毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

映画 「A GHOST STORY」 ~ いつかその日、この生に未練を残さぬために

2023年04月22日 16時20分20秒 | 大好きな本・映画・ほか
貴秋がちょくちょくお世話になっていた動画配信サービス 「GYAO!」 が、この3月末で終了となりました。

まずは、めったに映画館にも行かず テレビもそうは見ない貴秋が 数多くの映画と巡り会う機会を頂いたことに感謝を。。。GYAO!さん、ありがとうございました。

で、そのGYAO!さんから最後にもらったプレゼントが、きょうお話しする 「A GHOST STORY ~ ア・ゴースト・ストーリー」 。

この先映画の内容について 私見を交え詳しく語っておりますので、ストーリーを知りたくない方、貴秋の私見に興味はないという方は、ごめんなさい、ここまでで。











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以下ネタバレご注意


ホラーカテゴリーに入っていたこの映画ですが、ホラーテイストはまったくといっていいほどありません。

むしろヒューマンドラマに入れたいぐらいなのですが、そうならないのは 主人公が人ではなくゴーストだから。

ときおり意見の相違はあっても仲睦まじい若夫婦、その穏やかな日々は 夫の突然の交通事故死で終わりを告げ、病院のベッドにシーツをかぶせられ横たわっていた彼の遺体が シーツごとむっくり身を起こしたところから、ゴーストの物語が始まります。

目のまわりがくり抜かれたシーツをかぶったままの姿で院内をさまよう彼の前に 突然強い光が射し、入り口 (おそらくあの世への) のようなものが開かれますが、ゴーストは入ろうとせず、何か心残りがあってこの世に留まったらしいことが示唆されます。

生者の目には見えない彼は 自宅に戻り、傷心の妻を見守り続けますが、やがて立ち直った妻は家を引っ越し、新生活に踏み出します。

取り残されるゴースト夫、彼は地縛霊なのか、この家? この土地? を離れられないらしい。

彼は、妻が立ち去る前に壁の隙間に押し込んでいったメモを取り出そうとします。

このメモについては、冒頭の夫婦の会話で語られています。

   “ 子どもの頃 引っ越しが多くてね

    メモを書いて、それを小さく折りたたみ 隠した

    そうすれば、いつか戻ったとき 昔の私に会える ”

といっても戻ったことはないのだそうですが、内容は 「その家での生活や楽しかったことなんかを思い出せるちょっとした詩など」 とのこと。

シーツで覆われたままの手で壁を引っ掻き奮闘するゴーストですが、そこへ新しい家族が越してきます。

スペイン系っぽい言葉を話す母親と幼い子ども二人 (この子たちにはゴーストが見えることもあるよう)、彼らの日常風景が坦々と繰り広げられ、ついに我慢できなくなった (らしい) ゴーストは ある夕食時、食器を次々投げつけて割るなどして 一家を恐怖させ 追い出してしまいます。

幽霊屋敷認定され放置されたとおぼしきその家に、ある夜突然現れた浮かれ騒ぐ若者の一団、どうやらいわくつきの家と知った上で 一夜限りのパーティーを開こうと借りたようなのですが、この中の一人が語る 長広舌のせりふ (もともと会話の少ないこの作品で 唯一の長ぜりふ) こそ、この物語の本質をついているように思われます。

貴秋なりに要約すると、

     “ 人は、それぞれ人生で何かを生み出し、愛する人に捧げて 自身の存在の証を残そうとする。

     対象がわずか数人か全世界かに関わらず、自分が消えたあとも覚えていてもらうために。

     だが、あとの世代だっていずれは死ぬし、地殻変動などで人類のあらかたが滅亡することだってある。

     生き残った誰かが わずかに残った名画や名曲に力づけられ、復興を成し遂げるかもしれない。

     過去の名作からインスピレーションを得て 新たな名作を生み出すかもしれない。

     が、それもまたいつかは人類や地球の滅亡と共に 消えてなくなる。

     すべての存在は、現れ 栄え 衰退し 滅ぶことの繰り返し。

     自分の記憶を後世まで刻みつけようなどというのは、無意味なあがきに過ぎない ”




さて、家は再びボロボロの空き家となり、ゴーストは相変わらずメモを取り出そうと頑張っていますが、あと少しというところで 重機が壁を突き破り、取り壊された家の跡地に建ったのは高層のオフィスビル。

ビル内をさまよい歩いたあげく 高層階のテラスから身を投げたゴースト、氣づくと時は遡って そこは何もない原っぱ、開拓者のような男が杭を打っています。

家族とともに幌馬車でやって来た男は そこに家を建てようとしますが、続く場面に映るのは、矢で射られて息絶えた男と幼い娘の姿。

遺骸はやがて朽ち果て、ゴーストは再びあの家に戻っています。

そこに不動産屋に連れられてやってきたのは、なんと在りし日の彼と妻。

そして日が経ち、越してきたはいいが この家があまり氣に入っていない妻と煮え切らない夫の会話、自分の望みがわからないままここに留まりたがる夫、ついに彼が心を決め 「引っ越そう」 と妻に告げた その矢先にあの事故が起こったことが、ここで明かされます。

去って行く妻、窓から見送る夫の新ゴースト、両者を背後から見つめる旧ゴースト。

汚れでくすんだシーツをまとった旧ゴーストは、壁に向き直り またもやあのメモを取り出そうとする、ついに出てきた紙片を広げて読んだ彼は次の瞬間消え失せ、シーツがふわりと床に落ちてエンディングとなります。




見終わった貴秋の心に強く残ったのは、この形ある世界で人生の物語を紡いでゆけることの素晴らしさ、ありがたさ。

新しい暮らしに踏み出そうと心に決めた夫は、その決心を果たせぬまま命を落とし、彼の物語はそこで断ち切られます。

残された妻は 引っ越して、彼女の物語は新たな章へと続いてゆくけれど、夫は共に歩むことができない、彼の物語はすでに終わりを告げ、いまの彼は誰にも見えないゴーストとして 他者の物語をただ傍観するしかないのだから。

ゴーストの心情は一切語られませんが、ゴーストの視点から物語を追う私たち観客は、その無念さや寂しさ、空しさなどを我が事として味わうことになります。

えんえんと見せつけられる縁もゆかりもない他者の暮らし、ついには元の家の面影すらなくなったオフィスビルから身を投げるゴースト、でもすでに亡くなっている彼は 死をもって眼前に繰り広げられる無意味な光景から逃れることもできない。

彼の解放は あのメモを読むことで昇天できたためでしょうが、ではメモにはいったい何が書かれていたのか。

映画では一切明かされていないので 想像するしかありませんが、自分の生の物語が心の準備もないまま突然終わってしまった事実を受け入れられなかった彼が 「それでも自分の人生には意味があったんだ」 と思えるような何か、これをもって自身の物語は完結したのだと腑に落ちるような何か。。。だったのではないかと、貴秋は思っています。

あのパーティーの若者に 「生きた証を形として残そうとするのは無意味」 だと突きつけられたゴースト、その彼にようやく未練や執着を断ち切らせた妻の言葉は、冒頭で 「その家での生活や楽しかったことなんかを思い出せるもの」 と語られていることから、きっと優しさ暖かさに溢れ 彼の空虚な想いを満たしたのでしょう。

映画を通して この世に想いを残したゴーストの心情を疑似体験させてもらった貴秋ですが、考えてみれば 自分だってこういう形で人生を奪われない保証はないのですね。

後に遺された品々は 貴秋を知らない先の世代にはなんの意味もないもの、思い出に関係なく誰かの役に立ちそうな物だって いずれは古びて朽ちてゆくし、よしんば後世に残るような芸術作品を生み出せたとしても それとて永遠に存在するわけではない。

そもそも形を持たない意識体の私たちが わざわざ望んで肉体を得てこの世界にやって来たのは 「体験するため」 であり、からだを脱ぎ捨て彼岸に渡るときに意味を持つのは 「体験の記憶」 だけ。

ならば いつ何時終止符が打たれても悔いが残らぬよう、形ある今しかできないことに存分に打ち込もう、自身の本心に耳を傾け したいことをどんどんして 物語を盛り上げよう、目の前の人との縁を大切にしよう、他者の目など氣にしている場合ではない、自分を満たすことに全力を尽くそう。。。。見終わって 心からそう思ったのでした。




最終日までに4~5回繰り返して見たこの 「A GHOST STORY」、いまも不思議な余韻を残しています。

予告編のリンクを貼っておきますので、よろしければ。

今回も長文をお読み下さり、ありがとうございました。















映画 「アーヤと魔女」 その6 ~ 軸を頼みにわが道をゆく

2021年12月30日 14時06分25秒 | 大好きな本・映画・ほか
「アーヤと魔女」 記事、次でおしまいというところで パソコンが不調で使えなくなり、更新が滞ってしまいました。

毎度のことながら、次を待っていてくださった方がおられましたら大変申し訳ありませんでした。

もう年内の更新は無理かと諦めかけましたが、不調パソくんのギクシャクした動きにも少しずつ慣れ、下書きのまま放置されていた 「アーヤと魔女 その6」 もなんとか日の目を見ることができそうです。

今回もちょっとですが作品の内容に触れていますので、いちおう 「ネタバレ注意」 とさせていただきますね。













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以下ネタバレご注意


ちょうど一年前のきょうが 「アーヤと魔女」 の初放映日でしたが、前日にもスタジオジブリの番組があって、「アーヤ~」 の製作にまつわる話のほかに 宮崎吾朗監督とお父さんの宮崎駿氏との不和 ・ 確執とでもいうような話があったのを覚えています。

自分の憧れてやまない分野の第一人者が実の父親。。。。う~んという感じでしたね。

駿氏が世界に冠たるアニメ製作者であることは疑う余地もありませんが、大変失礼な申し上げようながら アニメの才能と人を育てる才能とはまた別物なのだなぁというのが、あれを見ていてまず思ったことでした。

他者の至らない点についつい目がいってしまうというのも駿氏の天才性のゆえなのでしょうが、あれほどのダメ出しの嵐では 吾朗氏に限らずどんなアニメーターさんでも、よほど強靭な精神力の持ち主でない限り 萎縮して本来の力が発揮できない状態になってしまっても不思議ではありません。

そんな手厳しい指導者が同時に実の親でもあるとなれば、どれほど険しい道を進むことになるか。。。。と身につまされたのは、貴秋自身の父親も同じくまず否定から入るタイプだからなのですが、父の専門分野は貴秋とはまったく畑違いなので 茨の道を歩まずにすんだのは幸いでした。

それにしても 吾朗監督のなんと忍耐強いことよ、貴秋だったらとうの昔にぶち切れてケンカ別れしていたでしょうに、それだけぜひとも進みたい道だったのですね。

そしてなんといっても素晴らしかったのは、「アーヤと魔女」 が 従来のジブリアニメとは違う個性や特色を持った斬新で魅力的な作品として見事完成した事実。

駿氏がどれほどすごい才能の持ち主だとしても、吾朗氏には吾朗氏にしか持ち得ない才能やセンスがあり、吾朗氏にしか作れない作品がある。

そんな吾朗氏が 「天才の息子」 という重圧に負けず、アニメの世界に背を向けることもなく、駿氏のコピーに終ることもなく、長い忍耐の道のりを経て 新しいスタッフと共に 独自の世界観を持ったまっさらな作品を立派に世に送り出したことが、とてもうれしかったのです。

さらに、その 「アーヤと魔女」 を駿氏が前向きに評したインタビュー記事があったことを知り、ますますうれしくなりました。




胎内の赤ん坊が母親のからだの機能に依存して生命を維持するように、自我を持たない幼い子どもは その判断基準を身近な大人にゆだね、世界観や価値観を共有する形で精神的に依存します。

やがて自我が育って自立のときが来ると、独自の価値観を身につけ それまで依存していた大人の価値観から身をもぎ離す必要が出てくる、これが反抗期なのですね。

反抗期というのは 自分だけの新しい支柱を育てるプロセスでもあり、これを十分体験してこそ 健やかな一人前の大人として独り立ちできる。

このプロセスが早い人もあれば遅い人もあり、スムーズな人もあれば困難な人もありますが、大事なのは どれほど時間や手間がかかろうと 最終的にきちんとそこを通り抜けられること。

あの 「アーヤと魔女」 という作品は、貴秋の目には 吾朗氏がご自身の力でご自身の道を掴みとり 新たな人生の道のりへと踏み出された証とも映ります。

作中のアーヤも 満足して過ごしていた子どもの家から出る羽目になり、「やりたくないことをやらされるなんて生まれて初めてよ、なんでこうなっちゃったわけ?」 とぼやきますが、これは自分の能力をさらに高めるために天から与えられたハードルのようなものでしょう。

なんでも思い通りで楽々な場所にい続けたのでは、能力アップのチャンスはありませんからね。

案の定アーヤは次々と困難に見舞われ、一時は意氣消沈すれすれになりますが、彼女のバイタリティーは見事その困難を突破し、操りの腕前は格段に上がって、生活の質もぐんとよくなったわけです。




「困難に挑戦しなければ、自分のしたことを誇りに思う氣分も味わえない」 という言葉を何かで読んだ覚えがありますが、この 「誇り」 は自信につながります。

どんな困難に見舞われようと 自分ならどうにかできる、きっとやっていける、という根拠のない、でも否定しようのない確信。

いま私たちが体験しているコロナや自然の脅威や経済危機なども、見ようによっては 私たちの軸をより大きくしっかり育てるために訪れているのかもしれません。




やたら時間のかかった 「アーヤと魔女」 記事ですが、これでおしまいとなります。

たぶんこれが今年最後の記事となるかと思います。

このタイトルをはじめ 当ブログをお読み下さった皆さまに 心から感謝申し上げます。

今年も皆さまのおかげで どうにかこうにか更新を続けることができました。

ほんとうにありがとうございました。

来年もご縁があれば、どうかよろしくお願い申し上げます。

皆さまもおからだお大切に、よいお年をお迎え下さいね。





p.s. 映画 「アーヤと魔女」 をまだご覧になっておられない方、明日12月31日 午後3時05分より NHK総合で再放送されるそうです。

   ジブリやNHKの回し者ではありませんが (笑) 、まだの方はこの機会をお見逃しなく! 















映画 「アーヤと魔女」 その5 ~ 内なる宝と巡り会うとき 世界はわたしのもの

2021年11月05日 14時10分17秒 | 大好きな本・映画・ほか
前の記事から日が空いてしまってごめんなさい。

まだ続く 映画 「アーヤと魔女」 話、きょうは主題歌とエンディングテーマの歌詞について。

今回も長文、そして 「ネタバレ & 妄想ご注意」 ということでお願いしますね。














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以下ネタバレ ・ 妄想ご注意


「アーヤと魔女」 の音楽、どの曲も大好きです。

これまでの久石譲さんの音楽とうってかわって ロック調でノリのいい楽しい曲の数々。

久石さんの曲も大好きですが、こういうのもまた斬新でいいな、と。

そして主題歌 「Don‘t disturb me」 と、エンディングテーマ 「あたしの世界征服」 の歌詞。

調べてみたら 微妙に違うのがいくつかあって、ここでは これが一番正確なんじゃないかなと思うものをリンクしておきますので、どうぞお読みください。


        「Don‘t disturb me」      「あたしの世界征服」


貴秋はもともと曲の歌詞を聞き取るのが苦手で、この二曲もずっと正確なところはわからないままだったのですが、ふと思い立って検索してみて、出てきたものを読んだとき 「うわ!」 って思いました。

映画が伝えようとしているものが いっそう鮮明になったと感じたからです。




まず、「Don‘t disturb me」 。

これって あのマンドレークの口癖 「私を煩わせるな」 だから、いったいどんな内容かと思っていたんですね。

劇中で歌われていた二番は 受身一方のシンデレラと氣概のない王子に渇を入れるような歌詞で、これと 「私を煩わせるな」 がどう結びつくのかがよくわからなかったのですが、一番から通して読んでみて納得しました。

一番で歌われているのは 人から力ずくで、または嫌な思いをさせることでエネルギーを奪い取る奴ら、二番に描かれているのは つねに受身で無氣力、自分から進んで動くことを知らず、当然のように人にすがることでエネルギーを奪う奴ら。

そしてあの 「Don‘t disturb me」 とは、そんな奴らにいいようにされるのはご免こうむる、私に近づくな、という宣言みたいなものだったんだと。

そうわかったとたん、妄想炸裂です。

マンドレークはもともと内氣で口下手で温厚、加えて他者の内面を感じとることに長けており、それゆえに強引な頼みごとをされても断れなかったり、心ない噂や陰口に傷ついたり、弱さを武器にすがってくる相手をむげに突き放せなかったりして “煩わされる” ことが多かったのではないか、そのせいで人付き合いを苦にするようになったのではないか。

そんなマンドレークの前に現れたのが アーヤの母親で、彼女は他者と自分の間に線を引き やたら踏み込まれないようにする姿勢を 身をもって示し、マンドレークを励ましたのかもしれない。

「あたしを煩わす奴らは呪われりゃいい、地獄で焼かれてりゃいい」 とは、実際にああしてやるこうしてやるということではなく、その程度の相手としかみなさない扱わないというこちらの姿勢や氣構えについての表現のように思えます。

それを身を護る呪文のように胸に刻み、そこから生まれたのが あの 「Don‘t disturb me」 、つまりあの曲は、アーヤの母親の影響を受けたマンドレークが 物書きの才能を生かして 新たに芽生えた思いのたけを綴ったもの、という妄想。

ただ残念ながら、マンドレークの自分軸が一人立ちできるほどに育つ前に アーヤの母親は出奔してしまったため、その後のマンドレークは 決まりきった日常のパターンから外れるものはことごとく 「自分を煩わせるもの」 として疎んじながら、安心して付き合えるおそらくただ一人の相手 ベラ ・ ヤーガとの暮らしに引きこもらざるを得なくなったのでしょう。

この歌詞と映画の内容を考え合わせると、やはりというか 自分の軸をしっかり持ち、まわりに振り回されず自分の道を行くことを奨励されている氣が ますます強くなってきます。




そして エンディングテーマ、「あたしの世界征服」 。

タイトルだけ見たときは 「世界征服」 とはまた強氣な。。。と思っていましたが、歌詞を読むと 最初のイメージとはまったく異なる景色が脳内に広がりました。

辞書を見ると、「征服」 とは 「武力で相手を負かし 支配すること、力をもって服従させること、転じて困難なことを成し遂げること」 というふうに書かれていますが、ここでいう世界征服は まったく次元の違うお話、「ほんとうの豊かさ」 を歌った詞だと思うのです。

その昔 不安と不満に心を占拠された貴秋は、慰めや希望を求めて 大阪の繁華街を当て所もなくさんざん歩き回りました。

でもそれはただのごまかしに過ぎず、そこにいるあいだは 華やかさや煌びやかさに目くらましされて 憂さを忘れることもできましたが、それで何が解決したわけでもなく、家に戻れば元の木阿弥。

いまはわかります、あれはまさしく “飾り立てられたハリボテ” に過ぎず、ほんとうの幸せや豊かさは最初から自分の内にあって、バグの雲を払い それと再びあいまみえるかどうかは自分次第だったのだと。

内なる豊かさとひとつであれば、もう見掛け倒しの慰めは必要ない、私たちと源を同じくするありのままの世界を感じるだけで 幸せも豊かさも安らぎも自由も充実も私のもの、だってそれは私たちの本質そのものであると同時に、天? 神? 宇宙? が生み出した世界の本質そのものなのだから。

アーヤはまさに そんな本質を感じられる子なのでしょうね。

だから彼女は、自分も人も幸せにする魔法が使える。

それは物語の中だけでなく、現実世界に生きる私たちも同じことです。




歌詞がすっかりわかったおかげで、最近折に触れてこの二曲が口をついて出るようになりました。

「あ~つ~いお茶をのんだら~♪」 などと口ずさみながら、きょうも好きな仕事や作業に精を出す貴秋です。


おしまいになりましたが、「アーヤと魔女」 音楽スタッフの皆さまと 歌詞を教えてくださった方々、おかげで大好きな曲が増えました、心からお礼申し上げます、ありがとうございます。















映画 「アーヤと魔女」 その4 ~ 新しい意識が世界を変える

2021年10月14日 13時49分00秒 | 大好きな本・映画・ほか
まだ続く 「アーヤと魔女」 記事、今回は加えて 同じくジブリの 「ハウルの動く城」 が登場します。

「アーヤ~」 のみならず 「ハウル~」 もネタバレしておりますので、ご注意くださいね。












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以下ネタバレご注意



「アーヤと魔女」 で ベラ ・ ヤーガが作った朝食が 「ハウルの動く城」 と同じベーコンと卵、しかも卵片手割りまでおんなじなのに 目が釘付けになりました。

そういえば作業部屋の汚れっぷりも ソフィーが掃除しに入ったハウルの部屋の様子とどことなく似ているし、汚れ物が山と積まれた流しもそっくり。

しかし この 「アーヤ~」 と 「ハウル~」 には、もっと深いところに共通するものがある氣がします。

どちらにも魔女やら魔法使いやらが出てきますが、その誰もが せっかくすごい力を持ちながら、それを生かして幸福な人生を送っているようには見えません。

ベラ ・ ヤーガとマンドレークはすでにお話しした通りだし、ハウルのお城はホコリまみれのゴミだらけ、本人は見た目ばかり氣にする臆病者で、荒地の魔女に追い回されたり 戦争に加担するよう強要されたりと心の休まるヒマがなく、契約相手の火の悪魔 ・ カルシファーは 契約に縛られてハウルにこき使われっぱなしで 不満たらたら。

荒地の魔女は宮殿を追放されて以来50年荒地で不遇をかこち、その若さと美貌は魔法で無理やり保っているもの、美青年のハウルに夢中になり追いかけ回すも逃げられてばかりで、果てはマダム ・ サリマンによって魔力を奪われ 年相応のただの老婆に戻されてしまう。

そのマダム ・ サリマンですら、王室付き魔法使いという高い地位にありながらも 魔力で後押ししている戦争の旗色は悪く、跡継ぎと見込んだ愛弟子ハウルを呼び戻す願いも叶わず、健康を損ねている様子も窺えます。

いやもう揃いもそろって。。。という感じですが、そんな彼らの人生に変化をもたらすのが それぞれのヒロイン ・ アーヤとソフィー。

実はこの二人、アーヤは魔女の娘で人を操る力の持ち主、ソフィーは これは原作での設定なのですが、言葉から現実を生み出す力の持ち主、と どちらも自分では氣づいていない (アーヤは操りの能力は自覚しているけれど それが魔法だとは氣づいていないっぽい) けれど 魔力の主なんですね。

にも関らず 事態を動かすのは呪文でも杖の一振りでもないというところが、この二つの物語の大きな共通点でありミソ。

人を幸せにするのは 特殊な能力でも秀でた才能や技術でもない、別の何かだと言われている氣がします。

そして、「戦いに勝ってハッピーエンド」 ではなく 「戦いから降りてハッピーエンド」 というのが、この二作からもたらされる最大のメッセージだと思うのです。




ソフィーもアーヤ同様 自分の軸をしっかり持ち、自身の価値観に従ってためらわず行動する芯の強い女性です。

ソフィーには 「自分には美しさも特別な能力もない」 という引け目がありますが、荒地の魔女の呪いで老婆にされたことで かえって容姿の悩みから解放され、生来のおおらかさが前に出てきた感があります。

この軸だの芯だのというものを言葉で説明するのは難しいのですが、強いて言えば 「自分という存在を疑問も迷いもためらいもなくありのまま受け入れること」 とでもいいましょうか。

ここに迷いや疑いが入り込むと 自分に自信が持てず、マンドレークのように殻に閉じこもったり、ベラのように怒氣を含んで攻撃的になったり、ハウルや荒地の魔女のように見栄っ張りでわがままで不誠実だったり、ということになってしまいます。

そして 貴秋の見るところ一番危なっかしいのが、ぱっと見一番まともに見えるマダム ・ サリマン。

この人は、王様の力を後ろ盾に 戦争を遂行しています。

そして、自身の振りかざす正義に従わない者は悪と決めつけ断罪し、力づくで押さえつけることもいといません。

何が正義で何が悪かなんて線引きは人の数だけあるものですが、自身の強力な魔力と王の権威を盾に我こそ国家の正義と信じて疑わないサリマンは、その陰で多くの人々の命や自由や財産が奪われていることは氣に留めず、見ようによっては自身もまた悪を成しているとは考えません。

“心を失くしたのに力があり過ぎる危険な魔法使い” とは ハウルよりむしろアンタのことでしょと突っ込みたくなるぐらいです。

そんなサリマンに向かって 臆せず意見を述べるのが、ソフィー。

相手を言い負かそうとかねじ伏せようとかいうのではなく、ただエネルギーを引かずに 言うべきことはまっすぐに言う。

この姿勢、アーヤと一緒なんですね。

これができるのは、自分軸で生きているからこそ。

自分という存在をしっかり掴んでいるからこそ、まわりの目を恐れず 堂々と発言できるのです。




そして これができる人は、引くべき時には引くことも躊躇しません。

「逃げましょう、戦ってはだめ」 「あの人 (ハウル) は弱虫がいいの」 と状況の危うさを見てとれるのは、このソフィーの性質ゆえです。

軸を忘れた人は 引いた位置から全体を見渡すことが不得手なので、対応がアンバランスで場当たり的になり、ハウルのように それまで逃げ回っていたのが一転して 愛する人を守るためには勝ち目のない戦いにまで突っ込んでいってしまう・・・みたいなことにもなるんですね。

そんなハウルの弱点に氣づいていたサリマンも、ソフィーが彼の支え手となり サリマンの手中から抜け出したからには、味方につけて戦況を引っくり返す望みは叶わないと悟って 「この馬鹿げた戦争を終らせましょう」 となるわけです。

スケールはまるで違いますが、アーヤも マンドレークの口利きで晴れて正式な助手になれることが決まったとき、サリマンが王の威を借りたように 彼の威を頼みにベラに対して強氣に出ることもできました。

が、彼女はそんなことはしなかった。

自分をよくわかっているアーヤは、戦う必要も 力押しで相手を負かす必要もなかったのです。

だから、アーヤは魔法使い二人を二人とも味方にして 居心地いい家庭をものにし、ソフィーも灰色雲に覆われた飛行軍艦の群れを尻目に、青空の下 大切な “家族” と空飛ぶ城で 軽やかに自由にどこまでも飛んでいけるようになったんですね。




「アーヤと魔女」 にも 「ハウルの動く城」 にも スタジオジブリの製作者の方々、わけても宮崎駿氏の思いというかメッセージのようなものを感じずにはいられません。

現実世界を見渡せば、かつてない事態に次々見舞われ、何についてもさまざまな意見が百出し、世界を挙げて混迷に陥っているかに見える現在、ここで不安や恐れから守りに入り、自分の主張を力づくでも押し通そうと息巻けば どういうことになるかは、すでに過去の体験から十分学んだはず。

ならどうすればいいのか。。。。そんな悩みに これらの映画は大きな手がかりをくれているように思えます。

意識をがらりと切り替えて、新しい信念や価値観のもとで 世界を創り変えるときが来ているのではないでしょうか。



今回も長文をお読みくださり ありがとうございました。














映画 「アーヤと魔女」 その3 ~ 凍りついた心を溶かすもの

2021年09月29日 10時27分51秒 | 大好きな本・映画・ほか
「アーヤと魔女」 のレビューの中に、「子どもが大の大人を何人も そうもあっさり手なずけられるものだろうか」 「アーヤにどうしてそんなことができたのかよくわからない」 という向きの感想をいくつか見つけました。

たしかにこの点が腑に落ちるか落ちないかで 評価が分かれる氣がします。

ピンとこなければ、ご都合主義に思えたり アーヤが自分勝手であざとい子どもに見えてしまうのは無理なからぬこと。

貴秋はここがすんなり頷けたから、このお話が大好きになったと言っても過言ではありません。

というわけで 「アーヤと魔女」 感想その3、今回はネタバレと長文に加え、「想像あるいは妄想ご注意」 とも申し上げなくてはなりません。

直接描かれてはいない細部を埋める解釈なしでは成立しない話なもので。

ネタバレ長文は読みたくない方、プラス他人の妄想話に興味はないよとおっしゃる方は、ごめんなさい、ここまでで。














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以下ネタバレご注意


後半のバンド ・ エアウィッグメンバー三人の回想場面を見てから 現在の三人の姿と比べてみると、ベラ ・ ヤーガの変貌の著しさが際立ちます。

マンドレークは髪型が変わり いささか老けたようにも見えますが、さほどの違いはないし、アーヤのお母さんに至っては 冒頭もラストも変化なし。

ところが ベラの変わりようといったら。。。すっかり太って 表情も険しくなり、ドラマーだったころとは別人のよう。

同じ歳月を過ごしながら、彼女だけがなぜこうも変わってしまったのか。

ここから妄想全開となります。




そもそもベラもマンドレークも 自分にいまひとつ自信が持てない人たちで、そんな彼らの長所に目を留め 引き出してくれたのが アーヤのお母さんだったのではないかと想像されるのです。

アーヤの母親なだけあって、仲間の個性を引き出し 自信を持たせ幸せにすることで、自身も交えた居心地よい環境を作り出す能力の持ち主だったのではないかと。

マンドレークは芸術家肌で、煩わされない限りは物静か、思いやりも人を見る目もある常識人なのが、アーヤにおやつを持っていってやったり、ベラのドラムや呪文作りの腕前を認めていたり、怒り狂ったときでさえ 作業部屋のものを壊しただけで ベラに危害は加えていないことなどからわかります。

そんな彼の弱点は、暮らしの秩序を乱されると平静が保てなくなることと、人づき合いが苦手なこと。

基本 彼が心穏やかでいられるのは、自分の殻に閉じこもっているあいだだけ。

が 彼はアーヤのお母さんのおかげで、ただ無難に過ごすというより もっとずっと心地いい状態があることを すでに知ってしまっている。

自身の能力を認め、得意分野で世の人々を喜ばせて心満たされる、前向きな生き方です。

ただ 彼自身の力で自分軸をしっかり保つところまではいっていなかったため、アーヤのお母さんの出奔と同時に その心地よさも失ってしまった。

いまの生き方が最高だとは思っていないが、とりあえず昔なじみのベラとのそこそこ平穏な暮らしを受け入れるしかない。

貴秋には なんとなく、彼が 「アーヤがアーヤのお母さん (だと知っているかどうかはわかりませんが) の代わりになってくれるのではないか」 と 無意識にでも期待していたように思えてなりません。

マンドレークって、魔法の力でアーヤを秘かに観察し、彼女の氣持ちも企みも そこそこ把握していたように思えるんですね。

アーヤの挙動を壁から首を突き出して見ていたし、作業部屋の様子などは手下のデーモンに見張らせていたし、おやつを差し入れたタイミングから 彼女の作っていたまじない人形に氣づいたようにも見えるし、アーヤとトーマスなんて まだ壁に赤々とマンドレークの目らしきものが映っているにも関わらず、身を守る呪文作りの相談しちゃってますからね。

それでも彼がベラに告げ口せず静観していたのは、妙に噛み合ったまま定着してしまった 安全だけど喜びのない二人の暮らしを変える起爆剤に アーヤがなってくれるのではと、秘かに期待を寄せていたように思えるのです。




さて、一方のベラ ・ ヤーガ。

もともと彼女は、マンドレーク同様 自分に自信が持てないのに加え、判断軸がネガに傾きやすい性格だったのではないかと思われます。

貴秋自身そういうたちだったからわかるのですが、誰か もしくは何かが肯定的なほうへ引っ張ってくれているあいだは調子よくいくのですが、支えがなくなると とたんに悪いほうに悪いほうに氣持ちが向いてしまう。

だから、懸命に引き止めたにも関わらず アーヤのお母さんが出て行ってしまった後は、バンド活動もできず、マンドレークに氣を遣い、利己的な呪文ばかり作らされてウンザリしながらの暮らしに 次第に悲観して怒りさえ覚えるようになり、それが容姿の変化につながっていったのではないでしょうか。

顧客からの電話に蜜のような甘ったるい声で応じながら、電話を切るなり 「ったく どいつもコイツも」 と毒づくあたり、彼女こそ裏表ある顔の持ち主であることが窺えますが、以前も書いたように 裏表の使い分けはセルフイメージを低下させるので、彼女のエネルギーはかなり枯渇氣味だったと想像されます。

だからこそ、アーヤをこき使い 反抗を許さないことで エネルギーを奪う “エネルギー ・ バンパイア” になってしまったのでしょう。

意識の奥底では 自分が不当な仕打ちをしていることもわかっているため、このままいったら心の持ちようもエネルギーも降下の一途をたどるばかり・・・でしたが。




アーヤの戦術はすごかった。

マンドレークとベラ ・ ヤーガ、それぞれの性格に応じて、態度をはっきり使い分けています。

マンドレークにはつねに穏当な態度で動揺させないよう氣づかいながら、彼が応じやすく かつ自信を持てるように仕向けて。

ベラには 相手の負に呑まれないよう陽の氣をことさら保ちつつも、いたずらに反発する氣はないことを示して。

貴秋もその昔旅館で仕事をしていたときに、威圧的でネガティブな人に巻き込まれて こちらのエネルギーが落ちてしまうのを避けるため、「~しなければならない」 調の指示に 「~すればいいんですね」 と肯定形で返しながら 意識して笑顔を絶やさぬようにしていた経験から、ベラのような相手にはこの姿勢が有効なのがわかります。

しかも その使い分けをこっそり行なっていれば二枚舌になってしまいますが、少しも隠していないことは、マンドレークに聞こえるところでベラに 「私は奴隷じゃないからね」 ときっぱり宣言しているところからもわかります。

そして 約束を反故にされると 反撃に転じて、一方的にエネルギーを奪われるままではいないことを はっきり見せつける。

ベラに余分な手をくっつけたからといって 何がどう好転するわけでもないことはわかっていますが、これはエネルギー勝負であり、アーヤの心が折れたら負けなんですね。

だから、罰から身を守る手段を前もって講じておき、表向きは罰を受けたように見せかけて 精神的にはダメージを受けないよう工夫しています。

まあ その後は予想外の展開になってしまいましたが、結果彼女は望みを叶えたわけで、これを偶然や幸運ととることもできますが、かつてマンガ ・ One Pieceでエンポリオ ・ イワンコフが言ったように 「奇跡も幸運も 他人にすがりつかず諦めない者にのみ降りてくる」 のですから、アーヤはこのラッキーを自身の手で勝ち取ったといえるでしょう。

そして ベラとマンドレークは、アーヤが二人の殻を破って引き出してくれたおかげで 再び自分の素晴らしさを見出すことができたのですね、その昔彼女の母親にしてもらったように。。。。と これは貴秋の勝手な想像ですが。

じゃあこれは他力本願ではないのか、となりますが、二人の資質はもともと彼らに備わっていたもので アーヤはそれが表に出るきっかけを作っただけ、しばらくは彼女の力に頼ることになるでしょうが、それはあくまで呼び水に過ぎず、やがて自信をつけた彼らが自分の足で立てるようになっていくであろうことは 想像に難くありません。

貴秋は エンディングのイラストで、アーヤになにやら耳打ちされたマンドレークが 次の場面でベラに誕生祝の花束を贈っているシーンにじーんときてしまいました。

こうやってアーヤは、二人のあいだの風通しもよくしようとしていたんですね。




こんなふうに 貴秋には、ベラとマンドレークの二人がアーヤの力をもってがらりと変わったのが 理に適ったことに見えます。

自分たちに喜びをもたらしてくれた相手には、誰だってよくしたいと思うもの。

win-win とは、肯定的な巡りのことなんですね。

これぞ真のSDGs、持続可能でどこまでも広がる喜びの輪。

この 「アーヤと魔女」 に限らず、ジブリの映画は以前から それまでになかった新しいエネルギーの使い方巡らせ方を示唆してくれているように思えてなりません。



今回も長文をお読み下さり ありがとうございました。














映画 「アーヤと魔女」 その2 ~ ほんとうの自分の氣持ちを知るということ

2021年09月24日 12時29分21秒 | 大好きな本・映画・ほか
案の定というか、「アーヤと魔女」 第二弾でございます。

今回もいちおうネタバレありということで、映画未見の方はご注意くださいね。













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以下ネタバレご注意



前の記事で アーヤが 「自身の快不快や好き嫌いをきちんと把握している」 と書きましたが、これは重要なポイントです。

自分の氣持ちを正確にわかっているということは、それだけ大きな強みだということ。

アーヤは、大きな窓があって日当たり抜群、どこもかしこもピッカピカ、おいしいシェパーズパイがたびたび出てきて 大人たちみんなが望みを叶えてくれる園の暮らしを 決して当然のこととは受け止めず、そのよさをよくわかった上で 心地いい環境を満喫しています。

だからこそ、喜びのエネルギーがこもった彼女の感謝や賞賛には (表現に多少の誇張や作為はあっても) 人の心を動かす力がある。

自分が持っている 「いいもの」 にきちんと目が向き、かつ足りないものがあっても 自身の力で手に入れられるとわかっているアーヤの心は、いつも満ち足りているのでしょう。

園を出るときの荷造りの場面で、ベッドの上に並んだ彼女の持ち物がごくわずかなのが目を引きます。

物欲が強ければ 大人を好きに操る力で もっと多くのものを手に入れていても不思議ではありませんが、彼女はまず 身のまわりの幸せや豊かさに目を留め 満足することを知っているので、心の飢えから生じる欲望に惑わされて自分を見失うことも、結果自信をなくすこともなく、それが彼女の操りの腕前の見事さにつながっているわけです。




私たちがお金を欲しがるのも さまざまな物やサービスを求めるのも、元をたどれば 心を満たしたい、幸せを、豊かさを、安らぎを、自由を感じたいという氣持ちからきているのがわかります。

お金や物やサービスは その望みを叶える手段に過ぎないのですが、それを目的と取り違えると 真の望みを見失います。

物質的な富は いくら手に入れてもつかの間の満足しか与えてくれないので、欲に振り回されて止め処がなくなります。

そんな飢えた心から生じる望みは どんどん本心とずれていき、ほんとうの望みがますますわからなくなってしまう。

何を求め 何を得ても 自身を満たすことができないというのは、セルフイメージを低下させ、自信を失わせます。

こうやって私たちは、アーヤのように思いどおりの世界を実現する力をなくしてしまったんですね。

でも大丈夫、なくした力を取り戻したければ、ほんとうの思いでないもの、すなわち自身を幸せにしない思い込みや 不快を感じさせる観念と向き合い 手放していけばいいのです。

やがてあるときふと、率直な望みを口にしても なんの抵抗も湧かず、晴れ晴れと明るい氣分で力がみなぎってくる、そしてこれはきっと叶うという予感がする、そんな自分に変わっていることに氣づかれることでしょう。




「アーヤと魔女」 はもちろんファンタジーですが、そこに描き出されているのは紛れもない真理です。

呪文で人に余分な手を生やすことはできなくても、自分の本心を正しく知り、感情や思考のエネルギーを整えて流れをよくすることで 「み~んな自分の思いどおり」 な世界を創り出すことはできる。

レビューでは 「大人を手玉に取り 都合よく操るような映画を子どもに見せるのはいかがなものか」 というような意見も見かけましたが、貴秋はむしろ 大人の都合で枠に押し込められて ほんとうの自分を見失い元氣をなくしている子どもたちにこそ見てもらいたいです。

あなたはどんな世界に住みたい?

誰にも邪魔されず なんでも好きなことができるなら、毎日何をしてどんなふうに暮らしたい?

映画のお話はフィクションだけれど、あなた方は現実の生活で アーヤみたいにどんな望みも叶える力をほんとうに持っているんだよ。。。。そんなふうに言ってあげたい氣持ちで一杯です。












映画 「アーヤと魔女」 ~ 人を操る力が幸せを呼ぶ

2021年09月13日 14時33分55秒 | 大好きな本・映画・ほか
公開延期になっていた ジブリ映画最新作 「アーヤと魔女」 、8月27日から公開されてたんですね。

昨年末にNHKで放送されていたのを録画して以来 すっかりハマッた作品、1~2月はほとんど毎日のように見ていました。

で 評判はいかにと YAHOOのレビューを見に行ったら。。。あらら 5点満点の2、78点、びっくりの低評価。

思わずレビュー全部に目を通しましたが、星一つ ・ 二つのレビューでもっとも多かった 「終わりが唐突、中途半端」 という不満は、テレビで見た貴秋と父も 「え~、ここで終わり!?」 と声を上げたぐらいですから、お金払って映画館で見た人たちがそう思うのは無理もないか。

3DCG技術についての不満は貴秋にはよくわからないし、「ヒロインが可愛くない」 「ジブリらしくない」 というのはそれぞれに好みがあるから、これも仕方ないよね。

でもひとつだけ 「いや、それは。。。」 と言いたくなる点が。

ヒロイン ・ アーヤの人を操る能力について、「人たらし」 「ずるがしこく利己的」 「わがまま」 「あざとい」 など否定的なイメージを持つ人が多かったようなのですが、これには思わず違う角度からの意見を述べてみたくなりました。

そもそも貴秋がこの作品に夢中になった要因のひとつが、このアーヤの能力の見事さだったからです。

まず最初に申し上げておかねばなりませんが、アーヤ愛炸裂で 以下かなりの長文です。

しかも 公開期間中だというのに 盛大にネタバレしておりますので、映画をまだご覧になっておられない方、これから見に行かれる方は、くれぐれもご注意くださいね。















*     *     *     *     *     *     *












以下ネタバレご注意




「人を操る」 。。。たしかにあまりいい印象は持てない表現ですね。

試しに類語 ・ 関連語を調べてみたら、「丸め込む」 「騙しのテクニック」 「手玉に取る」 「いかさま」 「でたらめ」 「二枚舌」 「八方美人」 などなどネガティブワードのオンパレード。

他者を思い通りに動かそうと 心にもないお世辞を並べておいて 陰でこっそり舌を出す、そんなイメージが浮かびます。

実は貴秋も 初見はそんな印象でした。

「子どもの家」 の園長先生に 「(どこかの家庭にもらわれて) 園長先生とお別れするのが一番イヤ」 と悲しげに告げたり、欲しかったセーターを贈られて 「ああ、私 園で一番の幸せ者ね、園長先生大好き!」 と小躍りして抱きついたり、もらわれた先の住人マンドレークに 「お願い、小説家のお仕事を手伝わせて、おじさんの役に立ちたいの」 と涙ながらに訴えたり、と どこか不自然で演じている感が否めなかったからです。

しかし、そんな不自然さは枝葉に過ぎないのだということが 見ていくうちにわかってきました。




たしかに表現こそ相手が受け取りやすいようにデフォルメしていますが、アーヤの能力の本質は、それが決してウソではないというところにあります。

例えば、マンドレークに 「小説家のお仕事を手伝わせて」 って、小学生ぐらいの子が何を手伝うつもりなのかと思っていたら、終盤アーヤがマンドレークの原稿の感想を述べるシーンで 「すっごい面白かった!」 というその話の内容は、冒頭の墓場のお化けパーティを抜け出して 禁じられた塔へ上っていくくだりで アーヤ自身が友だちのカスタードに語って聞かせた話そのままじゃありませんか。

最初にマンドレークの小説を読んだときは 「なにこれ、クソつまらない」 「時間のムダだわ」 と秘かに酷評していたアーヤ、自身のアイデアをさりげなく伝えて 彼自身の作品として書き上げるよう仕向け、「続きはいつ読ませてもらえるの?」 なんて言ってせっせと励ましてたわけですね。

手伝いと称して 自分が楽しめる話を書かせる、そしてこれが 「今世紀最高の傑作」 と評され、書店のウインドウに垂れ幕つきで飾られるほどの人氣小説になっちゃうのです。




そして 新しい家のもうひとりの住人、ベラ ・ ヤーガ。

威圧的でおっかなげな彼女に対しても、アーヤは条件をはっきり伝えた上で助手となり、言われるままにしっかり働きます。

にも関わらず約束を反故にされれば、「おばさんはずるい!」 「奴隷じゃないっていってるでしょ!?」 とびしっと主張し、一歩も引きません。

「ミミズを食わせてやる」 と魔法の力を持ち出して脅すベラに、黒猫トーマスの助けを借りて身を守る手立てを講じつつ まっすぐ対峙する、あまつさえ魔法を使って仕返しまでしてしまう、これはうわべだけこびへつらう人間には到底できないことです。

アーヤは ベラに対して怒りはしても、恨んだり憎んだりはしていません。

恨む憎むというのは 不本意ながら言いなりになるしかない相手に持つ感情ですが、アーヤは自分がこきつかわれるままでいるしかないとは思っていないのですね。

だからつねに 「どうすれば自分の望むほうに持っていけるか」 と知恵を巡らせはしても、「なんで私がこんな目に・・・」 という自己憐憫はみじんもない。

このアーヤの姿勢は もちろん持って生まれた人を操る力に起因するのでしょうが、その力を損なうことなく伸ばせたのは あの 「聖モーウォード “子どもの家” 」 で彼女がのびのび育ってこられたおかげだと 貴秋は見ています。

根深いバグがもっとも入り込みやすい0~3歳期間を含め 10年ほどをここで過ごした彼女、もしこの園が 「あしながおじさん」 のジュディ ・ アボットが過ごした孤児院や 「小公女」 のミンチン女子学院みたいなところだったら、園長先生がリペット先生やミンチン院長みたいな人だったら、これほどの自信や自己肯定感を持ち続けることができたかどうか。

そう考えると、アーヤの園長先生への好意が見せかけだけではない本心からのものだとしても、なんら不自然ではありません。

新しい家のバスルームの鏡に 仲良しのカスタードの写真と並べて園長先生の写真を貼ったり、エンディングの手描きふうイラストで 園長先生に自作の呪文に手紙を添えて贈ったりする様子からも、アーヤの言葉にウソはないことが見てとれます。




アーヤの “操る” 力の極意とは、望みを叶えて 心地いい環境に身を置くことで 自身の波動を高め、それを周囲にも伝播させてゆくというもの。

まず彼女は 自分の快不快や好き嫌いをきちんと把握しており、喜ばせてくれる相手には その喜びをはっきり伝えます。

相手は人を喜ばせる自分の能力に自信を深め、アーヤの環境をよくするために ますます力を尽くしてくれる。

こうして、自分の幸せと相手の幸せが どんどんイコールになっていくんですね。

これは、ウソや心にもないお世辞で人を動かすのとは対極の力の用い方。

ベラに対しても、不満をためらわず口にするのと同様、喜びや感謝もまっすぐ伝えています。

ベラはアーヤの率直さを知っているからこそ、「おばさんありがとう!」 と満面の笑顔で飛びつかれて ぎごちなくもあっさり軟化しちゃうんですね。

バンド解散で得意のドラムの腕は封印、キレると何をしでかすかわからないマンドレークの顔色をうかがい、利己的な呪文作りばかり依頼してくるお得意さまにウンザリしながら暮らすうちに 冷えて凝り固まった彼女の心は、これをきっかけに徐々に解け始め、それにつれてアーヤの暮らしもどんどんいいものになっていったというわけです。




貴秋がふたごころあるお世辞ではこのような結果は得られないことを確信しているのは、貴秋自身が重度のふたごころの持ち主だったから。

厳しい母親になぜ怒られるのか訳もわからず 恐怖に身が縮むほど叱責され続け、反抗することも泣くことも許されずいるうちに、次第に自分の心の内に逃げ込むことを覚え、外の世界と内の世界が乖離していきました。

親や先生に見せる顔と 内心の思いが違えば違うほど、自分は卑怯だ、嘘つきだとの氣持ちも大きくなり、セルフイメージががたがたに下がって 自信をなくしたまま 何十年も過ごすことになりました。

だから、そんな否定的な観念の下 うわべだけいくら取り繕ったところで 得られるのはせいぜいつかの間の安心だけ、真の喜びなど得られるものでないことは、いやというほど身をもって体験しています。

そんな貴秋が 本来の自分でないものを手放し続け、ほんとうの氣持ちが少しずつ見えてきて、自分は無条件に幸せになっていいんだ、一番好きなものをためらわず選んでいいんだと思えるように変り始めたタイミングで出会ったこの作品だからこそ、アーヤの振るう力が関る誰もを幸せにするほんものであることを ぜひお伝えしたくなった次第です。

アーヤの能力は、バグを手放しさえすれば、私たちの誰もが使うことができるもの。

自分の中の最良の部分を開け放って満ち足りた心は、人の最良の部分をもたやすく認め 引き出すことができる、こうして誰ひとり損することなく 幸せの輪が広がってゆくんですね。




それにしても どうしたことでしょう、これだけ書きまくりながら ぜんぜん語り尽くせた氣がしないって。

「アーヤと魔女」 も 「インセプション」 や 「美しき緑の星」 などと同じく、繰り返し登場するテーマのひとつになるのかもしれません。

おしまいになりましたが、こんな魅力ある作品を世に送り出してくださった 宮崎吾朗監督はじめスタジオジブリの皆さま、ありがとうございます。

これからも 新作を楽しみにしております。


そして、長文におつき合い下さった皆さまも ありがとうございました。













音楽と 「美しき緑の星」

2018年09月13日 13時00分09秒 | 大好きな本・映画・ほか

きのうの記事で 「美しき緑の星」 についての動画を二つご紹介しましたが、その流れで見つけたこちら

とりわけ好きなシーンのひとつです (^^)

ご存知ない方のために説明しますと、主人公ミラの二人の息子があとから地球にやってくるんですね。

が 空港でトラブルを起こしてしまい、わが子を救うためミラがやたらと放った “切断” に 4人の男性が巻き込まれてしまいます。

ミラの切断第一号で 以来地球滞在中の世話役兼庇護者のようになったマックスが、あきらかに様子のおかしいこの4人があるオーケストラの団員で その晩オペラ座で公演があることを聞き出し、二人で様子を見に来てみると。。。。。という場面なのですが、誰と誰がその4人かは すぐにおわかりいただけると思います (笑)

客席のミラは 事態の収拾を図って今度は “接続” しようとしますが どうやら失敗、指揮者 ・ ソリストから他の団員までがおかしなことに ( ̄∇ ̄;)

もう一度やってみるがうまくいく保証はないと言うミラを押し留め 「様子を見よう」 と言うマックスですが。。。。




少し前に書いた演奏家の 「職人魂」 とはこういうものかとつくづく思いましたよ。

求められればどんなふうにでも弾いてみせる、と。

切断されておかしくなってるのに そろいもそろってあの演奏。

ソリストは目が据わったような表情ながらも超絶テクニックを披露するし、指揮者は楽しげに踊りまわりながらもちゃんと指揮してるし、しまいにはオーケストラメンバー全員が踊り出しながらも演奏は見事に息合ってるし。

ここでの役者さんたちも本職の演奏家さんじゃないかと思うんですが、そうだとしたらみなさんなんて芸達者なんでしょうね。




で、このとき “切断” されたのはいったいなんだったんだのか。

あっさり言ってしまえば 「ほんとうの自分でないもの」 ということになるのでしょうが、中でもこのステージに反映されたものはというと、演奏中に例の4人がラップ口調で言っていたセリフにヒントがありそうです。

          “音楽理論は大嫌い

           音楽は理屈じゃない

           音楽するのに必要なもの、それは爆発するエネルギーだ!”


「音楽は理屈じゃない」、たしかにそうなんですが、しかしプロとして活躍し続けていくためには 音楽上のものもそうでないものも含めてさまざまな理屈や制約を呑まざるを得ないのが現状だと思うんですよ。

クラシック演奏家を名乗るからには 人の作った曲を勝手に変えたりアドリブ入れたりなんてできない (作曲家が 「ここは自由に演奏してOK」 と指定しているところは別ですが) し、なによりも演奏を聴きにくる人たちを満足させなければならない。

お金を払ってくれる人に見放されたら どれほど音楽を愛していようと優れた腕を持っていようと演奏家としてやっていけなくなるのが、今のこの世界の社会的経済的システムなのですから。

ずっと大好きな演奏を続けながら生きてゆきたいと強く望めば望むほど、おのれの心を大なり小なり制約の枠の中に押し込めざるを得ないのが、演奏家というもの。

その制約の枠をぽんと外されたことが、あの自由奔放なステージを生んだと思うのです。

あのなんでもありの演奏の なんと生き生きして楽しそうだったことよ、まさに爆発したエネルギーのほとばしり。

そもそも 「音を楽しむ」 から 「音楽」 なんですものね。

最初は唖然呆然だった聴衆も、しまいにはけっこう楽しそうに聴いてたし。




身内に演奏家がいるおかげで 音楽界の裏事情を漏れ聞くなんてこともたまにあるわけですが、音楽を愛する人なら誰でも あんなふうにのびのび自由に音楽に携わりながら生きていける世界になることを願ってやみません。




おしまいに、映画ではなくこの実在世界での超楽しいクラシック動画をご紹介させていただきます。

          グスターボ ・ ドゥダメル指揮 シモン ・ ボリバル ・ ユース ・ オーケストラ ~ バーンスタイン 「ウェストサイドストーリー」 から 「マンボ」

この 「マンボ」 って もともと陽氣な曲ですが、それがさらにこのノリで、指揮者もオーケストラも聴衆までひっくるめて会場丸ごと切断されたんじゃないかと思うほど楽しい動画、元氣をもらいたいときによく見ます♪

指揮者のグスターボ ・ ドゥダメルさんは 南米ベネズエラ出身ということもあってかとても開放的な印象で笑顔の素敵な方、この動画を見ただけですっかり魅了されました。

毎年テレビで見ているウィーンフィル ・ ニューイヤーコンサートで 昨年指揮者を務められたときは、飛び上がるほどうれしかったです (*^ー^*)



















        

スポーツと 「美しき緑の星」

2018年09月12日 07時53分11秒 | 大好きな本・映画・ほか

現代のスポーツのありように氣が重くなるとき、反射的に思い浮かべるのが かのコリーヌ ・ セロー監督主演の映画 「美しき緑の星」 。

主人公ミラたちの星では、朝起きたらまず湖で泳ぎ、朝食と洗濯のあとは運動をするのが午前の日課のようです。

この運動というのは家族ごとに得意なものがあるらしく、ミラ一家は空中ブランコだそうなのですが、親子それぞれの空中ブランコの腕前のすごいこと。

ご覧になりたい方は こちらをどうぞ。

映画のシーンそのままではありませんが、ミラの空中ブランコ姿が見られます。

余談ですが、映画中のミラのブランコは吹き替えかと思っていたのですが、これを見るとどうもコリーヌ ・ セローさんご本人がなさっているような。。。。どうなんでしょう。




この運動の場面はけっこう長くて、空中ブランコ以外にも 綱渡りのように張ったロープ上でのアクロバットとか、トランポリンみたいにさまざまなポーズで飛び跳ねるのとか、床運動の前転や後転の連続技みたいなのとか、いろいろ出てきます。

そのどれもがサーカスばりにすごくて (このシーンの役者さんは実際サーカスのプロや体操選手などの方々じゃないかしら) シルク ・ ド ・ ソレイユか上海雑技団かという感じなのですが、彼らは人に見せるとか競い合うとかのために運動しているわけではないのですね。

健康維持のためですらない (結果的にそうなるというのはあるでしょうが) 印象を受けます。

なんらかの目的があってしているわけじゃない、ただそうしたいから 楽しいからしているというか、運動するために運動しているというか、そんな感じ。




スポーツの原点って まさにこんなふうだったんじゃないかと思います。

子どものように無心にからだを動かすことを楽しむところから始まった。

そこにあとから少しずつ 「見せる」 「競う」 という要素が加わり、どんどん積み重なって極まったのが今のありようなんじゃないかな。

そして、そのように付け加えたものの持つ意味に氣づいて すっかり手放し子どもの心に返ったのが、ミラの星の人々なんでしょうね。




「美しき緑の星」 には、もうひとつスポーツの場面があります。

あのクライマックスのサッカー場シーン。

ミラと二人の息子が、地球のプロサッカーチームの試合真っ最中に 選手たちに “切断” を施すのです。

たちまち動きを止めた一同、試合など放り出し 選手審判入り乱れてシッチャカメッチャカ、ミラが流した 「美しき青きドナウ」 の曲にのって踊り出す者、馬跳びを始める者、大声で歌いながら走り回る者、唖然とする観衆を尻目に フィールドは小学校の休み時間の校庭さながらに。

挙句の果てに 両チームのキーパーがフィールドのど真ん中に躍り出て。。。。とこれは未見の方のお楽しみにとっておきますが、役者魂としかいいようのない衝撃のシーンでしたよ ( ̄∇ ̄;)

こちらは英語字幕の予告編、サッカー場とあと 「運動」 のシーンもちらっと出てきます。




あの場面で “切断” されたのは、勝敗へのこだわりやいいところを見せたいという欲、そしてその奥に潜む 「役に立つことを証明しなければ存在価値も居場所もなくなる」 という恐れだったのではないでしょうか。

そんなものを取り払って真の自分に戻れば みな幼い子どものように満ち足りた心で楽しく暮らせる、プロスポーツなどというものもなくてもよくなるんじゃない? とそんな静かなメッセージが聞こえた氣がしました。




以前お話したような成り行きで、スポーツ大嫌いだったのが 室内ランニングやストレッチ ・ 柔軟体操を通じてからだを動かすのがすっかり好きになった貴秋、このところ 「自分の内に眠っている潜在的身体能力をもっともっと目覚めさせたい、からだの力を引き出せるだけ引き出したい」 との欲求が日に日に高まりつつあります。

ちょうど涼しくなってきたことだし 結果だ実績だというわずらわしさ抜きで 心の赴くまま思いっきりのびのび動き回るのも悪くない、と “スポーツの秋” 本番を目の前にわくわくしています (^^)





【追記】

 これを描いた2日後に 「美しき緑の星」 サッカー場シーンの動画を見つけました、それも一度に3つも (^◇^;)

 こちらはそのひとつ、どうぞご堪能ください☆




















時間を遡れなくても人生はやり直せる ~ 映画 「シャッフル」

2018年08月22日 12時13分27秒 | 大好きな本・映画・ほか

動画サイトGyaO!で 「シャッフル」 という映画を見ました。

この先映画の内容に触れますので、「ネタバレ注意」 とさせていただきますね。














*         *         *         *         *















夫ジムと娘二人の家族4人で暮らすリンダは、ある日突然出張中のジムが交通事故で死んだことを告げられます。

が 翌朝起きると、キッチンでいつものように朝食を摂るジムの姿が。

混乱しながらも受け入れたリンダですが、そのまた翌朝目覚めて階下へ行くと、居間には黒服を着た人がずらり。

ジムの葬儀の日だったのです。

いったいなにが起きているのか。

4日目、リンダは 曜日がいつものように月、火、水、と順でなく、木 → 月 → 土・・・・・とシャッフルされていることに氣づきます。




これを初めて見たとき、細田守監督のアニメ 「時をかける少女」 を思い出しました。

あちらはシャッフルではなくタイムリープでしたが、いつもと違う時の流れの中で行きつ戻りつしながら 迷って悩んで やがて自分なりの答を見つけ出すところに 共通のものを感じました。

どちらも ジムが亡くなる、真琴と千昭が (おそらく二度と) 逢えなくなるという結末に変わりはありませんが、二人のヒロインは そこまでの道のりを行ったり来たりしながら 自分なりに事態に精一杯取り組み、普通の時間の並びのままだったら氣づけなかったであろうことに氣づいて、哀しみを超え 穏やかな自信を取り戻し、新たな道を歩み出します。




「シャッフル」 のリンダは、組み替えられた曜日に翻弄されながらも、夫の死という定点を いやおうなしに生前と死後の両方の視点で眺めることになり、当たり前になり過ぎて受け流していた事実に直面します。

幸せに満ち 希望に溢れてスタートを切ったはずの結婚生活なのに、いつのまにか離れ離れになった心、単調に繰り返される味氣ない暮らし、こんなはずじゃなかった、なぜこんなことに。

どうすればいいのかわからぬまま迎えた残る曜日のさいごのひとコマ ・ 事故3日前の日曜、信仰に救いを求めたリンダに 神父は穏やかな口調で説き聞かせます。


       “信仰をなくした者は カラの器と同じだ。自分より強大な力に支配されやすい。

        信仰とは 自分を超えた何かを信じることだ。触れることも嗅ぐこともできないもの、希望や愛のようなものを。”


       “遅すぎはしない、何が大事か、何のために戦うか氣づくのに”


日曜の晩、リンダはいつのまにか取り巻かれてしまった諦めと倦怠の幕を破り、ジムに率直に寂しさや空しさを訴えます。

この新たな行動をもってしても ジムを死の手から救い出すことはできませんでしたが、残されたリンダの人生は大きく変わることになりました。




現実の私たちの人生で 時間の流れが前後することはまずないでしょうが、それでもリンダのように 人生をよりよいものにする手立てはあります。

惰性に流されず、毎日を 自分自身を つねに新鮮な目で見つめなおすこと。

惰性は、空回りするマインドに身を任せて ほんとうの自分の氣持ちを省みなくなるところから生まれます。

あの 「シャッフル」 の神父さんの言葉、“毎日生きていることが奇跡だ” 、そんな心で日々を迎えられたら。

指針となってくれるのは、自身の感情。

不安、怒り、退屈、空しさ、そんなできれば背を向けていたい感情と敢えて向き合い 味わい切ることで、単調に過ぎたかもしれない流れに風穴が開きます。

湧き上がる負の感情は、「このまま進みますか?それとも道を変えますか?」 という問いかけのようなもの。

まずは問われていると氣づくことが、変化のきっかけをつくります。




「シャッフル」 と 「時をかける少女」 、どちらも一方通行のはずの時の流れを乱してみせることで、SF設定とは縁のないはずの私たちも いったん通り過ぎた出来事をやり直すことはできなくても 意識を変えるチャンスはそこここに置かれているのだということを伝えてくれているのかもしれません。