毎日がしあわせ日和

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あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その4

2019年11月28日 14時36分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちが生きているこの世界は、エネルギーの循環によって成り立っています。

水が蒸発して雲になって雨を降らせ 再び地上に戻ってくるように、生物の命が終ると朽ちて土に返り 新たな生命の養分となるように、与えられたものが形を変えて巡り続けることで、私たちは生きてゆけるのです。

この循環システムから大きく逸脱してしまったのが、現行のお金のシステム。

地球の大きさも 与えられる自然の恵みの量も変わりはないのに、お金の世界だけがつねに拡大成長を要求される、そんな不自然が続くわけがありません。

お金もまたエネルギーのひとつですが、もうこれ以上このまま進むわけには・・・という限界点にそろそろさしかかっているのではないでしょうか。

富の偏りが引き起こしてきたさまざまな問題をきっかけに、お金のシステムそのものが崩壊するのも時間の問題のような氣がします。




実のところ、貴秋はお金のシステムが壊れること自体は さして心配していません。

いのちの流れに逆らうものが消えてゆくのは自然の理、むしろ壊れてくれたほうがいいとさえいえるでしょう。

問題はその壊れ方です。




こんな話を聞いたことがあります。

お金のシステムが崩壊すれば、支配者階級は誰よりも困るのみならず、その維持のためにこれまで自分たちがしてきた後ろ暗い行為が明るみに出る可能性が大きくなる、そこでそれを防ぐため戦争を起こし 混乱のうちにすべてをうやむやにした上で、 復興と称して再び自分たちが頂点に立つ仕組みを打ち立てる、と。

当時は小説か映画の筋を聞いているような心持ちでしたが、いまの世界情勢にこの話を当てはめて考えると 「これはほんとうにそうなるかもしれないな」 という氣持ちにもなってきます。




貴秋の両親はいまの中学生ぐらいの年頃に太平洋戦争を経験しており、特に東京の下町で生まれ育った母は 女学校の生徒として勤労奉仕に駆り出され、姉妹と母親が疎開したあと 父親と兄と三人の暮らしを主婦として切り盛りし、厳しい統制や物のない苦労をさんざん味わったあげく 空襲の中を逃げ惑い家を焼かれるという体験をしています。

そんな母が口癖のように言っていたのが、「結局戦争で一番ひどい目に遭うのは庶民だ」 ということ。

実際古来から戦争を始めるのは権力者なのに 犠牲になるのはいつも一般市民だとは、戦争体験者が少なくなったいまの日本でも なんとなく皆感じていることでしょう。

以前にも書きましたが、スポーツ界はもとよりノーベル賞や音楽コンクールのように個人が勝ち取った栄誉でも 「わが国の誰それが。。。」 とすぐ国別対抗の意識が出てくるのは、いまの世界中の問題のほとんどが権力者対庶民という構図から起きている事実から目をそらすために なにかにつけて国対国の図式を持ち出し私たちに刷り込み続けてきたからだと貴秋は思っています。

国どうしの争いで命を落とすのはどのみち庶民なのだから、庶民を欺いて冨を独占してきた真相に氣づかれそうになったら戦争を起こし、庶民どうしを争わせて力を削ぎ、いったんすべてをご破算にした上で 改めて自分たちに有利な仕組みを作り直せばいい。

これまでの歴史は、そんなことの繰り返しだったのでしょうか。




また いまの私たちの意識のままでお金のシステムの崩壊が起これば、戦争でなくとも命にかかわるような騒動は避けられないでしょう。

私たちはあまりにもがっちりと生命を維持するのにお金が必要という思い込みに囚われてしまっているので、システムが壊れたならお金抜きでこれまでどおりに物資を動かし皆が生きられるようにすればいいとすっと発想を切り替えるのはかなり難しいはず。

お金を使えなければ命が危ないと思い込んでパニックになったり暴動を引き起こしたりする人がきっと出てくるでしょう。

どのみち崩壊が避けられないシステムをソフトランディングで解体するか、社会全体がボロボロに壊れてゆくのを手をこまねいて眺めるか、どちらを現実とするかは、私たちがいまどれだけ洗脳から目覚めることができるかにかかっています。




ピンチはチャンス、本来の自分に戻る流れに追い風が吹くいまは、同じ過ちの繰り返しから抜け出す絶好の機会でもあります。

チャンスをうまく掴めるかどうかは、私たちひとりひとりが催眠に氣づいて目覚めようとするかどうかにかかっています。

目くらましにごまかされず真実を見抜く意識を取り戻せば、いまからでもできることがたくさんあるときっと氣づくことでしょう。


















あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その3

2019年11月24日 11時20分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見



世の中には、才を生かし苦難に打ち勝って時流の波に躍り出た “成功者” と呼ばれる人たちがいます。

俳優、タレント、芸人、スポーツ選手、学者に起業家、その方面に疎い貴秋でも次々名や顔が浮かぶほど、そういう人たちに当たるスポットライトは強烈なのでしょう。

その華やかさにすごいなぁ、きらびやかだなぁ、と溜息が出ますが、そんなすさまじい競争を勝ち抜いてきたであろう彼らが真摯でひたむきであればあるほど 同時に痛ましさをも感じてしまうのは貴秋だけでしょうか。
 
彼らの多くは決して看板倒れではない、持って生まれた才能をたゆまぬ努力で磨き上げ 崇められる地位に上り詰めたのだと感じます。

そんな彼らの輝きさえ一介の商品に貶めてしまう、それが現行のお金のシステムというもの。




「視野狭窄」 とは通常目の疾患を指す医学用語として使われるようですが、これが 「心理的視野狭窄」 となると、精神的に苦しい状態が続いて通常の思考ができなくなり、解決策が見つけられないままどんどん追い込まれてゆく心理状態をいうようです。

これを貴秋なりに言い換えると、引きの視点 ・ 人生という物語の作者としての視点を忘れた状態のことといえそうです。

迷路を俯瞰で見ればゴールまでの道のりは簡単にわかるのに、中でさまよう視点しか持たないので 袋小路に突き当たると出口のない部屋に閉じ込められたように思い込んでしまう、そんな心持ちのこと。

現代は、お金の不安や恐れから 世界を挙げてこの心理的視野狭窄に陥っているように見えます。

お金がなければ食べ物も買えず家も持てず 人としての尊厳も命も守ることができない、だからなんとしてもお金を稼がなければならない、そんな強迫観念に個人も企業もとりつかれ がっちり縛られているようです。

そんな恐れる人々が、現行のお金のシステムを下から支えているのです。




今年やたらとスポーツ協会の腐敗や芸能プロダクションの搾取についてのニュースを目にした氣がしますが、協会であれ会社であれ 組織の長がこのお金にまつわる心理的視野狭窄に陥っていれば、こうなるのはある意味とても自然なことといえます。

トップとしての地位をいかにうまく使って利益を確保し身を守るかというところに意識が貼りついてしまうのは、この美味しい地位を失ったら自分はどうなるか。。。。という恐れと背中合わせ。

こうなると、どんな素晴らしいアーティストもスポーツ選手も学者も技術者も 自分のゲームを優位に進めるための持ち駒としか見えなくなってしまうのも不思議ではありません。

人間だけでなく、他の生物も資源も どんな美しい景色も豊かな環境も すべて利益を確保し身を守る道具としか見えなくなる、そんな意識の蔓延が地球をいまのようなありさまにしたのだと 貴秋には思えます。




では、ごく一握りの “真の権力者” の人たちはどうかといえば、彼らこそいまもっとも大きな恐れを抱いているのではないでしょうか。

ここでいう “真の権力者” とは、たびたびニュースに名前が挙がる政治家や億万長者のことではなく、もっと奥の世間から見えないところでつねに命令を出す側に回り 実質的に世界を動かしている人たちのことです。

こういう人たちの情報はほとんど表に出てこないし 無論知り合いにもいませんから憶測でしかないのですが、いまもっとも精神的に追い詰められているのは彼らなのではないかという氣がします。

そもそもてっぺんに上り詰めればあとは落ちるしかないところへもってきて、分離から統合へと向かうこの 「かえり」 の道は、彼らに逆風となって吹きつけることが多いようです。

マッチポンプで戦争にもってゆくとか、いたいけな子どもに糾弾させることで世論を動かすとか、政治的にマズイことが起こるとタレントのスキャンダルで目をそらすとか、庶民のデモに権力者側の人間を紛れ込ませてわざと煽って暴動に持っていくとか、大手マスコミはまず取り上げない彼らの手法も いまのネット社会ではけっこう簡単に広がってしまう (もちろんすべてを鵜呑みにはできませんが) し、これまでなら隠しおおせたであろう不祥事も なぜか明るみに出ることが多い。

ちょうどローマ法王がお見えになっているときになんですが、カトリック教会の性的虐待問題なども記憶に新しいところです。

 


権力者だろうと庶民だろうと 現行のお金のシステムの下で幸せになれる人などいない、これが貴秋の結論です。

しかも、もう幸不幸の問題だけでは済まないところまできているようです。

 

 

 


 
 
 


あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その2

2019年11月22日 10時20分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところ 「競う」 ということへの違和感が募る一方です。

スポーツの試合、芸術系のコンクール、学校の成績、企業の売り上げから あらゆる分野で見かける種々さまざまな 「○○ランキング」 まで、あっちを向いてもこっちを向いても競争と順位付けばかり。

まあ線引きあるところには違いが生じ、違いを見ればついつい比較せずにいられないのが人間のサガ。。。。といってしまえばそれまでなのですが、ここしばらくはなぜかそのひとつひとつが妙に引っかかって仕方がない。

と 数日前不意にひらめいたのです。


   “あらゆる分野に競争と順位付けを持ち込むのは、優遇される一握りの勝者と 並みかそれ以下の扱いしか受けない多くの敗者に分かれることが ごく自然で当たり前なことだと思い込ませるため”




競うことがすべて悪いとは思いません。

競争から生じるスリルや高揚感を味わうのは楽しみのひとつだし、ライバルがいることで伸びる才能もある。

貴秋が引っかかるのは、そのような楽しみ事としての競争を越えて 日常の至るところで望む望まざるに関らず競わされランク付けされることで、絶え間ない緊張にさらされ続けた心が バランスを崩し歪んでしまうことです。




本来地球上には 私たちすべての生を支えるものが みなに行き渡るだけ十分あるはずなのに、ごく少数の人の独占がまかり通っていることで、多くの人が 生きるのに必要なものを対価を払って買い取らねばならないと思い込まされています。

生きるためには、まず働いてお金を手に入れなければならない。

これと 「大好きなことをやり続けたい」 という氣持ちを両立させようとすると、必然的にその大好きなことを職業にする道を目指すことになりますが、これが極度に狭き門。

「一将成って万骨枯る」 の言葉通り、多くの人の望みは叶わない仕組みになっているのです。

そんなことが何百年も続くうち 私たちはそれが自然なありようだと思い込むようになり、ほどほどの幸せで満足するようになって、創造主としての輝きを忘れました。

もっとのびのびとしたいことだけをして日々を楽しみ暮らし 愛情深く生きてゆけるのはずなのに、そんなことはおとぎ話でしかないと思い込むようになってしまったのです。

出し抜けに 「幸せですか?」 と聞かれて、瞬時に 「幸せです!」 と胸を張り瞳を輝かせて答えられる人がどれほどいるでしょう。

ちょっと考えて 「。。。。まあ幸せかな」 とか、「そうね。。。。家族も健康だし家も仕事もあるし」 などと答える人が大半なのではないかしら。

幸せになるには条件がある、そしてその条件を満たすために まず働いてお金を得なければならない、そう思い込んでいる人たちが 富を独占する側の人たちの下でせっせと働いて彼らを支えている、これがいまの世の仕組みです。

権力者を支える人がいなくなれば 彼らは過剰な富を持ち続けることはできないのですが、そのことに氣づかないよう条件付けられているので、支えられているのは自分たちのほうで 仕事をもらえなくなったら生きていけなくなると思い込み、少しでも高い評価を得られるよう 見放されることのないよう心を砕くほうにエネルギーを注ぎ込みます。

そんな現状に怒りを覚える人たちもいますが、意識の奥深くが催眠にかかったままいくら怒っても なんの解決にもならないことは、歴史が証明しています。

香港のように怒れる民衆が暴徒と化す、またはその寸前で一触即発、そんな極度に不安定な地域が世界中にあるようですが、催眠状態でどれほど暴れようと破壊しようと 残念ながら権力者そのものを変えることも動かすこともできない、それが現実です。




催眠が解けると、怒りがまったくなくなるわけではありませんが、その怒りは破壊的衝動ではなく 建設的な解決に向かいます。

前にも書きましたが、引きの視点を取り戻すので ことの全体を見渡してからくりを正確に見てとれるようになり、どう対応すればいいかがわかります。

また 真の自分に目覚めると 必然的に意識がワンネスに向かうようで、他者との連携もずっと容易になるでしょう。

目覚めた意識についてはまたの機会にということにして、次は “一将” のほうを見てみたいと思います。


















あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その1

2019年11月20日 16時49分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いまの貴秋の目から見て、本来なにものにも支配されない自由な存在であるはずの私たちに強力な影響を及ぼしているものが三つあります。

お金、時間、法律です。

いずれも人間が作ったものでありながら、私たちが生まれたときから当然のように私たちを取り巻き 生活に介入し、人生を ときには生命を左右するほどの影響力をふるっているので、天体や季節の巡りのように私たちが変えたり逆らったりできないものであるかのように思い込まされています。

中でもとりわけ大きな力を持つのが、現行のお金のシステムです。




ほんとうの自分でないものの手放しが進むと、これまで見えなかったものが自然と見えてきます。

お金のシステムについて見えてきたのは、これは分離を促進するシステムだということ。

このシステムを作ったのは 当時すでに力を持っていた権力者であり、その本質は 支配される側にそれと氣づかれたり不自然さや反発を感じさせたりせずに 自分たちにますます富や力を集めるというところにあります。

今年1月に国際NGOオックスファムが発表した 「世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っている」 との報告を見れば、その成果は明らか。

この種の報告は毎年のようになされ、富の格差が年々開く一方なのがよくわかります。

それを問題視する声は多く上がるのに、具体的な手立てがとられ格差が是正されたという話はとんと聞きません。




時間はお金のシステムと密接なつながりを持っています。

無限の可能性を秘めた私たちひとりひとりの人生を時間という尺度で区切られ、お金という価値基準と組み合わせて 経済効率がどうの生産性がどうのとまくしたてられたとたん、私たちは数字のマジックに惑わされ、どんなものさしをもってしても計り知れないほど豊かな自身の人生を 他者が数量化し評価判断し制限を加えることをあっさり許してしまう。

ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 には このあたりのことがわかりやすく描かれていてお勧めです。

法律はやはり権力者によってつくられたもので、人間を持てる者と持たざる者、奪う者と奪われる者に分けることを正当化する根拠として機能する条項が多く含まれています。




どんなに巨大な建造物だろうが、どんなに精巧な工業製品だろうが、人の手で作られたあらゆるものの原材料は、そもそも自然界に存在していたもの。

自然の恵みは、生きとし生けるすべての生命に平等に与えられたもののはずです。

それを一部の人間が独占することを 私たちはおかしいと思わなくなっているし、たとえ疑問を感じても 小さな個の自分にそれを変える力などないと思い込み 無力感に打ちひしがれている。

これが私たちがかかっている催眠です。

天体の運行や季節の巡りは変えられなくとも、人の手が作ったものは 当然人の手で作り変えることができるはず。

なのにそんなのムリ、できないと思い込んでいるのは、その不条理なシステムが 自然環境と同じく天から与えられたものであるかのように 生まれた瞬間から環境の一部として私たちを取り巻き、まわりの大人たちも当然のごとくその存在を受け入れているから。

ものごころがつく前にそういう見方が無条件に潜在意識に入り込んでしまうため、自然界を思うように動かせないのと同じく お金や時間や法律も変えることができないと思い込まされているのです。




・・・・とここまでくれば、以前からこのブログをお読みくださっている方は 話の行きつく先がもうおわかりでしょう。

そう、催眠は解くことができるのです。




貴秋の目から見たお金と時間と法律の話、もう少し続けようと思います。

















罪と罰

2019年11月19日 21時33分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


こんな記事が目に留まりました。

           茂木健一郎氏が持論 「沢尻さん糾弾しても仕方ない」


テレビを持たない暮らしが長く 俳優さんタレントさんの情報や芸能界の仕組みに疎いので、大河降板云々というあたりのことはよくわかりませんが、この記事からふと思ったのは、「そもそも 『罪』 や 『罰』 っていったいなに?」 ということ。

「因果応報」 という言葉を、貴秋は 「播いたものが実る」 「エネルギー保存の法則」 というように 単に自分の発したものが返ってくるという感覚で捉えていますが、ここに善悪の観念を加えると仏教用語的な意味になるのかなと思います。

そしてその善悪の線引きを人為的に決めたものが 法律なんですね。

人が人を一方的に罰しうるとする根拠がこの法律なわけですが、法律を作ったのもまた人。




ある弁護士さんが 「法律の根底にあるのは人間不信」 というようなことを書いておられるのを読んだことがありますが、「これこれこういうことをした者はこのように罰する」 という決め事は そもそも 「これこれこういうことをする輩がきっといるに違いない」 という不信の念から生まれたものだ、というような話だったと記憶しています。

そこにはまず 「そんなことをされたら困る人が大勢いる、社会がメチャメチャになる」 という防衛の氣持ちがあったのでしょうが、さらにその奥には 「そんな皆が困るようなことをする人間をなくすにはどうすればいいのかがわからない」 という恐れや無力感が潜んでいるように感じます。

といって 手をこまねいたままでは自分たちの身が危うくなりかねないから、とりあえず抑止力となりうるものを設けた。

貴秋は現行の法律に そんな応急処置的な印象を受けます。




前の記事に 「一方的な上から目線のお説教は その意図と真逆の効果しか生まない」 と書きましたが、法的罰則はある意味もっとも強力な押さえつけともとれます。

身から出たサビとはいえ、本人の意向に関りなく拘束 ・ 監禁、場合によっては命さえ奪うことができるのですから。

ではそこまで厳しく臨んだだけの効き目があるかといえば、犯罪が著しく減ったとはとてもいえないどころか、むしろ凶悪化 ・ 低年齢化は進む一方。

とりあえずないよりはいいとしても、それがあるから安全安心とはとてもいえそうにありません。




冒頭の記事の中で、茂木さんの 「刑事罰を加えるよりも、いかに依存症から立ち直るのを助けるかという公衆衛生的なアプローチがふさわしい」 という意見が紹介されていましたが、貴秋もいまの時代は 安全平和に向けての努力が 「起きてしまった犯罪に厳罰を与えて抑止力とする」 から 「そもそも犯罪が起きないような社会にする」 に本氣で移行する時期にきているのではないかと思います。

「死刑になっても構わない」 とまで思いつめて無差別に人を殺めるような事件が次から次へと起こる現在、これ以上応急処置だけで乗り切ろうとするのは無理があるでしょう。

茂木さんは 今回の問題の本質は麻薬に手を染めてしまった個人よりも もっと大きな麻薬の流通や意図して一般市民を誘い込もうとする組織のほうにあるはずと指摘しておられますが、貴秋は 得るより失うほうがはるかに大きいとわかっていてなお 踏み込まないほうがいいゾーンについつい踏み込んでしまう人の心のありように関心が向きます。

沢尻さんは有名な女優さんで 大きなお仕事も決まっていたのに、このままではまずい危ないとわかっていながらドラッグをやめられなかったようですが、いったいどんな力がここまで自身の不利益になるほうへと人を引きずり込むのか。

これも前回の記事で 「いのちを削ぐばかりの枠組み」 という言葉を使いましたが、貴秋は この枠組みが私たちのエネルギーをとことん奪い取り 人々がエネルギー不足に陥っていることが真因と見ています。

次回はこの枠組みについて書いてみたいと思います。















内からしか変えられない

2019年11月17日 12時08分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ブログの更新に勢いがつき始めたところで、早くも内観期に転じてしまいました。

どうもこのところ 「無理やり急かすわけではないが、今はできるだけ回り道しないほうがいいよ」 と言われ続けている氣がします。




最近つくづく 「人は内からしか変われない」 と思います。

形だけなら外からでも変えられますが、本質的な変化は内側からしか起こせない。

大人は子どもによく、もっとああしなさいこうしなさい、あれはしてはいけないこれはしてはいけないなどと言います。

子どもは立場上従わないわけにいきませんが、そうして言われたことがほんとうにその子自身の知恵や思いとなるには、自分の中で腑に落ちる必要があります。

食べ物と同じで、いくらいい忠告でも その子が進んで取り込み じっくり咀嚼し消化して自分の一部とするまでは効力は期待できず、形だけ従っているに過ぎません。

自分の思いとして自然に湧き起こるようになって初めて、その知恵本来の力が働き出すのだと思います。




そう考えると、一方的な上から目線のお説教は その意図と真逆の効果しか生まないと言わざるをえません。

作用反作用の法則にもあるように 押せば押し返してくるのはごく自然な反応ですから、無理強いすればするほど素直に受け取らせることができなくなってしまいます。

ほんとうにその子にわかってほしいなら、有無を言わさず押し付けるのではなく、ひとつの情報として受け取りやすい形で置いておき、あとはその子の自由に任せるのがいいでしょう。

ほんとうにいのちに沿ったいい忠告なら、すぐにではなくても その子なりのタイミングでいつかきっと受け入れます。

それ以上にいいのは、大人自身が身をもって その知恵の素晴らしさを体現してみせることではないでしょうか。

よく 「子は親の背中を見て育つ」 といいますが、なぜ背中なのかといえば、前面は見目よく取り繕うことができても 背中にはそれができないから。

意図して整えたり隠したりできないところに その人の本性が現れるもの。

親 (大人) がその忠告を自身の知恵として身につけていれば、それは言葉を介さず自然に子に伝わり、潜在意識に定着するのだと思います。

潜在意識に植え付けられた情報が人を苦しめることもままありますが、同じやり方で人生を豊かにする知恵を労せず身につけさせることもできるのです。



大人と子どもを例にしましたが、上司と部下でも先輩と後輩でもお役所など公的機関からのお達しでも同じこと。

結局人を (外の世界を) 変えたければ、まず自分から。

金太郎飴のごとく、どこをどう切ってもそこに返ってくる氣がします。

実際そこをわかった上で効果的に動く人たちも どんどん増えているようです。




こんな記事を読んでいたら、ふと久々にブログを書きたくなりました。

このような苦しみが蔓延することになったのは、私たちが長いことほんとうの知恵というものを伝えられないまま いのちを削ぐばかりの枠組みに押し込められてきたからだと思いますが、いまは真実を思い出し 本来の流れに引き戻す動きもあちこちで出てきています。

私たちはずっと顕在意識で捉えられる世界だけがすべてと思い込まされてきたので、なにかをよくしたいと思ったら まず外側から動かそうとついついしてしまいがちですが、実は自身の内から変えてゆくほうがはるかに労少なく益多いのだと 真の自分でないものの手放しが進むほどに思い知らされます。

前の記事から今回までのあいだにもいろいろなことがありました。

そこから見えてきたものを、また少しずつでもお話しできればと思います。

お読み下さってありがとうございました。