毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

しがみつく

2015年01月31日 23時08分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回からの続き。


まあこの話は、からだは死んでも魂は生き続ける という見方を選ばなければ、成立しないんですが。

私はなぜか、かなり前から この見方を抵抗なく受け入れていて、さらにそこに やはり死後の生命を描いた本だの映画だのの情報が集まってくるので、ますますそのイメージが増強されてきたんですね。

映画 「ゴースト/ニューヨークの幻」 や 「オールウェイズ」 「ラブリー・ボーン」 などは まさにそんなテーマのお話だし、もっとダイレクトに死後の世界の有り様を描いた 「奇蹟の輝き」 というのもあります。

この映画 「奇蹟の輝き」 は、わが愛読書 「神との対話」 でも言及されているんですね。

また、同じく愛読書の 「ONE」 にも、凶暴なフン族の王・アッティラに背後からいきなり切り殺された衛兵の魂が 自分の死に氣づかぬまま 持ち場に戻っていく話が出てきます。

こういう映画や本も、やはり死後の世界を信じる人たちによって生み出され、類友の法則で集まってくる、ということなんでしょうか。




そして 極めつけは、臨死 (死亡) 体験者 ・木内鶴彦さんのお話を聞く機会があったこと。

前にも書いたと思いますが、この方は 医師によって 一度死亡を宣告されながら、30分を過ぎたところで蘇生が確認されました。

死後蘇生がカルテに記録されている 国内唯一の例だそうです。

今 心臓が止まった! とわかり、じゃあそう思っているこの自分は? となった、その目の前に 息を引き取ったばかりの自分のからだが。。。なんて体験を、ご本人が あるときは淡々と あるときは面白そうに語られるのですから、インパクトが違います。

講演で直接お話をうかがって、ご本人は 「第三者の証明が得られるようなことではないので、真偽の判断はお任せします」 と慎ましくおっしゃっておられましたが、私は きっとお話のとおりだったのだろうと感じました。




加えて、私は 思いが自分の世界を創るということも信じています。

いや、最近では、それはもう単なる信条ではなく 明確な事実として認定されつつあります。

思いが世界を創る、そして 死後も思いは続く・・・・このふたつが結びつくと、つなぎ止められる魂の話は がぜん真実味を帯びてきます。




先日書いたように、暮らしの楽しみを綴ったブログが大好きですが、一方で 五感を超えた世界について書かれたものにも 関心が向きます。

そちらの分野でも 愛読させてもらっているブログがいくつかありますが、その中に まさしく “この世ならざるもの” が見える方の書かれたものがあります。

その方の記事によると、生前のさまざまな思いから すぐには成仏せず 「中間地点」 に留まる人 (魂) がけっこういるのだとか。

しばらく穏やかに過ごした後 すんなり旅立つ人については、別段心配はないようですが、不安・悲しみ・恨み・執着などのネガティブな感情に捕われたまま 次の段階に進めずにいる人の場合、その感情が 思いを残した相手や たまたま出くわした見ず知らずの人など 生きている人間に向くことが しばしばあるのだそうです。

自分の死を受け入れられず 生者にしがみついてこの世に留まろうとする、恨みや思い残しを晴らそうと 対象者にとり憑く、中には 八つ当たり的に 無関係の人に害をなすことも。

ホラー映画のように 直接身体生命に危害を加えるほどの力はないそうですが、やはりネガティブなエネルギーを発しているので、生身の人間がうっかり共鳴してしまうと、影響を受ける場合もあるようで。

こうなると、その魂の意識が変わらない限り いつまでもこの世に執着し続け、此岸と彼岸の狭間に宙ぶらりんのまま 身動きが取れなくなってしまうのですね。

「のっぺらぼう」 のお蝶さんの身の上は、あながち ただの作り話というだけでは済まされないのかもしれません。




この話で 私が反応したのは、

  生きてようが 死んでようが、結局は 自分の思い込みに影響されるのか!

っていうところ。






もう少し続きます。

























エンドレス・ループ

2015年01月30日 17時15分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に書いた アニメ 「モノノ怪」 の 「のっぺらぼう」 。

解釈がいろいろ分かれると言いましたが、私はというと、最初に見たときは、お蝶さんの思い残しが解けて 婚家を出て行った話だと 当然のように思っていたんです。

むしろ、それ以外の解釈があるなんて 思いもよらなかった。

が、あちこちに どうとったらいいのかわからない描写があり、参考にさせてもらおうと 他の方々のサイトを見て回って初めて いろいろな見方があることを知りました。

そんな中、お蝶さんがすでにこの世の人でなく、モノノ怪に絡めとられた心が映し出す無限ループにはまって 成仏できなくなっている、という解釈と出会ったとき、とてもしっくりきて、以後 私の中ではその見方のほうが大きくなったのです。




ホラーアニメ (そんなに怖くなかったけれどね) から、今回は 見ようによってはますますアヤしい世界に 話が向かいます。

独自の思いひとつで突っ走る勢いです(笑)

そんなのも一興と思われる方のみ、先にお進みくださいませ。

あ、それに今回もけっこうな長さになりそう (たぶんまた分割記事) なので、それもOKという寛大な方のみ どうぞ m(__)m




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ジェームズ・レッドフィールド著 「第十の予言」 という本に、“死んだあとでも目覚めることのできない魂たちが作り出した世界” の話が出てきます。

強い思い込みのうちに生きていた人が、自分の死を認められず、生前と同じ方法で安心感を得ようと 同じ心理が投影された世界を作り出し、同じ場面を繰り返して そこにつなぎ止められてしまう、というもの。

「第十の予言」 は フィクション形式で描かれていますが、その話がやけに生々しく響いたのは、リアルにうなずけるところがあったから。





この話のミソは、死後も意識があるものならば、そこから生まれるものは、死という区切りの前だろうと後だろうと まったく同じ思考パターンにのっとって形作られる、というところ。

生前 他者を脅しつけてエネルギーを奪うやり方に慣れていた人は、死後も 敵意に満ちたいざこざの世界を創り出し、自身を無力な被害者だと思い込んできた人は、依存症的世界に逃避し続け、仕事に過度な存在意義を見出してきた人は、大忙しのオフィスを再現する。

違いは、死後の世界では 時間概念がなくなるので、思ったことが間をおかず すぐさま実現するというところだけ。

そして この死後の世界は、意識が変わって抜け出すまでは 同じ場面が無限に繰り返されるのです。




繰り返しが起こるのは、その人が 生きている間に大きな不安を抱えていて、それを解消できないまま亡くなってしまったから。

不安を感じ続けるのは耐えられないので、みな生きているときから、そこから氣をそらすような さまざまな思考・行動パターンを身につけているわけです。

「第十の予言」 は 「聖なる予言」 という本の続編に当たるのですが、「聖なる予言」 では、このパターンを 脅迫者・被害者・尋問者・傍観者の4つに分け、それぞれに特有な言動の型を コントロールドラマと呼んでいます。

不安から逃れるために 他人をコントロールしようと、無意識のうちに 自分に合ったパターンを選び取り、それにのっとったシナリオを書いて 繰り返し演じ続けているから、ということで。

ドラマを演じるのをやめると 不安がどっと押し寄せてくるので、おおもとの不安が すっかり解消されない限り、どこまでも (死んでからでさえも) 演じ続けるほかないのですね。

とはいえ、死後のドラマは、死を受け入れられないばかりに 生前の光景を無理やり再現したものなので、それ以上発展することなく 同じストーリーを ぐるぐる繰り返すばかりになってしまう。




「のっぺらぼう」 の “お蝶さん死後説” を知ったとき、すぐにこのエピソードを思い出したんです。

お蝶さんが あの世とこの世の狭間で 自ら生んだ無限ループにつながれて 成仏できなくなっているのだとしたら、それは いまだ自分の本心をつかめず、不安定なバランスに囚われたまま 自分を押し殺すクセから抜け出せずにいるのかもしれないな、って。

そこから 前の記事につながるわけですが、それはもう終わったので、今度は また少し違う方に進めていこうと思います。
























トキハナツ

2015年01月27日 23時56分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


モノノ怪となるまで 自分の心を押し殺し続けた 「のっぺらぼう」 のお蝶。

そこまでしても見合うだけの利益とは、いったい何か。




お蝶の母親もまた、武家の娘にふさわしく成長するよう 厳しい躾を受けて、本心を見失ったまま長年過ごしてきたのでしょう。

回想場面での母とお蝶は、どちらも面をつけた姿で描かれています。

母娘とも 素顔を忘れ、偽った心で生きてきたということなのでしょうね。

一度は失った武家の身分を取り戻すことが、何よりも大事。

そんな教えが あまりにもがっちり植えつけられていて、娘を犠牲にすることもいとわなくなった。。。。というか、それが娘にとっても何よりの幸せなのだ、と言い聞かせ、それ以上は考えないようにしてきたのでしょうね。




そんな母親が ほんものの愛情を注げる人ではないことを、お蝶も 心の奥ではわかっていたのだと思います。

それでも、「私は母上様が大好きでした」 と言い続けるお蝶。

その大好きな人のために 自分はこんなにまでして尽くしている、母の望みを全力で叶えている。

だから いつかきっと母も応えてくれるはず。

実際のところ、真に愛情深い母親だったなら それほどの苦しみを味わう必要もなかったわけで、いくら待ったところで そんなのは空しい希望でしかなく、また そこまでするに値する母親でもない・・・と 薄々氣づいていたのでしょうが、そんなつらい現実を認めるよりも、幻の期待を持ち続けるほうを選んだ。

それが、お蝶の利益。

決して叶う日はこないのだけれど、だからこそ 「いつかは叶うのだ」 と偽り続けることもできるわけで。

うれしくない現実を直視するよりも、ニセのはかない希望を選ぶ、そうまでしても 母に愛されたかった。

本心を殺し続け、モノノ怪になってでも。




親から愛されたい、たとえ無理とわかっていても諦めきれない、という願いの強さ。

そんな無理から生まれる苦痛や怒りを押し殺そうと、爆発させようと、願う氣持ちに変わりはないわけです。

叶わないとわかっていても諦められないから 怒りが湧くのであって、その矛先が 自分に向くか親に向くかの違いだけ。

いずれにせよ、そのままでは 怒りと執着の堂々巡りから抜け出すことはできません。




私は 親に怒りを向けたクチだけれど、だいたいお蝶さんにせよ 私にせよ、自分を殺したり 親を強引に変えようとしたりしている時点で、自身の親への思いも ほんとうの愛情ではなくなっているんですね。

自分が愛されることに 執着しているだけ。

ここにも、被害者が同時に加害者にもなるという あのからくりが働いています。

お蝶さんや私が子どもを持ったら、まず間違いなく ありのままのその子を認めて おおらかに愛することはできないでしょう。

だから、それはもう親の問題ではなく 自分の問題、なんとかしなければならないのは 親ではなく 自分自身なのです。




現実世界では、自分の歩んできた道のりを芝居のように見せられたり、生み出してしまった魔を斬ってもらったりするわけにはいきませんが、ブレイクスルーのチャンスは 誰にでもあります。

手立ては人によってさまざまでしょうが、私には まずはからだの感覚にフォーカスすることだったわけです。

肝心なのは、ほんとうの自分を知ること。

ほんとうの自分は、愛であり、喜びであり、豊かさ、安らぎ、自由であり。

からだをほぐすとか 自然の中に佇むとかして リラックスしているときに、ふとそんな自分に触れることもあるでしょう。

愛情豊かな人との交流によって 呼び覚まされることもあるでしょう。

大好きなことに没頭していて、氣づかぬうちにそうなっているかもしれない。

さえぎるものがあまりにも大きいなら、まずそれを溶かすことから始めればいい。

どんな方法であれ、愛そのものであるほんとうの自分を感じることができたら、問題はもう問題ではなくなるんですね。




タイトルの 「トキハナツ」 は、薬売りさんが 退魔の剣を抜くときの、剣とのやりとりから。

「モノノ怪の形・真・理によって、剣を解き放つ!」との薬売りさんの声に、剣が 「トキハナツ!」と応じる。

この剣を抜くには、モノノ怪の形と 真(まこと)と 理(ことわり)が必要なのです。

人に害をなすからといって やみくもに斬っていいというわけではないのですね。

モノノ怪が生まれるにも、それなりの理由や筋道があり、それを見定めて初めて 剣が使える。

モノノ怪は 人の情念に 人ならざるアヤカシがとり憑いて生まれるのだそうで、退魔の剣は それを殺すというよりも、人とアヤカシの結びつきを断ち切ることで 悪しき想いを解放し、モノノ怪を祓い清めるような働きをするんじゃないかと思っています。




斬るべきものの形や真や理を得ることで 退魔の剣が解き放たれ 魔が浄化されるように、ほんとうの自分を知ることで 偽りの自分が消えて 心の闇から解放される。

現実とやたら重なって見えるところの多い 「モノノ怪」、奥深い作品のような氣がします。






















アニメ 「モノノ怪」 より 「のっぺらぼう」

2015年01月27日 15時52分41秒 | 大好きな本・映画・ほか


アニメ 「モノノ怪」 から 「のっぺらぼう」。

冒頭、夫・姑を含む家族4人を殺したかどで 死罪を言い渡される 若嫁のお蝶。

次のシーンは獄中、白装束に身を包むお蝶と なぜか同じ牢の中にいる薬売り。

一家4人の殺害が お蝶ひとりの仕業ではなく モノノ怪が絡んでのこととにらむ薬売りの前に、突然狐面の怪しい男が現れて。。。。



これは アニメ 「のっぺらぼう」 そのもののご紹介や解説ではないのですが、話の筋や内容に どうしても触れることになり、ネタバレもしてますので、未見のかたはご注意くださいね。















*             *             *             *















この話は、「モノノ怪」 全5話の中で もっとも解釈が分かれるようです。

狐面の男の正体から、殺害事件は実際に起こったのか そうでないのか、そもそもこれは 現実世界をベースにした話か お蝶の内的世界の表現か、いや お蝶はすでに故人で 成仏できずにいるところに薬売りが介入したのか、などなど。

まあ そのあたりは置くとして、共通の点は、一見怪しげな狐面の男がモノノ怪なのではないこと、そして モノノ怪が生まれる背景には お蝶と母親の関係が影を落としていること。




お蝶の母親は、武家の奥方でありながら 夫に早くに死なれて 家禄を召し上げられ、それからは 御家再興のため 娘を武家に嫁がせることに執念を燃やし、全力で厳しく躾けていたんですね。

この人も、当時の武家の家族のあり方とか 女性のあり方とか いろいろな枷をはめられてきたのでしょう。

どう見ても 娘を大事にしてくれそうにない一家の下に嫁がせておきながら、婚礼の席で 夫家族の面々を前に 「これで胸を張って 先祖の墓参りに行くことができます」 などと言っていたぐらいですもの。

そしてお蝶は、そんな母の夢を叶えようと 自分を押し殺し、厳しい躾けにも悲惨な境遇にも ひたすら耐えてきた。

母親に腹を立てるどころか、母親の思いがほんとうの愛情でないこと、自分が母の道具となっていることを 認めることすらできません。




結末をいえば、モノノ怪の正体は、お蝶自身なんですね。

本人はまったく氣づいていませんでしたが。。。。

薬売りが解き明かした 「のっぺらぼう」 の真 (まこと:事のありさま) と理 (ことわり:心のありさま) は、母親のいびつな愛情を受け止めようとして歪んだお蝶の心に モノノ怪がとり憑いた、そして モノノ怪が 狐面の男をあやつり、お蝶を婚家に縛り付けたのだ、というもの。

狐面の男は、婚家での不当な扱いに 心の毒が限界まで上がってきたお蝶に、幻の一家惨殺を繰り返し味わわせ 毒抜きをさせては、すべてをリセットして 元の境遇に戻すという 無限ループにつなぎ止める役割を果たしていたのでした。





「いったい何人殺したんです?」 「お蝶、誰を 殺した?」

繰り返し投げかけられる 薬売りの問い、その答えが だんだん見えてきます。

彼女が殺し続けてきたのは、ほんとうの自分の氣持ちでした。

その無理から生じた歪みがモノノ怪となり、陰惨な虚構の無限ループに 彼女自身をずっと閉じ込めていたのです。




夫をはじめ 家族の皆から馬鹿にされ、罵倒され、冷たい扱いしか受けない婚家を、それでも逃げ出そうとしなかったお蝶。

冒頭の牢獄は、窓の色形や扉などの造作・配置が 婚家の台所とそっくりに描かれています。

薬売りは言います。

「お蝶さん、ここは閉ざされていると思えば牢になり、出たくないと思えば城になる。

 あなたは、ここを牢獄だと思い込んだ」

自分はこうするしかない、せざるを得ないのだと思い込み、心に毒が溜まるほど がまんにがまんを重ね続けたお蝶ですが、そんな境遇に縛り付けたのもまた モノノ怪と化した自分。

お蝶の本心は 殺され続けてきた犠牲者ですが、モノノ怪のお蝶は いわば自身に対しての加害者なわけです。

そこまでして 自らに犠牲を強いるからには、それに見合うだけの利益がなければなりません。





次に続きます m(__)m























力は自分にあり

2015年01月26日 10時00分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、あるグループに属していたおかげで、トラブルや不幸を生む 意のままにならない心の動きの原因が 過去の親子関係にあると知る機会を得ました。

「アダルトチルドレン」 という言葉が広まる少し前ぐらいから、親子関係についての本をたくさん紹介してもらい、いろいろ読んでは みなで話し合ったりした覚えがあります。

岩月謙司さんの本は あらかた読んだ氣がするなぁ。。。あと、信田さよ子さんや加藤諦三さんなども。




こういう本は、生まれてすぐは ほぼまっさらな子どもの意識に、親 (もしくはもっとも身近な大人) の抱える思い込みが影響を与えるからくりを、わかりやすく解き明かしてくれます。

読んだ内容を 幼い頃の記憶に当てはめると、ほんとうだ、そのとおりだと驚くようなことが次々と。

それをえんえん繰り返していると、複雑な想いは おのずと親へ向かいます。

私がいまこんなにつらい思いをしているのは、あなたがたのせいだったのか。。。。よくも。。。。

大人氣(おとなげ)ないといえばそのとおり、そういうときって すっかり子どもの氣持ちにもどってしまっているんだもの。

それが 「思い残し」 というものなんですね。




それって無理もないことではあるのですが、恨みつらみに留まっている間は、残念ながら 袋小路にはまりこんだも同然です。

そもそも 怒りが湧き起こるのは、どうにかしたいという強い思いがあるから。

なのにどうしていいかわからない、そのフラストレーションが 怒りとなって 自他に向かう。

そして、恨む氣持ちを握り締めている限り、どうにかしようにも 先へは進めないのです。




親 (またはそれに類する大人) のほうからいえば、子どもをひどい目にあわせたつもりはないんですね。

自分なりによかれと思うことをしているだけ。

そして 彼らもまた、自分がしているのと同じような扱いを 幼い頃に受けてきているわけで、彼らの 「よかれ」 が 幸せな結果につながらないのは、そのせい。

そんな親たちは、少なくともそのからくりが見えてきた今の自分より 意識が遅れているのだから、いくら 「どうしてくれる」 とバッシングしたところで、うろたえ 抵抗するだけ、どうにもなりはしない。

ここには ほんとうの解決や解放はないんですね。

通り過ぎるプロセスのひとつではあるけれど、いずれはそれと氣づいて 次のステップに進むことになる。




過去のわだかまりを解くカギは、他者ではなく 自分の中にある。

自分のせいだとか 自分が悪いとかいうことではないのです。

それを解く力が 自分にあるということ。

人を変えることはできないけれど、私たちは 自分自身と向き合うだけで、引き止めていたものを解き放ち、晴れやかな心を取り戻すことができるのです。




前の記事で アニメ 「モノノ怪」 の 「海坊主」 を引き合いに出しましたが、同じく 「モノノ怪」 の 「のっぺらぼう」 というお話に まさにこのテーマが描かれていますので、次に書かせてもらいますね。
























ふたたび ひとつに

2015年01月25日 10時11分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私自身、正視したくない自分を避けようとして どれほどジタバタあがいたことか。

だからよぉくわかります、どんなにがんばって奥に押し込めても 感じないようにしても、他人はともかく 自分自身には隠し切れるものじゃあないと。

一番根っこの自分は すべてお見通しだもの。。。表面の自分とのギャップは 違和感となって伝わり、意識しようとしまいと 感じずにはいられない。




でもね、その時点では それは単なるからだの感覚に過ぎないのです。

心地よくないな、長いこと感じていたくないな、ぐらいの氣は起こるでしょう。

でも、それ以上の感情的な反応は、そこには まだない。




じゃあ、「醜い」 って なんなのか。

それは、その感覚をきっかけに呼び覚まされた判断解釈にもとづく レッテル。

つまり、ある種の見方。




じゃあ、その判断解釈の根拠は?

それは、過去に身近な誰かから手渡された 借り物の価値観。

「こういう言動は 『醜い』 とみなされますよ」 「こういうことをする人は罰されますよ、爪弾きにされますよ、受け入れてもらえませんよ」 みたいな。

ただ言われるだけじゃない、実際その物差しから外れて 痛い目にあって 身に染みたんだよね、こういうことをすると こんなつらい目にあうんだ、って。

とりわけ、脳の配線が未完成の幼い頃に刷り込まれた記憶は、奥底にがっちり食い込んで、氣づかぬうちに その後の自分を大きく左右することになる。




この価値観が そもそも人の受け売りであること、なのにそれと氣づかないまま 自分のものと思い込んで握り締め 影響され続けてきたことが、苦しみの始まりなんだと思います。

自分のものじゃない物差しは 正しい判断を妨げ、本来の自分が感じることと 頭が解釈することのギャップが 心をさいなむから。




ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 に、「恥や罪悪感は必要ない」 という話があります。

これが長いことわからなかった。

だって あの頃の私の世界には、どっちも打ち消しようもなく存在していたんだもの。

でも、私のハートは なぜかその話を受け入れました。

だから、ほんとうのところはどうなのかな?って、ず~っと心に残っていたんだよね。




今ではわかります。

恥や罪悪感に身をさいなまれているときは、負の自分を客観的に直視することはできません。

でも、その恥や罪悪感って ほんものなの?

恥や罪悪感を呼び覚ますきっかけは、根っこの自分と表面の自分のギャップから生まれた ある種の波動がもたらす違和感。

それは ただの感覚であり、いいも悪いもない 中立のもの、そのまま受け取ればいいだけのもの。

が、条件反射で その感覚を合図に 恥や罪悪感という受け売りの概念が瞬時に立ち上がり、自分で自分を責めずにいられなくなるのです。




私はずっと、このクセ付けられた 責めの “物語” をどうにかしようとあがき続けていました。

それは後付けのニセモノに過ぎない、だから もう責めなくていい、恥じなくていい。。。。

でも、いくら言い聞かせても それはすっかり消えてはくれませんでした。

いったん納得したように思えても、しばらくすると また似たようなことで 自己嫌悪に陥る羽目になるのです。

どうすればいいのかわからず、不安で仕方なかった。




そんなときに、自分を振り回す “物語” よりも前に からだの感覚があることを知り、それが 「ほんとうでないものは 見つめればいずれ消える」 という情報と結びつきました。

直感で受け止めはしたけれど、実際そうしたらどうなるかはわからなかったので、とにかく試してみました。

時間はかなりかかったけれど、恥や後悔、その他の否定的感情を覚えるたびに 感覚のほうにフォーカスし続けていたら、どんどん不安が薄れて楽になっていく自分が見えてきました。





「醜い」 は、ある種の物差しに基づく 理屈です。

理屈とは 作られた “物語” であり、そのおおもとの物差しには、自分が心底納得できるような根拠はありません。

だって 受け売りでしかないんだもの。

実際に受け取るのは ただの違和感であり、感じるだけでいいのです、それ以上の意味づけは不要。

感じ続ける中で、ほんものなら残り、幻なら たとえ時間がかかっても いずれは消えてなくなります。




体験を経て 自らかみ砕き 腑に落ちたものだけが、ほんものの指針足り得るのです。

その指針に従うときは、迷いも後悔もないから それとわかります。

迷いを生じるもの、居心地悪い落ち着かない氣分にさせられるものは、 “物語” でなく からだに感じるもののほうをじっくり見てみれば、いずれ見分けがつきます。




アニメ 「モノノ怪」 の源慧さんは、薬売りの退魔の剣で 分離して魔となった半身を斬ってもらい、再びひとつになることで 真の自分を取り戻しました。

それまでの源慧さんは、およそ見目良いとはいえない容姿の持ち主でしたが、魔を祓われ浄化された 本来の源慧さんは、とても美しい姿に変わって(戻って)いました。

「醜い」 とレッテル貼って 否定し続けてきた部分が戻った トータルな自分とは、本来あらゆる意味で美しいものなのでしょうね。




からだの感覚に集中することで、言葉から生まれた否定的なレッテルを通さずに 変化を起こせると知ったことを、心から幸せに思います。























アニメ 「モノノ怪」 より 「海坊主」 ~ 分かたれる心

2015年01月24日 12時25分18秒 | 大好きな本・映画・ほか


「モノノ怪」 というアニメを見る機会がありました。

だいぶ前に深夜枠で放送されたものらしく、5つの物語がオムニバス形式で 12話にわたって描かれています。

いちおうホラーアニメらしいんだけど、怖いとかおぞましいとかいう感じはあまりなくて、むしろ美術面などで高い評価も得ているようです。

で、5つのうちの2番目 「海坊主」 というのが、今回取り上げるお話。




江戸へ向かう商船 「そらりす丸」 。

乗っているのは、船主と船頭のほか 個性豊かな6名の客。

順調な航海のはずが、何者かにより羅針盤を狂わされ、アヤカシが集う魔の海域へと誘い込まれてしまいます。

乗客のひとりで主人公 (狂言回し的役割でもある、全12話にわたって登場する唯一の人物) の薬売りの男が、まとわりつくアヤカシやモノノ怪から船を守るべく、怪異の大元を解き明かそうとするのですが。。。。。



ここからはネタバレになりますので、お読みになりたくない方はごめんなさい、ここまでになさってください m(__)m














*             *             *             *















羅針盤に細工し、航路を曲げて 他の乗客もろとも 船を魔海に連れ込んだのは、高名な僧侶・源慧。

源慧が言うには、そこが魔の海域となったのは、50年前 源慧の身代わりとなって、荒れた海を鎮める人柱として 虚ろ船に乗り込んだ妹・お庸の怨念によるもの。

彼が最初に語ったところでは、自分は実の妹であるお庸に恋心を抱いており、それが人として・僧侶としての道を踏み外させ いつ何を引き起こすかわからないと恐れてもいた。

そんな恐れに脅かされながら生き続けるよりも 二親のいない自分たちを育ててくれた村人のために 人柱となろうといったんは決意したが、いざ虚ろ船を前にして 怖氣づいてしまう。

そこへ自分の身代わりを申し出たお庸は、驚いたことに 兄である自分を 同じくひとりの女性として慕っていた。

そんなお庸の氣持ちを知りながら、恐ろしさのあまり 一緒に虚ろ船に乗り込もうともせず逃げ出してしまった自分のせいで、妹は50年ものあいだ 恨みを抱いたままこの海をさまようことになったのだ、と。




しかし、モノノ怪の真(まこと)と理(ことわり)を見分ける 「退魔の剣」 を携える薬売りは、ほんとうの大元は お庸ではなく源慧であることを突き止めます。

源慧の最初の話は、真実を直視できないがために作られた、偽りの物語。

実際のところ、彼は妹を愛してもいなければ、僧侶の厳しい修行に耐えたのも 出世して金や名声を得たいがため。

身代わりを申し出るお庸を前に 内心 「助かった~、馬鹿じゃねーのか、こいつは?」 とうそぶく源慧、相当なろくでなしに描かれています (中の人・ 中尾隆聖さんの演技がすごいです) 。

が。。。

偽りの物語の中で、お庸が兄を慕っており 進んで身代わりを引き受けたという部分だけは ほんとうのことでした。

それほど深く愛される喜びと同時に 己の醜さをも知ってしまった源慧は、そんな醜い自分を認めることができず、 それゆえにかえって肥大してしまったその部分は ついには彼から分離して アヤカシと一体化し、魔の海域を作り上げたのです。

それが、モノノ怪・海坊主の正体。




長々とあらすじを書いてしまいましたが、この物語の、自分のネガを正視できないあまり、ついにはそれが独立した魔となって 災いをなすまでに至る、というところ、ものすごく響くものがあったんですね。

たぶん、このタイミングだったから 特に。

もちろんこれはアニメのお話、フィクションだけれど、その本質は そっくりそのまま現実の私たちに当てはまる。

心の奥底では ネガも自分だとわかっている、でも認めまいと抗う氣持ちもまた 半端なく強力。

そのせめぎ合いが どれほどの負を生み出すものか。

自分やまわりの人に どれほどつらい思いをさせるものか。

源慧さんは、自分がモノノ怪だとの真を突きつけられて それはもうえらいことになってました (具体的な描写はアニメをごらんください) が、現実でも 心が分離した人間には、それぐらい強大な負のパワーが 潜在的に宿っているんじゃないかな。

そして、ふだん押し殺されているそれは、ふとしたきっかけで、ささいな言い争いから 果ては命にかかわる事件や戦争にまで発展する可能性を秘めている。




だから、そういう氣持ちを持たないようにしましょう、というのが ここで言いたいことではないのです。

忌み嫌い恐れて厄介者にしてしまう その負とは、ほんとうにそこまで認めがたく醜いものなのか?




続きは次に。




※モノノ怪・東映アニメーション公式サイトは こちら



















            

どっちも・・・

2015年01月23日 15時19分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


手作りの暮らしが大好きな私、同じように暮らしを楽しんでおられる方のブログを拝読するのも大好きです

で、ちょくちょくお邪魔するお氣に入りのブログがいくつかあるのですが、最近出会ったあるブログの過去記事を読ませていただいてビックリ。

炎上!?

子供さんのことや手作りのあれこれ、平和な日常を綴ったこのブログが?

どうしてそんなことに?

炎上したというコメント欄がそのまま残されていたので、驚きのまま一氣に読んでしまいました。




それは、ブログ主さんのある記事の内容について、初コメの方から 法律的な疑問と忠告が出されたことに端を発した 諍いめいたことのようでした。

コメントされた方は 忠告のつもりだったのでしょうが、ブログ主さんはじめ お友だちやファンの方には 言いがかりと映ったようで。

ブログでもツイッターでも そういったややこしいやり取りは なるべく読まないようにしていて、それは決して心が優しいから美しいからということではなく、自分の中のブラック回路が共振して呼び覚まされ 怒りの人に引き戻されるのを避けるためなのですが ( ̄ー ̄;)ゞ

しかしこのときは、共振するより早く ぱん!とひらめいたものがありました。

これ、どっちも私だぁ Σ( ̄□ ̄;)  

言い合う双方の どちらの心境も ありありと覚えがあるもの、どちらの思考回路も 間違いなくこの瞬間 自分の中にある。




相反する両者の心の動きを、どちらも自分として同時に感じ取る・・・・これって、ここ に書いた 白浜での体験がさらに発展したような。

あのときはまだ、まったく同時ではなく いささかの時間差があったし、「責める者」 「責められる者」 という分け方になっていたけれど、今回は、ひとつの視野に 対立して向かい合う双方が同時に映り込み、しかもどちらもが責める者であり責められる者、そのどちらの怒りも痛みも、自分のこととして 一瞬のうちに感じ取れたのです。




こうなってみるともう、“敵”とか “加害者”がいるって 錯覚に過ぎなくて、結局は自分ひとりしかいないんだ、って思うしかなさそうです。

争いになった時点で、両者ともひとつ土俵に上がって がっぷり四つに組んでいる、つまり ひとつの想念の裏表として ぴったりかみ合っているということだもの。

本来ひとつのはずが 争いになるのは、お互いポジな半面しか認められず、ネガは他者に投影して 責め合っているから。

でも、他者を通したところで、結局見えているのは自分自身なんだよね。

だから、ネガな半面も受け入れて トータルな自分に戻れば、争いは終わる。




他者と争って勝ったところで、戦いは決して終わらない。

「いいモン・悪いモン」 に分離した自分がひとつに戻ったとき、初めて終わる。




しかし、否定的な自分を受け入れるって 簡単なことではありません。

そもそも人の心って、そういう苦痛を受けつけないようにできているんじゃないかと思います。

防衛反応っていうのかな? 自身を守るために。




実はたまたま、ちょうどこのあたりのことについて描かれた とあるアニメに出会って。


長くなるので いったん切りますね☆























きょうも楽しく家仕事(^^)

2015年01月21日 13時37分45秒 | 日々の楽しみ


きのうは大寒だったけど、昼間はお日さまさんさん、一番日当たりのいい部屋は ぽかぽか温室状態。

きょうも 予報では午後から雨って聞いてたけれど、今のところ崩れる兆しも見えず きのう以上にぽっかぽか

すっかり氣をよくして、午前中は 食品ストッカーを水洗いして外干し、さらに風呂場の大掃除も。

あ~がんばったぁ、いい氣分




相変わらず家仕事が大好きな私、最近のマイブームのひとつは、一夜漬け。

その昔 嫌いな教科の試験はいっつもこれでしたが、そっちじゃなくて これは本来の漬物のほうの話。

実家にいたときは 父の好みでがっつり肉料理など作ることが多く、そういうのも決して嫌いじゃなくて 美味しくいただくのですが、ひとり暮らしに戻れば 本来の好みはやっぱり穀類豆類と野菜。

熱々の白ご飯に味噌汁、それに煮物漬物があれば、もうフルコース♪

とはいえ、本格的な漬物は失敗も多く、またひとり分には量も多いので、梅干以外はあまり作っていなかったのですが、ジッパー袋利用で少量の漬物が手軽に作れることを知って以来、高菜漬けはいつもこれ、そして クックパッドでふと目にしたレシピをきっかけに、この冬はいろんな一夜漬けにハマッています(^^)

一夜どころか、小1時間もあれば食べられるものもいっぱい♪

白菜なら葉2~3枚、大根なら3~5cmもあれば、一食分にちょうどいい量を作れます。




白菜を細めにざくざく刻んで、そのときの氣分で 塩と細切り昆布とタカの爪、塩昆布と柚子皮・柚子果汁、赤シソ酢(昨夏仕込んでおいたもの)と昆布茶少々、など さまざまな組み合わせで いっしょにジッパー袋に入れ、口を閉めて よく揉み、食事までそのまま置いておきます。

大根も透けるほど薄く切り(あれば大根葉もざく切りして合わせ) 同じようにしてもいいし、少し厚めのいちょう切りにして 市販のめんつゆや 自家製ハチミツ梅酢に漬け込んでも。

めんつゆは 濃縮タイプを薄めずそのまま使い(大根の水分でちょうどいい加減になるので)、好みで醤油や酒をちょっと足したり梅酢をちょろっと入れて ほのかに酸味をプラスしたり。

ハチミツ梅酢は、塩をちょっぴり隠し味に加えます。

先日の小正月の小豆粥は、こんな白菜や大根と 12月から漬けておいた高菜、それに自家製梅干をいっしょにいただきました。

大満足

次は、ジッパー袋と酒粕や自家製味噌を使った 粕漬けや味噌漬けにもチャレンジしたいな~




針仕事のほうも、実家で 父の穴の開いたカーディガンや 裏地の破れたズボンなどを 不慣れながらも工夫して繕ったら 思いのほかいい出来栄えで、それ以来 お直しへの関心ががぜん高まりました。

ちょうど 氣に入ってたのに穴の開いてしまったセーターが3枚ほどあり、小さな穴なら 共糸や刺繍糸で目立たないよう補修できることがわかったので、さっそくやってみるつもりです♪

あと 編み物のほうも、去年から買ってある ネックウォーマー用の毛糸を そろそろ編み始めようかな☆




*             *             *             *





前の日記に 「私は私の大好きな暮らしを楽しみたい」 って書いたけれど、私に限らず 誰だってそうだよね、きっと。

ごくごく当たり前の望み。

そして、その望みを叶えるのに 外側をどうこうしようとがんばらなくても、自分の内側をバランスよく整えるだけでいいんだよ、って言われ続けている氣がするのです。

だって、見える世界は全部 自分が創っているんだもの。




からだの感覚にフォーカスし続けてよかったことのひとつは、この 「自分の世界は自分(の思い)が創っている」 が ただの言葉から実感へとじわじわシフトしている事実。

見つめ続けたネガ感情は たしかに薄れて影響しなくなるし、そうやって意識が変われば 同じものも明らかに違って見えてくる。

そんな体験の積み重ねの中で、これまでどこかお題目っぽかったこの言葉が 事実へと変わっていくプロセスを 日々味わっています。

無理やり思い込ませる・言いくるめるのとは 明らかに違う、もっとおなかの底からどっしりと湧いてくる 「自分に力がある」という思い、そして、それを忘れての 「自分は無力で 外の出来事に翻弄されるしかない」 との思い込みのほうが錯覚だったのね という認識が、日ごとに強くなっています。

見えている世界は 私の意識のほんの一部に過ぎないんだよ、外の世界のほうが 内なる世界よりもず~っとちっちゃいんだよ、ってね♪




そんな意識のありように支えられ、きょうもちっちゃな自分の世界を 大好きなことでせっせと埋め尽くす貴秋なのです (*^▽^*)v























久々。。。パニックしちゃった(^^ゞ

2015年01月20日 13時25分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先週金曜日、ふとしたきっかけで 久々に恐れの渦に巻き込まれてしまいました

ちょっとやそっとでは立て直しが効かないほどのパニック状態って 久しぶりだ~・・・・って いや~、あれは何度味わってもキツイわ (T_T)

何よりも、もうそういうのは卒業できたのかって思ってたから、「ええ~?また~!?」 って かなりショックで。




でも、考えたら当たり前だよね。

脳の回路自体がなくなったわけじゃないんだから。

ただ、ここしばらく そこに情報が通るようなきっかけに引っかからずにいられたというだけで(それもおおいに進歩だと思うけれど、ね)。

そして、そこで 「これもまた どこまで感覚感じられるか やってみっか☆」 と思えたのは、今の自分ならでは。




しかし、パニクりながら 感覚に集中するというのは とても難しいことがわかりました。

頭の中は大揺れだし、だいたい パニックを誘発するような体感だから、それ自体氣分悪くて、とてもじゃないけど長時間感じ続けてなんていられません

そんな状況でも、「まあできるところまでトライして、あとは意識外して癒しに走って忘れればいいのよ」 と冷静に観察計算指南している自分がどこかにいるのが、これまでと違うところ

がまんできるギリギリまでフォーカスして、あとはお氣に入りのDVDや好みのおやつで釣っに氣を移して 強制終了☆





最近ときどき こういう話を書いていて、「からだの感覚フォーカス」 の宣伝屋にでもなったようで 氣が重くなることがありますが、それは 「なんのためにからだの感覚にフォーカスするのか」 「なんのためにブログに書いているのか」 というところがブレるからなのでしょうね。

今回も、パニックで頭がグルグルする中 けんめいに踏ん張っていて、「いったいぜんたい何やってるんだ自分」 ってわけがわからなくなったりもしましたが、そのときの私は、ただ無心に見つめる・意味あって来たものを受け取る、というよりも、この不快な感覚を一刻も早く消し去りたい、という氣持ちのほうが先行していたんだと思います。




で、改めて確認すれば、「もっと満ち足りて幸せに生きたい」 と望んだところが そもそもの発端だったかと。

なのになぜか 望みとうらはらな言動をしてしまう自分がいて、なぜそうなるのか、どうすれば変われるのかと模索し続ける中で、「感情よりも 『感情を誘発するからだの感覚』 が先にある」 「抵抗すればますます大きくなる、見つめれば消える」 などの情報と出会い、ぴんときて試し始めたんだったよね。

で、かなり手ごたえを感じるようになってきたから、とりあえず「実験結果」 をシェアしようと。




ここ数日 混乱もありましたが、そんな中でふとピントが合わさって明確になった、「真実」 という言葉の貴秋的意味。

どれほど見つめても消えないものが、真実。

見つめられて消えるのは 幻であり、本来の自分でないもの。

わざわざ制限の多いこの世にやってきて、自分でない情報をいっぱいくっつけたのも、“リーラ”の一環として折り込み済みだけれど、「行き」 から 「かえり」 に転換した今、ほんとうの自分とそうでないものを見分けて 真実を見えなくしている曇りを見つめては解放し 取り去っていく、それが 私の言う 「魂磨き」であり、生きることそのもの。

ともすれば見失いそうになるから、ときどき初心にかえって確認しておかないとね (^^)




政治経済の仕組みやありよう、過激な事件、氣象の変動、ドラスティックな変化があちこちで起こりつつある(ように見える)今、外の環境をコントロールしようとがんばるよりも、内側を調和させ 穏やかな心持でい続けることが なによりの護りであり貢献である、と いつにもまして思えてならない今日この頃です。

外でなにがあろうと、私は私の大好きな暮らしを楽しんでいきたいもの、ね