毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その1

2016年07月31日 12時34分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


去年の3月、腕を傷めました。

その発端について書いた記事が こちら

そして その後の経過 その1  その2

この二つは例によって長文なので 要約すれば、この腕の痛みも 感覚フォーカスで解消できるらしいと氣づき、からだに起こる痛みやアクシデントも 実は心の引っかかりやわだかまりの投影なのではないか?と思いついて、その線に基づき あれこれ試しているところです、という内容。

・・・・・・って 2行で要約できるの

二記事合わせて4000字以上を物した労力は いったいなんだったんでしょう。。。。リンク貼る意味ないではありませんか

まあ、詳しい経過を知りたいので 長文もOK、という方のみお読みいただければ幸いです (T_T)




で その後、わずかな痛みは残るものの 日常生活に支障がないところまで回復し、ほとんど氣に留めなくなっていたのですが、ちょうど6~8月のバイトの終盤あたりから 再びじわじわぶり返し、しまいには 手を背中に回す、頭上に上げるなどの何氣ない動作がほとんど出来なくなって、不自由を強いられることに。

感覚フォーカスで 一時的に痛みが薄らいでも じきに元の木阿弥、お手上げのまま年を越し、実家で暮らし始めたのですが。




父とここまで長期間 正面切って顔つき合わせての暮らしは 初めてといっていいもので、昔ながらのネガティブな親子ドラマが再現されるたび 感覚フォーカスしては手放す、の繰り返しの中、「なんかいい感じに変わってきたじゃない、自分♪」 とひそかに快哉を叫ぶ回数が増えてきたある日、ふと氣づいたのです、あの執拗な腕の痛みが いつのまにかすっかり薄らいでいることに。

同時に ピンときました。

あれは、長年の父へのわだかまりが 身体的痛みという形をとって現れ、注意を引いていたのだと。

そもそも痛みが始まったのは、昨年の父の誕生祝いに実家に駆けつけた最中のこと、そして それから年末まで 父とは会っていなかったのです。

あの痛みはどうやら、父との間に 再現してじっくり味わい直し 終わりにすべき課題が残されているよ、と知らせる合図だったようです。




以来、からだのどこかに痛みや違和感を覚えるたび、これはどんな思い込みの表れ? と 内に探りを入れるのがクセになりましたが、その後のさまざまな体験を通じて、からだのトラブルは 単にからだだけの問題じゃない との確信が いよいよ深まっていったのです。





















再び SAY YES

2016年07月30日 18時22分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前 こんな記事を書きました。

      「超えてゆく ~ そしてSAY YES」

その中の一節。

      「YES」って言うとき、余分な力が抜け 心がふわぁと開いて大きく大きく広がっていくような氣がします。

      「NO」は反対に、内側に向かってぎゅっと凝縮して硬くなる感じ、なにかを守ろうとして身構える印象。

      「NO」は隔てを作り、「YES」はひとつに戻ってゆくのだと、そんな氣がします。



この 「YES」 を言うときの感覚って、まさにオープンハートしているときそのもの。

胸のつかえがとれて ハートが開き 喜びを感じているとき、私たちは 自分に、世界に、人生に、いのちに 心から “YES” と言ってるんですね。

愛とは、心の扉を広々と押し開き、すべてを受け入れ、ひとつになる、そんなありようのことらしいと知りました。




その昔、自分の中をいくら探しても 愛とおぼしき要素がかけらも見つからないことに氣づいて がく然としたことがありましたが、じゃあ愛とはどんなものか はっきりわかっていたのかといえば、まるっきり (^_^;)

当然 その様子も感触もわからないものを どうして形にできるだろうと、かなり悲観的でした。

そして今もそうだけれど、愛ってあまりにも大き過ぎて、捉えようと躍起になればなるほど わからなくなります。

ただ、ハートが開いて 軽くて心地よくて、すべてに 「YES」 って言いたくなるような氣分のときは、少なくとも愛に近い状態なんだとわかってきて、たとえ狭義でも 愛の範疇とおぼしきもの、否定や拒絶を感じないものなら、とりあえず愛は愛なんだと思うことにしました。

花が綺麗だな、空が美しいな、と思うときは、花や空に愛を送っているのだと

楽しい うれしいと思えるときは、今 ・ ここ と その場にあるすべてを愛しているんだと

難しく考えるのはやめて、とにかく心を開けるように、いい氣分でいられるようにしていれば、それも立派に愛のうちなんだと思ったら、ぐっと氣持ちが楽になりました。

神の愛みたいなのはまだわからなくても、私だって私なりに 愛を知っているんだと 構えず氣楽に考えられるようになりました。




好きなものをいっぱい見つけられること、いつも今の一番を選んで ささやかでも楽しくいられること、風通しのいい軽やかな心で 自分を取り巻くすべてのものに 「YES」 と言えること、それだけで十分 新しい自分を生きられるんですね (*^^*)

今でも ネガな氣分に引っぱられることは多いけれど、すかさず身をかわして いい氣分に戻るのも まあまあうまくなった氣がしている貴秋です

















Open my heart

2016年07月30日 10時56分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


けさの空♪



なんて鮮やかな青、きょうも快晴




そして きょうもきょうとて宝探し

     

                                                          



               









何度も書いてきたように、ワクワクと不安はコインの裏表、一度に感じられるのはどちらか一方のみ、なわけですが、この単純な事実が 人生そのものを180度がらりと変えます。

そのためには、言葉のまま終らせないで 実地で使わないとね☆




うれしい 楽しい と思えたとき、胸の内がすっと軽くなり、明るい光がぱぁっと差し込み 心地よい風がさぁ~っと吹き抜けるような感覚を味わいます。

感動が大きいほど この感覚も強くなるようです。

このとき、ハートが 心が 開いているんですね

からだの感覚を観察していると、とにかく軽く 通りがよくなった氣がします。

開いたハートには そこここにみなぎっている愛のエネルギーが流れ込みます。

たとえ感じられなくても、愛は常時いたるところに満ち溢れているのです、だって そもそも私たち自身が愛そのものなんだもの。

ハートが開くと、それまでシャットアウトしていたそのエネルギーと一体になり、それが軽やかさや風通しのよさとして感じられるんですね。




不安に駆られているときは まさにこの真逆、胸の内がぎゅっと硬くなり 締めつけられるようで、透過性が悪く 光も風も感じられない。

不安に閉じ込められっぱなしだった貴秋にとって、人生を180度変えるとは、この真逆の二つの感覚を 意図的にコントロールして入れ替えられるようにすることだったのです。

そのために必要なのは、まず とにかく変える、変わる、幸せになる、という明確な意志、そして次に 今の自分を観察して 現状を正確に把握すること。

自分が不安に取り巻かれ 萎縮して怯えていると はっきり自覚できないと、その先も思い浮かびませんから。




で、次がおなじみ感覚フォーカス、からだの感覚にフォーカスを絞って 言葉を介さずじっくり見つめ、負の感情のもとである体感が おのずと消えてゆくにまかせるわけですが、これを1年ほど続けて ビフォーアフターの違いがはっきり感じ取れるほどになったとき ふとひらめいたのが、「これからは ただ負を消すだけでなく、空いたスペースに もっと心地よいものを入れること」 。

この後、それまでその意味を深く考えるでもなくしていた 「今の一番」 という選択、この大きさが だんだんわかってきたのです。

「今の一番」 を思うとき、私はあれこれ選択肢を吟味して、無意識のうちに いちばん心が軽く 風通しよくなるものを選んでいたのです。

生活者である貴秋の 「一番」 は 草取りだったり 部屋の片づけだったりと ほとんどがささやかで地味なものばかり、でも 何をするか その形は重要じゃないんですね。

ハートが開いていること、肝心なのはここだったのです。

大事なのは、何をしようと そのときハートが喜んでいること、オープンしていること。

その重要さに氣づかぬまま、私はずっと ハートを開く訓練を 自らに施していたのです。




オープンハートして 喜びに溢れるとき、目に映るものは同じでも まるで別世界にいる氣分 (^o^)

いや、貴秋は 実際にパラレル移動しているんだと思うことにしています

そして 類友の法則 (引き寄せの法則ともいいますね) により、今の喜びが 次の喜びを引っぱってきてくれます♪

ただ、貴秋みたいに ネガ思考が長年のクセになっている者は、ここで意識的に これまでと違う選択をクセ付ける必要があります。

無意識に反応していると、ふいっとまた 悲観的な世界に戻ってしまう。

貴秋は この古い思考癖に、それと氣づかぬまま「今の一番」 という選択を習慣にすることで 対抗していたのです。





「今の一番」 は小さなことでもなんでもいい、暗く閉じていた心が ちらっとでも開いて ちょっとでもいい氣分になる、その積み重ねが大切なんですね。

種火に小枝や紙切れをせっせとくべて 少しずつ大きく安定した火にしていく、ちっちゃな苗に水をやり 日に当てて 成長する様子を見守る、そんな氣分♪

いや~、私にぴったりだわ☆




否定的思考の積み重ねが 自動的にネガな選択をさせていたように、「今の一番」 も 根氣よく続けていると だんだん力を持ち始めるようです。

前ほど苦労せずに いい氣分を引き寄せ すっと心を開けるようになってくるのです。

今ちょうど そんな手応えを感じているところ

オープンハートが当たり前になる日も そう遠くはないでしょう。

毎日のお宝探しは、新たなポジ思考回路の開拓であり、また 幸せな日常 ・ 幸せな人生そのものでもあります。




“からだを持ったまま ほんとうの自分に還ること” をずっと目標にしていた貴秋、そのカギは オープンハートにあり、そのための訓練を知らず知らずしていたと知った今、ネガポジひっくるめて すべての出来事が祝福であり、やっぱり自分も人生も確かに変えられるんだ、との思いをかみしめています。

マドンナや浜田麻里の歌で 「Open your heart」 っていう曲がありますが、「you」 のハートを開かせたいなら まず自分から。。。。だって 「you」 であれなんであれ まわりはすべて自分の鏡なんだもの♪

「Open my heart」 したときは、「you」 のみならず あらゆるものが開きます \(^o^)/

光が差し、さわやかな風が吹き抜け、世界ががらりと変わります





















毎日が宝探し☆

2016年07月29日 11時32分01秒 | ふと思うこと


きょうの空、晴れ



下方にはすでに入道雲がもくもくと、午後には表情ががらりと変わりそう♪




ゴーヤの実を発見



初生りだなぁ、まだちっちゃいけどね

こっちは下に花が残ってる






地植えのミニトマトにも花が咲いたよ♪






プランターの苗は こんなふうに枝葉を枯らせながら 実をしっかり残してくれている






南天の枝に セミの抜け殻発見 w( ̄o ̄)w



この殻の主も 毎朝元氣に鳴いているメンバーの一員かな? (^^)




相変わらずの小さな小さな庭だけど、その氣で探せば あちこちに宝物、見つけるかスルーするかは 自分次第。

ちょっとした喜びを見つける、心喜ばせるものにフォーカスする、と決める意志が、少しずつ大きくなって ハッピーな世界を創ります。

うれしくないものに出会ったら、嫌ったり責めたりせずに そっとフォーカスを外すだけでいい。




毎日のささやかな努力で 自分の世界が大きく変わる、とは、真我さんが氣づかせてくれたこと。

「天の神さまの言うとおり」 ならぬ 「内の真我さんの言うとおり」 な毎日なのです \(^o^)/

























どっしり安心、ゲームにGO☆

2016年07月25日 11時44分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ゲームと無縁の貴秋でさえ 連日その名を見聞きしている、「ポケモンGO」 。

世界中で 子どものみならず大人まで とてつもない数の方々が夢中になっておられるのだとか。

私にはよくわかりませんが、見慣れた風景の中に 大好きなアニメのキャラクターたちがひょっこり現れるなんて、そりゃあワクワクするよね♪

家に引きこもってばかりだった人たちが 外に出たり お友達と出会ったりする いいきっかけになっている、なんて聞けば、よかったねぇ という氣持ちにもなります。

事故に遭ったり人に迷惑かけたりしない範囲で 存分に楽しんでね~ で終れればよかったのですが、その裏では 残念ながら こんな話も。

こちら (一番目の話題) こちらの記事を読むと、手放しでにこにこしてはいられなくなります。




わがホームグラウンドの山里では 意識にも上りませんでしたが、こちら奈良で暮らしていると、やたら目につくのが 監視カメラ。

いや、最初はまったく氣に留めていなかったのですが、「相棒」 の再放送で 「監視カメラに一度も引っかからずに行けるルートがひとつしかない」 なんてセリフが出てきて、カメラってそんなにあちこちにあるもんなの と驚いた後ぐらいから、妙に見かけるようになって。

スーパー、コンビニ、銀行、さらには町の要所要所にまだまだあるんだろうなぁ。。。。なんて思うと、もちろん犯罪抑制効果もあるのでしょうが、なんだかげんなりさせられるのが 正直なところ




そういえば、以前 グーグル地図のストリートビューで なにげなく自宅の番地を打ち込んだら、こんな辺鄙な田舎の片隅がこんなにくっきり と仰天するほど鮮やかな写真がぱっと出てきて ぎょっとなったことがありましたっけ。

アニメ 「ヨルムンガンド」 は うら若い女性の武器商人がヒロインのお話ですが、この女性が 「空に向かってピース☆」 と言われて その通りにしたら、人間の視覚では見えないはるか彼方の衛星から撮られた にっこりピースしている彼女の鮮明な画像が送られてくる、というシーンがありましたが、フィクションだと思っていたこんな場面が 突然現実味を帯びて、うすら寒くなった瞬間でした。




相手を見張らずにいられない、コントロールせずにいられない、という衝動が 不安からくるものだとは、身に覚えがあるから よぉくわかります。

そして 私の世界のあちこちに こんな要素があるということは、自身の内に残っている不安と もっともっと向き合い 感じ尽くして おしまいにしなさい、ということだよね、きっと。

安心と不安は ひとつのコインの裏表であり、二つを同時に感じることはできません。

安心しておおらかな氣分でいるか、不安に取り巻かれるか、二つにひとつ。

半世紀近く 無自覚なまま不安に浸りっきりだった私、数年の感覚フォーカスへの取り組みを経て、徐々に安心な心持ちの存在感が増し 優勢になりつつあるのを ただいま体験中です。

不安な思いは解消可能との実感を得た今、監視社会がほろ苦い笑い話に変わるのも 決して夢ではありません。

カメラなんかやたらと氣にするよりも、もっとあったかぁい氣持ちになれるものに せっせとフォーカスしようっと




剣呑な要素抜きで 童心に返って 心置きなくゲームを楽しめる日が来たら、私も参加しよっかな~♪

そのときは、わが山里には ポケモンよりも トトロをお願いしたいです (*^▽^*)






















ひとときの仲間

2016年07月23日 12時21分31秒 | 自然


きょうの空♪



朝の空は なんだかやさしい表情。

氣温が上がるにつれ 裾のほうから入道雲がもくもくわき上がり始めましたが、同時に白い薄雲がどんどん広がって、晴れようか曇ろうか迷っているような感じ (^_^;)

今夜はお祭り&花火大会あるんだけどなぁ、どうなるかなぁ。。。。




こちら きょうのミニトマト♪



プランターと植木鉢なので、のびのび根っこを伸ばせないのでしょう、水をやり できるだけ日に当て ときどき米のとぎ汁や乾燥ゴミで養分を補充しても、葉や枝が次々枯れて落ちてゆきます。

そうやって実を優先的に残し しっかり養分が回るようにしてくれている様子、地植えにしてあげられなくてごめんなさい、と 毎日わびる思い (T_T)

そんな植物の愛と智恵の結晶のようなミニトマトの実、ありがたく口にしながら、しきりに 「いのちの移し替え」 という言葉が思い浮かびます。

二本のミニトマトが 惜しげもなく恵んでくれた果実のエネルギーを、自分を通して どんな形に変換するのか、次は誰にどのように移し替えるのか。

私たちすべてのいのちが 支え合い 生かし生かされているんだな、と しみじみ感じます。




青ジソ&バジル♪



バジルは、先日わずかな時間わが家に戻ったとき、玄関前にこぼれ種で生えていたものを 急いでポリポットに移し上げて連れてきました。

しっかり根付いてくれたようです (^^)

実はこのとき 同じくひとり生えしていたミニトマトも見つけて やはりポットで連れ帰り、増え過ぎていたオリヅルランの根を整理したところに植えてみたら、こちらも無事根付きました。

もっと早くにこの作業をしていたら 鉢の二本も地植えにできたのにと 申し訳なく思いながら、まだ花もつかないおチビさんの苗と 全力で生きているベテラン二本を見つめ暮らす毎日です。




ゴーヤの花♪



5月の頭ぐらいだったか、町内の清掃活動に参加して 苗の引換券をもらい、そのまま役場まで自転車で突っ走って頂いてきた二本が、父の仕事部屋の外に グリーンカーテンを作り 花を咲かせています。

ちょっとスカスカのカーテンなので、そろそろ芯止めして 脇芽を茂らせないとね☆

今からゴーヤ料理が楽しみな貴秋です




3日ほど前、玄関脇で ほとんど目の高さにとまっているセミを発見

急いでカメラに収めました。




こんな無防備に目の前に現れたセミは 初めて。

かなりカメラを近づけても、逃げることなく堂々とモデルを務めてくれました♪

実は 目に留まった瞬間 ゴキブリ と思ったことは ナイショです




このところ 湿度が低いおかげか 朝晩涼しく 昼間もしのぎやすくて 助かります。

毎朝目が覚めると、窓の外は セミの大合唱。

これほどの音量で どうしてうるさく不快に感じないのか不思議でしたが、けさふと氣づきました。

何年も土の中にいて、ほんの数日 地上の生を謳歌する彼ら、その声は いのちの現れそのものなんだと。

私も毎朝、セミさんたちのいのちの響きに共鳴して 活を入れてもらっているのかもしれません (*^^*)




虫も 植物も 私たち人間も、姿形は違っても みな縁あってこの世に分け出され 出会ったいのちどうし。

夏のひととき 時空を分かち合った仲間、そんなふうに思うと、心底生きてるなぁって氣がしてきます

























記念日

2016年07月19日 23時33分04秒 | ふと思うこと


きょう2016年7月19日は、和歌山に移って満15年の記念日。。。。といっても、今いるところは奈良なのだけれど (^^ゞ




まだ真我の存在もよくわかっていなかったころのことだったのに、思いもよらない行動を促すその静かな声に なぜか乗ってしまったところから、新しい流れが始まったのです。

まだ 小我 = 自分 と思い込んで疑わず、普通ならマインドが首を縦に振るはずのない思いつきだったのに、あのときばかりは 和歌山行きが 何よりも大切なことなんだと思えて、心配するより先に どんどんからだが動いて、手筈を整えてしまった。

マインド主体の人間でも、いざとなるとああいうことが起こるんだな、と 今も感慨深く思い出します。




あのころの 「これからどうなるんだろう」 という不安げなつぶやきが、「さてこれからどんな人生にしていこう」 という まっすぐ前を見据えた積極的な意思の言葉にとって替わった今、真我主体という新しいバランスを構築し 育て上げるという 未知の時間を過ごしています。

どの方向に進むかはわかっても、実際にどのような形で何が起こるのかは まるでわからない、石橋を叩いて叩いてなおも渡ろうとしなかった 15年前の自分には 想像もつかないような日々を送りながら、それでも あの旅立ちに深く感謝して 必死に勇氣を振り絞った当時の自分を祝福したくなる私がいます。

マインドをはるかに超える 決して間違わない力が導いてくれる、そうためらいなく信じられる今の自分に 15年分の成長を感じ、もっともっと進もう、新しい世界を生きよう、ほんとうの自分を取り戻そう、との決意を新たにする貴秋です(^^)


























「とと姉ちゃん」 と 「サマーウォーズ」

2016年07月19日 15時13分56秒 | ふと思うこと


※最初の投稿に不備があったので、投稿しなおしました。



朝の連ドラをせっせと見続けるなんて 何年ぶり、いや 何十年ぶりのことでしょう。

「とと姉ちゃん」、このドラマには いささかの思い入れがあります。

だって、小学生のころから大ファンだった 「暮しの手帖」 にまつわるお話なんだもの♪




小学校最後の2年間 クラスで孤立した私は、学校が終るとそそくさと家に帰り、ひとり本など読んで過ごしていましたが、そんなとき ふと手に取ったのが、母が愛読していた 「暮しの手帖」 。

小学生の心を なにがどう捉えたのか、家にあったバックナンバーすべてを繰り返し熟読し、大きな喜びと安らぎを得ていたのです。

あのハンパなく氣合入った商品テストや 花森安治さんのまっすぐ心に響く文章と 印象的な表紙絵、あと 藤城清治さんの影絵や 湯木貞一さんの 「吉兆味ばなし」 など、今思い出しても ぱぁっとなつかしく心によみがえります (*^^*)

そうそう、大橋鎭子さんがお書きになっていたとは当時は知らなかったけれど、「すてきなあなたに」 も大好きだったなぁ




私って 子どものころから ほんとうに 「暮らし」 っていうものが 好きでたまらなかったんだねぇ♪

日々の暮らしが何よりも大切、という思いを込めて作られた 「暮しの手帖」 、わがインナーワールドの大きな構成要素のひとつです。

いよいよ 「暮しの手帖」 (ドラマでは 「あなたの暮し」 ) 創刊へと佳境に入らんとする 「とと姉ちゃん」 、これ見たさに9月末まで奈良にいたりして




唐突に梅雨が明けて いよいよ夏本番、「暮らし」 といえば この季節感と相まって もうひとつ思い出すのが、細田守監督の映画 「サマーウォーズ」 。

長野の旧家の大家族の暮らしと ネットの仮想世界 「OZ」 という対照的な光景の中で、私がやたらと親近感を覚えるのが、この大家族の暮らしを支える 裏方の女性たちの言動。

世界の命運をかけて 暴走するラブマシーンとの電脳大合戦の準備をせっせと進める男たちの裏で、長老 ・ 栄おばあちゃんを失った悲しみにくれつつも 日常の家事や 葬儀の準備をこつこつこなす その対比的スケールのちっちゃさ ・ 地味さ、遺影は 饅頭はと いちいちおろおろハラハラするさまが なんともおかしい。

が、命がけの大合戦だって ハラが減っては戦はできぬ、世界規模 ・ 歴史規模の大事件だって その陰には 地道で堅実な日常の暮らしと その担い手たちが控えているのだ、そうやって足元がしっかり固められてこそ 世界も歴史も動くのだぁ と思い返すと、そのちっちゃく地味な作業に真剣な女性たちへの なんともいえないいとおしさがこみ上げてくるのです。

幼いころ関西圏に引っ越して めったに顔を合わせることもない親族が寄り集まる葬式や法事での 母やおばたちの思い出とも重なって 「あるある~」 な場面の数々に ふと郷愁を覚えます。




人工知能の発達めざましい今、思いっきりフィクションでありながら 妙にリアルなラブマシーンとの攻防に手に汗握り 、自然豊かな長野の大家族の日常のほほえましさにほっこりする、ひとつで二度美味しいステキな映画、「サマーウォーズ」 。

これと 「とと姉ちゃん」 を並べてみると、ごく平凡な暮らしを心底大切にし、そんな暮らしを豊かにするための雑誌を 精魂込めて創り続けた 在りし日の花森安治さんの思いが重なります。

そして私も、五感を超えた世界を探究するのと同じぐらいの情熱で 日々の暮らしも楽しく紡ぎ続けようとの氣持ちが 新たになるのです。












p.s.

なぜかおしまいのほうがちょん切れた状態でアップされてしまっていました ( ̄∇ ̄;)

慌てて席を立ったもので 氣づかなかった~

中途半端な記事を読まれた方、申し訳ありません、ごめんなさい m(__)m





















ことしも夏のお楽しみ♪

2016年07月17日 12時50分19秒 | 紡ぐ暮らし


蒸し暑い日が続きますね。




こちら 2~3年前に縫ったタンクトップ、先日とんぼ返りでわが家に戻ったとき持ってきた 夏物衣類から♪




茶箱にしまわれていたものをそのまま持ってきちゃったので、派手についているシワは見て見ぬフリでお願いします


何事にもスローで 電動ミシンのスピードについていけない私、服もカーテンも 最近は全部手縫い (^^ゞ






ちょっと不ぞろいな縫い目もご愛嬌、音楽など聴きつつ のんびりチクチクやりながら、だんだんと服の形が出来上がってゆくのをワクワク眺めるのは、なんとも楽しかったなぁ

ふと氣に入って買っておいた布地が こんなふうに完成品になるのって、最高の氣分\(^o^)/

素肌にこれ一枚さらりと着られて、洗濯だってザブザブできて、以来 夏が来るたび愛用の二着です♪




これは、ミニトマトのブランデービネガー漬け♪



プランターと植木鉢のミニトマトが 見事に成長して 毎日たくさんの実を恵んでくれるので、以前わが家のご近所のおばあちゃまから教えていただいたレシピで作ってみました。

といっても、分量の指定は特になく 立ち話で伺った作り方もうろ覚え、おすそ分けいただいた完成品の記憶を頼りに作ったので、教わったとおりかどうかアヤシイものですが (^_^;)


湯剥きしたミニトマトを、酢と水と砂糖を合わせて煮立たせて冷まし ブランデーを加えたものに漬ける、それだけ。

以前お味見させてもらったものは、トマトというより ブドウみたいなフルーティなお味で とてもおいしかったのですが、今回は甘味が少々足りず、ブランデーが心持ち多かったような・・・・・次はもう少しバランスを変えて作り直してみましょう。

暑さで疲れた胃にも舌にもさわやかなマリネ、寒天や白玉のお団子など入れて アップルミントも飾って 漬け汁ごとおやつにしてもいいかもね☆




毎年言ってる氣がしますが、夏には夏のお楽しみ、暑いからこそありがたく味わえる涼しさ冷たさがあるわけで、いまだ梅雨明け訪れぬ このもわっ むぅっとした氣候も できる限り楽しみながら、からだを大切にして乗り切ろうと思います (^^)


























この上なしの吉日

2016年07月11日 16時08分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょう 2016年7月11日は、天赦日 (天が万物の罪を赦すといわれる 日本の暦上の最高の吉日) であり、一粒万倍日 (一粒の籾が万倍にも実る稲穂となることから 何を始めるにもよい日) でもあるという 吉日が二つ重なった ことさら縁起のいい日。

年に数日しかない この極めて大きな開運日を、晴れやかな心で 氣持ちよく過ごしたいですね (^^)




きのうの選挙結果、バンザイの方、がっかりの方、関心ナシの方と さまざまに迎えられたことと思います。

明けてきょうのこの佳き日、バンザイと無関心の方はそのままでOKとして、がっかりの方、三次元視点では無理ないことですが、視点を変えればがっかりしっ放しでいることはありません (^_-)-☆




がっかりするのは、自分は違う結果がよかった と思うから。

つまり、自分の望むものが なんとなくでもわかっているという証。

ならば、意に染まない結果から氣持ちを離し、望むものに焦点を合わせましょう。

一粒が万倍になる日ですもの、ポジにフォーカスするか ネガにフォーカスするか どっちがいいかは 言わずもがなですね☆




選挙に限った話ではなく、氣落ちしている方は とにかくまず ちょっとでも氣を変えましょう

どんな小さなことでもいいから、いい氣分になれそうなことを思い浮かべ、実行し、少しずつより楽しいものをたぐり寄せるようにして、その小さなポジの火種をじわじわと大きな炎に育てましょう。

どうしても悲観的な氣分から離れられない方は、ビッグチャンスです

今のからだの感覚を、言葉を使わず よぉく感じてみてください。

ちょっとやそっとで立ち去らないものというのは、果たさなければならないお役目があるのです。

それを体験し 味わうことが必要なのです。

一度見つめたぐらいで すっかり消え去るとは限りませんが、なにぶんきょうは一粒万倍日、思い込みを手放すにはうってつけの日。

ほんとうの自分を取り戻す動きに きっと拍車がかかることでしょう♪




貴秋は、この吉日を 「失敗するかもしれないという恐れとさよならする日」 に決めました。

ちょうどきのう、ある氣づきがあったからです。

生まれて間もない赤ちゃんは、まだ 分け出される前の “すべてであるひとつ” に極めて近い存在で、その無力な様子とは裏腹に みな穏やかな自信に満ちています。

私だって きっとなんの不安も恐れも持っていなかったはず。

その自信にヒビが入ったのは、まわりの大人の頑なな思い込みの壁が分厚過ぎて動かせず、しかも その大人の保護下 ・ 支配下に置かれるしかなかった、こちらが影響を受けざるを得なかった、という 不可抗力の境遇から。

しかも その境遇は、コントラストの世界で ほんとうの自分を体験するために必要だからこそ わざわざ置かれたハードルだったわけで、別段私がへまをしたわけでも 腕がなかったわけでもないのです。

なのに、「あれ?なんか伝わらない、うまくいかない」 という 最初の強烈なショックが、その後えんえんと続く 失敗することへの恐れの端緒となったのだ、ということが 不意に腑に落ちたのです。




そう、ほんとうは 私は失敗などしたことはなかったのだ、それなのに 失敗したと思い込み、失敗を恐れては かえって失敗を呼び込むという負のスパイラルに巻き込まれ、自信をなくしたまま 半世紀を過ごしてしまった。

こういうことを 理屈で捉えても たいした力にはなりませんが、身の内から突き上げるような 「」 という氣づきは 自分を変えます。

その翌日が 天赦日&一粒万倍日だったとは、なんというタイミングのよさよ \(^o^)/




吉日でもなんでもいいから 力を借りられるものは借りて、オセロのコマをひっくり返すようにじわじわと ネガをポジに塗り替えてゆく、そんな動きが広まれば どんな政治手腕にも勝るとも劣らない 明るいエネルギーの波となって 世の中を大きく変えると信じています