毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

家を磨き 心を磨く

2012年05月31日 16時16分56秒 | 紡ぐ暮らし
早起きはやっぱりいい!

けさは、いつもの掃除のあと 台所の床をじっくりと雑巾がけ。

きのう図書館で読んだ 禅僧の方が書かれた掃除の本の影響なんですが。

家の汚れと心の曇りがつながっているのならば、家を磨き上げることで 健やかな心を取り戻せるではないかと思って♪

雑巾を何度もゆすぎながら、いつもはさっとホコリを掃き取るだけの床板を まさに修行僧のようにひたすらゴシゴシ。

ついでに 仕切りのガラス戸の桟や プラスチックの引き出しのホコリも拭き取って。

これ、想像以上にいい氣分になれます(^^)

毎日あちこちちょっとずつでもこんなふうに磨いていったら、家の空氣も私の心も もっときりっと澄んでくるかも。。。わくわくするなぁ

しかも、これだけ時間をかけて念入りにお掃除しても 終わってみればまだ9時半。

数日前だったらようやっと起き出した頃だよね(^^ゞ

うん、このままずっと早寝早起きでいくぞ~



温泉コーヒー片手に借りてきた本をひとしきり読んでから、すっかり晴ればれした心持ちで きょうはご飯ちゃんとつくるぞ!と台所へ。

芽が出かかったじゃがいも一袋を早く使ってしまおうと、大小6、7個を皮をむいてすりおろし、卵と小麦粉、炒め玉ねぎにドライバジルを混ぜてポテトパンケーキに。

焼くときにとろけるスライスチーズを挟み込み、ケチャップをたっぷりかけていただきます♪

これがまたとっても美味しくて、2枚食べちゃった

まあいいよね、午前中よく動いたもんね♪



とこんな感じで なかなかいい調子なのですが、ひとつ問題が。。。

雑巾がけとじゃがいものすりおろしで右手を酷使し過ぎて 肩から腕にかけて痛くなっちゃった

仕方なく、午後から予定していた縫い物も手紙書きも 後日に延期。

このブログも 左手1本指で打っております(^_^;)

どうか明日には治ってますように。。。










何氣に復調(^^)

2012年05月31日 06時45分57秒 | 紡ぐ暮らし
こちらに戻ってから数日、遅寝遅起きの日が続いていました。

眠れないっていうわけでもないんだけど、なんかすんなり布団に入る氣になれなくて、ネットサーフィンなんかしながら うっかりすると夜明け近くまで

これはマズイと とにかく日付が変る前にPCのスイッチ切って布団に入るようにしたら、けさはなんと目が覚めたのが4時半

まだ薄暗いので、ひとしきりスタンド点けて本など読んでから、5時過ぎに起床。

やっぱり早起きは氣持ちいい~

4時間かそこらしか寝てないのに こんなにすっきり起きられるなんて、きっといいことあるぞぉ~\(^o^)/



そういえば、食事のほうもしばらく手抜きが続いてまして。

母のお葬式のあと、氣力と暮らしの立て直しをはかるには まず食からだとインスピレーションが湧いて、その日の晩からあり合わせの材料でカレーなど作り、そこから毎日のようにしっかりご飯の支度してたんですが、わがホームに戻ったとたん、氣が抜けたのか 調理意欲ががくんと落ちてしまいました

出かける前に作り置いた冷凍の料理なんかがあったし、以前蒔いておいたベビーリーフがだいぶ大きくなってて 新鮮なサラダも用意できたので、荒んだ氣持ちにはならずに済んだけどね(^^ゞ

決して落ち込んでるとかそういうのではないんだけど どこかふぅわり力が抜けてる感じ、そう悪い氣分でもないので そのうちまた復活するだろうとそのままにしていましたが、
きのう絵本を返しに図書館に行って、新しく借りる本を探していたら、結局氣持ちが向くのは「食」や「手芸」のコーナー(笑)

料理本3冊、編み物の本1冊、暮らしのエッセイ1冊、5冊も借りちゃった



そして晩。

父からメールが来たんですが、久々に作った食事が美味しかったからと 写真が添付されていまして。

鮭のムニエル・プチトマト&レモン添え、なめこと豆腐の味噌汁、卵豆腐、トマト。。。だって~

トマトがダブってるのはご愛嬌として、このメニュー凄すぎ(^◇^;)

刺激されてしまった(笑)



潮が満ちるように じわじわと充電が進んでます♪

このままいったら 出かける前よりいいところまでいきそう♪

思い出目一杯書きまくったことで 焦点も再び “今・ここ”に合ってきたしね(^^)

おかげさまで、何氣に自分のペース取り戻しつつあります











送る儀式について考えた ・ その5

2012年05月30日 11時11分19秒 | 奈良・実家・家族
あれ?告別式の話まで もう終わったんじゃないの?

と思われたことでしょうが。。。

そのぅ、4回も引っ張っておいてなんなんですが、肝心の「~について考えた」のところが まだ。。。

なんて言ったら そこら中から石飛んできそうだ



冗談はさておき。

今回 自分が「遺族」になってみて初めてわかったこと。

それは、「お通夜や告別式は 亡くなった方のためだけでなく、いや むしろそれ以上に 遺された家族のための儀式だ」ということです。

無宗教の式と聞いて 担当のAさんが懸念を示したのが、「あとになって『ほんとうにああいうお式でよかったのだろうか』という迷いが生じないか」ということでした。

実際に、無宗教でお葬式をしたものの、あとになって「成仏できてないのではないか」などと不安に駆られたり後悔したりしたケースがあったようなのです。

それもわかる氣がします。

大切な人が逝ってしまって、悲しみや脱力感に襲われて 一番心もとないときに、多少なりとも氣力を奮い起こして手配をしなければならないのがお葬式というもの。

自分がその立場になってみて、今住んでいる山里の「自治会主導のお葬式」のいいところがよくわかりました。

どなたか亡くなられると、すぐ地区内にお知らせの放送が入り、出棺・お通夜・葬儀の時間や場所などが告げられます。

そして、準備のために葬儀社さんが来ると、先頭に立って指図をするのは自治会の役員さんたち。

自宅で葬儀をしない場合は 自治会集会所を使うのが定番になっていて、どこに何を置くかなどの段取りもすっかりわかっていますから、その手際の鮮やかなこと。

悲しみにくれる遺族が駆けずり回らずとも 万事うまく運ぶシステムが しっかり出来上がっています。

ただ、このスタイルの弱点は、自治会役員さんの負担が大きいこと。

うちの地区の前自治会長さんは、旅先でも 集落内で亡くなった方があると 連絡が入って呼び戻されたと話しておられました。

だから、これは 集落のみんなが身内みたいなもの、という土地ならではの形なのでしょう。

そういう昔ながらの形に代わるのが 葬儀社任せのお式というものなんですね。

ただ、葬儀社さんが主導してくれるのが 宗教がらみで スタンダードな形式が決まっている場合に限られてしまうのは やむをえないこと。

では、力を落とした遺族が わずかな時間の中で ほんとうに思い通りの式を企画実現できるのかと言われたら。。。

そこは、うちみたいに 遺族が先にたってガンガン取り仕切るっていうのが変ってるのでありまして(^_^;)、万事お任せでお願いしたいと思うのも当然でしょう。

だから、実際私もそういう氣持ちになりかけたけど、特に信心してなくても お葬式は仏式で、っていうのも大いにありだと思います。


その一方で。

こうしてブログ5回分も打ち込んで書いてしまうほどに 今回のお通夜や告別式の記憶が心地よく懐かしいものとなっているのは、自分たちが 母のためにこうしたい!と望むことをとことんやり切ったからであるようにも思うのです。

まあ、その原動力のほとんどは 弟と父、そして 家のことをすっかり引き受けて 陰から支えてくれた百々子さんとほーちゃんのおかげであり、私は恩恵をこうむったというのが正しいところなんですが(^^ゞ

当たり前のようにそばにいた人が 突然いなくなってしまう その喪失感。

自分の氣持ちをどう扱ったらいいのかわからないまま 亡き人への心残りや執着がじわじわと上ってくる。

お葬式って、ちょうどそういう氣持ちを消化し切れずもて余している真っ最中に執り行わなければならないんですね。

だからこそ、亡くなった人に精一杯のことをしてあげられたと思えるとき、また、まわりの人の温かい心が故人に降り注がれているのを目の当たりにしたとき、大きな満足や安らぎを覚えて 心が救われるんだと思うのです。

私に関して言えば、職業柄とはいえ 常に敬意をもって丁重に母を扱って下さった葬儀社の方々や、多くの方々がご参列下さって 温かい思いを向けて下さったことに、まず大きく救われました。

さらに、家族が力を合わせてひとつのものを納得いくまで作り上げた高揚感、そして これなら母もきっと喜んでくれるはずという手応えに、大いに慰められたのです。


実をいうと、あれ以来 「葬儀社さん主導で執り行える無宗教のお式」のアイデアが次々と湧いてきて仕方がないのです。

母の葬儀、ご参列下さった方々から後日聞かせていただいた限りでは 割と評判よかったみたいなのです(もちろん 優しいお氣持ちからそのようにおっしゃってくださってる部分も多々あると思うのですが)。

自分たちもあんなふうに出来たらいいと思うけど、音楽のプロではないし。。。というような。

たしかに 大半の部分を自分たちで企画するのは大変だし、プロに任せたほうがうまくいく部分も多いと思うのですが、ある程度の外枠を葬儀社さんのほうで基本コースとしてあらかじめ用意しておき、その合間合間に 各ご家庭の希望を出来る限り取り入れたオリジナルパートを挟めばいいのでは?と。

しばらく実家にいた間、父とこんなアイデアを出し合ってたら止まらないぐらい盛り上がって、もういっそのこと今からどこぞの葬儀社さんに就職しちゃおうか、なんてね(笑)

まあ冗談はともかく、昔ながらの仏式のお葬式もよいものですが、どんな場合であれ オリジナルを求める機運が高まってもいる今、一番納得がいく形で亡き人を見送って 遺された者の氣持ちも救われるようなお式が一般化するのも悪くないんじゃないかな、なんていう氣もするのです(^^)





はぁぁぁぁ、それにしても 長々と書いちゃったものだ。。。

いくらいい思い出とはいえ 過去のことにいつまでも頭がつかまってるのもなぁ、という氣がしていましたが、ここに存分に書かせていただくことで、ずっと私の中で溢れ返っていた思いも無事“成仏”できたようでございます

お付き合い下さったみなさま、ほんとうにほんとうにありがとうございました m(__)m












 


送る儀式について考えた ・ その4

2012年05月28日 12時12分45秒 | 奈良・実家・家族
4月30日18時からのお通夜、夕方から雨になったにもかかわらず 予想以上に大勢の方がお越し下さいました。

当初の私たちの予想より だいぶ多めに席を用意してもらっていたのですが、それでも足りなくて 急遽追加したほど。

これは家でなんかしなくてよかったね、と家族一同ほっと胸をなでおろし(^^ゞ

それにしても、皆さま 受付を済ませるなり なぜか歌詞カードを渡されたりして なんじゃこりゃ?と思われたことでしょう。


献灯で始まったこのお通夜、スタッフの方々の熱意のおかげで 想像をはるかに超える素晴らしいものになりました。

弟作の進行表をしっかり呑み込んで 見事なナレーションをつけて下さった司会者さん、堂々と美しい所作で 献灯の儀に趣を添えて下さった女性スタッフさん、さらに 献花の際にどこで何をすればいいのか 目立たないようにそっと家族に指示してくれたり、持ち込みのビデオカメラの世話から 照明、お客さまの誘導に至るまで、一日かそこらの準備期間で いかにその道のプロとはいえ ここまで非の打ちどころのない運びとなろうとは。

そして、悪天候をおして せっかくのゴールデンウィークなのに わざわざお運び下さった、たくさんのご近所の方々や知人友人の皆さま。

父の仕事の関係で 生まれ育った関東を離れて40数年、自分たちの万一のときには 遠くから身内が来なくていいよう 生前から氣にかけていた母、それがよりによってGWの真っ最中、ただ一人残った姉妹の叔母だけは 無理をしても来ると言ってくれましたが、それ以外の人たちには「もうどうぞお氣持ちだけで」ということで 大人数のお式など望むべくもないと、ひそかに「椅子の数多すぎないかなぁ」なんて氣がかりだったのに。

それが、会場一面を埋め尽くすようにお集まり下さった方々をぼんやり眺めているうちに、悲しみというより 感動の涙が溢れ出して抑えられなくなってしまいました。

ゲネプロ・・・じゃない、歌の練習のときはケロリとしてたのに これは想定外。。。まずいよ、私部屋にハンカチ忘れてきちゃったよぉ

ピアノ弾く手元が見え~ん

指先を濡らすわけにはいかないと 手の甲で何度もごしごし、かっこ悪ぅ、つくづく目にワイパーが欲しかった(笑)

献花のあと、並んだ遺族の前を通り過ぎるお客さま方に、心からの感謝を込めて 深々と頭を下げ続けた私たちでした。




翌5月1日、この日も雨だと聞いていたのに どうにか天氣がもってくれ、12時からの告別式にもまた多くの方がいらしてくださいました。

無理をおしてとった新幹線で 前晩遅くに大阪入りしていた叔母とその次女の従妹が 朝のうちに駆けつけてくれ、お棺に入れる折鶴(これもAさん即興のアイデア)をいっしょに折ってくれたり。

この叔母と 母のお友だちの三人の方が スピーチをしてくださったのですが、これがまたいずれも式をぐっと盛り上げ形付けてくれて素晴らしく。

両親と若い頃からの知り合いで 家族ぐるみのお付き合いだったおじさんは 涙でお話が途切れたまま続けられなくなってしまいましたが、それもまた言葉にならない思いを贈っていただいたようで感動を誘い、やはり家族同然の間柄の母の若いお友だちの女の方は 手紙に綴った思いのたけを 涙ながらに読み上げて下さり、父の仕事を通してお知り合いになった男の方は 私たち子どもの知らなかった 比較的最近の母の姿を とてもわかりやすく語って下さいました。

そしてトリの叔母は 幼い頃の母の思い出話を 落ち着いたあたたかい口調で ときにはユーモラスに淡々と語り、おしまいを ご参列下さった方々と 長年愛情と共に連れ添った父への感謝の言葉で 尺もバッチリに 見事に締めくくってくれました。

出棺のときは、これまた叔母のその場の思いつきで BGMを止めて 家族七人の「埴生の宿」の合唱を手向けに。


こうして、多くの方々の思いやりやお心遣いに支えられて オリジナルのお通夜&告別式を無事に終えることが出来たのです。

自分がイメージしてたのとは大きく違っただろうけど、母も今ではきっと、こういうお式にしてもらってよかった、うれしかったぁ、って思ってくれてると思うなぁ(^^)
















送る儀式について考えた ・ その3

2012年05月27日 22時33分34秒 | 奈良・実家・家族
4月30日のお通夜のメインイベント(笑)、家族で歌う 母ゆかりの歌。

曲目は、両親が若かりし頃はやったロシア民謡の「カチューシャ」「ともしび」などから、母が好きだった「涙そうそう」、そしてラストの「歌詞がいかにも母らしい」ということで決まった 岩谷時子さん訳詞の「マイ・ウェイ」まで 全8曲。

「ともしび」は、昨年の誕生日に 父が母からプレゼントされ 練習を積んできたマンドリンの演奏入り。

さらに、BGMとして 生前母が氣に入っていた オカリナの宗次郎さんのクラシック曲集を使わせてもらうことに。

これがまた こういう場に見事にマッチして(宗次郎さん、お氣に障ったらごめんなさい)、「これ 誰が聞いても会館用意の定番BGMだと思うだろうね」と家族みんなが口をそろえるほど。

実際、当日献花のときの「G線上のアリア」や「アヴェ・マリア」なんて あまりにも美しくて涙が出そうなほどだったもの。



さて、曲目が出揃ったところで 全員で歌の練習。

時刻はすでに 夜中近く。

氣の毒なことに この4月29日が誕生日だった弟、お祝いが何もないのはあまりにもかわいそうと買ってきたイチゴのケーキなど食べながら、台所のテーブルにみんなで集まって、「この曲は1番だけにする?」「間奏はどうするの?」などと あーだこーだにぎやかなこと。

相変わらず居間に安置されている仏さまそっちのけ。。。いえ、決して忘れてるわけじゃないんだけど、ついつい歌のほうに意識が集中してしまって とてもお通夜前夜の雰囲氣とは思え~ん

途中でふと 台所の窓が開けっ放しになっていることに氣づいて 慌てて閉めながら、「こんなの聞こえたら あそこの家族 悲しみのあまり全員氣が違ったかと思われるよ」なんて肩をすくめたりして(笑)

そんなこんなもひっくるめて なんともわが家らしいこの空氣、母も苦笑するしかなかったことでしょう(^_^;)



結局 お通夜も告別式も 葬儀社さんのホールをお借りして行わせていただくことになったので、30日の晩は 家族みんなで母とさいごの夜を過ごすべく 会場2階の和室に泊まることに。

30日午前、母の出棺を見送った私たちは、すぐ後に続いて 山ほどの荷物を持って 会館に向かいました。

まずは 母の湯灌と納棺の儀に 家族で立ち会い。

湯灌と化粧をしてくださったのは係りの若い女の方、そして納棺は それまでずっとわが家の式全般の担当として付いてくださった男性社員のAさん。

このAさん、ずっと営業の方だとばかり思ってたのですが、会場の采配以外に なんと納棺師まで務めておられてびっくり。

お二方ともとても思いやり深く丁寧にお世話下さって、悲しい中にも穏やかな心持ちで 全プロセスを見守ることが出来ました。

そのあとは、母が安置された実際の会場で またしても歌の練習(笑)

祭壇は、お願いしたとおり たくさんの花で見事にデザインされ、母の大きな遺影が飾られて、この上ない出来栄え。

横のほうに やはり花で飾られた電子ピアノが置かれているのは いささかミスマッチな光景?

ここから先の雰囲氣は、お通夜をすっ飛ばして もうすっかりゲネプロ(^◇^;)

もしもし、え~っと、私たちここに何しに来たんだっけ?(爆)

とはいえ、母との思い出深い歌の数々、曲の持つ雰囲氣も相まって 演奏しながら涙が溢れてくることもしばしば、ほーちゃんなんて 泣きじゃくって歌えなくなってしまったりして。

そんな中、涙で顔を濡らしつつも しっかり片手を上げてポーズとってた弟、「職業病や!」と開き直り(笑)

どこまでも“らしからぬ”雰囲氣が漂っておりましたが、そこがなんともわが家らしく。

母だって 生きてたらけっこう楽しく声上げていっしょに歌ってたでしょうし、ヘンにしんみりめそめそされるより こういうの氣に入ってくれたと思うなぁ




練習以外の時間は、歌の楽譜に黒画用紙で表紙を付けたり、大きめの額に母のスナップ写真を数枚ずつ入れ コメントを添えて いらした方に見てもらえるようにしたり。

糊だのハサミだのせっせと使って、どこまでも 通常のお式では見かけないようなことばかりやってる一家です(笑)

でもこれは、私たちのアイデアを可能な限り形にしようと頑張って下さった Aさん始め 式場の方々の熱意のおかげなのです。

母の写真をプロジェクターで流そうという案は 残念ながら機械の事情で無理でしたが、遺影の他に 若かりし日の両親のツーショット写真を何枚か組み合わせたものを ポスターのように仕上げて 入り口に飾ってくれたり、写真立てに入れたスナップを置くスペースを設けてくれたり、会場の設営も 何度もチェックして手直ししてくれたりと、最大限いい式にしようと努めてくださる氣持ちが伝わってくるお仕事振りには 頭が下がる思いでした。

さらに、ご近所の方がお三人 受付を引き受けてくださって これまた心からありがたかったです。


こうして、多くの方々に力を貸して頂きながら、いよいよ本番に臨む(笑)次第となりました。















送る儀式について考えた ・ その2

2012年05月26日 12時12分55秒 | 奈良・実家・家族
そもそも 長男とその妻でありながら、家に仏壇も置かず、また お墓が遠く離れている事情もあって 法事や墓参りに行くこともめったになかった両親と、そんな宗教色のまったくといっていいほどない環境で育った私たち姉弟。

母の希望の中でも「無宗教のお葬式」というところは とても素直に受け入れることができました。

ただ、実際に準備にかかってみると、これがなかなかの難関。

そうそう深い信仰心を持っているわけでなくても お葬式は仏式でやる人が多い理由がわかった氣がしました。

仏式なら、すでにしっかり確立した儀式のパターンがあるんですね。

だから、万事を葬儀社さんにお任せして、遺族はそのパターンに乗っかって 言われるままに動いていれば それで済む。

しかし、無宗教となると 葬儀社さんのほうにも決まった形の持ち合わせがありませんから、そこは遺族が主体的に動いて 式次第を決めていかなければならない。

普通のときならまだしも、悲しみと混乱で身も心もへとへとになっているときに、しかも時間的余裕もあまりない状況で、一からすべてを決めて準備するというのは かなりキビしいものがありました。

夜も更けて 次々眠りに落ちていく父と弟を横目に そのまま夜明かしした私、疲弊しきった頭であれこれ考えてみるのですが、何分まったく未知の世界、どうもピンと来るイメージが浮かばず。

二人が起き出してくるころには、もうこの際故人の意向を無視して 仏式でもなんでも無事式さえ出せればいいや、と思うまでに意氣消沈していたのですが。。。


ここで俄然力を発揮したのが 弟でした。

朝のうちに再び打ち合わせに来てくれたホール担当の社員さんとあれこれ相談するうちに、彼の頭の中では 具体的なイメージがどんどん出来上がっていったようなのです。

もともと声楽家で、やはり声楽家である奥さまと二人で行うリサイタルの企画から上演まですべてを 幾度にも渡ってこなしているクリエイター、また 結婚式の司会の経験も手伝って、実に頼もしい企画・采配ぶりでした。

ある程度プランがまとまってくると 父もノッてきて、二人して仏さまの枕元を右往左往しながら 進行表を打ち出すやら BGMや写真を選ぶやらと すごい打ち込みよう。

ちょうど弟の奥さん百々子さんと姪のほーちゃんが来てくれ、家事をすっかり肩代わりしてもらった私は、どこか氣が抜けてしまったのか そんな二人の張り切り振りを 横でぼんやり眺めつつ、な~んか空氣が違ってきたなぁ・・・と(笑)

普通なら 過去を振り返って故人の思い出に涙する沈鬱な時間であるはずが、あれこれアイデアを出し合ってはクリエイティブに物事を創り上げていく活氣に満ちた時間にすっかり変わっちゃってるんだもの

心なしか 母そっちのけの感がないでもなく(爆)

でも、母も半ば呆れつつも 「いいわよいいわよそれで、まったくあなたたちらしいわ」と思ってくれてたんじゃないかなぁ(^^ゞ



葬儀社の担当さんが 過去に取り扱ったイレギュラースタイルのお通夜や告別式についていろいろと教えてくれ、また、母のただ一人残った妹である叔母からも 身内でやはり無宗教のお式を出したケースがいくつかあったことを教えてもらい、そこに弟たちの創意工夫が加わって、なんとなく形が整ってきました。

時間にして、お通夜はだいたい40分前後、告別式はおおよそ1時間。

この中に、儀式的要素として 献灯、黙祷、献花(これがお焼香の替わり)、拝顔などを要所要所に入れると、宗教抜きでも それに替わる形を創ることが出来ます。

あとは、通常なら読経に当たるところに何を持ってくるか。

わが家はここに、お通夜では父の思い出話と歌、告別式では身内やお友達のスピーチを入れることにしたのです。

思えば、母を送るのに 歌ほどふさわしいものはありません。

そもそも 両親の職場であった某銀行のコーラスサークルでの出逢いが二人の馴れ初め。

私たちが子どもの頃から、家の中にはいつも歌声が響き渡っていました。

台所仕事をしながら 母が歌う。

休みの日などは 父が家事を手伝いながら これまた歌う。

私たちが学校で習った歌などをちょろっと口にしようものなら、たちまち二人の声がかぶさってきて、さらにハモって「家族揃って大合唱」の様相に。

三度のご飯と同じぐらい当たり前に歌があるのが わが家の日常でした。

お通夜では そんな懐かしい歌の数々の中から8曲を選び、父の思い出話を挟みながら 家族みんなで歌うことに。

素人には惜しいほどの美声の持ち主である父と、歌が本職の弟夫妻、そしてそんな両親の影響か 小学生の頃から合唱団所属のほーちゃん、メンバーはバッチリ☆

ありがたいことに この葬儀場には電子ピアノの備えがあり、私はそれをお借りして 即興の伴奏をつけることに。

告別式のスピーチは、埼玉からはるばる駆けつけてくれることになった叔母と、母が親しくさせて頂いていたお友だちの方々が引き受けてくれました。

弟が分刻みで組み上げたタイムスケジュール表も 全行程がきれいに埋まって、これで無事 わが家オリジナルの通夜&告別式を出せる見通しが立ったのです。

















送る儀式について考えた ・ その1

2012年05月24日 12時34分05秒 | 奈良・実家・家族
普段どおりの暮らしの流れに戻りつつ、4月22日からこっちの記憶の断片が時おりひらりと挟まれる時間を過ごしています。

懐かしいもの、悲しいもの、心残りをはらんだものなど 思い出にもいろいろありますが、その中でもとくに お通夜と告別式の光景が浮かぶと 妙に元氣がでてきちゃうのです☆

まあ、ああいう次第でああいう式だったからなんだろうな、と




そもそも 生前の母の希望は、無宗教で 内輪だけの家族葬でした。

いや、それ以前に「献体するから葬式もいらない」と言ってたんですが。

しかし、いざそのときになってみると、肝心の当人が献体手続きをしていなかったことがわかりました。

今思えば、母は(いや、私たち家族みんな 多かれ少なかれその傾向があるんですが)反社会的に突っ張ったところがあって、どこか反抗的にそういう主義主張を唱えていただけに過ぎないような氣がしているんですけど(^_^;)

だって、葬式いらないって言いながら 一方では葬儀社さんでしっかり積み立てしてたし(笑)

なにはともあれ、本人は口にするだけでよかったとしても、それを実現しなければならないのは 遺された家族。

遺体に付き添ってこられた葬儀社の方に そういう形で執り行いたい旨を伝えたのですが。



実はこの時点で 私の中でかなりの違和感が膨れ上がっていました。

自宅で、と言っても、ただでさえ決して広くはない家、奥の一間は父の事務所になっているし、母の居場所だった六畳は 介護ベッドと酸素吸入器にあらかたを占領されてギュウギュウ詰め。

しかも、2階の寝室から台所にいたるまで 居間を空けるために無理やり放り込んだ品々でシッチャカメッチャカのカオス状態。

こんな落ち着かない中で 家族だけがひっそりと身を潜めて、ほんとうに悔いのない葬りの式が出来るものか。

また、建物の混乱以外にも、今の私には 「身内だけで」というところに どこか意固地な閉塞感が感じられてなりませんでした。

以前だったらそんなふうに思うこともなかったのでしょうが、和歌山に移って、土地の人が力を合わせて行う 手作り感漂う暖かいお葬式を幾度も見、ときにはその端っこに加えてもらって、そういうみんなのパワーや心遣いが 亡くなった方にも残されたご家族にも大きな慰めとなる様子を目の当たりにしてきました。

俗に言う「村八分でも 火事とお葬式だけはいっしょにする」という言葉はほんとうだったのだなぁ、と。

そんな体験を重ねた身には、「身内のみ」と閉じこもって行うお葬式が、どこか寂しく寒々しいものに感じられてならなかったのです。



とはいえ、そんな思いをわかりやすく言葉にする猶予もないまま、あくまでも「故人の意思」ということで 話はどんどん進んでいきます。

家に来られた社員さんたちは ホールでのお式担当ということで、自宅葬担当の方が入れ替わりで来られることになりました。

夜中の12時に駆けつけてくださったこの方のおかげで、私たちはほんとうに悔いのない いいお式を行うことが出来たのです。

とにかく身内のみで、の一点張りの私たちに、この方は諭してくれました。

「近くでよく知った方が亡くなられてお葬式があるということになれば、ご近所の方だってお参りに来られますよ。

 そんなときに『身内だけでしますから』とお引取り願えますか?」

そう言われてみれば まったくおっしゃるとおり。

しかし、そうなると ごった返しているこの家に ご近所の方にまでいらしていただくのはムリがあります。

しかも、無宗教ということになれば、読経や焼香に替わる儀式の形を用意しなければなりません。

これはいったいどうしたものか。

主義主張ばかりが先走って 具体的なイメージをまったくといっていいほど持っていなかった私たちの危うさを指摘してくれた担当者さんは、さらに 悲しみや疲れから正常な判断能力が働かなくなっている様子を見て取って、当初29日お通夜・30日告別式の予定だったのを 一日日延べした上で、ホールを仮押さえするよう手配してくれたのです。

とりあえずこういうことにしておくから、猶予の中一日で もう一度ゆっくりお考えなさいと。

今思うと、この余分な一日がどれほどありがたかったことか。

ここから家族で額を寄せ合い アイデアを出し合っての オリジナルお通夜&告別式に向けて、事が動き出しました。




こちらの不手際からプランが二転三転した挙句、結局ホールでの式を選んだ私たちに 深夜に出向いて下さりながら 出番のなくなってしまった担当者さん。

でも、この方には今でも深く感謝しています。

おかげさまで、いま思い出しても心温まる 素晴らしいお式を出すことができました。

ほんとうにいい助言と手配をありがとうございました。




この話、思い入れがあって長くなりそうなので、いったんここで切りますね(^^ゞ

相変わらず言葉数の多い展開、長々とごめんなさいm(__)m















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2012年05月23日 20時00分14秒 | 紡ぐ暮らし
おとといの晩8時過ぎに1ヶ月ぶりのわが家に戻りました。

4月22日の同時刻ぐらいに奈良へ向かったとき、こういう展開・こういう帰途はまったく考えてなかったなぁ。

あの日の道を逆にたどりながら、さまざまな思い出が浮かんでは消え を繰り返す、不思議な感覚の帰宅でした。



こんな長い留守になるとは思いもよらず あたふたと飛び出してしまったわが家、どうなってるかちょっと心配でしたが、外回りは 低氣圧通過時に強風が吹いたのか すだれがねじれてひっかかってたり 軍手の入った箱が飛ばされて中身が散乱していたぐらいで、大したこともなく。

家の中も、ダンボールや冷蔵庫の野菜がダメになってしまったのと あちこちにクモの巣がかかってた以外 特におかしなこともなく、とりあえずほっとひと安心♪

車から降ろした荷物を一氣に片付けてしまうと、なつかしのわが家にたちまちなじんで、一ヶ月も不在だったなんてウソのような。

今は永遠の不在となってしまった母のことに意識が向くと、そこはぎゅっと胸が締め付けられるように悲しくなりますが、いつまでも悲しみに意識が張り付いているわけでもなく、やれやれと座り込んで 妙にくつろぎに浸ったりと、これまたなんとも不思議な感覚。



翌22日は 7時半にはばっちり目を覚まして、午後の読み聞かせに備えて 図書館に本を借りに行ったり、諸々の用を済ませたり。

帰るなりすぐ動かなければならないように設定しておいてよかったのかもしれません。

これはうまく弾みがついたかな、と♪

学校では、新3・4年生のみんなが歓声で迎えてくれて 大いに元氣をもらいました♪

みんなありがとうね、と~っても幸せな氣持ちだったよ



けさは、いささか疲れが出たのか 10時過ぎまで横になっていましたが、そのあとはすっきり起きて、家中に風を通して掃除をし、洗濯もして なかなかいい氣分♪

氣分と環境ってしっかりつながっているのですね☆

家の中がすっきり片付いて清潔だと、それだけでぐんと明るく前向きな氣持ちになれる(^^)v



ああ、ここはやっぱり“ホーム”なんだなって思います。

私の家庭・くつろぎの場所であり、私の「陣地」であり。

ホームをしっかり守っていられる限り、何があっても私は大丈夫、そんな氣がしています















日食見たぁ~\(^o^)/

2012年05月21日 14時03分50秒 | 自然
前の日記に続いて 告別式の話も書くつもりだったんですが、父が風邪を引いたりして予定が変わり そのままになってしまいました(^^ゞ


さて、以前から話題の金環日食。

もともと星だの天体観測だのが大好きな父、新しくカメラや遮光レンズ、日食関係の雑誌まで買い込んで、かなり前からワクワクしておりました。

基本前向きで好奇心に溢れた人ですから、氣分を整えて新しい暮らしに向かうきっかけにちょうどいいかな、と♪

私も 雑誌の付録の観測用メガネをもらい、親子揃って準備万端

ところが。

予報では きょうの近畿中南部は

すでにきのうから厚めの雲がかかり、空氣も湿っぽく、せっかく準備したけど これはちょっとムリかもねぇ、と。。。



夕べけっこう遅くまで起きていた私、5時半に目覚ましをかけておいたはずが 止めるなり即また寝入ってしまったようで、ふと目が覚めて時計を見たら 6時35分(^_^;)

慌てて飛び起きると、父は私をほったらかしてすでに出かけてしまったらしく(おい)、外を見れば きのうの曇天がウソみたいな爽やかな青空が広がっているではありませんか♪

二度寝して1時間ですっきり起きられるなんてめったにない私、これはお母さんが起こしてくれたかな?なんてね☆

大急ぎで身支度して飛び出すと、太陽は 右上がおせんべいをひと口かじったぐらい欠けているだけ、これはまだ始まったばかりみたい(^^)

父の観測&撮影地点候補はだいたいわかっていたので、そのうち会えるだろうと のんびり見晴らしのいい道端に陣取って、メガネ越しに日食観察♪

専用メガネを通すとオレンジっぽく見える太陽、じわじわと欠けが大きくなっていく様子に 太陽と月と地球の並びを実感させられました♪

ふと氣づけば、風がすいぶんと冷たい。

お日さまが小さくなっているせい?

空の色も、鮮やかな青なのに 不思議なかげり具合で、ああ、これが金環日食というものなんだなぁ、と。

いざリング状になろうというときに 雲が覆いかぶさってきて、頼むからどいて~と心の中で必死に叫んでいたら、雲の薄くなったところから 赤く光るリングがすぅっと顔を覗かせてくれました \(^o^)/

見ちゃったよ~、とうとう見ちゃったよ~


再び欠け始めた太陽をメガネ越しにちらちら見やりながら歩いていくと、歩道橋の上に陣取った父を発見

三脚立てて キャンプ用のチェアーまでしっかり用意して、なのにこの寒さの中で薄いワイシャツ一枚、風邪引いてるっていうのに!

いったん合流したところで急いで家までとって返し、上着とお菓子少々を持ってまた歩道橋へ、まん丸に戻りつつある太陽をお菓子頬張りながら二人して眺めました。

それにしても、マスコミなどであれほど騒がれてた割には、日食見てる人ってほとんどいないんだよね。

出勤途上らしき人も 散歩中の人も、メガネ持ってる人をついぞ見かけず。

登校途中の中学生さんたちも、私たちを不思議そうに見やる子はいても、お日さまには目もくれず、まあ家ですでに眺めてきたのかもしれないけどね。

私なんか 道行く人に片っ端から「見ません?」ってメガネ差し出したいような心境だったけどなぁ(^^ゞ

数名ぱらぱらと観察していた人たちも リングが再び欠け始めたころから次々といなくなり、日食終了の8時50分過ぎまで粘ってたのって 私たち親子ぐらい

初めから終わりまでしっかり見たぞ、と自己満足の笑みを浮かべつつ、カメラバッグだのたたんだ三脚だのチェアーだのと荷物をどっさり抱えて 二人して肩を並べて家路につきました。



家に入るなり お風呂を沸かし ホットミルクを用意して、ミルクを飲み終えた父をすぐ風呂で温まらせて、その間に私は朝食の準備。

ご飯を食べ終えた父は、そのままパタンキューと寝てしまいましたとさ(笑)

そりゃ、5時起きで 吹きっさらしの歩道橋に3時間も立ってればね

100枚以上撮った写真を見せてもらうのは もう少し先のことになりそうです。

どうか風邪がぶり返しませんように。。。



さて、思いがけなく1ヶ月の長期滞在となった実家ですが、明日の今学期最初の読み聞かせをしおに いったんわが家へ帰ります。

あと1時間ほどで出発です。

まだいろいろとし残していることがあるので 近々また来る予定ですが、初めてのひとり暮らしとなる父が どうか心の調和を保って元氣にやっていけますように、と祈る思いです。














思い出すままに

2012年05月15日 11時41分24秒 | 奈良・実家・家族
前の日記、あの頃の記憶にどっぷりはまり込んでしまったために 湿っぽいムードとなってしまいましたが、実際のところ 今では極端な悲しみの色が抜けて、どことなく味わい深い思い出になっています。

ときにはくすっと笑えたり 思わず苦笑してしまうようなこともあったりして(^^ゞ



あの日は、生まれて初めて迎えた近親者の死という事情以外にも 初めてづくしの一日でした。

まず、救急車に乗ったのが初めて。

よりによって大型連休の初日、道の混みようもかなりのものでしたが、そんな中を信号も何もお構いなしに そこ空けて~!状態で飛ばしてくれる頼もしさは心強かったです。

その分車内の揺れも半端なく、片手で母の手を握り締めた私は もう片方の手であちこちつかまりながら必死にからだを支えていましたが、そういえば救急車ってシートベルトあったんだっけ?

あのときはそんなもの探す余裕もなかったけど、今思い返すと妙に氣になって



さらに、警察の事情聴取を受けたのも初めてのこと。

ずっと病院に入院していて亡くなったのでなく 自宅での死亡ということになると、形式として事情をお尋ねしなくてはならないということで、警察の人にそのときの状況を細々と説明する次第となったのですが、なにせ尋常な精神状態とはいえない父と私、過去の病歴や通院歴にまで話が及ぶと 記憶がこんがらがって 二人の話がかみ合わなかったりして、警察の人もさぞ苦労されたことと思います。

そんな中、警察の人の腰の辺りに 手錠と警棒?らしきものをちらっと見かけた私、それまでぼろぼろと泣いていたのが、思わず拳銃も持ってないかな?なんて目で探してしまったりして(^◇^;)



その後、ちょうど在宅していて駆けつけた弟と合流、遺体に付き添う父を残し、警察の人4人といっしょに実家に戻って 現場検証(!)に立ち会うことに。

取るものも取り合えず救急車に飛び乗ってしまった私と 電車で来た弟、警察の車で家まで送ってもらえたのはありがたいことでした。

しかし、よほどパニクってたのか 家までの道順を思い浮かべることも出来なくて、冷静な弟がいっしょにいてくれなかったらどうなっていたことか



パニクって。。。といえば、父から電話がかかってきたときの私の行動も、今思うとかなり滑稽だったなぁ。

散らし寿司の材料やらアイスクリームやらで満載のカートを押して まさにレジにたどり着かんとしていた私、緊急連絡に慌てふためいてしまって。

あとから考えれば、店員さんをつかまえて事情を話し カート丸ごとお願いしてしまえばよかったものを、「これはお寿司作るどころじゃない」と、マグロや貝柱などの生ものとアイスクリームをひとつひとつ元の置き場に戻して回ったのです(笑)

真っ白なアタマでそんな作業がスムーズにいくはずもなく、ショーケースの前を右往左往、やっとひと通り返し終わると 残ったものを持ってしっかりレジに並んでお勘定(笑)

そのあと突然血相変えて カートを押して駐車場まで猛ダッシュ、知らない人が見たら何事かと思っただろうなぁ(^◇^;)



さて、警察の人が帰ったあとは、母に着替えさせるものを持って 今度は自分の車で病院にとって返し、再び帰宅して、葬儀社の車で母が戻ってくるまでに 弟と二人で家の片付け。

折悪しく、母を安置する予定の居間は 介護用品の入れ場を作るために父が運び出した衣類などで足の踏み場もないほどの散らかりよう

このありさまを見た弟は、錯乱した父がそこら中を引っ掻き回して手当たり次第にものを放り出したのかと思ったそうです(笑)

与えられた猶予は1時間もなく、もう悲しむヒマも落ち込むヒマもあらばこそ 大慌てで 片付け物をするハメに

こういう場合 人手がいかに大切かを思い知らされたひとときでした(T_T)



こういったしょうもない(笑)ひとつひとつの事がらが、今となっては妙になつかしく思い出されます。

このあと 亡き母と付き添いの父といっしょに葬儀社の人が到着、通夜や葬儀の段取りとなったのですが、これがまた 今思い起こすとなんとも面白くておかしくてほのぼのと味があって。。。って 不謹慎な話ですが。

まあ、母はきっといっしょに面白がってくれるだろうな、ということで




ごめんなさい、しばらく母がらみの話が続きそうですm(__)m