わずただ感じること) という手立てを得て、まずそれまで分離を促していたさまざまな思い込みやわだかまりを手放すところから始まりました。

ネガ感情が湧くたびに感覚フォーカスを繰り返してかなりの時を過ごしたあるとき、それまではいわば 「苦悩」 しか見えていなかったのが、不意に 「苦悩している自分」 そのものがぱっと見えた (視覚的にではなくイメージ的に) のです。

同時に、苦悩する自分があるということは、それ以外の自分 ・ 苦悩していない自分というものもあるんだということがわかったんですね。

で、それまでは 苦しむのはそうするしかないからだとばかり思い込んでいたけれど、実は自分でわざわざ数ある選択肢の中から 「苦悩する自分」 を選んでいただけだったんだということが腑に落ちて、「な~んだ、別に悩むことなかったんだ、もっと楽でいい氣分になれる道をいくらでも選べるじゃない、そうしない理由なんてある?」 と意識が切り替わったのです。

このとき初めて 「悩む」 と「悩まない」 が五分五分となり、どちらでも自由に選択できるようになったのがわかりました。

それまでは 思い込みの縛りで 「悩む」 一択・・・というか それ以外の選択肢があるなんで思いもよらなかったのが、縛りが解けて 悩もうが悩むまいが好きに選べるんだとわかって、それまでの苦しさがウソのように楽になれたのです。




感覚フォーカスで思い込みの手放しが進むのと並行して、ある頃から 「いまの一番」 という言葉が 貴秋の生活に入ってくるようになりました。

これは、いまこの瞬間一番したいこと、一番いい氣分になれることはなにかを 自分自身に問う言葉。

これが次第に習い性となり、「いまの一番はなに?」 と事あるごとに自分に確かめる癖がついてきたのが、あのジブリアニメ 「アーヤと魔女」 が初公開される少し前だったか。

この 「いまの一番」 の出現は、貴秋にとって革命的な出来事でした。

それまでずっと他人軸で生きてきたところに 自分軸というものが芽生え、育ち始めた証だったからです。




私たちは、まだ言葉を持たない幼い頃に 周囲の大人からさまざまな思いを受け取り、それを自分の思いとして意識の奥深くにしまい込みます。

それは、氣づかぬうちに思い込みとなって定着し、私たちの人生を支配するようになります。

中でも否定的な思い込みの及ぼす影響は大きく、心ならずも望まない状況に追い込まれる、うれしくないけど こういう生き方しかできない、より力の強い者に従うしかない、そんな否定的信念に沿った人生が具現化され、フラストレーションを抱えたまま生きてゆくことになります。

そんな状態が何十年も続いたら 神経がすり減って心が壊れてしまいます (実際この道をたどる人もいます) から、自分の身を守ろうとする力が働いて、フラストレーションとのバランスをとるため 多くの人が自分にそういう状況を押しつけたとおぼしき人に反発し、抵抗や仕返しを始めます。

フラストレーションのほんとうの原因は 自身の思い込みにあるのですが、そんなこととは知りませんから、目についた “悪者” にいら立ちを叩きつけ、悪を倒すことで問題を解決しようとします。

が、これを続ける限り、問題も苦しみも決してなくなりません。

なぜなら、悪者とみなされた相手からすれば、自分を攻撃してくるこちらこそが悪者だからです。

互いに一歩も譲らず、やがては力の強い方が勝つ、でもその陰では 抑え込まれた側が 「いまに見ておれ」 と虎視眈々と形勢逆転の機会を狙っている、それが 人類に初めて格差が生じて以来、数千年に渡って現在まで続いている私たちの血塗られた歴史そのものなのです。




このいたちごっこから抜け出す道が、他者に向いていたフォーカスを自分自身に向け直し、思い込みの縛りを解いて 軸を我が手に取り戻すことなんですね。

続きは 次回に。


















「絶望的世界」 は思い込みの産物、目を覚ませばできることがいくらもある

2022年08月06日 12時45分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
これ、けっこう有名な引っかけ問題じゃないかと思うんですが。

「急坂で 荷車を前引き後押ししている二人連れがいた。

 前で引っ張っている人に 『後ろで押しているのはあなたのお子さんですか?』 と尋ねると、『はいそうです』 と答えた。

 次に後ろで押している人に 『前で引っ張っているのはあなたのお父さんですか?』 と尋ねると、『いいえ違います』 と答えた。

 これはどういうことか」

で 答えは 「前にいるのがお母さんだった」 となるわけですが、この問いに 「え~ なんでなんで? どうなってるの?」 と悩む人は、荷車を引っ張る = 力仕事 = 男性 といった思い込みに囚われている、と。

わかってみれば なんてことないように思えますが、実際の暮らしの中で 私たちが出口の見えない袋小路に閉じ込められていると感じて青ざめるときの意識も、これと同じようなもの。

答えを聞けば 「な~んだ」 と思うようなことでも、まったく氣づかずに 思い込みの条件付けをしちゃってるせいで、その条件の外にある 簡単な答えが目に入らず焦りまくる。

そんな思い込みの囲いから 囚われた意識を抜け出させてくれるのが、引きの視点を持つこと、すなわち潜在意識の力を借りることなんですね。

ちなみに、貴秋が初めて冒頭の問題と出会ったのは 二十代のころじゃなかったかと思いますが、いちおうは答えられたものの ひとしきり悩みました。

カチコチだったんです、アタマ (笑)




が、感覚フォーカスのおかげで そんなカチコチアタマが少しすつ柔らかくなってみれば、世界がなんと違って見えることよ。

以前の貴秋なら 間違いなく 「プーチンってなんてひどいヤツ、ロシアの皆さんさっさと目を覚ましなさいよ!」 とカッカして、反戦活動でもなんでもやっていたところです。

でもいまは、国対国という線引きは、「搾取する富裕層」 対 「搾取される庶民」 という構図を覆い隠すために意図して仕掛けられた目くらましに過ぎないと映ります。

ここが明るみに出てしまえば、それ以上自分たちの地位や利権を保持するなんてできっこないし、それどころか怒れる民衆に積年の恨みをどうぶつけられるかわかったものではありませんから、決して悟られることのないよう 事あるごとに 「国別対抗」 の意識を徹底して民衆に刷り込み、ときにはわざとそれっぽい事件を演出してみせたりもして、大昔からの催眠を強化し続けてきたわけです。

が、「行き」 の道が 「かえり」 に転じたおかげで、せっかくの催眠がじわじわ解け出してきてしまった。

そうなると、上。。。。もう富裕層だの支配者層だの権力者だのとあれこれ言うのはメンドクサイので 「上」 と引っくくっちゃいますが、上の人たちも一枚岩ではないので 内輪揉めだって起こるし、ウイルスだって病原菌だって地球だって独自の意識や意志を持っていますから そうそう人間の思惑通り動いてはくれないし、混乱する人間たちの意識を反映して 氣候も自然もどんどんバランスを欠いていくし、このまま顕在意識オンリーでその場しのぎの手ばかり打つ人たちに頼りっぱなしでは、遠からず “人類丸ごと八方塞がり” みたいなことになって 滅亡を待つほかなくなるのは目に見えています。

当然そのあたりを察知して、一刻も早くなんとかせねばと懸命に動いている人たちも大勢いるのですが、ここに立ちはだかるのが 「悪が滅べば 平和になる」 という昔ながらの思い込み。

為政者たちの間違いを指摘し無策を非難する、署名活動やデモを行い圧力をかける、これまでとは違う政策を打ち出す党に投票する、ときにはSNSを駆使しての犯罪まがいの行為まで、氣持ちはわかるのですが、どうかここで 「敵を倒して恒久的平和が訪れた」 ことなど 人類史上でただの一度もなかったという事実を思い出していただきたい。

ある主張や勢力を支持すれば 必ず反対の主張や勢力が現れるのが、この二極世界のお約束。

ですから、民衆が一枚岩になれるのは、「すべての民衆にとっての敵」を特定し、その相手に対抗すべく結束したときだけ、上の人たちが自分たちの存在を必死で表に出さないようにしているのは この事態を避けるためです。

が、たとえそこで闘いに勝って力を奪い返したとしても、次に主権の座に就く者を巡って 再び分裂が起こるのは必定、争いが止んで平和が訪れるなんて 千年待っても起こりません。

そうこうしているうちに環境破壊が進み、私たちはどうあがいても引き返せない地点に到達してしまうことになるのです。




そんな剣呑な “正義の味方” 的思い込みの枠を抜け出すと、「戦って勝つ」 のではなく 「戦いから降りる」 というこれまでになかった選択肢が姿を現します。

それは どこかよそから唐突にやってきたように思えるかもしれませんが、実は最初から私たちの中にあった答えであり、ただ 思い込みに遮られて見えなかっただけ。

世界情勢を報じるニュースに暗澹となり、袋小路に閉じ込められたような氣持ちになったときは、どうか思い出してください、答えも出口も自分の中に必ずある、ただ見えなくなっているだけなのだと。

意識のありようを変えれば、そもそも袋小路など最初からなかったことに きっと氣づかれることでしょう。















“自分ならざる自分” が新しい世界へと私たちを導く

2022年08月04日 13時58分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
それまで個の意識としての自分しか知らなかった貴秋が、おぼろげながらも “自分ならざる自分” の意志を感じたのは、奈良の家を出て南紀に向かったとき。

慣れ親しんだ環境を離れて知らない人ばかりの知らない土地に行くなんて、いまならへっちゃらですが、当時はありったけの勇氣を振り絞っても到底受け入れられないことでした。

が、そんな感情を超えて 「それが必要だ、大事なことなんだ」 と促す “なにか” の静かな意志を感じ、結局は従うことになって、今思えばそれが大きな転機となったのです。




次にその “なにか” の意志をより明確に感じたのは、車中泊の旅がマイブームとなったあるときのこと。

能登半島一周の旅を終え、その夜は滋賀県大津市内の琵琶湖畔の駐車スペースで一泊することにして、とりあえず入浴できるところを探そうと走っていると、ふと 「○km先 伊勢」 の標識が目に入りました。

そうしたらなぜか、伊勢に向かおうとする意識がひっそりと出現し、標識の指す方向にぐんぐん車を走らせ始めたのです。

が、個としての貴秋の意識は まだ琵琶湖畔泊のつもりのままですから、「え、ウソでしょ? なんでなんで? 戻ろうよ-」 と騒ぎますが、それを穏やかに聞き流して伊勢に向かうもうひとつの意識が 確かに存在します。

あんな妙な氣分は 生まれて初めてでした。

もしあのとき 個の貴秋があくまでも我を通していたら 案外すんなり従っただろうと思うほど、それは力まずおとなしやかな意志でしたが、静かでフレキシブルなのに 目的に向かって進むことを諦めない強さがあり、結局個の意識は 駄々をこねていた子どもが根負けするような感じで それに従うことになり、以来伊勢は貴秋にとって特別の意味を持つ地となったのでした。




意識の中で9割方を占めるといわれる潜在意識は 私たちの五感では知覚することができず、もちろん貴秋も例外ではありませんが、ならばなぜ それが存在すると言い切れるのかといえば、こういう体験があったから。

とはいえ、これぐらいのことで 長年慣れ親しんできた 「顕在意識がすべて」 という感覚をあっさり手放せたわけではなく、そこからえんえん十数年に及ぶ顕在意識と潜在意識の綱引きが始まるのです。

なにがキツいといって、潜在意識を信じて委ねようとしては 顕在意識に激しく非難されるほど 自信や氣力をすり減らすものはありません。

意識内で内輪もめが起こることもあれば、自己不信の念が他者の姿を借りて投げつけられることもあり、特にまだまだ顕在意識寄りだった初めのころは、事あるごとに 「足元に火がつきかけているのに感覚フォーカスとか、氣は確かか!そんなことしてるヒマがあったら さっさと回避のための手を打たなくてどうする!」 と自分自身からすさまじくなじられる。

そう言われるとたしかに、感覚フォーカスなんて空想の産物に頼って手をこまねいたままわが身を危険にさらすとは 自分は頭がおかしくなりかけているのではないかとさえ思えてきて、そんな葛藤の果てしない繰り返しは いま思いだしても胸が苦しくなります。

しかし、ぱっと見動いているように見えない太陽や月も はっと氣づくとかなりの距離を移動しているように、足踏み状態としか思えなかったわが意識も ふと氣づくとかなり変化していて、いまでは顕在意識が潜在意識に全幅の信頼を置いて従うまでになりました。




これまでは 直感だのスピリチュアルだの五感を超えた領域だのというと、バカにされたりいかがわしいもの扱いされたりしがちでしたが、それでもうまずたゆまず諦めず ここまでエネルギーと時間と情熱をつぎ込み 人生の大半を費やしてきた理由が、いまになってやっとわかりました。

自然界の循環と私たちの社会システムとの不調和が限界にさしかかり、さまざまな問題が表面化して、不安や不満から人々の心が乱れ、そのまま滅びるか 起死回生の意識変容を遂げるかの二択となったとき、顕在意識の袋小路から抜け出す手立てをお伝えできるよう、まずは自分がやってみて、大丈夫、できる! という手応えを掴む、と魂レベルで決めてきたためらしい。。。。って なんちゅーロングスパンでハードなタイムスケジュールだ。

数千年の長きに渡って 五感で掴める世界がすべてだと思っていた私たちですが、その本質は形を持たない意識体であり、問題解決に必要なのは、行動を起こすより先に まず意識のありようを変えること。

いまのように世界を挙げてドタバタやってる真っ只中では、パニックに陥り 他者の声に耳を傾ける余裕をなくした人々に引きずられるリスクもありますが、同時にこれほどのピンチだからこそ、それまでなら動かなかったであろう人も 「ここから逃れるためならなんでもやってやる」 という氣力が湧いてもくるわけで、いまはちょうど そんな両者のバランスの針がどちらに振れるかというギリギリのタイミングのようです。

ならば貴秋は全力でお伝えしたいです、状況がどれほど八方塞がりに見えても、潜在意識への扉を開きさえすれば、必ず出口はあると。

自分の中の 静かで穏やかだけれど 決して諦めず間違わない小さな声に心を開けば、絶望が希望に、不安がやる氣に変わります。