毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

貴秋の視点、お試しはご自由に

2022年02月28日 11時07分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近このブログは、貴秋の中では 「試着室のようなもの」 という位置づけになっています。

ネガティブな思い込みを山と背負って面倒くさいことになった人間が その思い込みを薄紙を剥ぐようにひとつずつ手放すうちに、ものの見え方がどのように変わっていったか、世界がどのように映っているのか、興味がおありの方に 貴秋の視点 ・ 貴秋色の眼鏡をお試しいただくという趣向。

まあなんのかんの言って 本人は氣ままに書きたいこと書いてるだけなんですが (笑) 。




貴秋は、個としての自分の意識を 地球全人口の数だけの面を持つ超巨大な多面体の一面として捉えています。

こちらによると 現在の世界人口は78億8000万人余りということですから、キリのいいところで78億面体とすれば、貴秋の意識はこの世界で78億分の1の面を占めるということ。

そのちっちゃなちっちゃなスペースから世界、すなわち総体である78億面体を覗き込んでいるのが、私たちひとりひとりの顕在意識ということになります。

78億面体ってほとんど球体じゃあ。。。というツッコミはおくとして、このそれぞれの面は 微妙に角度が異なっています。

隣り合う面どうしならほぼ同じといってもいいけれど、それでもわずかずつ違う。

私たちは一見同じものを同じように見ているようでいて、実は微妙に異なる角度から眺めているから、見え方も少しずつ違うんですね。

そして自分から離れた面ほど違いは大きくなるし、対面ともなれば その存在すら容易に確認できません。

だから、ほんのわずかな角度の違いしかない人とは氣が合うし、角度が大きく異なる人ほど違和感を覚え、「何考えてるんだかまるでわからん、理解不能」 な人 もしくは存在さえ認知していない人は、ちょうど向こう正面あたりに位置しているんでしょうね。

このように 私たちは 誰もが世界にひとつしかない独自の視点に陣取るかけがえのない存在である、と同時に 誰の視点にも必ず死角があり すべてを見渡せるわけではないということのようです。




しかし、ここに潜在意識が加わると 話が変わります。

顕在意識と潜在意識の関係は よく氷山に例えられますが、ぽこっぽこっと離れ小島のように海面に顔を出している部分が顕在意識とすれば、潜在意識は水面下の見えないところでひと続き。

マンションでいうと、個々の住居が顕在意識なら、潜在意識は共用スペースといったところでしょうか。

顕在意識しか知覚できない私たちは、問題が起きるたびに 力を合わせてひとつになり団結しようとしますが、顕在意識オンリーで生きる限り、残念ながらこれはムリな話。

ひとつとして同じ視点を持たず、また誰一人として全体を見渡すことができない個別の意識をどう寄せ集めたところで、ひとまとまりになれるわけがありません。

五感の世界の基本は二項対立ですから、ひとつの意見を持てば 必ず相対する意見が出てくるのが当たり前なのです。

私たちが真にひとつになろうと思うなら、共有スペースに集まること、すなわち潜在意識にアクセスすることです。

具体的にどうすればいいかって?

意識の方向を変え、外ではなく自身の内を見つめることです。

ひとりでやってもいいし、信頼できる家族や友人、カウンセラーなどにサポートしてもらってもいい。

このとき肝心なのは、言葉を極力使わないこと。

五感の世界は言葉で成り立っていますから、うかつに言葉を介入させると 新たなストーリーをせっせと紡ぎ始め、意識が内から逸れて外に戻ってしまいます。

いま 瞑想やマインドフルネスに関心が集まるのは、まさにそういう時代、そういう流れなのでしょう。

意識が外へ外へと広がり、もっと便利にもっときらびやかにと息巻いていた時代から反転して、いまは本質へと立ち戻る時代です。

コロナ、経済危機、自然の脅威に戦争紛争の類いまで、私たちの暮らしをかき乱すように見えて、実は内なる中心に向かえと私たちの背を押してくれてもいるのです。


















内から励まし 内から輝く

2022年02月24日 12時46分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
ここ数年 貴秋の年初めのブログって 毎回 「遅ればせですが」 とか 「いまさらながら」 とかいう言葉で始まるような氣がするのですが、今年も時すでに2月下旬。。。なんでこうなっちゃうんだろう。

というわけで 遅ればせでいまさらながらの初ブログですが、本年もどうかよろしくお願い申し上げます。













これは以前にもお話ししたことがある、貴秋が曲げたスプーンの写真。

と言っても サイキック能力などではなく、地道に手でぐりっぐりっとねじるように曲げただけですが。

ただ、最初に手に取って力を入れてみたときは、とてもじゃないがこんなもん曲がるかぁ~!! と思って青ざめたぐらい硬かった。。。それが、ナビゲーターさんの導きで 冗談言ったり 笑ったり 肯定的な言葉を唱えたりするうちに、なぜかあんなふうにぐりんぐりんにできちゃったのです。

とはいえ 物質レベルで言えば、スプーンをこんなふうにしたからといって なんのいいことがあるわけでもなく、ご飯が食べにくくなるだけの話。

が、貴秋にとってのこれらは、お守りのような力を持っています。

このスプーン曲げは、いまの自分はまだまだ本来の自分とはいえない、意識のリミッターが外れれば ほんとうの自分の能力は現時点からは想像もつかないほど強くて広くて深いのだ、と刻みつけられた体験でした。

以来、「こんなこととてもじゃないけどできないよ~」 と不安に駆られるたび、このスプーンを取り出して眺めます。

これは貴秋が 「到底ムリ」 と思ったことを、思い込みを外して見事やってのけた証拠の品ですから。

眺めるたびにスプーンが言ってる氣がします、安易に 「できない」 というなかれ、それは思い込みが言わせているだけだよ、これ曲げたの誰? ってね。




これから先、こういうお守りを持っていると生きやすいだろうなという氣がします。

もちろんスプーンでなくても何でもいいし、物である必要もありません。

ムリと思っていたことがムリじゃなかった、できないと思い込んでいたことができた、という記憶、それだけでも十分力になります。

外に向かって証拠立てる必要もありません。

人にわかってもらわなくてもいい、自分がわかっていればいい。

人に理解されたい、愛されたいと願うなら、まず自分が自分を理解し 愛することだと思うのです。

自分で自分を認めることができれば、大きな自信が生まれます。

ひけらかす自信じゃなく 内から湧く静かな自信、“地に足ついて 自分は確かにいま ・ ここに在る” という実感。

貴秋の自信はまだちっちゃな芽ですが、これから腰を据えて 大木にまでじっくり育てていくつもりです。

もう外に答えを求める時代じゃない、誰かに頼る時代じゃない。

誰もが自身の中に答えや可能性を見出し 開花させる、誰もが自分の物語の魅力的な主人公になる、そういう時代がすでにやってきています。