毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

すっと手放す

2018年11月19日 12時22分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちがいま生きている物質世界は、私たちの思いから創られています。

高層ビルからつまようじ一本に至るまで 人の手になるものはすべて、誰かがそれを思いつくまではこの世になかったもの。

まず誰かの中にアイデアやイメージが生じ、具現化の意欲が湧き、そこからさまざまなプロセスを経て形になって初めて この世界に登場します。

創作物だけでなく 目の前に展開する光景も同じこと、形あるものはすべて 私たちの意識から生まれています。




ここが納得できれば、逆に形として現れているものから それを生じさせた自分の意識のありようを推し量ることもできます。

いま目の前の世界に少しでも違和感があるのなら、自分の意識のなにがそれを見せているのかたどってゆくことができるのです。




前の記事で 「今世界の多くの人々が抱える不安や不満の根底に現行のお金のシステムがある」 ことにちらっと触れましたが、貴秋なりに見たこのあたりのからくりについてはすでに昨年こちらの 「お金の話」 に書いています。

お金のシステムについては、すでに多くの方が疑問や不信を持っておられることでしょう。

世界の冨の偏りも そこから生まれる問題も、尋常でなく膨らむ一方なのですから。

持たざる者が声を上げ、デモや裁判 ・ ストライキなどさまざまな手立てを試みてもいますが、それらが望む結果につながっていないのはご覧のとおり。

数の力ということでいえばはるかに勝っているはずの庶民の意思が まったくといっていいほど通らないのはなぜなのか・・・・といえば、それはすべての事象のおおもとが私たちひとりひとりの意識であるという事実を見落としているから。




私たちのマインドは この形ある世界仕様なので、どんな問題も五感の中だけで捉え、論理的に判断解釈し、解決策を講じます。

が いくらそれをしても その問題を生み出したおおもとの意識は手つかずなので、根本的な解決は望めず いずれまた同じような問題が再燃します。

そんな繰り返しに私たちの心は疲弊し、問題が押しても押しても動かない分厚い壁のように思え、それに比べてあまりにも非力でちっぽけな自分になにができる? という無力感に襲われます。

このとき 私たちは自作の物語の登場人物になりきっていて、すべてを変える力を持つ創作者の自分のほうはきれいに忘れているのです。

そんなあなたの意識のありようが あなたの世界にいまのようなお金の状況を生み出している、と言われたらどうでしょう。

ゲンナリする?

ムカッとくる?

その氣落ちや抵抗、苛立ちなどを、言葉を使わずからだの感覚として感じてみてください。

もしも心にぽっと灯がともったら。。。。もう少しお付き合いくださいね。





あの 「お金の話 ~ その8」 から二年近く お金にまつわるものも含め あらゆる不調和な感覚をひたすらフォーカスし続けてどうなったかというと、苦しい、不快だ、でも自分にはどうすることもできないという辛さが薄れ、入れ替わるように 「これってどう考えてもおかしいよね」 というあからさまで冷静な見方が浮上してきたのです。

渦中の体験者から 問題を外から眺め吟味する創造者へと、自然に視点が移り変ってきたようです。

お金の問題でも他の問題でも 直視しないから漠然とした不安や怒りや無力感につかまっていたのであって、すべてのおおもとである自身の内の思い込みやわだかまりと向き合い解放できれば、残るのは明らかに異質で異様な現象だけ。

私たちのマインドは、どう処理すればいいのかわからないデータにはフリーズしてしまいますが、具体的におかしいとわかるものについては 即座に応じて動くことができます。

過去のさまざまな試みが成功しなかったのは、おおもとの意識の原因はそのままに 目の前の問題だけをどうにかしようとしたから。

長年抱え込んでいた負の要素に氣づいて手放せば、そんな大きな時間やエネルギーをかけなくても ヘンだぞと思うものからすっと離れることができます。

そしてそんな人が増えれば、世界丸ごとどんな大きな問題も手放すことが可能になるのです。



















いま それぞれの人生の物語を見つめなおすことの大切さ

2018年11月15日 11時27分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前々回の 「続 ・ 聴くということ」 をアップした直後、珍しくふと中まで覗いた朝日新聞で見つけた 「米中間選挙2018 心の奥底の物語」 という記事。

デジタル版にリンクを張ろうと思ったら有料会員限定記事なので、かいつまんでご説明しますと、トランプ大統領の熱心な支持者が多い米中西部のラストベルト (さび付いた工業地帯) で三年ほど取材を続けてきたニューヨーク支局の金成隆一記者が、同じように米南部に通っての取材から生まれた全米ベストセラー 「壁の向こうの住人たち   アメリカの右派を覆う怒りと嘆き」 の著者で米社会学者のアーリー ・ ホックシールドさんにインタビューした記事です。




ホックシールドさんは 右派の人々の声にひたすら耳を傾ける中から、彼らの心の奥底に横たわる 「ディープストーリー」 を見つけます。

「アメリカンドリーム」 というはるか彼方の山頂めざして長蛇の列に並び、なかなか動かない行列で 自分の番を辛抱強く待ち続けていると、誰かが列の前方に割り込んだように見える。

黒人、女性、移民難民に公務員、しまいには海洋汚染の被害を受けた油まみれのペリカンまで。

白人、とりわけ男性である自分たちは 悪条件にもめげず辛抱強くルールを守って働き続けてきたというのに、リベラルの連中は寛容を説くばかりで 列の後ろで不当に待たされている自分たちにはお構いなし。

挙句の果てに、高学歴の人々が 「おまえは人種差別主義者だ、レッドネック (貧しい白人への差別語) だ」 と後方の自分たちを指差して笑いものにしているようにも思える。

怒りに燃える自分たちに、トランプ氏は 「皆さんを列の前に入れてあげます」 というメッセージを送ってきた。

我々に不公平をもたらすばかりだった民主党の面々を引きずりおろし、トランプを熱烈に推すために全力を尽くしてなにが悪い?




「私たちひとりひとりは、大きなひとつの意識から分け出され それぞれ少しずつ異なる視点を持ち 異なる角度から世界を眺め渡す個別の意識体である」 と貴秋は捉えています。

二つとして まったく同じ視点というものはない、もしあったら二人いる意味も必要もなくなってしまいます。

そして当然 その個別の意識から生まれる人生の物語も みな違っているわけです。

自分に近い立場の物語は理解しやすくても、大きく異なるものは受け入れにくい、それは無理もないこと。

でもいま 敢えてその無理をすることが、世界の歩みを大きく変えると感じます。




現在、世界中の多くの人が 「自分は不当に扱われている」 という不満を胸に生きている印象を受けます。

幼い頃に受けた教えを守り 勤勉に誠実に生きているのに 報われることは少ない、時には報われるどころか ますます悲惨な境遇に落とされてゆく。

その根底には 「ほんの一握りの人々が 世界の冨の大半を独占している」 とたびたび報道されている現行のお金のシステムがあると貴秋は見ていますが、その話はまた別の機会にするとして。

貧富の差が開く一方のいま、長い間辛抱していた人々の中でももっとも苦しいと感じている人たちが動き出しています。

我慢に我慢を重ねて膨れ上がったその不満は わずかな火花でも簡単に爆発する条件を備えているし、実際そのパワーを利用しようとわざわざ焚きつける動きもあるような。

ただ そんな危うい意識のおおもとである個人の物語は、その人の視点からはもっともな話なのですが、もっと大きな視野から見ようとしないと 互いに責め合い争い合っての分断の動きを大きくするばかり、争いが拡大すれば 不満が解消するどころか 皆が命を落としかねません。




抑圧されたエネルギーの破壊力のすさまじさ、貴秋は身をもって知っています。

恐ろしいことを言うようですが、あのまま放っていたら 「相手は誰でもよかった」 などという事件の加害者になっていても不思議はないぐらいだったのです。

そんなことにならずに済んだのが、自分の心の奥の暗がりとひたすら向き合い ほんとうの声を聴くことで、自作の物語を引きの視点から見つめなおすチャンスを得たからだともわかっています。




自分の物語の主人公はどこまでも自分なのだから、その筋が主観の色合いを帯びるのは当然のこと。

が、異なる物語どうしが角突き合わせてばかりいても、大筋ではなにも解決しません。

金成記者は 取材相手の多くから 「話を聞いてくれてありがとう」 と言われ、彼らは話をしたがっていると感じたそうです。

いまひとりでも多くの人が まず自分の そして相手の心の声に真摯に耳を傾け、少し引いた広い視野からめいめいの物語を見つめなおすことが喫緊の課題だと思えてならないのです。















     

見つめる ・ 聴く その確かな力

2018年11月14日 09時38分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは ただ知るだけでなく 「体験」 というものがしたくて 肉体という有限の形を借りこの世に出現した意識である。。。。と貴秋は思っています。

このからだがあり 「体験」 が可能になったから、喜怒哀楽さまざまな感情を味わうことができる。

だから 五感を超えた視点からみれば 怒も悲も哀もすべて望んで引き寄せているのであり、あらゆる感情が恵みなわけですが、この感情を羅針盤に据えると 確実に難破の危機にさらされます。




故意なのかキャラゆえなのかはわかりませんが ワールドワイドで多くの人々の感情を煽りまくっているのが、現アメリカ合衆国大統領ドナルド ・ トランプ氏。

よくも悪くもとてもわかりやすいパフォーマンスで、テレビでもツイッターでもこの方がひと言言えば 世界中で賛否両論反応の渦が巻き起こります。

ついさっきもカリフォルニアの山火事のニュースで、暴言ともとれるコメントに 地元消防士や俳優 ・ 歌手などから反発の声が上がっていました。

ここで思わず共感し トランプ氏にイラッムカッとくる氣持ちもわかりますが、感情的に反応した時点で 私たちはそれと氣づかぬうちに 自身の意思や人生の舵とりを放棄してしまっているのです。

そのままでは いずれ難破の憂き目をみるでしょう。




この二極世界では 自分の信念や価値観に対立する要素があるのは当然のこと、トランプさんであれ他のなんであれ 振り回されたくなければ 反応する代わりに見つめることです。

見つめるとは、渦の外に身を置くこと。

渦を抜け出て初めて 最良の航路が見えてきます。





からだの目は相手の目を穏やかに見つめ 心の目は湧き起こる自身の感覚や感情を冷静に見つめながら、相手の言葉に静かに耳を傾ける。

発言そのものではなくその奥の真実に焦点を合わせて じっくり聴く。

記者会見でもデモでも その場の全員が毎回これをやったら、どんな手厳しい質問よりも過激なシュプレヒコールよりも効くんじゃないかしら。

ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 で モモに心の底まで見つめられた灰色の男が思わず本音を漏らしてしまったように、かのドナルドおじさんからも思いがけない真実の声が聞けるかもしれないなぁ。。。。なんて想像して楽しんでいる貴秋です (^^)


















続 ・ 「聴く」 ということ

2018年11月09日 09時53分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


  ※「 『聴く』 ということ」 はこちら



アメリカ中間選挙がらみで 人種や思想の違いから生じる摩擦や分断についての情報に触れることが多かった、ここ数日。

政治家はもとより 組織の長、学者、労働者、学生、難民など さまざまな国 ・ さまざまな立場の人の声を耳にしましたが、意見が異なる者どうしの対立が深まっているといわれれば たしかにそうかもしれません。

そして痛感したのが、「聴く」 ということの大切さ。

対立が激化する裏には、「自分の言うことを十分聞いてもらえない、思いを汲み取ってもらえない」 という不満が渦巻いているように思えてならないのです。

めいめいの主張がどんどん声高に激しくなる一方で、それにじっくり耳を傾ける人はどれほどいるのか。

語る人ばかりで聴く人のいない世界、溜まり溜まった思いを受け止めてもらえない苛立ちは増すばかり。

そんな不満が 一部ではヘイトスピーチのような極端な形で噴き出している氣がします。




肉体という形を持つ私たちは、言葉や行動を通じてなにかを 「分け出す」 ことで 一瞬一瞬自分というものを創造しています。

自分なりの線引きで選択を重ねることで、「これが私」 というものを表現し続けています。

「自分を受け止めてもらえない」 という不満は、その表現を頑なな意固地なものにしてしまう。

自分と異なる思いを持つ者が、単に違うというだけでなく 自分を攻撃し脅かす存在のように思えてしまうのですね。




が、周囲に映し出される景色は 自身の内側の投影、まわりに受け止めてもらえないと感じるとき、実はまず自分自身が自分の思いを受け止めていないのです。

自分で自分をわかっているという安心感があれば、まわりがどうだろうとたいして氣にはなりません。

自分と異なる意見は異なる意見として聞き、それが自分をないがしろにするとか認めてくれないなどとは思わずにいられるのです。




対立する意見を壁のように感じたとき、憤怒が突き上げて叫び出したいような衝動に駆られたとき、それを外に向けて吐き出す前に 意識の向きをくるりと変えて そんな自身の内を照らしてみる。

岩にぶち当たったような痛み、圧迫される苦しさ、乱れ飛ぶざわめき、そういったものを言葉を使わずじっと感じてみる。

なんでこんなに熱くなるのか、なにに怒っているのか、ほんとうはどうなりたいのか、答えはそういった感覚の中にあるのですから。




この三年ほどそうやって集中的に自分の思いに意識を向けてきて見えてきたのが、まさにこの 「聴く」 ということの大切さ。

それも 自分の思いを聴くことから他者の思いを聴くことへと 意識の焦点が移ってきたのです。




ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 の主人公モモは、独特なやり方で人の話を聴くことができる女の子。

彼女がただ静かに耳を傾けるだけで、ケンカしていた人が仲直りし、鳴かなかった鳥がさえずり始め、たくらみを秘めた悪人さえ思わず本音を漏らしてしまう。

このモモの 「聴く」 とは、他者と意識を共有しての感覚フォーカスみたいなものなんじゃないかと 最近思えてきました。

怒っている人や落ち込んでいる人と一緒にいるとき、自分の内に伝わってくる思いや感覚を 言葉で解釈するのではなく、言葉にならないもののほうに焦点を合わせてじっと感じている。

臨床心理学者の故 ・ 河合隼雄さんも、患者さんの言葉を解釈抜きで 氣をそらすことなくひたすら聴き続けたとご著書に書いておられます。

フォーカスする相手が自分であろうが他者であろうが、そうやって聴き遂げられた思いは 役目を終えて消えてゆくことができるのでしょう。




アメリカの中間選挙関係の集会で、対立政党の支持者の声に耳を傾け始めた人たちがいるそうです。

相手方の支持者どうしの話を外から黙って聴くという試みで、結果互いにかつてなかった理解が生まれ始めたと。

カウンセリングや集会などでなくてもいい、ちょっとした茶飲み話や立ち話でも、長年溜まり続けた不満や怒りで自分の心が見えなくなっている人に少しでも寄り添える人が増えていけば、世界のあちこちで起きている分断への流れが向きを変えるのも夢ではない、そんな氣がしています。

















誰にでも備わっている “超能力”

2018年11月06日 10時39分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋がyou tubeのカードリーディング (カード占い) 動画を初めて見かけたのは、たしか年が明けてひと月経つか経たないかぐらいのころ。

なにかと悩むことの多かったときで、たまたまお勧め動画に混じっていたものをひょいと覗いたのが最初だったと思います。

そこから堰を切ったようにいろいろな方のリーディングを見て回るようになったのですが、やがて面白いことに氣がつきました。

タロットカード、オラクルカードなどさまざまな色柄のカードを使用してのリーディングは 伏せたカードを数枚並べての選択方式で行なわれることが多いのですが、その中の一枚が他より際立って見えることがあり、それを選ぶとリーディング内容がほぼ的中するのです。

カードの背はトランプのようにみな同じ絵柄なのにも関らず、中の一枚だけがくっきり浮き上がるようだったり色鮮やかだったりことさら光って見えたりするのですが、照明のせいばかりでなく その時々で明るいところにあるカードに魅かれることもあれば 暗いほうが影の落ち方でかえって目を引くこともあり、選択基準は一定しません。

ときには描かれている人物が他より笑って見えたり、カードが置かれるか置かれないかのうちに 「それだ!」 とわかったりなんていうことも。

そんなときは必ずといっていいほど そのメッセージがドンピシャ当てはまります。

また どれもが全部これだと思えたり、逆にどれもピンとこなかったりということもありますが、それもやはりその感じどおり すべてのカードの内容が当てはまったり逆にどれも当てはまらなかったり。

こんなことを何十回と繰り返すうちに だんだんわかってきたのです、人は五感以外のところでも 多くの情報をしっかり受け取っているのだと。

見えないから 聞こえないから さわれないから 「ない」 ということにはならない、五感を超えたところからの情報は絶えず私たちに語りかけていて、あとはそれに氣づくか氣づかないかだけなのだと。




その後、以前にも書きましたが 街中の大通りで 見渡す限りの建物や道路、車、人などがすべて この見えない無の領域 すなわち “在る” から生えて出たと感じられたり、「閑さや 岩にしみ入る蝉の声」 の句で 蝉の声を取り巻く静けさそのものの無の空間が存在することに氣づいたりと、五感ではないどこかで “在る” を感じることが重なり、個である自分も含め 形あるすべてのものが この “在る” から生じているんだという感覚が次第になじみ深いものになっていきました。

いま思うと、リーディング動画との出会いは どうやらこの五感では捉えられない “在る” の領域を感じる力を磨き鍛えるために用意されていたようです (^^)




アナログ時計の針は、中心に動かない一点があって初めて つねに一定の円を描いて正しく時を刻み続けることができます。

私たちの暮らしも 昼夜の巡り、四季の巡り、月の満ち欠けや潮の満ち干きの巡りなどさまざまな巡りと深く関っていますが、それらが規則正しく巡り続けられるのも やはり不動の中心あってこそ。

貴秋は その動かない中心が “在る” なのだと思っています。

私たちの日常は 「変わらないのは 『あらゆるものが変化する』 という事実だけ」 というほど変化に満ち満ちていますが、それでも自分というものを見失わずにいられるのは 意識しようとしまいとどこかでこの “在る” を感じているから。

そして、「空」 とか 「間」 という語が日ごろ当たり前に使われている日本という国は、ことさらその “在る” に氣づきやすいところなのかもしれないと思ってみたりもするのです。




「耳を動かせないのは 筋の使い方を忘れているだけで、動かす筋肉はちゃんとあるのだ」 とは中谷彰宏さんのエッセイで読んだ話 (中谷さんは耳を動かすことができるのだそう) ですが、五感を超えた領域も同じようなものだと思います。

カードリーディングで見えないはずのカードからなんとなく伝わってくるものを感じたとき、新しい能力が開花したという氣持ちはなく ずっとここにあったものにいま氣づいたという感じでした。

感覚フォーカスに勤しむようになって以来 五感の範疇を超えたささやかな体験をいく度かしていますが、そのたびに思うのは これはずっと前からあったのに氣づいていなかったんだなぁということ。

自分には理解できない不思議な力を 「超能力」 などと呼びますが、それは単に忘れているだけで 実は誰にでも当たり前に備わっている力なのではないでしょうか。