毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

人は変われる

2019年05月31日 09時33分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


お久しぶりです、二ヶ月以上のご無沙汰となってしまいました。

更新が止まっている間もご訪問くださった皆さま、ありがとうございます。

久々に戻ってみたら 「ハンガーゲーム ・ その3」 の下書きを見つけましたが、これはもうこのまま削除でしょう。

「2019/3/3」 の日付がはるか昔に思えます。




今回の内観期間は、以前起こった「人の本質は形を持たない意識体である」 という氣づきを感覚的によりなじませるための時間だったようです。

主体はからだではなく意識であるという見方が 徐々に板についてきました。

意識が主だと思えば、重要視するものも変わってきます。

「外からどう見えるか」 ではなく 「内からどう感じるか」 を判断の規準に置くようになりました。

他者から評価されることよりも自分が楽しいと感じることの方が大事だと 以前にも増して思うようになりました。

なにかにつけて “いまの一番” を確かめる氣持ちがいっそう強くなりました。

そうやっていつもいい氣分でいれば、それが自分の現実となる。

長年抱いていた 「どうすればもっと幸せになれるの!?どうすればいやなことから離れられるの!?」 という疑問の答えは かくもシンプルだったようです。




私たちは、自身の言葉が創り出した世界を生きています。

言葉で分け出すことで、私たちの世界は生まれます。

どんな言葉でどのような世界を創るかは、私たちの抱く感情によって決まります。




何かが起きたとき、まずからだが反応し ある種の感覚が生じます。

それに言葉で 「楽しい」 「悲しい」 「怖い」 「悔しい」 などのレッテルを貼ることで感情が生まれ、そこにさらに言葉を添えることで それぞれの物語が紡ぎ出されます。

もしその物語が氣に入らないなら、逆にたどって解体することができます。

言葉を付与して創られたものは、言葉を剥がすことでゼロに戻せるのです。

具体的には、言葉を介さずに おおもとであるからだの感覚をただ感じること、それだけ。

シンプルですが、長年かけて 山ほどの言葉を積み重ねて創り上げた世界ですから、崩すにもそれなりの根氣と時間が必要です。




プロフィールの変更がまだできていないのですが、3月中ごろに和歌山から引き上げ 奈良に戻ってきました。

お借りしていた家は昨年すでにお返ししていますが、今回は預かって頂いていた荷物を引き取ったり処分したりして、これで和歌山での暮らしは完全にピリオドとなりました。

少し離れたところから和歌山での十数年を振り返ると、それは 「自分の中の負に氣づき 手放す」 ために用意された時間だったようです。

奈良に戻って以降、毎日の暮らしにワクワクの種がぐんと増えました。

つられてもともと好きだった家事も庭仕事もワクワクに昇格、目に映る景色は同じようながら その捉え方が一変しました。

和歌山での暮らしが終ったのは 「負に氣づき手放す」 というミッションが無事終った証だったのだと いまさらながら思います。




人の心に生じたネガは手放せるもの、喜びや楽しみや豊かさに置き換えられるもの、いまの貴秋は胸を張ってそう言い切ることができます。

3日前 川崎でまた悲惨な事件がありました。

犯人を擁護するつもりはありませんが、その心の暗闇は妙に身近なものに思えます。

貴秋とて 怒りを溜め込みすぎた結果そのような事件を引き起こしていても不思議はなかったのです。

事件後 子どもたちを守るためにあちこちで新たな対策が追加されたようですが、それらはすべて事件が起きたときの手立てであって、事件を起こさないための方策ではありません。

このような悲しい事件は、人の心の闇を払い ありようを根本から変えることでのみ なくすことができるのではないでしょうか。

それが十分可能であることを、これから少しずつでもお伝えしていきたいたいと思います。