毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

望まぬ人生の物語から下りるには

2017年07月31日 14時41分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


意に染まない観念を書き換えるにあたり、感覚フォーカスという手立てに恵まれはしたものの、使いこなせるようになるまでにはかなりの時間がかかりました。

負の感情が湧くと すぐさま氣づいて 体感と言葉をスッと切り離せるようになってきたのは、ごく最近のこと。

怒りや恐れに囚われかけたとき すかさず言葉を引っ込める、これがうまくいくと 感情はきれいさっぱり消え失せ、後に残るのはからだに響く感覚だけ。

圧迫感とか激しい動悸とかひりつく感じとかはありますが、“物語” はもう存在しません。

これを何度も何度も繰り返すと、私たちが日ごろ 「自分」 「自分の世界」 と思っているものが 言葉によって構築されたストーリーであることが よくわかります。




私たちは、いまのこの 「現実」 と呼んでいる世界で 五感を駆使して生活しています。

目、耳、鼻、口、皮膚、それぞれのしかるべき部分に刺激を受けると、それを読み取り判断解釈して 取るべき行動や反応が決まります。

この判断解釈の物差しとして使われるのが、私たちの積み重ねてきた過去のデータ。

こうして過去体験から導き出される筋書きを、貴秋は “物語” “ストーリー” などと呼んでいます。




私たちの 「現実」 は、私たちの観念をもとに創られています。

幼いころの体験を通じて潜在意識に刻まれた 私たちの世界観 (世界とはこれこれこういうものだ、という思い込み) が、私たちを取り巻く今のこの世界を そのとおりに形作っています。

ですから、今の世界が心地よくて万事うまくいっているのなら問題なし、おめでとうございます、そのままGO です。 \(^o^)/

問題なのは、かつての貴秋のように 世界が不安と怒りに満ちていて、もっといいイメージに書き換えたくても 過去の不快な思考回路の発動グセが強すぎて意のままにならず、あっさり引き戻されてしまう人の場合

こういうときは なにがどうなってコントロール不能に陥っているのかがわからないから 「意のままにならない」 わけで、世界を望むものに変えたいのなら ブラックボックスを覗き込んで 原因を突き止める必要があります。




しかしこの世はほんとうにうまくできています。

けんめいに覗き込まずとも、向こうからしょっちゅう合図を送ってくれているのです、「ここ、ここに原因が潜んでるよ」 と。

繰り返し起きる その人固有のパターンを持ったトラブルが、その合図です。

からだの痛みや不調が その部分の問題を知らせてくれているのと同じように、「なんでこう何度も何度も起きるかなぁ」 と厄介者扱いしたくなるような執拗なトラブルこそが、その根っこにお探しのものがありますよと教えてくれているのです。




貴秋がもらった手がかりと それをもとにした観察では、その根っことは 起こった事柄に反応してまず現れる からだの感覚です。

その不快な感覚が、すかさず 初めてその感覚を引き起こしたであろう出来事にまつわるネガティブな感情を思い出させ、それが目の前の相手に投影されて揉め事になったり、辛さを忘れるための逃避行動に結びついて問題になったりします。

そんな繰り返しを今度こそきっぱり終わりにしようと思うなら、一番のおおもとである感覚に焦点を絞って向き合うことです。

そのためには、最初に現れるからだの感覚を 言葉をいっさい使わずに ただ感じ切ることをお勧めします。

感覚が言葉と結びつくと、まず 「悲しい」 「悔しい」 などの感情が浮かび上がり、さらに 「 (私にこんな思いをさせた) コイツのせいで」 とか 「私ばかりこんな悲しい思いをするのはなぜ?」 などという これまでと同じパターンの不幸な“物語” へと とめどもなく発展していき、肝心のおおもとからどんどん離れていってしまいます。

ここで感覚と言葉をすっぱり切り離すのが、感覚フォーカスの要です。

以前は一生持ち続けるしかないのかと悩んだ負の物語ですが、下りるのはどうやら十分可能なことのようです (^^)






















  

突破口

2017年07月27日 14時00分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋内的探究の手引書、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 によれば、人間の自然な感情は 悲しみ ・ 怒り ・ 羨望 ・ 不安 ・ 愛 の5つで、抑圧し続けたそれらは 悲しみ → 慢性的なうつ、怒り → 憤怒、羨望 → 嫉妬、不安 → パニック、愛 → 所有欲 へと変わるのだそうです。

そしてさらに 「自然な感情が抑圧されると、不自然な反応と対応が生じる」 と続くのですが、この 「不自然な反応と対応」 という言葉、身に覚えがあり過ぎます (^_^;)




以前にも書きましたが、繰り返し上がってくる根深い怒りに根氣よく向き合っていると、引き金となる不快な感覚が薄らぐのと入れ替わりに 「純粋な悲しみ」 の感覚が前面に出てくることが よくあります。

ここから想像されるのは、思いもよらない出来事にショックを受けた次の瞬間、まず湧き上がるのが悲しみである場合が多いんじゃないか、ということ。

その悲しみをまっすぐ受け止められればそれで終わりだったのが そうできなかったばかりに そっくり心の奥に押し込められ、そんな痛みを持ち続けなければならない辛さが 次第に怒りに変わり、時間と共にどんどん大きくなっていった、と。

また 最初に生じたのがピュアな怒りだった場合でも、それを率直に表明できないフラストレーションは 小さな火種をどんどん大きくしていきます。

さらに、怒りの感覚は それだけでも相当圧迫感があって苦しく いつまでも感じ続けていられるものではないので、とりあえずなだめて忘れようと 「仕方ない、どうせ私はいつもこうなのよ」 などとひねくれた受け止め方をしてしまうと、それ以降いつも 「どうせ私は」 というあきらめに無念さや無力感が入り混じった観念が発動して そのとおりの体験を重ねることになり、「どうしていつも自分ばかりこんな目に・・・・」 というひがみや恨みが加算されることになります。

抑圧され 持ち越しとなったまま放置された感情は、時が経つにつれ このように負の感情がどんどん上積みされて、一番初めのきっかけとなった出来事にはおよそそぐわないほどいびつに膨れ上がり 不自然なものになってしまうようです。

そんな不自然な感情からは、当然 不自然な反応や対応しか生まれません。

加えて 当事者が自身の言動の不自然さを自覚していると、「こんなおとなげない反応はみっともなくてできないな」 ということで さらに抑圧を重ねてしまい、ますます苦しい思いをする羽目に陥ります (T_T)




さらに話をややこしくしているのは、ネガ感情発生の起点と 実際の発動点とのタイムラグ。

はるか昔 (たいていは 物心つくかつかないかのころ) に 身近な大人 (多くは親) を相手に起きた出来事から生まれた感情、それも時を経ていびつに肥大化したものを、たまたまスイッチを押してしまった人にぶつければ どういうことになるか ((((;゜Д゜)))

相手も似たような状況の人であれば (類友の法則で そういう場合が多いような氣がします) 、解決がつくどころか 互いの怒りを刺激し助長し合って、ますます事態も感情もこじらせ、負のスパイラルにいっそう深くはまり込んでゆくばかり。

子供でも老人でも 以前には見られなかったようなキレ方をする人が増えているのは、こういうことが長い時間をかけて あちこちで起こった結果なのではないでしょうか。




こんな状況は当然苦しいから、誰だってどうにかしたいのです。

どうにかしたいのにどうすればいいかわからないから、ますます怒りややりきれなさが募り 手がつけられなくなってゆくのです。




突破口は、「感覚と言葉を切り離す」 ことにあると 貴秋は思っています。
























執拗な怒りにどれほど悩まされてもあきらめるな!

2017年07月26日 09時14分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


昔から 何かあるたびに不思議に思ったものです。

こんなムカつく相手に、こんな理不尽な出来事に、アタマにくるとか仕返しを企てるとか思いもせず 穏やかさを保てる人が なぜいるんだろう?

自分なら間違いなく瞬時に怒りに煮えたぎり あっというまに復讐のアイデアの3つや4つ考え出しているであろう場面で、ハラは立つけど ま 仕方ないか。。。。ぐらいであっさり終わらせることができる人がいるというのが信じられない。

それぐらい 貴秋の溜め込んだ怒りのパワーはすさまじかったわけですが、そんな自分とまったく違う思考回路の持ち主がいるという事実を何度も何度も目にしながら、どうしても飲み込めないまま 長い年月が過ぎました。

自分を基準に考えれば 誰もが同じように荒れ狂って当然とついつい思ってしまうけれど、実際には ひとりひとりが異なる体験を持ち、そこから紡ぎ出される思考や反応のパターンもみな違うのだということがすっきり腑に落ちたのは、感覚フォーカスを試し始めてかなり経ってからのこと。




怒りに火をつけるのは 相手や出来事そのものではなく 瞬間生じるからだの感覚だという事実がじわじわ染み込むに従い、この感覚や そこから派生する感情は 人によって違うのだということが納得できるようになったのです。

同じ出来事を体験しても、それが怒りや恐れにつながった人とつながらなかった人とでは、からだに焼きついた感覚も そこから生まれる感情も さらにその感情から再現される物語も違ってくる。

また、同じように痛い思いや辛い思いをした人でも、その痛みや辛さをその場で認めて吐き出せた人と、表現することを許されず抑圧してしまった人とでは やはり残るものが違ってくる。

前の記事に書いた 「ただ 『やめなさい』 とだけで、どうすればやめられるかが書かれていないアドバイス」 への戸惑いは、この違いから生じていたんですね。

先人たちは その困難かつ重要なお役目柄、怒りくるってはわれとわが身を足止めするなんて厄介なハンデは 生まれ出る前の性格設定に入れなかったということなのでしょう。




それにしても、抑圧された怒りとは なんとすさまじい破壊力を持つものかと 身をもって感じます。

「抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。 (中略) 人びとは怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ」 という 「神との対話」 の一節に 心底うなずけます。

こんなことを言うのはためらわれますが、ひとつ間違えば 自分が新聞やテレビのワイドショーなどで取り沙汰されるような事件の主人公になっていてもなんら不思議はなかったのです。

さらに言うのがはばかられますが、だからこそ 悲しく恐ろしい事件を実際に引き起こしてしまった人の心の中でどんなことが起きていたのか、貴秋には手に取るようにわかる氣がするのです。

限界まで溜め込んだ怒りのエネルギーは もはや抑え続けるのは不可能で、ちょっとした刺激にも 出口を求めて猛烈に暴れ回ります。

外に向かうか内に向かうかはともかく 爆発は時間の問題で、それを止めるには おおもとの供給源を断つと同時に 溜まりに溜まった怒りを少しずつでも逃がして 圧を下げるしかありません。




で 貴秋が試して効果大だった感覚フォーカスですが、供給源を断つとは スイッチが入った瞬間生じるからだの感覚と言葉を 完全に切り離すこと。

怒りの感情は、この記憶された感覚に 言葉が結びついて生まれます。

言葉がなければ ただの不快な感覚でしかありません。

そして 溜まった怒りを逃がすとは、その不快な感覚を 言葉を一切介さずに感じ尽くすこと。

持続時間には長短があり また一度でおしまいにできるとも限りませんが、何度繰り返そうとも その都度じっと感じていれば だんだん薄れてゆき、やがては消えます。




怒りが生じるにも意味があり、その最初のときにしっかり味わい切れば それでおしまいだったのです。

それをせずに押し込めてしまったから いびつに膨れ上がり 始末に困るありさまになったわけですが、手は焼くにせよ 終らせることは決して不可能ではありません。





















順送り

2017年07月25日 17時20分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


書店や図書館などで スピリチュアルコーナーの棚が質量共に充実しているさまを眺め 「五感を超えた世界も市民権を得たものだなぁ」 と感心するたびに、この領域を世に知らしめた功労者である先人たちに思いが向きます。

マインド一辺倒の人たちの中にあって おのれの信じるところを貫き通す大変さは 今の私たちの比ではなかったろうし、自分自身さえ確証が得られないものをひたすら信じ 忍耐強く歩みを進めるのが ときとしてどれほど苦しく辛かったことか。

そんな困難に打ち勝って 未知の分野に先鞭をつけてくださった方々は、きっとそれだけ強く優れた人たちだったのでしょう。

彼らが残してくれた数々のありがたい智恵のおかげで 貴秋もまがりなりにもここまでこられたわけですが、そんな自身の体験から 先人たちの智恵の言葉を受け取る際に 留意しておいたほうがいい点があることに氣づきました。




想像するに、先人たちは その困難な役目柄、潜在意識の情報をすんなり受け取れるとか 五感を超えた世界の存在を苦もなく信じられるとか カリスマ性を帯びているとか それなりに有利な条件を設定した上で この世に生まれ出てきたのだろうと思われます。

まだ味方が少なく条件の悪い世界で 多くの人の心を動かすという重大なお役目を担うからには、それぐらいのアドバンテージは当然というものでしょう。

が、これが 今現在彼らの遺した言葉を実践する上で ちょっとした盲点になっているようです。

つまり 彼らはそもそも優れているがゆえに、自分たちには当たり前にできることをできない者もいるということに思い至らなかったのではないかと思うような記述が たびたび見受けられるのです。




貴秋が一番苦戦したのは、彼らがさらりとこともなげに書いている 「これこれこういうマインドの反応や悪いクセはやめましょう」 という言葉にいくら従おうとしても 、マインドのすさまじい抵抗にあったり 具体的にどうしたらいいのかがわからなかったりで 従えなかったことでした。

「やめましょう」 「どうしたらできるのかなどと考えず ただやめればよいのです」 などといとも簡単に書かれていることが、どうして自分にはできないのか。

また、いくら探しても うまくいかないものをうまくいかせる手立てが書かれたものが見当たらないのはなぜだろう。

探せども探せども どうクリアすればいいのかいっこうにわからない、そんなことが続くと なんだかだんだんイジワルをされているような恨みがましい心持ちになってきます。




しかし、今は思います。

先人たちの著書に そろいもそろってできない者へのアドバイスが書かれていないのは イジワル心などではもちろんなく、彼らのお役目柄 そういうハンデは背負わされてなかったため できない者がいようとは思いもよらなかったからで、その書かれていないところを努力して埋めてゆくことこそ 後に続く私たちの役目であり、探究の醍醐味でもあるのだと。

すべて答えが出ていたら あとはそれをなぞるだけ、自分の力でなにかを成し遂げる喜びは味わえませんものね。

だから 怒ったり恨んだりはナシで、その書かれていないところこそ自分の出番! ぐらいの氣持ちで取り組めばいい。

そうして私たちが突き止めたことを手がかりに、次に現れるより大きなハンデを抱えた、言い換えれば 自信があるためより厳しいハンデもいとわない勇敢な魂たちが 後を引き継いで 私たちの死角をまた埋めていってくれる、そんなふうに順送りされながら 五感を超えた世界の智恵が どんどんわかりやすくなって裾野に広がり、世界が明るく豊かになってゆく、それが 分離から統合へ、マインドからハートへと進む 今のこの “かえる” 道のりのありようというものだろうと思うのです。



















ことしの夏至から七夕は。。。。

2017年07月05日 12時45分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いつも愛読させていただいているmisaさんのブログに、本日こんな記事が。


        数千年に一度のチャンス到来?


なんとなくうなずけるんだなぁ、このお話☆

ここしばらく漠然と感じていたものを裏打ちしてもらったような。。。。




動画をご覧になるもよし、お忙しい方は misaさんが挙げてくださった二つのポイントを押さえておくだけでも十分だと思います。

この 「我が」 とか 「自分」 とかについては 貴秋なりに思うところもあるのだけれど、期日のあることなので それはまあ置いといて (時間があればあとから書かせていただきますね)、とりあえずシェアさせていただきます (^^)

















魔法の杖を使うには

2017年07月02日 12時32分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


感覚フォーカスは単純です。

感覚フォーカスにおいて 小我が 「する」 のは、からだに上がってくる特定の感覚を認め 感じ切ることだけ。

そのとき 言葉を使わないように とか ふと浮かぶ記憶や映像に意識を奪われないように などとは注意しますが、あとのことはみな結果的に あるときふと 「起きてくる」 のです。




感覚フォーカスの根底にあるのは、「雲の向こうにいつでも太陽があるように、自分でないものの向こうにいつでもほんとうの自分がいる」 という認識。

ほんとうの自分を育てることも探し回ることも引き寄せることもいらない、それはもともとつねにここにあるのだから、と。

前向きであろうとか 否定的なことは考えないとかマインドでがんばるのは、新たに太陽を作ろうとするようなもの。

そんなことしなくたって、見えようが見えまいが それはいつでもそこにあるのです

あとは その事実に氣づくかどうか、認めるかどうかだけ。




そうえいば、映画 「マトリックス」 の モーフィアスのあのセリフ 「速く動こうと思うな、速いと知れ」 は、きっとこういうことを言ってたんだろうな♪




以前にも書いたかと思いますが、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に出てくる 「十戒」 についての神の説明。

キリスト教の 「十戒」 とは、~せよとか~してはならないという戒律ではなく 神を見出せばおのずとこうなるであろうという言質なのだ、という話ですが、書いているニールさんもビックリのこの内容、初めて読んだときは へぇ~? って感じでしたが、今はナットクです。

神の 「結果的にこれこれこうなるであろう」 という御言葉を 「なるほど、これが神を見出したものの行いなんだな、ならば 自分もこのように行動すれば 神を見出した者になれるんだな」 とマインドで受け止めちゃったのが、おおかた現在広く知られている “モーセの十戒” の始まりだったんだろうなぁ。。。。と (^_^;)




貴秋が感覚フォーカスを魔法の杖と呼びたくなるのは、杖を一振り 呪文を一声 のようにシンプルに用いるだけで、あとは望む効果が向こうからぞくぞくと起きてきてくれるからですが、単純であることと簡単であることは また別の話。

あのハリー ・ ポッターだって、魔法の習得には何年も学校に通わなくちゃならなかったんだものね

魔法の杖を使いこなすコツは、まず杖の力を信じ、杖にできることとできないことをわきまえた上で、あとは自分のものになったと感じられるまで ひたすら練習あるのみ、ということのようです (^_-)