毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

起こるに任せる

2018年01月29日 10時05分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


マインドは 「する」 存在なんですね。

思考する、行動する、記憶する、想像する、何かを 「して」 ナンボ。

何もしなくなったら存在しないも同じ、だから おとなしくしていろといわれてもできないのが マインドのサガ。

問題を生み、それを解決し、また新しい問題を生み出して・・・・と どこまでも物語を創り 演じ続けることで 存在を維持している。




湧き起こる思考や感情や記憶が まさか主のない自動反応だとは、思いもよりませんでした。

この衝撃が 以前に読んだ津留晃一さんのこんな話や、彗星探索家で臨死体験者の木内鶴彦さんの 「心臓が止まったとき 『あ、止まった』 と思った自分がいることに氣づいた」 という体験談、さらには感覚フォーカスなどを通しての自身の体験などと結びつき、「あなたがセルフ (真我) なのです」 というムージ師の言葉を受け入れるほうへと向かわせました。

ただ、マインド ≠ 私 というのは まあOK (なにせ 主体たる 「私」 がないのですから) として、私 = 真我 のほうは。。。。。

ここで 「。。。。。」 がつくのは、ひとつには 真我のイメージがあまりはっきりしないこと、自分に引き寄せるには捉えどころがないこと。

あの衝撃の発見以後も うっかりするとすぐまたマインドが自分であるという慣れ親しんだ意識にするりと戻ってしまうというのに、「いや違うでしょ、ほんとうの私はこっち」 と引き戻したい その肝心の 「こっち」 がすっとイメージできないのは困りものです。

ここで思い出したのが、マスター濱田浩朱氏のブログのこの記事。

              「ただ観る者」 がただ観ていた」


脳梗塞で病院に運ばれた濱田氏の、意識を失ってなお 「観ている者」 があったという体験談。


              “わたしという観察者がいなくても、

               なにかが観ていた。


               観るという行為を行う行為者がいない中、

               観照するなにかが確かに存在していたのだ。”


こういう特殊な状況での貴重な体験をシェアしていただけるのは、なんとありがたいことでしょう。

この記事の中の、


             “それはまるで、誰もいない映画館の

              スクリーンに映画だけが映し出されているかのようだった。”




             “またはそれは、誰一人立ち入ったことのない              
     
              静かな森の中の湖、

              その湖面に映像が映っている、そんな感じだった。


              湖面になにかが映っていることを、誰も知らない。”


こういった表現から ふと思い当たったことがありました。




感覚フォーカスで からだに起こる感覚を見つめるとき、それは極めて静かな受身ながらも 「見る」 「観察する」 という自発的な行為でした。

それまでの貴秋は、「観ている者」 のイメージに このときの 「見る」 を無意識に当てはめていたのですが、ほんとうはそれはもっと主体も意図もない 「起こす」 (行為) というより 「起こるに任せる」 (現象) とでもいうようなものなのではないかという氣がしてきたのです。

いくら受身でも 行為としての 「見る」 だと、あの位置も境界も質量もいっさいない ただあるだけの 「在る」 とどうもなじまない感があったのですが、無人の映画館のスクリーンや 誰もいない森の湖を思い浮かべると、二つがほとんど違和感なくしっくり重なるのを感じることができました。




こうして以前からの手がかりのパズル片が着々と組み合わさり、「在る」 とマインドの存在感の逆転を促して、主従交代がまたぐんと進むこととなったのです。



















“正義の味方“ の正体は

2018年01月26日 10時24分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これは貴秋特有のクセなのか 他の方にも起こることなのかわかりませんが、これは!と思う文章や動画を何度も何度もリピートして、次のページ ・ 次の場面の文やせりふが先行して思い浮かぶまでになったころ、突然氣が重くなるというか 飽きがくるというか、「もうこれ以上何度繰り返したって。。。。」というような空しい氣分に襲われるのです。

なまじ言葉としてしっかり入ったために 意識が言葉のところで止まってしまい、言葉の向こうにある肝心のメッセージが届かなくなり 感動が薄れるといった感じ。

実際は 「もうこれ以上」 どころか まだまだここからが本番なのですが、これが起きるといったんは置かざるを得ません。

こんなとき、よくしたもので すかさず次に読む ・ 見るものが登場します。

新しい出会いのこともあれば、すでに知っているものをふと思い出して再び手に取るということもありますが、この二番手のおかげで しばらくすると いったん離れた前のものに 再び新鮮な氣持ちで向き合えるようになるのです。

しかも この二つは関連する内容のことがほとんどなので、同じテーマを複数の角度から眺めることで より理解が深まります。




で、今回のムージ師の動画にも 年明け早々これが起きまして、そこに登場したのがこちらのブログ。

「HIROAKE HAMADA official blog」 (通称 「ショットバーマスター濱田浩朱のブログ」 )

このマスター濱田氏のブログには 以前から大変お世話になっています。

そもそも 感覚フォーカスを思いついたきっかけというのが、この方の前のブログで 「感情が湧くより先に からだの感覚が起こる」 という情報をいただいたこと。

また この方の記事には、ちょうど今欲しかった手がかりとか、自身の氣づきとシンクロする内容とか、なんか氣になっていたら あとからああこのことだったのかと思い当たった話などが数多くあって、何度も助けられたり励まされたりしています。

そして今回も ムージ師の動画と重なりそうなテーマがあったことをふと思い出し、久々にじっくりと過去記事から読み返させていただいたのですが。




あ! と氣づいたのは こちらの記事、「安定は幻想ってどういうこと?」 から。

内容については ぜひ本文をお読みいただきたいのですが、ここに出てくる 「コンフォートゾーン (なんとなく居心地よくて つい戻ってきてしまう領域のこと) 」 の説明に はたと思い当たったのです。

感覚フォーカスでいくら手放しても すぐまた復活するさまざまな負の感情、「在る」 にい続けようとしても たちまち湧き起こる思考や記憶、こういったものすべてが このコンフォートゾーンに引き止めようとする働きなのでは?

否定的な感情 ・ 思考 ・ 記憶、どれもこれも不快なものばかりですが、おぞましくも慣れ親しんだ “わが領域” として つねにここに引き戻そうと働くことで、えんえん居座り続けているのでは?




そこに不意に マスターの別の記事 「どれが本物のわたし!?」 の内容が重なり、 となりました。

これまでずっと 否定的な思いが湧くたびに 「ああもうまた!?」 「どうしたらこれが上がってこないようにできるんだろう?」 と悩む自分がいて、何かいい手立てはないかと探し回ってきたわけですが、その “悩み解決しようとする自分” も 否定的思考などと同じく あの主のない自動反応の産物だったのです。

自分を苦しめるものがあって、それを退けようとする “正義の味方” がいて、という悪玉対善玉のあくなき戦いそれ自体が架空の物語であり、真我を無視して空回るマインドを主体の座に据え続ける原因だったのです。

ここにきてようやっと、あのムージ師の 「現れては通り過ぎるものすべてから意識を離し、真我にい続けてください」 という言葉が納得できました。

それが敵に思えようが味方に思えようが、主のないすべての思考や感情や記憶はことごとく 意識を真我から遠ざけ 悩みや迷いを生み続けるばかりの幻の存在だったのです。























2018年01月25日 15時51分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


動画 「ムージ、DirectSeeing [後編] 目覚めの瞬間」 でのムージ師の次なる問いは、


     “それは何?

      それは見られることが出来る?”


うーん、「何?」 と言われても。。。。。見られるのは・・・・ムリです、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることもできるようなものじゃない。

問われた女性も、


     “いいえ。。。それは、見る

      でも、それ自体は見られることは出来ない”


ここで師が返す


     “ ‘見ている, はある。

      しかし、そこには ‘見るモノ, が位置している定点はない、そうじゃないか?”


という表現は 言い得て妙というか すごく的確だと感心させられました。



と ここで、


     “最後だ。あなたは、この全ての中の、どこにいる?

      あなたは誰?”


女性   “私は、まさにここにいる”


ムージ師 “うん。何として?”


この後 この女性に何が起きたかは、どうぞ動画をご覧ください。

言葉ではとても語り切れそうにありません。




貴秋には、女性と同じようなことは起こりませんでした。

この問いかけの答えとなる情報を 師の他の動画ですでに知ってしまっていたため、「ああ あれか」 とマインドが先に動いてしまい、全身に落とし込むチャンスを逃してしまったのでしょう。

が、この動画を見、さらに師の導きに連なったことには 大きな意味がありました。

これまでずっと悩みの種にしてきた 怒りだの不安だの恐れだのという現象はあっても、その主たる 「私」 はいないのだということを はっきり体感できたこと。

そして、漠然としていた “在る” に ありありとした手応えを持てるようになったこと。

それまで 主従交代の感覚は、どれほど真に迫っていようとも 意識の中のものに過ぎませんでした。

それがここへ来て ぐっと現実味を帯びてきたのです。

小我が主体の座を真我に明け渡すということは、意図してできるものではなく、形あるものと思っていた小我に実体がないと知り、同時に 実感を持てずにいた真我の存在をありありと感じるという意識の変化をもって おのずと起きてくるものらしい。




それにしても氣になるのは、主がいないのに勝手に上がってくる感情や思考です。

まるで 「不思議の国のアリス」 のチェシャ猫が消えた後に残るニヤニヤ笑いみたい。

どうしてそんなことが起きるのでしょう?

観察していると、これらは主の有無などおかまいなしで いきなり勝手に現れるようです。

こちらから見えないところに 自動反応装置でもあるかのよう。

こうなると、この “ネガ感情 ・ ネガ思考自動製造機” をどうにかしてストップさせたい氣持ちに ついつい駆られます。

なにせ こういう感情や思考に 半世紀に渡って悩まされ続けてきたんだもの。




しかし、ムージ師は言われます、「セルフ (真我) に留まってください」 と。

とてもわかりやすい例え話を用いて このように話しておられます。

感情も思考も記憶も また名前や形や個性も ことごとく現れては消えてゆくもの、過ぎ去るものは ほんとうのあなたではないのだ、と。


     “変わらないものに、意識を向けてください

      そして、徐々に、変わらないものだけが、そこにあります

      変わるものでさえ、変わらないものになります”


     “これが、賢者の極意です

      それは、上手く機能します

      思考を取り上げ続けないでください

      ただ、“ここ” にいてください”




そう、ここでまた 「自分を悩ませるものを一掃したい」 という方向にのめりこんでいたら、これまでと同じ堂々巡りの罠にはまっていたのです。

自分がこれまでどのようなことを繰り返していたのか、ムージ師の智恵の言葉に新たな角度をつけ 合わせ技でいっそうわかりやすくはっきり示してくれる新しい手がかりと、このタイミングで出会うことになりました。























ないけど 在る

2018年01月25日 09時27分47秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


実のところ、「これまで 『私』 だと思っていたものは、ほんとうの 『私』 ではない」 という話は、決して目新しいものではありません。

ムージ師の他の動画でもすでに明言されていますし、本やブログなどでも伝え聞いていたことで、何よりも自分自身 「ハートとマインドの交代」 などとさんざん語ってきたことです。

ただ、自分ではある程度体験したつもりでいたそれらは 実はまだ認識の範囲内で、実際の体験はまったくの別物であった事実を突きつけられて 愕然としたわけです

こんなことを書いてたときもあったのね。。。。。「自分の本質が “ある” で これまで自分と思ってきたものがアバターであると 抵抗なくすっきり認められるようになった」 なんて無邪氣に書いてて、たしかに当時の正直な氣持ちではあるけれど、実際の体験がこんなことになろうとは 思いもよらなかったねぇ (- -;)

不安や恐れの感覚はいつもと同じなのに、その主たる 「私」 がどこにも見当たらない・・・・鏡に映った自分の首から上が忽然と消えていたとでもいうような衝撃でしたが、動画はこれで終わりではありません。




「[後編] 目覚めの瞬間」 で、質問者の女性もやはり 恐れている者を見つけ出せないようです。

ただし、ある程度の感覚的ざわめきは残っている。。。。これは感覚フォーカスのときと同じような感じだろうな。


     “単に感覚に過ぎないものを、マインドは恐れている者であるかのように感じさせる、これが最初の確認です。

      今度は2つ目の確認、何がこれを確認していますか?”


え、「何が」?


     “身体の中に感覚だけがある そして、その感覚に ‘恐れている者, とラベルがつけられているんだね”

     “これまでの生きてきた過程において、これを恐れているのが “恐れている者” と暗に教えられているんだ

      でも、厳密に内観、またはよく調べてみると、恐れている者はどこにも見つからないと”


そういうことか。

そんなふうに思い込まされていたんだ。


     “何がこの発見をしていますか、今?”


新しい問いを出されても、衝撃にくらくらする頭をすぐには切り替えられないのですが、動画の女性はすっと答えます。


     “あぁ~、観ているモノ。ずっと観ているモノ”


とすかさず、


     “よし、次は、この観ているモノを見つけることが出来るかい?”


とムージ師。


このとき貴秋が 「観ているモノ」 だと思っていた その 「観ている」 は、今思うと 師の指し示す 「観ている」 とは少しずれていたのですが、ただ 観ている者 = 在る だということは、師の他の動画ですでに知識として得ています。

「在る」 はすでに自分の中に実感がありますから、そこに意識をフォーカス。

これまでは 捉えどころがないものだと決めつけて ハナから観察しようなんて思ってもいませんでしたから、こんなふうにしげしげと探りを入れるのは初めてのことです。




ない、何もない。

いや、「在る」 はたしかにあるんですが・・・・・って、言葉にするとわけがわからないですね

「在る」 、その存在はたしかに感じます。

ただ、それには ここからここまでというような境界がいっさいない。

決まった位置や場所もない。

形、色、大きさ、重さといった質感量感もいっさいない。

ただ 「在る」 と感じとれるだけ。

五感で捉えられるようなものじゃない。

動画の女性が言うように、「それはただのそれ」 とでもいうしかありません。

言葉の及ばない世界とは、まさにこういうものなのですね。




師の問いかけは、まだ続きます。





















 

「私」 がいない!

2018年01月24日 14時13分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きっかけは、ムージ師との出会いでした。

師などと勝手にお呼びしておりますが、直接お目にかかったわけではなく 動画サイトを通じてのご縁です。

師の動画と初めて出会ったのは 12月に入ってからのことだと思い込んでいましたが、フォルダの作成年月日を確認したら 10月でした (これまで以上に 時間観念があやふやで当てにならなくなっています) 。

で 数ある動画を片っ端から見てゆくうちに、これまでにない角度から刺激を受け 大きく意識を揺さぶられることになったのですが、とりわけ大きかったのは、漠然と同じものなのかな・・・・と思っていた “在る” と 「観察する自分」 が 完全にひとつになったこと。

さらにもうひとつ、姿形や名前 ・ 思考や感情といった五感で掴める要素が 自分そのものではないという認識が確定的になったのも、大きな進展でした。

「私の車」 「私のカメラ」 などというとき、車やカメラは私が所有するものであって、私自身ではない。

同様に、「私のからだ」 「私の名前」 「私の知識」 「私の感情」 「私の意見」 等々についても、「私の○○」 と呼べるものすべて、「私」 が所有するもの ・ 「私」 に属するもの ではあっても、私そのものではないと。

これはとてもわかりやすく すっと入ってきて、心から納得できました。



そして 決定打をくらったのが、この二つの動画。


       「ムージ、DirectSeeing[前編] 道なき道」   「ムージ、DirectSeeing[後編] 目覚めの瞬間」


サットサンというんでしょうか、なにかの集まりの場でのムージ師と質問者のやりとり、これを見ながらふと 自分も一緒に師の指示に従って 意識の中を探ってみようという氣になったのです。




この質問者の女性は、どうやら自身の抱える恐れの解消を望んでいるらしい。。。。わかるなぁ。

恐れと戦わず 手がかりにして 何が恐れているのかを探し出すというのは、自身の経験からも 大きくうなずける話です。

        “身体の中にある、恐れの力を使ってください

         そして、恐れている者を見つけることができるか、確かめてください”

こういった観察には、度重なる感覚フォーカス体験のおかげですっかり慣れています。

恐れを誘発する記憶の持ち合わせにも事欠きません。

さあ、動画の女性と一緒にやってみましょう。





たちまちのうちに 胸やのどの締め付けなどおなじみの感覚が湧き上がってきます。

からだに響くある種の感覚、ここに言葉を添えれば すぐさま感情となってほとばしり、恐怖の物語をとうとうと語り出すことでしょう。

いつもなら 言葉を封じたまま からだの感覚に焦点を合わせるところですが、今回の課題は 「恐れている者を見つける」 こと。




ええと、からだも感覚も 「私の~」 が付けられるから 「私」 に属するもので、恐れている 「私」 そのものではない、と。

それをいうなら、言葉も感情も恐れのストーリーも みな私そのものではないことになるな。

あれ?

からだ、感覚、言葉、感情、記憶、憶測、それらについての思考や意見、判断解釈などなど 「私の~」 が付くものはいくらでも見つかるけれど、肝心の 「私」 そのものはどこ?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




ええええええええええ!?

いない、どこにもいない!

からだはちゃんとここにあって、恐れの元の感覚も相変わらず響いているのに、その主はどこにもいない!!

「私」 がいない、どこにもいない!!!






そう、どれだけ探っても、「私」 を見つけることはできなかったのです。






















  

今さらながら新年のご挨拶と 内面怒涛の年越し

2018年01月24日 08時39分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


二ヶ月以上のご無沙汰、年が変わり、関東の松の内を過ぎ、関西の松の内までもとっくに過ぎてしまってのご挨拶となりましたが。

昨年一年当ブログにお越し下さった皆さま、ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m

新しい年 (ってもうひと月近く過ぎてますが) がよきものでありますように。




さて、昨秋あたりから 内的変化に一段と拍車がかかった感がありましたが、よりによって12月に 「自分」 なるものを いったん解体し じっくり眺め渡して一から造り直すみたいなことが起こり、うわべは通常営業、内側は怒涛の年越しとなりました。

内と外のギャップのなんとすごかったことよ、よくまああの状態で 大掃除だのおせち作りだのと例年どおりにやれたものだ (^_^;)

いや、これができるのがマインドというものなのだと 今回思い知らされたわけですが。




昨年夏だったか秋だったかに 「パーフェクト ・ センス」 という映画を知りました。

人々が 次第に五感を失ってゆくというお話だそうです。。。。ってざっくりし過ぎでしょ

もっと詳しく知りたいと思われる方は こちらをどうぞ。 → 「映画 『パーフェクト ・ センス』 のネタバレあらすじ結末」  ※ネタバレあり ご注意ください。

映画そのものは観ていないのですが、この情報をきっかけに あれこれ思いが巡りました。




「パーフェクト ・ センス」 では 嗅覚 → 味覚 → 聴覚 → 視覚 の順に失ったところで話が終ったようだけれど、このあと触覚までなくなったら 人類はおしまいだろうなぁ。

五感をすべて絶たれるってどんな感じなんだろう。

触覚が残っていれば まだ他とのつながりを感じることはできるだろうけれど、それも失われたら たったひとり真っ暗闇に閉じ込められたような氣分だろうか。




ん? 待てよ。

そもそも私たちの本質は 五感を超えたところにあるんだよね。

私たちはもともと形を超えた内的存在であり、そのおおもとの本質を思い出そうというのが、今自分が没頭していることじゃないか。

五感を失うとは、五感の情報に惑わされることなく その本質にダイレクトに触れるチャンスでもあるのでは?

暗闇に閉じ込められるというのは 五感の側から見ての話、五感を断たれることで逆に見えてくるものもあるんじゃないかな。




私たちは 五感を通して 自分と自分でないものの境目から 「これが私」 と認識しているわけですが、じゃあ 五感がすべて感じ取れなくなったら 「私」 も消えてなくなるのでしょうか?

いや、まだ残っています、“在る” という感覚が。

五感とは比べ物にならないほどしんと静かで 主張のない感覚ですが、決して消すことも切り離すこともできないもの。




この “在る”、おととしあたりから 常に意識のどこかにひっそりまつわりついているようでしたが、昨年12月 これが一氣にクローズアップされることになったのです。