毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

反転したネガの力

2015年04月25日 11時30分55秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ここの前に使わせていただいていた楽天ブログでは、4年間に更新108回と記事数が少なく、内容も日常の他愛のないスケッチみたいなのが大半ですが、そんな中 今も思い出すことが多く 影響受けてるなぁと思うのが、当時参加したワークショップでの体験。

特に 内面の動きが頻繁な近ごろ、あのとき得た情報が今につながっていると感じることがままあるので、そのへんのことを書くのに リンクひとつで説明を省けるのは やっぱりありがたいです(^^ゞ




で、きょうは このときの話から。

といっても、テーマは本文ではなく、コメント欄の3つ目、momo_comfortさんのコメントのこの一文、


       “ マイナス感情は、癒されたとき、反転して プラスの、力強い感情になるんだそうです ”




これね、今になってますます ほんとうにそのとおりだなぁって思うんです。



以前 「アナ雪」 の 「Let it go」 をテーマにしたとき、今は引け目に思う自分でも、そんな自分を 判断抜きで ありのままに認めるプロセスを踏まないと、その先へは進めない、と氣づいたことを書きました。

このときふと思い出したのが、かつて参加したこの 「縄文家族ワーク」 。

ロールプレイング・ワークのとき、必ずといっていいほど 「あなたのその望みが叶ったら、次にどうしたいですか?」 という問いかけが入るのですが、これが出るのって、たいてい 否定的なキャラクターが ネガティブな願いを口にしたとき。

どこかに行ってしまいたい とか、こんなヤツといっしょにいられるか とか ( ̄∇ ̄;)

傍で聞いているこちらは おいおい なんて思っちゃうんだけれど、主催者HAPPYは 平然としてその願いを受け止めつつ、続けてこの問いを出す。

すると面白いことに、ほとんどのキャラが、今度は前向きなことを言い出すんです。

このときの momoさん演じる 「不安さん」 しかり、先日の記事の Tちゃん演じる 「ネガさん」 しかり。




「Let it go」 の氣づきに従って、困りものの自分も否定しないように努めていたら、いい歳した大人が えらい反抗期の駄々っ子の心理になってしまった話を 少し前に書きましたが、大人の理性で この駄々っ子ちゃんを観察すると、最初にすんなり受け止めてもらっていたら それで終わっていたんだな、受け止めてもらえなかったから アンバランスに拡大しつつ いびつな残り方をしちゃったんだな、というのが よくわかります。

大人が子どもの心理を引きずるから よけい異様に見えてしまうのだけれど、まっすぐ向き合ってみれば、案外他愛のない望みだったりして、だから いったん満たされさえすれば、けっこうすんなりと 本来の健やかな大人に戻れるケースも多いようです。

まあ、望みの度合いや かかる時間はまちまちでしょうが、とにかく無事そのプロセスを通り抜けると、ごく自然に 今度は前向きな意欲が湧いてくるみたい。

そして、このポジティブパワーに押されて 肯定的な人生が動き出したとき、あのmomoさんのコメントにあった 「癒されて反転し プラスに変わったマイナス感情」 の底力を味わうことになるのですね。

その辺の手ごたえを あの数回にわたるロープレワーク内で 擬似的に体験できたことが、実践編ともいうべき今の暮らしの中で おおいに役立ってくれています(^^)




このところ たびたび書かせてもらっていますが、怒りに駆られることがめっきり減って、安らいだ時間が続くようになり、思いもかけない発想が湧いたり、生きることを楽しむとはどういうことかがわかってきたり。

そしてさらに 不思議体験を重ねながら、「こういうもの」 と思い込んできた その土台からくつがえるような変化の時に身を置きつつ、これが 「いって かえる」 というものなんだなぁ、と しみじみかみしめています。

わざわざ 素直な成長の過程から外れて、問題を引き起こしては、そこからけんめいに抜け出そうとする氣持ちをバネに、再びほんとうの自分へと戻っていく。

この一部始終を体験するために、私たちは この世界に生まれてきたんですね




だからこそ、「かえる」 方向に追い風が吹いている今、どんな自分も 避けずにまっすぐ見つめる ・ 感じる、そしてそこから ほんとうの自分の望みに氣づく、ということが、ぜひとも必要なんだと思います。




そして、私がこんな妙ちきりんなブログをえんえん書き続けているのは、身をもって知った 「人は大きく変われる」 ということ、また 「ありのままの自分を見つめるのは 決して恐ろしいことでも苦痛でもない」 ということ、をお伝えしたいがためなんだなぁ、とも思っています。




だって、それが私のお役目 ・ ライフワーク (のひとつ?) だってわかってきたから、ね♪




へんてこブログ、まだまだ続ける氣満々です






















わけもなく こみ上げる幸せ

2015年04月24日 10時43分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


けさになって、新しい考えが浮かびました。

言葉にならないとわかっているものを言葉にしようと四苦八苦するよりも、その結果変化した私の 新しいものの見方・捉え方を書くほうが楽しいし 面白いんじゃないかな、って☆

ここしばらく 外見は淡々、中身は混沌、日記つけてなかったら 何があったかなんて すっかりわからなくなっているところ。

1週間で 大学ノート一冊使い切りました(^_^;)




わけもなく不安に駆られて氣が沈む、なんてことは あまりにもしょっちゅうで、不思議とも奇妙とも思わなかったのに、同じ現象がポジティブ面で起こると 不慣れなあまりとまどいを覚える自分が面白いです。

何があったわけでもないのに、不意に氣持ちが浮き立つ、心がときめく

最近 この 「ときめく」 という言葉を ひんぱんに使うようになりました(*^^*)

ハートセンターあたりが 甘やかにうずいて、胸のうちがほんわかあったかくなる。

無性にうれしさがこみ上げて、じっとしていられなくなる。

かつて覚えのない感覚、衝動。

なんでこんなことになったのやら。。。なんてつぶやきつつ、そんなうれしさを抑えきれない自分がいます♪

いや、別に抑える必要ないよね。

あまりにも慣れてないので、そのたびに うわ~ また来たよ、どうしよどうしよ って、喜びのエネルギーをどう流せばいいのかわからず、ひとしきりあわあわする自分が ほんと面白い




「ただ、今を楽しむ」 ってどういうことなのか、やっと感覚的にわかった氣がします。

こんなシンプルなことがわからなかった自分が、今ではちょっと不思議だけど。

前は、「私」 と 「楽しむ」 に 距離があったのだけれど、今はイコール。

「楽しむ」 というより 「楽しい」 かな・・・・・ 私 = 楽しい、ってね♪

前は、楽しくなくて どこか鈍ってる自分に はっと氣づいて、「そうだった、楽しく過ごすって決めたんだった」 と やおら目の前の楽しいことを探しにかかるような感じだったんですが、今は 先に 「楽しい」 があって、それを なんでもいいから 目の前のことに込める、そんな感じ♪




特定の結果にこだわることが、なくなったとは言わないけれど(笑)、めっきり減りました。

向こうから起こってくることを 以前よりずっと信頼できるようになったみたいです。




本は相変わらず好きだけれど、先日書店に行ったとき、本屋さんの空氣は心地よくても、本を買いたい衝動が起こらなくなっていることにびっくり。

以前は 本を命綱みたいに思っていたらしい(^^ゞ

その情報が 新しい手がかりをくれる とか、そのイメージが (暮らしをテーマにした雑誌などで) 心を癒してくれる とか、そういう思いにすがりついていたような。

なにか明るい展望が欲しかったんだね。

最近面白そうだなって思うのは、思いや環境が 遺伝子レベルで細胞を変えるらしいっていう話、そして 心の安らぎは 絵本から。

書店でも 唯一足を止めたのが 児童書コーナー、でも絵本なら 図書館にどっさりあるしね♪




日々の暮らしでしていること、起こることは 前とほとんど変わらないのに、人生って楽しい、面白いと思うことが ぐんと増えました。

こんな変化を体験して思うのは、誰でも180度違うような変化を起こせるんだな、っていうこと。

180度って、真反対で すごく距離があるようでいて、グラデーションでじわじわ変化していくそれは 時空のルールを越えていて、案外近いものみたいです






















自分でもわけのわからないご報告(汗)

2015年04月24日 01時11分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


こちら南紀は もう八重桜もほとんど終わり、新緑の季節に移りつつあり。

合わせてテンプレートも新緑に模様替え♪

そちこちの桜の木は、淡緑色の葉っぱに 同じ色のちっちゃな実が ぽちぽちついて、なんとも清々しく可愛らしいこと(*^^*)

山肌は 濃淡の緑に染め分けられ、山つつじに野生の藤も花盛りです♪




4月13~15日は 地元本宮大社の例大祭で、13・14日はかなりの雨の中、ご神事もさぞ大変だったことでしょうが、15日は午前中に天氣が回復、午後からの渡御祭に 久々に行ってきました。

大斎原への行列には、小中学生をはじめ 氏子さんや神輿の担ぎ手など 大人の方にも知った方がちらほら、私もこの土地に長くなったものだなぁと 改めて思ったことでした(^^)

このときは ちょうど八重桜が満開、緑一面の原っぱのところどころに 水玉のような濃いピンクが映えて、雨上がりの鮮やかな青空と 久々の日ざしに 幸せ氣分を満喫。

すべてのご神事のおしまいまで たっぷり4時間参加してきました。




そして。

たまたまか なにかあってのことか そこはわかりませんが、この例大祭の少し前から 内側でなにか起きているような兆しがあり、先に書いたように ちょうど湯登神事の13日に 十年越しの氣づきが根を下ろし、さらにそこからまたいろいろなことが起こって、今に至ります。

この 「いろいろなこと」 が 果たして言葉にできるのかどうか。。。。

できるものなら追々・・・と思いますが。




「変わろうと決めたなら、未来は今の延長線上にはないのだから、今の意識の枠組みで想像しても思い及ばない」 とは ずっと思ってきたことですが、実際にそんな状況になってみると、やはりというか 予想のはるか斜め上をいっています。

同一面上の変化ではないのですね。

どういうことかっていうと、「同一面上の変化」 っていうのは、映画館で映画を見ているような感じ。

座ってスクリーンを眺めている自分の状態や意識は ずっと同じまま、目に映る光景だけが 次々と変わっていく。

でも今変わっているのは 意識のほうなので、映る景色は同じでも 見え方・受け取り方が違う・・・・別世界を見ているようで なんとも妙な感じです。




15日の例大祭、本宮大社の道を隔てた向かい側の歩道で 行列を待っていたとき、突然なんとも不思議な心持ちに絡めとられました。

何十回 ・ 何百回通ったかわからない そのおなじみの場所で、たしかにそこにいるのに、まるで違う時代というか 時間というか 次元というか。。。に身を置いているような。

場所はよく知っているのに、そのときのそこは、というか その時代?時間?は まったく初めてで、ずっと同じところを見ているはずなのに まるで違う空氣、未知の感覚なのに なぜかたまらなくなつかしい。

目が覚めたまま 夢の中にでもいるような、あの感じを どう言葉で表せばいいのか。




直後、知り合いの人から声をかけられて、とたんにふっといつもの感覚に戻りましたが。




去年は 家にいる時間が少なかったこともあって、大斎原には一度か二度しか行きませんでしたが、今年はなぜか 桜が咲きだす前から立て続けに訪れていて、例大祭後もたびたび足を運ぶように。

早朝、お昼前後、夕方、と時刻もまちまち、なぜかふっと行きたくなって。

そして、行くたびに ほとんど人影はなく、ひとりゆっくり過ごす中、思いがけず過去の懐かしい場面を思い出したり、深い安らぎに浸ったり、心が震えて受け止めきれないほどの感動に襲われたり。

・・・・と 内側ではいろんなことが起こっていても、目に映っているのは 相変わらずおなじみの大斎原。

なんか、不思議体験のトンネルをくぐるために せっせと通っているかのような。




このところの自分になにが起こっているんだか、よくわかりません。

内側だけたびたび 前例がなく 分類も説明も不可能な状態に置かれますが、外側は相変わらずの平凡な日常。

でも、しっかり地に足が着いているし、いい氣分でいられる時間がどんどん長くなっているし、きっといい変化なのでしょう(^^)

自分が世界の中にいる のではなく、世界が自分の中にある、そんな感じが強くなってきています。




ひとつだけ言えること。

からだの感覚フォーカスを通して ほんとうの自分ではないものを手放し続けてきたこととつながって起きているのは、確かなようです




もしかすると、このわけのわからない感覚のほうが 本来のスタンダードに近くて、これまで当たり前と思っていた安定した感覚のほうが 実は幻だったのかも。。。。。(^_^;)




自分でもなにを言っているんだかよくわからない近況報告でした(笑)




















ネガが教えてくれたこと ・ 十年後

2015年04月23日 10時01分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このブログの前に、楽天でブログを持っていたことがありまして。

今以上に未熟な自分が表れていますが、それはまあ仕方ないよね(^_^;)

ただ、終盤あたりの文章にまつわる思い出が あまり心地いいものではないので、引っ越して新たに始めたこちらのブログとは 特につなげたりしていなかったのですが、白状すると 楽天時代のエピソードを一からこちらに書くのがだんだん面倒になってきて(こら)、もう過去にあれこれこだわることもないかと リンク張ることにしました(^^ゞ




というわけで、この記事

お断りしておけば、長いのは今と同じで、その上 行間の空きなども少なく、こちら以上に読みにくいかと思われます。

それでもOKという寛大な方のみ飛んでくださいませ m(__)m




*             *             *             *             *





で、そうまでして書きたかった話とは。




「いつの間にか変わってた」 って体験のある方、多いんじゃないかと思います。

楽しんでいたはずが いつの間にか頑張りに変わっていたり、目的と手段が いつの間にか入れ替わっていたり。

こういうのって、季節が変わったり 昼と夜が入れ替わったりする時と同じで、徐々にグラデーションみたいに変化するので、変わり目が見えない。

はっと氣づいたら あれれ? ってことになっている。




この記事の中で、これでもうネガさんに苦しまなくていいんだ、戦わなくていいんだ、と思っているようですが、なんのことはない、いつの間にやら元のもくあみ、それからさらに十年近く、ネガさんを重荷に思い 疎んじながらの暮らしが続くのです

いや、当時でも それが事実認識というより希望的観測だと 薄々氣づいてはいたみたいで、どうかな、怪しいものだけれど、でもそう信じたい。。。。そんな氣持ちが 時を越えて伝わってきます。




で、今なんでこの話を思い出したかっていうと。

13日朝 起き抜けに、久々に大きな不安に見舞われ、すぐさま感覚に集中するも、起きてすぐは 意識が目覚めきってないのか どうも集中しにくくて、そのまま心地悪い氣分を 中途半端に引きずることになりました。

やだな、つらいなぁと思いつつ、PCを立ち上げ ネットであちこち見て回っていたら、ツイッターでフォローしている 「バシャール・スピリット」 というボットのツイートで、こんな文章を見つけました。


    “ 否定的な観点にも価値があります。それを理解してください。

      否定的な観点も創造全体の一部であるということを受け入れると、エネルギーのバランスをとることができるようになります ”




これを見て思い出したのが、あの十年前のワーク。

はっとなり、うんざりだった心地悪い氣分を 心の中で 自分のバランスの一部として ぐいと抱えなおすような動きが起こった、と思ったら、それはすーっと溶けるように消えてゆき、あとに深い安堵感が残りました。




ああ、やっぱり受け止めているつもりで 早く消えて欲しいと思いながらフォーカスしていたんだなぁ、と、十年前にTちゃんが教えてくれた 「今までお前のためにやっているのに何で疎まれるのかという気持ちで一杯だった」 というネガさんの言い分を思い出して、申し訳なさでいっぱいになりました。




そこからずっとこの一件が心に残り、思うともなく思い続ける中で、「ネガな気持ちの役割。。。それは、人の中で根っこをしっかり張って、その人が上へ上へと伸びていっても倒れることがないよう、上空の強い風にも負けないよう支えること」 というあのときの言葉が、これまでにない実感を伴って、心の奥にぐいぐい入り込んできました。




今もし ネガをうまく一掃できたとしよう。

いい氣分しか感じなくなって、どんなにか軽やかでうれしいことだろう。

が、時間が経つにつれて、それは例のグラデーションのように 徐々に慣れて 当たり前になって、新たな起爆剤となるピンチも不安もやってこないまま、よくなろうという氣持ちの張りも失って、私は慢心したまま ぼんやりふらふらと宙に漂いだし、成長を止めてしまうだろう。

これも以前に書いた記憶があるけれど、明けても暮れてもひたすらいいことしか起こらないって、実は 退屈極まりない地獄なのだ。

「禍福はあざなえる縄の如し」 っていうのは、この人の世では なくてはならない恵みなんだ。

ネガが定期的にやってきてくれるから、負けまい呑み込まれまいとして、人は努力し 成長し、その喜びをまた味わうことができる。

ネガは災難でも余計物でもない、なくてはならない大切な私の一部なんだ。

氣づかないうちに道を外れていたことを教えてくれる ありがたいビーコンだ。




この自覚、どうやら もう忘れることのない 私の血肉となったようです。

それまでは、ネガティブな感情に襲われると、ああまた引き戻される・・・・と それだけでずどーんと落ち込んでいたものですが、あれ以来 ネガさんにつつかれては、やばっ!私また 粗雑・散漫になって ズレかけてたんだ、と 座禅で眠りかけて喝を入れられたかのようにはっとなり、そのたびにネガさんに感謝する毎日なのです

強敵だったものが心強い味方に変わり、ピンチはあっても敵はいない、張りと安らぎの日々。

これって この三次元世界で最高のありかたなんじゃないかな♪

どうなっていくんだろう、これからの自分、すごく楽しみだなぁ




十年かかって 外側の言葉だったものを取り込み 消化吸収して、自分のものにする重みと喜び。

やっぱりいのちに関する変化は 時間が必要、そして それだけの値打ちがあります。

あのときのTちゃん経由・ネガさんからの伝言、ようやくがっちり受け止められたようです(^^)






















唐辛子入りココア ・ その後

2015年04月11日 08時09分05秒 | 日々の楽しみ


ココアは私にとって、コーヒー・紅茶とはちょっと違う位置づけの飲み物なのです♪

コーヒー・紅茶が日常のスタンダードなお楽しみなら、ココアは特別な時のとっておき♪

特別といっても、行事とか記念日とか大仰なことではなくて、ちょっといつもと違う氣分のときや そうなりたいとき。。。。高揚したりときめいたり、逆にちょっと低空飛行で よ~し ここから浮上すっぞ~! と弾みをつけるようなときにチョイスする飲み物




けさは ここ数日の雨模様がまだ続いていて、その影響か 起き抜けはやや沈み氣味だったんですが、もののはずみでポン! と浮上、そのうれしさに乗っかって、ココアタイムになだれ込み




で、貴秋今冬初注目の唐辛子入りココアですが、これ、数回飲んだところで、マイブームにはなりそうもないな、という氣がしていました。

映画 「ショコラ」 で氣になっていたから試したんですが、早い話が普通のココアがぴりっと辛くなっただけ、ココアの濃度を変えたり スパイスもさまざまな取り合わせで試すも いまひとつパッとせず、昨冬の柚子茶ココアほどのインパクトはなし。

これはもういっか~、と しばらく作らずにいたんですが。




あるとき突然 無性に唐辛子ココア飲みたい~! ってなって。

自分でもびっくり、いつの間にか氣づかぬところで けっこう氣に入っていたらしい(^_^;)

貴秋的には ココアはまったり系の飲み物のはずなんですが、かなりのウキウキ氣分のときとか、ここからど~んと上がっちゃる! と意欲満々のときなど、それをあえてぴりりと刺激的に頂きたくなるという新境地が生まれたようです。

で 今は、鷹の爪をほとんど粉状になるぐらい細かく叩いたものを常備しておき、ピュアココア、さとう、隠し味の塩といっしょに入れ、さらにシナモンをプラス、というシンプルなレシピに落ち着きました。

お湯をさす前に 全部をカップの中でしっかり混ぜ合わせておいて、最初に少量の熱湯を注ぎ、スプーンの腹で押すようにして チョコペースト状に練り上げてから、残りのお湯でのばすと きれいに溶かせて 味もなじみます♪



消え行くかと思っていたのが いつの間にかちゃっかりお氣に入りメニューに仲間入りしていた唐辛子入りココア、けさも美味しくいただいて、曇り空氣分などどこへやら

きょうもいい一日、まちがいなし

予報では 午後から晴れるらしいので、久しぶりに畑のお世話をしようかな




みなさまも どうかよい一日をお過ごしくださいね






p.s.

まだ9時前なのに、薄日が差してきた~ \(^o^)/

唐辛子ココア効果?(笑)

畑もしたいし 洗濯もしたいし お散歩もいきたいし、あれもこれもとやりたいことがうわ~っと押し寄せて、ワクワクが止まりません

ここしばらくお日さま拝んでなかったからなぁ、うれしいなぁ
























いろいろあるけど楽しいよ♪

2015年04月08日 07時20分05秒 | 紡ぐ暮らし


ご無沙汰してました(*^^*)

更新ストップの間もご訪問くださったみなさま、ありがとうございます。

しばらく外に向かっていた氣持ちが 内に転じ、これはまた内観の時だなと思っていたら、なにやら複数のピンチに重ねて見舞われることに

なんじゃこりゃぁ~ って感じだったんですが、そこではたと氣がつきました。

どんなことであれ、すべては 体験し 感じるために起こっているのだと。

だから、逃げるのでも避けるのでも策を講じるのでもなく、すべきはただひとつ、感じて感じて感じ尽くすこと、それだけでいいんだと。




ピンチというのは、動じた心に生じるおなじみのドキドキやビクビクやイライラを、「ほらここにあるよ。いいかげんに受け取って味わっておしまいにしてよ」 って差し出すために訪れるんですね。

だから 未消化の感情には、それをいやおうなしに思い出させるようなシチュエーションのトラブルが 繰り返し発生する。

習慣の力は強くて、うわ! と思った瞬間、つい直面するのを避けて やり過ごしそうになりますが、すぐに氣づいて 逃げるな 感じろ、味わえ! と方向転換。

そのためだけにあったかのような、ここしばらくでした(^_^;)




じゃあ、ピンチやトラブルを避けようとも解決しようともしないでどうなるんだ、といえば、感じ切った後は おのずと収束の方向に向かうようです。

何らかのアイデアが浮かぶ、ふと思いつくまま動いてみたら なんかうまくいく、状況にぴったりの情報が目に付く、助けの手が差し伸べられる、トラブルのほうから消えていく、などなど。

おかげで 今も後始末に追われる日々だし、検討すべきことも多々ありますが、さし当たっては どうにか通り抜けられたようです




そんな中でも、ご飯時々おやつを作り、掃除はちょっと手薄だったけど 時おり思い立って張り切ると いい氣分転換になり、編み物は 二つ目のハンドウォーマーも仕上げて 二つ目のネックウォーマーも完成間近、プラス畑仕事が加わって♪

風呂場横の空き地は、すぐお隣に立ち腐れ状態の小屋みたいなのがずっとあって 日当たりがよくなかったのですが、それがこの2月に解体されたおかげで、ぐっといい環境に(^^)

そこへもってきて、地元ホームセンターで 苗の大安売りをやっているのを見かけたら どうにも抗えず、トマトやナスの苗を衝動買いしちゃいました(^^ゞ

右腕はほぼ治ったとはいえ まだ無理は禁物なので、左腕に主にがんばってもらい、子どもの砂遊び用みたいな小さな三つ目鍬ひとつで畝を作って植え付けたら、無事根付いてくれたようです

ここ数日雨続きですが、お日さまが戻って氣温が上がったら、こぼれ種から また青ジソも出てきてくれそうだし、種を播いたベビーリーフやらバジルやらも発芽しそうだし、楽しみだなぁ o(^∇^)o




あと、刈らずに残しておいたよもぎで お団子やカップケーキも作ったよ♪

これも、いつものようにガンガン擂ったり刻んだりできないので、ミキサーに若芽や若葉と少量の水を入れて作ったよもぎ汁で 上新粉や小麦粉を溶きました。

必要に応じて、アイデアは湧くものですね☆




今年は 桜の開花と雨模様の日がだいぶ重なってしまったけれど、それでも晴れ間を見ては 用足しのついでに 本宮大社や大斎原に足を延ばして、美しい花をたっぷり堪能させてもらいました。

枝垂桜を樹の根元から見上げたら、淡いピンクの隙間からのぞく青空に 白い月がふんわり浮かんでいて、感動したなぁ

次は 新緑と山つつじの季節、ウグイスの美声も日ごとに艶を増しているし、お天氣が回復してあったかくなるのが楽しみで





いろいろあるけど やっぱりこの世界が大好き、何氣ない日々の暮らしが大好き

生きている・生かされているって素敵です