毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ジタバタもまたよし♪

2015年07月27日 23時57分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ビフォーアフターの体験から、この暑さの中でも、おお~なかなかいい感じに変化しているではないか♪ などとうれしがっている 相変わらずノーテンキな貴秋ですが、これを逆から見ると 喜んでばかりもいられなくなります。

つまり、以前の自分って、なんてムダな方向に力注いでたんだろう、なんて不毛な努力に長い時間を費やしてきたんだろう、という見方になるとき

大好きなブログで こんな話を読んだときなんか、もうね。。。。大きくうなずける内容なだけに よけい。。。。

私まさに 「泣いている子にフォーカス」 するっていうのを 延々とやり続けていたんだもの (>_<)

うーん、なんかクヤシイよぉ




が、しかし。

なら、その効果のなかった時間は、まったく無意味で不要な時間だったのか? ムダに回り道をしただけなのか? といえば、そういうわけでもないな、とも思うのです。




からだにぐっと入ってしまった力を、抜こう抜こうとしても なかなか抜けるものではありません。

そういうとき、さらにわざと ぐぐっと力を入れてみて、もうこれ以上はムリ、というところで ふぅ~~~っと力みを解くと、いい具合にくったりゆるむんですね。

物忘れなんかもそう、タレントさんの名前でもなんでも、思い出せそうで思い出せないときってあるけれど、考え続けてくたびれて 忘れたころに 不意にぱっとひらめく なんて、よくある話。




過去の私も それとは知らず、まったく効果を期待できない、むしろ手放したいものをますます強めてしまう方向に力を込めては、望む結果が得られず、失望や疑念にさんざんさいなまれ 疲れ果てたものですが、今にして思うと、あの 「感情より先に 感覚が起こる」 の情報は、そうした不毛な力みを重ねたところに 初めてもたらされたものだったような氣がするのです。

あれと出会うために、まずは 見当違いな方向で ひとしきり悪戦苦闘する必要があったのだと。

さんざん悩んで、なんかおかしいと思いつつも あきらめずにいたからこそ、ふと氣がゆるんだ拍子に ブレイクスルーのカギを引き寄せられたんじゃないかな、って☆




ジブリの映画 「魔女の宅急便」 で、飛べなくなった魔女のキキが、絵描きのウルスラに 「絵が描けなくなったらどうするの?」 と尋ねると、ウルスラは 「そういうときはジタバタするしかないよ、描いて描いて描きまくる」 と答えます。

重ねてキキが 「それでもやっぱり描けなかったら?」 と問うと、




      “ 描くのをやめる。

       散歩したり、景色見たり、昼寝したり、なにもしない。

       そのうちに、急に描きたくなるんだよ ”




うんうん、そういうものなんだね (^^)

これ以上はムリっていうぐらい力を込めるからこそ、それが抜けた瞬間すっかりリラックスできて、そこに新鮮なエネルギーが吹き込まれ、ひらめきが起きるのね♪

そんなふうに見ると、あさっての方にあがき続けた時間も込みで、そのプロセスすべてが 大切な財産に思えてくるから 面白いものです

そして、ジタバタしてもいいんだな、遠回りもムダもないんだな、って安心できると、氣持ちに余裕が生まれるためか かえってジタバタしなくてよくなるみたいです。。。。なんかあまのじゃくだけど(笑)




これも、今までしてきたことの結果が なんとなく見えてきた今だから言えること。

こんなことでこの先どうなるんだと 不安で心もとなくて仕方なかったころの自分に、そして あのころの自分と同じような思いをしている人にも、ムダなことなんて何ひとつないから 安心して思いっきりジタバタなさい、その先に きっと見えてくるものがあるからね、って 励ましてあげたいです

























起点

2015年07月22日 08時44分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今行っている職場ですが、実は ちょうど十年前 住み込みで働いていたのと同じところなのです。

成り行きでそうなったのですが、十年も経てば 場所はともかく 働いている人の顔ぶれは大きく変わっているだろうと思いましたが、行ってみると 一部変動はあるものの 大半が知っている方。

ここでも、この十年での自身の変化と ビフォーアフターを、日々まざまざと見せられています。

そして、これだけ立て続けに ビフォーアフターの確認をさせられると、自分の意識どおりの世界が具象化している、すなわち 自分の世界は自分が創っていることを、概念ではなく 事実として認識しないわけにはいきません。




思えば、ここまでの変化を起こすのに やたらと時間がかかったのは、自身の負の要素を なかなか正面切って見つめられなかったためのようです。

なんといっても辛くて不快だったし、さらには 「見つめる」 というのがどういうことか わかっていなかったからでもあります。

頭で理解することが 見つめることなのかと思い込んでいましたが、そうではなかったんですね。

感覚フォーカスを会得してから、進み具合がぐっと早まりました(^^)




今振り返ると、もう少し余分な時間をかけずに済んだかもな、という氣がしますが、だからといって もったいないことをしたとも思わない。

この世の営みは、早ければいいというものでもないですしね。

体験するためにやってきたこの世界なのだから、得た体験も かかった時間も すべてが宝。

・・・・・なんてことが言えるのも、一番大変だったところを通り過ぎた今だからこそですが (*^-^*)ゞ




そして今、自分の積み重ねてきた負を見つめる段階から、役目を終えて去っていった負の 空いたスペースに、新しい喜びの世界を築く段階に入ったと感じています。

楽しくないことがあっても、もうそれをあれこれいじくり回したりはせず、さっさと意識を離して、氣分をちょっぴりいいほうに傾ける、それだけ。

ちょっぴりでいいんです。

それが呼び水となって、どんどん流れを大きくしてくれます。

これも学習の成果の一つ。

ネガ → ポジ って、一見真逆なので、ついつい大きな変化を起こさねばとがんばってしまっていたのですが、その力みがかえって 変化を難しいことのように思い込ませていたと氣づきました

“ほんのちょっぴり いい氣分”、最近の決まり文句です♪




辛い思い、いやな思い、苦い思い、これらをどうにかして消し去り、もっと楽しく もっと安らかに過ごしたい、その一心でここまできましたが、「神との対話」 で神が言われるとおり、どんな負も 見つめれば消えるというのは 確かなようです。

そして、負が役目を果たしたあとは、苦しんだ時間も経験も、そのすべてが 知恵や思い出などの かけがえのない財産に変わります。




新しい世界を築くこの流れ、先に何が待ち受けているのか 見当もつきませんが、不安はありません。

だって、自分が創っているんだもの♪

うまくいかなくても、いくらでもやり直せるもの♪




53回目の誕生日を迎えたきょう、ここを起点に 新たなビフォーアフターが始まります。

そんな節目に、ちょこっとこんなことをしたためてみたくなりました (*^^*)

氣象がおかしかろうと、世界情勢が混乱しようと、私の世界は大丈夫☆

自身の内側の調和を図る、ただそれだけのことで、誰でもこんなふうに言うことができるのです
























実感

2015年07月17日 10時40分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうから かなり大荒れだったお天氣も 一段落したもよう、暴風 ・ 高潮警報は解除、雨もだいぶ落ち着き、熊野川の水位も 少しずつ下がり始めたようです。

暴雨風のあげく 氾濫危険水位を超えるところまで 川の水かさが増し、ぎりぎりセーフで収まるというのは、去年の8月半ばの台風と似た経緯ですが、大きく違ったのは 迎える私の心の状態。

自分の世界は 自分の思いが創っているという実感が 一段と深まったためかと思われます。




そして、思いが変わるというのは、波動が変わることなんですね。

ただ 言葉だけで 思いの表面を変えるというのではなく、心のあり方そのものが ちょっとでも軽くなる ・ 明るくなる、それを実感できるような変化を起こすこと。

だから、いくら素敵な光景を思い浮かべてみても、その底の氣持ちが重いままだったら、変化したことにはならない。

外側で起きていることをどうこうする必要はないけれど、自分の氣持ちを変えることについては、いささかの意思と努力がいります。

といっても 難しいことではなく、自分の氣持ちを ちょっぴりいい方に傾ける、それだけで十分♪

ちょっぴりでいいのです。

それは種火のようなもの、そこからじわじわ発展していって、やがては180度違うといっていいほどの変化が生まれます(^^)




とはいっても、最初は その 「ちょっぴり」 の変化を起こすのが 一苦労でした。

いいように考えようとすると、必ず 「そんなにうまくいくわけないでしょ」 と水をさす声がかぶさってくるんだもの

本来 いいも悪いもフィフティフィフティのはずが、あまりにもネガにクセ付けられて、悪いようにしか考えられなくなっちゃっていたのね (*^-^*)ゞ

でも、クセはしょせんクセ、多少時間はかかっても とることができます。

そして そのあとには、かつて体験したことのない 新たな境地が開けているのです




今回、暴風雨のさなかにも、「家大丈夫かな」 「車引っくり返らないかな」 などと心配することを忘れた自分がいました。

河川情報で 水かさが危険水域に達したことを知りながら、避難することもなく 予定通りに動いて、17日夕方には いつも通り仕事のため出かけていくつもりでいる自分がいました。

こみ上げる不安に負けまいと 大丈夫な場面を想像するのでなく、不安を吹っ飛ばした “さら地” に、翌日の楽しい場面を思い描いている自分がいました。




自身が変化すると、以前とそっくり同じような状況が起こり、ビフォーアフターを実感させてくれると聞いたことがあり、実際そういう場面にたびたび出会ってもいますが、今回の台風も そのひとつだったような氣がします。

不安を残しつつ、負けまいと 意識をポジに持っていこうとしているうちは、まだ二元対立のからくりの中、ほんとうの安らぎは、それを超えた 真の自分にあるんですね (*^^*)




テレビなどで情報を聞きつけた 身内や友人から 「大丈夫?」 と連絡をもらったのも、とてもうれしかったこと

心が落ち着くと、こういう思いを向けてもらえるありがたさが増すような氣がします。

それだけ氣持ちにゆとりが生まれるのでしょうね。




いろいろと氣づかせてくれた台風さん、お役目を果たして去ってゆくようです。

まだ雨はしとしと降っているけれど、空がだいぶ明るくなってきました♪

お役目どうもありがとう、これから向かう先でも あまり大きな被害は出さないでね☆

























もとからここに

2015年07月15日 14時51分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


うわさに聞いていた J ・ K・ローリング作 「ハリー ・ ポッター」 シリーズを 初めて読んだのは、ちょうど 「ハリー ・ ポッターと不死鳥の騎士団」 が出てすぐぐらいのことだったでしょうか、一巻から買い揃えていた父が 貸してくれて。

その中の三作目 「ハリー ・ ポッターとアズカバンの囚人」 から、「ディメンター」 なるものが登場します。

日本語訳では 「吸魂鬼」 となっていますが、魔法使いの牢獄アズカバンの看守で、人の喜びや幸せなどの明るい感情を吸い取って糧にする 恐ろしい存在。

彼らが近づくと、この世からすべての喜びが消え失せて、二度と幸福にはなれないような氣分に襲われます。

過去に不幸な記憶を持つものほど その影響を受けやすく、氣力を奪われ弱り果てると、最終的には魂を吸い取られて 廃人になってしまいます。

そんなディメンターを追い払うのが、「パトローナス ・ チャーム」 と呼ばれる呪文。

この呪文は、それまでの思い出の中から もっとも幸せだった場面を思い出し、強い幸福感に身を浸すことで 効き目を発揮するというもの。




初めてこの設定を知ったとき 真っ先に浮かんだのは、

出来るかぁぁぁぁそんなも~ん

作者のローリングさんは、ご自身がうつになられたときの体験から ディメンターが生まれたと話しておられるそうですが、このころまだ 半世紀近くも上書き ・ 強化し続けたネガティブ思考にがっちり囚われ、つねに不安につきまとわれていた私にも、ディメンターに遭遇したときの感じというのは リアルに想像でき、同時に そんな強烈なネガに引き込まれた状態で 輝くような幸福感を呼び覚ますというのは まず不可能なことに思われたのです。

私もまた 和歌山に移る直前は うつ病寸前だったのですが、そもそもネガ思考につかまったとき 幸福感を呼び出して振り払えるような人は、そこまで重症になるはずがない。

まあ、フィクションやおとぎ話なら もちろんなんでもありだけれど、これは私的には現実味に乏しく 共感したくてもできないなぁ。。。と思ったのを覚えています。

が。

なんと、今では 「うんうん、これできる、ありあり☆」 と言えちゃう私がいるのです♪




多くの人や本やサイトから助言をもらい、自身の心を観察するうちに、薄暗く翳りっぱなしの心も ネガに向かいやすい傾向も、いくら強固とはいえ クセ付けられたものに過ぎず、クセはあとからでも正せると思うようになりました。

加えて、神のように完璧な存在が 自身の完璧さを体験するために わざわざ制限を設けてこの世にやってきたのが、私たち人間である、という視点を受け止めるようになり、私たちを苦しめる出来事や心の動きも、体験する意味があるからこそ起きていること、避けずにしっかり味わえば 役目を終えて消えてゆくこと、を信じるようになりました。

これらを仮説に、実際のところどうなのかを あの手この手で ひたすら探求してきた日々。

答えが見えてきたのは ごく最近のことですが、初めてディメンターについて読んだときには 到底不可能と思われた、不安に駆られたり落ち込んだりしている最中に 強い幸福感を呼び覚ますこと、決してムリでも不可能でもないようです (^^)




そもそも本来の私たちは、前述のように 非の打ち所のない 完全な存在。

私たちの本質は、愛であり 喜びであり、調和、豊かさ、安らぎ。

たとえ今生では まだそれらを味わったことがないとしても、それらが存在しないことにはならないのです。

ならば、その未知の要素を どうしたら呼び起こし 体験できるのか。

それは、本来の自分の上に貼り付いている 自分ではないものを取り除けることによって (^_-)




ほんとうの自分をとことん知り 味わうために、本来の自分でない要素を まず体験する必要があったのです。

それはおよそうれしくないものだけれど、そのためにわざわざ訪れた機会なのだから、逃げずに受け止めるのがベスト。

貴秋はここで 「感覚フォーカス」 「体感フォーカス」 などと読んでいる手立てを用います。

そういう体験をしているときの からだの感覚に集中し、それ以上言葉であれこれ考えるのをやめます。

あまりにしんどいとき ・ 長時間続くときは、中断や仕切り直しもあり。

繰り返し訪れるものは、根氣よく感じ続けます。

体験されるためにやってきたものですから、十分味わい尽くせば お役御免で、感覚も それを引き起こした出来事も 去っていきます。




これに本腰入れて取り組んで、一年以上になるでしょうか。

ふと氣がついたら、自分が大きく変わっていました。

ピンチにも動じなくなり、その分直観が冴えて、思いもかけないやり方で乗り切れるようになりました♪

いやな夢を見なくなり、夢の世界が 明るさや透明感を増しました♪

前向きなアファメーションを ば~ん と打ち出しても、異議を唱える声が上がらなくなりました♪

少しずつながらも確実に変化している自分を確認し、ぐんと自信が深まりました♪

「世界は自分の思いが創っている」 が、私にとっては事実となりました♪

その上で。。。。うっかりネガ思考の真っ只中に飛び込んで 取り巻かれてしまっても、意図してほんの少し 氣分を傾け、楽しい記憶や明るいイメージにフォーカスすることで、ネガをポジに引っくり返すことができると知りました♪♪♪




新しく何かを学ぶことも 作ることも 持ってくることもいりません。

幸せな世界は、青い鳥のように もとからここにあったのです。

ただ、覆い隠していたものを取り除けただけ。

雲が消えれば、そこにはいつもお日さまがある

どんな頑固なネガ思考も もとをただせば 思い込みの幻、真の姿を隠し続けるだけの力はないんだと よぉくわかりました (^o^)




なんかだんだん ただの幸せな人を通り越して、腕利きの魔女になれそうな氣すらしてきたぞ (笑)

さあ、顔を上げ 背筋を伸ばして、人生から 暗い影を吹き払おう、エクスペクト ・ パトローナム! (≧∇≦)ノ


























やっぱり。。。やっぱり自分の世界は自分が創っている

2015年07月10日 12時29分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今回の仕事の中でもっともインパクトを感じたのは、人からされてうれしくないことを しっかり自分も他者にしていると、大きな時間差なしで ありありとわかったこと。

白浜でも、部屋に帰ってじっくりその日の出来事を吟味する中で 思い当たることは多かったのですが、今回は されたその場で即わかっちゃう(^_^;)

表現の仕方は違っても、その相手と同じ心の動きを 自分も持っている、と その場で思い知らされるのです。

あからさまに責め立てはしなくとも、内心むっとして 相手をしっかり悪者扱いしていたり、人に対してはしないことでも 物相手なら 思いっきり不満をぶつけたり。

こうなると、相手からそういう反応を引き出しているのが 自分の思い込みや世界観そのものだという実感が、いちだんと真に迫ってきます。

今目の前に あからさまに特定の場所として 他者として見えているこの世界も、実は私の世界観が こういう形として現れているだけ、ということを すんなり受け入れやすくなってきました。

その分、相手どうこうで悩むよりも、さっさと自分の思い込みやわだかまりの吟味に移れるので、余計なエネルギーの消耗が減ったようです。




さらに。

これまでは、自分のどういう心の動きが 自身の望まぬ世界を作り出していたか、その筋道がわかると、次には そんな自分をどう変えていけばいいか考え込むのが クセになっていました。

が、今にして思えば、そうやって 自分の負にフォーカスし続けることで、かえって負の世界の具象化を進めてしまっていたんですね

しっかり内観して、それが幼い頃からの思い込みでしかなかったこと、もう持ち続けたいと思わないことがはっきりしたら、今は さっさとそこから氣持ちを引っぺがして、もっと楽しいことや心和むことに 意図的に意識を移すことにしています。

そして なんといっても、これができちゃうのがすごい \(^o^)/




「自分の世界は自分の思いが創っている」 ということは、掴み方は浅かったにしても、かなり前から受け入れられていました。

問題は、その 「自分の思い」 を 思い通りにコントロールできないというところにあったのです。

プラスに考えよう、楽しいイメージを持とう、と意図すると、それをくじくように 「そんなにうまくいくわけないでしょ」 「都合よすぎるよ」 「本氣でそう信じているわけじゃないよね」 などと、悪魔のようなささやきが たちまち覆いかぶさってきて、どうしたら前向きな氣持ちを保てるようになるのかと さんざん悩んだものです。

が、感覚フォーカスを本腰入れて試し出して 一年以上、こんなこと続けてどうなるのかと思い迷ったこともたびたびでしたが、今 そのうれしい結果として、ポジティブなイメージに対し、異議を唱える声が上がらなくなってきたのです。

おかげで、負 = 自分、であったものが、それは数ある自分の一面に過ぎないと 少し引いたところから 客観的に眺められるようになり、さらにそれは 意識を外すことで 脱ぎ捨てることができるものだ、と思えるようになって、実際 楽しいことを考える ・ 実行する時間が増えたことで、古い思考回路の出番がだんだん減ってゆき、反映される現実も 徐々に変わり始めています。

今のこの仕事、これまでと同じ職種ですが、勤務内容 ・ 勤務時間 ・ 対人関係など どれをとっても これほど消耗が少ないのは初めてですもの




ずっとずっと長いこと 有望な仮説として確かめ続けてきた 「世界を変えたいなら 自身の思いを変えることから」 という話、もはや私の中では 真理として確定です (^^)v
























サッカー女子ワールドカップ決勝と 「美しき緑の星」

2015年07月09日 13時13分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


土日の仕事は 終わるのがだいたい晩の9時から9時半なので、日曜の晩はお風呂(露天風呂つき温泉)に入って寮に泊まり、翌日のお昼前に家に戻るのがお決まりになっています。

で、6日の早朝、部屋の掃除などしながら ふと点けたテレビに、サッカー女子ワールドカップ決勝戦がこれから始まるとの情報が。

そういえば、6月末日 夏越しの大祓式で訪れた本宮大社に、ワールドカップ向けの絵馬型メッセージボードが置かれてたっけ☆

そこから思い出したのが、4年前の決勝 ・ 対アメリカ戦。

ちょうど実家に行ったその日の深夜に放映されていて、父が珍しく徹夜で見ていたっけ。。。。あの頃は、母もまだ生きていたんだよね。。。。

なんて、なつかしい記憶がよみがえったりして。

その後、なんやかんやしつつ 選手入場あたりはちらりと見ましたが、テレビはそこまでにして、汗を流しに 再び温泉にGO♪




露天風呂に浸かっていて、ふと子ども時代のある疑問を思い出しました。

スポーツにはあまり関心のなかった私も 高校野球は好んで見ていましたが、ただ観戦するのではなく、どちらかを応援する形でしか見られず、それも毎回 ものすごく感情的な応援になってしまうのです。

どちらを応援するかは、当時大阪在住でしたから、片方が近畿勢ならそちらを、そうでなければ 自分や親の出身地とか なんらかの自分に近い要素が含まれる側を、という決め方。

でも、最終的に一番のひいきは大阪チームで、試合が進むと つい先日応援したばかりのチームが大阪と対戦することになり、とたんに敵側に回ってしまうということもたびたび。

子供心にも なにかヘンだな、と思ったんですね。

つい先日 好意を持って声援を送った相手が きょうはにっくき敵となる、そのご都合主義な線引きの仕方や、そもそもそんなふうに どちらかに肩入れする形でしかスポーツ観戦ができない自分を。

今はテレビ自体持ってないし、実家でも 父のお相伴以外で スポーツ番組を見たいとはまず思いませんが、それは 小学生時代からのこのクセやとまどいが いまだに尾を引いていて 心地よくないから。




と、打てば響くように あるイメージが浮かびました。

対立概念や分離感のそもそもの始まりは、ありのままの自分を まわりの大人に受け入れてもらえない、と氣づくところから。

強者である大人に ありのままの自分でいることを阻まれ、抑えつけられ、そのフラストレーションが、なんらかの対立を目の当たりにするたびに そこに投影され、そのたびに 分離感が強化されてゆく。

そんな強化を促すのに、スポーツはうってつけなんですね。

スポーツにはつねに健全なイメージがついてまわり、「ケンカはいけません」 「戦争はいけません」 という人たちも、スポーツはいけませんとは言わない。

オリンピックは平和の祭典といわれているけれど、ほんとうにそうなんだろうか。

スポーツは、個人競技であれ 団体競技であれ 「他者と競う」 形で行われます。

テレビでは、毎日のように なんらかのスポーツ番組が 娯楽として放映され、大人も子どもも好んで観戦します。

その中で、知らず知らずのうちに 自身の抑えつけられた不満や怒りを投影し、強化し続けていることって多いんじゃないだろうか。

そう見ると、自分が 闘争的な氣持ちでしか スポーツ観戦できない理由も納得がいきます。

脳の配線が未完なうちから その刷り込みは始まっていて、幼稚園の運動会から スポーツ番組の視聴にいたるまで、あらゆる機会を通して強化され続けてきた結果なのだと。




こうやって 二元対立の概念が塗り重ねられ 強固になってゆくことで、私たちは分離の道をまっしぐらに突き進んできたんじゃないかな。

もちろんそれは スポーツだけではないけれど、ポイントは、通常なら疑問視される対立姿勢も スポーツではまったく問題にされない、むしろ負けるな頑張れと後押しされること、そして、スポーツに接する機会というのが 他の分野と比べて とても多いこと。




断片的なイメージから このようなことをつらつら思ううち、ぱっとひらめいたのが、あの 「美しき緑の星」 の終盤に出てくる サッカー場のシーン。

試合場で 主人公のミラとその息子たちが 選手や審判に “切断” を施してしまい、ミラの能力で流れ出した 「美しき青きドナウ」 に合わせて、グラウンドはもはや敵味方の区別なく 選手審判入り乱れての珍妙なダンスやパフォーマンスの場に早変わり。

あのクライマックスにはさすがに引いてしまった貴秋ですが(笑)

でもあそこには、敵味方に分かれて争うスポーツを通しての分離の促進から、線引きをなくし 皆がひとつになることで 戦いや分離が終焉に向かう新たな方向が示唆されていたような氣がするのです。




以前ご紹介したマルロ・モーガン著 「ミュータント・メッセージ」 のある場面で、共に旅するアボリジニ部族の人たちに 野球について説明するためみんなで駆けっこをしようと提案した著者に、部族の人たちはこう尋ねます。



      だけど、ひとりが勝ったら残りはみんな負けるんだろう。

      それは楽しいのか?

      ゲームは楽しむためにあるんだよ。

      どうしてみんなでそんな競争をするんだろう、それで勝者が本当に強いと思うんだろう?

      その習慣はよくわからないよ。

      あなたの国ではうまくいくのか?



そのあと著者は、みんなの手を借りて 近くの枯れ木と岩で簡単なシーソーを作り、老いも若きもおおいに楽しみます。


      “ ひとりじゃできないこともある、このおもちゃもそうだ、と彼らは私に言った。

        七十代、八十代、九十代の老人たちがすっかり子供にかえり、勝者も敗者も出さず全員で楽しめるこの遊びに夢中になった。 ”






ゆっくりお湯に浸かり 部屋に戻ったら、もう試合は終わっていました。

どの局でも通常番組を放映していて サッカーの影も形もないことから 結果は察しがついたけど、すっかりいつもの穏やかな表情を取り戻したテレビの世界にどこかほっとしながら、大好きなわが家に向かいました。



















      







雨音を聞きながら

2015年07月03日 16時19分47秒 | ふと思うこと


今年の梅雨は、つくづく雨が多いこと

まだまだあちこちで見かける美しい紫陽花、この花は 「陽の花」 とある割には 晴天以上に雨がよく似合うようで、暗くなりがちなこの季節を楽しませてくれようという 天の計らいでしょうか。

合歓の花も今が盛り、雨に洗われた鮮やかな緑の中に ほわほわっとしたピンクの花が 遠くからもひときわ目立ちます。




そして、梅雨の晴れ間を重ねるごとに、ニイニイゼミやひぐらしの声が 少しずつ増えてきて。

たまのの日には、ここを先途とニイニイ鳴き立てるにぎやかな声に 来る夏への思いを馳せ、そして夕刻には 哀愁漂うキキキキ。。。という声を聞きつつ 夕焼けを眺め、今年もこの季節がやってきたんだなぁという感慨に浸ります (*^^*)

数日の短い生を謳歌する彼らに、さんさんと降り注ぐ日ざしを味わう時間が 少しでも多くありますようにと 祈らずにいられません。




仕事から戻ると、ゆるゆるにリラックスして いつにもましての~んびり過ごしてしまい、なかなかブログの更新ができませんが、どうもこのところ 世の中全体で 目に見えない変化の波が大きくなっているような氣がします。

私自身、これまでは とにかくひたすら 自分が幸せになるために、という意識でやってきましたが、これからは もっと広い視野から、まわりの人々、さらには人以外の生き物すべてとの調和を考える段階に入ったようです。

ありのままの自分でいることが、もっと大きな存在とも いい影響を及ぼし合うことにつながる、というような。

まあどのみち 日々やっていることに変りはないのですけれど




先日 6月30日には、本宮大社で 夏越の大祓式の茅の輪くぐりをしてきました (^^)

年の後半に入るにあたり、なぜか今年は 前半でついたもろもろをきちんと落とし、すっきりした氣分で7月を迎えたくなって。

どうも この6月から7月にかけて、私自身の流れも 微妙に変わりつつあるらしい。

そして、6月の仕事が その変わり目に大きな役割を果たしてくれたような氣がしています。

必要なことは こうしてちゃんと向こうから起こってくれるのだから、自力でコントロールしようとあくせくせず 流れに身を任せていればいい、そんなゆったりした氣持ちで、動き少なく静かな毎日を過ごしています。




内側のことは まだまだ十分消化できていないようで うまく言葉になりませんが、とりあえずのちょこっと近況ご報告でした

きょうも 晩のうちに寮に行って、明日の仕事に備えます。

寮にはテレビがあるから、今夜は 「サマーウォーズ」 見ようっと♪