毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

厳しくも怖くもないよ、これからは “神” と仲良くなる時代

2023年02月28日 12時24分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
“主よ、願わくば、変えられないことを従容として受け容れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵をお与えください” という 「従容の祈り」 ですが、これは ラインホルド ・ ニーバーというアメリカの神学者の作だそうですね。

ウィキペディアに載っていた原文と日本語訳を見ると、これは 祈り全文 (「平静の祈り」 「静穏の祈り」 などと呼ばれているそう) の最初の三行ということらしい。

ちょっと長いですが、ウィキの日本語訳をそのままコピペさせていただきます。



     神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
     変えるべきものを変える勇気を、
     そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

     一日一日を生き、
     この時をつねに喜びをもって受け入れ、
     困難は平穏への道として受け入れさせてください。

     これまでの私の考え方を捨て、
     イエス・キリストがされたように、
     この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

     あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
     そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

     アーメン



貴秋は無宗教で キリスト教のことはよくわかりませんが、それでもこの祈りの内容には 素直にうなずけます。

形ある世界は 形が変化することで成り立っていますから、形のほうから何かを変えようと思ったら、できることはたくさんある。

でも 何を成し遂げようとも あとはエントロピー増大の法則で崩れて消えてゆくだけだし、二項対立世界の性質上、成功の可能性の裏にはつねに失敗の可能性がついて回ります。

でも、真の変化は (形を生み出すおおもとである) 形を持たない領域から起こしていくものなので、そこでできるのは 真の自分でないものを手放してゆくことだけ。

真実でないものが消えれば、その向こうに最初からあった真の答え、真の完成形が見えてきます。

ここまでで、最初の三行はすでに成されたといえるでしょう。

そして それができれば、後に続く 「一日一日を喜びと共に生きる」 「困難は平穏への道として受け入れる」 「この罪深い世界をそのままに受け入れる」 というのは、ことさら努力せずとも おのずとできるようになるものなんですね。




無宗教で どんな宗教についても詳しく知らない身で大それた見方かもしれませんが、「行き」 の時代に根付いた宗教概念には、「かえり」 の道では手放すことになる二つの点があるように思います。

まずは、「~が得られますように」 「~が成功しますように」 などと 形としての結果を求める祈りのスタイル。

特定の形を望めば望むほど、それが実現しない可能性にもつきまとわれることになりますが、「~を得られる ・ ~が成功する自分になる」 と 自身の内を変えるのは 自分の意志でできることだし、それができれば 結果はあとからついてくるので、望む形が整うことを神に願う必要はないわけです。

助けを求めるとすれば、自分に合った手放しの方法を知りたいときや、「言葉を引っ込めただ感じる」 ことに集中しづらいときかな。

言葉に振り回されて感覚フォーカスがうまくいかないときなど、貴秋もよく 「集中できないよ~、助けて~、力貸して~」 なんて心の内で叫んでたりします (笑)

それ以外でなにか言いたくなるとすれば、望みが叶ったときや幸せなときに自然と口をついて出る 「ありがとう」 ぐらいかな。

「神社やお寺にお参りするのは、願うのではなくお礼をいうためだ」 という話をちょくちょく聞きますが、あれはこういうことなんじゃないかなと思っています。




そしてもうひとつは、神という存在を 手の届かない高みに置く見方。

「内在神」 などという言い方もあるようですが、それを神と呼ぼうが呼ぶまいが、私たち “個” の意図をはるかに超えた “源” の力というのは、私たちの外にも内にも遍在しているんですね。

そして、海からすくい取った海水が もとの海と同じ成分を持つように、源から分け出された私たちも 源と同じ性質を持っている。

「行き」 の道で 高貴な神と卑しき人間が明確に区別されたのは、そこを忘れていたからで、「かえり」 の道では その線引きがゼロに戻され、人も神と同じ性質や力を持つ神の一部であることを思い出すときがやってきます。

五感では掴めずとも、自分の内に 暖かく親しみ深く頼もしい芯のようなものを そこはかとなく感じ取れるようになる。

そのとき、神とは はるかな高みから見下ろす荘厳でいかめしい存在ではなく、つねに傍らに寄り添い 見守り 助言し 励ましてくれる頼もしい友のようなものであったことが、誰から教わるのでもなく 自然とわかることでしょう。




貴秋愛読の書、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の続編のタイトルは 「神との友情」 ですが、いまはまさに、厳しいジャッジを下す神から 友情を築けるほど親しく信頼できる神へと 大きくイメージが移り変わる時代。

自分の内に神なる存在を感じるとき、困難は困難でなくなり、不可能は可能へと転じる、それが自分軸で生きるすばらしさです。
















自分の感覚を信じればいい、世界はあとからついてくる

2023年02月20日 19時51分37秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近つくづく思います、私たちの人生を決定しているのは、理性や理屈よりも 感覚なのだと。

初めて自転車に乗れたときのことを思い出してみましょう。

まず、すでに乗れる人から 「こんなふうに練習するといいよ」 「ここに氣をつけるといいよ」 などの 情報をもらい (ときには付き添って手を貸してくれたり実地にやってみせてくれたりもする)、参考にしてトライしてみると、いくどか失敗したあとで ふとうまくいくことがあります。

それはたまたまかもしれませんが、でも そのときの力の入れ加減やバランスの取り方などの感覚を記憶し再現できるようになると、たまたまじゃなく いつでも乗れるようになるのです。

他のことだってみんな同じで、うまくできたときの身の内の感覚を繰り返し呼び覚ませるようになったとき、それはもう自分の身についているということ。

イメージトレーニングというのはまさにそこを活かしたトレーニングで、実際にからだを動かさなくても 動きや感覚をイメージするだけでトレーニングになるのは、先に感覚ありきで 行動は感覚に従ってあとからついてくるものだからです。

逆に 初めてで感覚イメージがまったく湧かない行動を取るのは不安だし、どう動けばいいのかもピンときません。

見よう見まねでも とにかく一度やってみて おおよその感じを掴み、そこから修正を加えてゆくことで、成功という結果とそのときの感覚が結びついて 自分のものになる。

ここががっちりつながってしまえば、あとはいちいち考えなくても からだが勝手に動いてくれるようになり、こうなれば失敗する方がかえって難しいぐらいですね。

行動だけでなく 感情の動きについても、これと同じことが言えます。




私たちの心が安らかで 世界が美しく見えているときは、内側の感覚も穏やかで満ち足りており、そこに不快感が湧き起こるときは、内なる調和が崩れているというお知らせです。

外の世界に重きを置いていたころは、不快の原因となる事象を取り除くことばかりに懸命になっていましたが、いまは 不快感そのものにフォーカスすることで 調和を取り戻すことができ、結果外側の事象も変化したり消えたりして 問題ではなくなってゆくのだとわかります。

つまり、いやなことが起きたから不快になるのではなく、不快な感覚のほうが先にあって 不快な現実を創るのだということ。

だから注視すべきは、いま外で何が起きているかではなく、自分が内側で何を感じているかなんですね。




貴秋は 二十年近くにわたる感覚フォーカスの積み重ねを通じて、「からだの感覚」 と 「感情、思い」 の結びつきの強さを思い知らされました。

ふとしたきっかけで記憶のスイッチが入ると、その記憶に応じた感覚が瞬時によみがえり、間髪を入れず その感覚と結びついた場面やそれにまつわる感情が湧き上がる。

それが不快なものであればあるほど、感覚はそのままで 場面と感情だけを心地いいものに入れ替えようとしても、激しい抵抗が起こり うまくいきません。

からだの不快感を感じ切って初めて抵抗が弱まり、もっといい光景を思い描くことができるようになります。

抵抗とは、具現化させようとする状況の波長と そのときからだに感じている感覚の波長とがかけ離れているときに起きる不協和音のようなものらしく、ネガ感覚が薄れれば その隔たりも小さくなるのでしょう、それで抵抗が起きにくくなるようです。

また 感情のバランスが著しくネガに傾いていたころは、反対に心地よい感覚や感情が不快に取って代わられるのはあっという間で、長いこと 「自分は否定的にしか物事を捉えられないんだ」 と思い込んでいましたが、溜め込んだネガ感情や感覚をこつこつ手放してゆくうちに、快の感覚で日常を過ごすほうが普通になり、なにかの弾みで不快感に割り込まれても 短時間で元に戻せるようになりました。





人生相談などで 迷える人々へのアドバイスとして、「嫌いな人に時間を割くなんてもったいない、そういう人は意識から追いやって、好きな人のことをこそ考えるようにしましょう」 とか 「できないと思うからできなくなるのです、そういう思い込みはもうやめましょう」 というような文言をよく見聞きします。

内容はまったくそのとおりなのですが、これは形や行動の側からのアドバイスで、感覚については言及されていないので、従おうとすると 抵抗の感覚が上がってきてしまう人も多いことでしょう。

かすかなものなら押し切ることもできるかもしれませんが、長年に渡って上塗りを重ねてきた強力なバグとなると 抵抗も半端なく、アドバイス通りにできなくて かえって自信をなくすことになりかねません。

いつも申し上げるように、意識内で潜在意識が占める割合は 顕在意識よりずっと大きいので、形のほうからだけのアプローチというのは、潜在意識に潜むバグに対しては 多勢に無勢であまり効き目がないのです。

ですから、ほんとうに自分を変えようと思うなら、まずバグと向き合い、そこから派生する感覚が薄れるに任せることをお勧めします。

そうなれば 他者からのアドバイスも実践しやすくなるし、それ以上に 自身の内側からもっとも確かな源の知恵をどんどん引き寄せることができるようになるので、自分軸が育って 現実世界が次第に好転し、大きな自信につながります。

もともと自分のものではない観念から生まれたバグの影響力が弱まれば、個の自分が源からどれほどサポートされ導かれているかを身に沁みて感じるでしょう。

あとは 自分の感覚を信じて従えばいい、形ある世界はあとから必ずついてきます。
















「二」 が 「三」 になるとき ~ 物質世界での体験を存分に楽しむために

2023年02月18日 12時20分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事で、「何かを分け出すために引いた線が消えて、分離したものが分け出す前の状態に戻るのが 統合」 と書きました。

「分離」 とは、物質世界における二項対立の性質があってこそできることなんですね。

これとこれ以外、こことここ以外、と 好みに照らしてどこかに線を引くから、選ぶ ・ 分け出すという行為が成立する。

その引いた線が消えるとき、知覚することはできませんが、私たちの意識は 一瞬であれ、言葉の及ばない領域に飛んでいます。

好みとは、言葉があって初めて持てるものですから。

だから、言葉を持たない幼い子どもは 選り好みができず、寄ってくる情報すべてを取り込んでしまい、のちのち苦の種になるような情報さえ自分のものにしてしまう。

そういうネガティブな観念は、いつもお伝えしているとおり そこから生じる感情やからだの感覚と向き合ってしっかり感じ切れば、薄れてやがて消えていきます。

それを何度も繰り返していると、それまでなら反応せずにおれなかったネガな情報や出来事に出くわしても、以前のような不快な感情が湧かなくなりますが、それは その情報や出来事を正誤 ・ 善し悪しなどと分ける線引きが もはや存在せず、ただ 起きていることそのもののエネルギーを感じるだけだから。

これが、意識の内での統合ということです。




知覚できる顕在意識オンリーで生きているときは、物事を 相反する二面のどちらかからしか見ることができませんが、そこに知覚できない潜在意識が加わると、その二面性を超えて 「判断解釈抜きでただ見つめる」 新たな視点が備わります。

いや、正しくは 以前から備わっているのに忘れていたものを思い出すだけですが。

宗教的にも三位一体などという言葉がありますが、それまで二つだった要素が三つになったとき、私たちはもっともバランスの取れた意識状態で、この形ある世界でのさまざまな体験をじっくり味わえるようになります。

三位一体の 「三」 は 魂 ・ 肉体 ・ 精神を表すそうですが、形ある世界に属する肉体と精神に 形なき領域に属する魂が加わることで、私たちは個の視点と俯瞰の視点を行き来しながら、人生をただ体験するばかりでなく、望み通りの人生を意図して創造することができる。

過去 ・ 現在 ・ 未来という三つの時制にしても、過去と未来は 頭の中だけの産物ですが、そこに現在、すなわち “いま ・ ここに確かに在る” という感覚が加わることで、私たちは 頭の中で答えの出ない問題に悩まされるだけでなく、源の領域にアクセスしていのちに根ざした答えを引き出すこともできる存在として、人生物語の体験者と作者の両面から 物質世界を思う存分楽しむことができるのです。




では、貴秋が最近よく持ち出す 「いまの一番」 はどうかというと、これは 好き嫌いの 「好き」 とは異なるものです。

好き嫌いの 「好き」 は 「嫌い」 あっての 「好き」 ですから、好きなものに手を伸ばせば伸ばすほど 嫌いなものもバッチリついてきますが、「いまの一番」 は 「あれではない これ」 のような比較対象抜きの 「好き」 一択で、この二つは 同じ 「好き」 という言葉で表せても、中身はまったくの別物。

線引きで分け出された 「好き」 は 「~だから好き」 のように条件つきだから、条件が変わればあっさり 「嫌い」 や 「興味なし」 に変わってしまうし、また 手にしているあいだも 失う恐れが絶えずついて回ります。

が 「いまの一番」 は、対象となる物や事のことではないんですね。

いまこの瞬間 もっとも氣分がいいときの感覚を味わわせてくれるのが、「いまの一番」 です。

だから、いましていることに それが感じられなくなったら、次に移るだけ。

持っているものやしていることは変わっても、一番いい氣分でいられることには変わりがない、それが 「いまの一番」 なのです。




せっかくやって来た体験世界ですから、「好き」 だけでなく 「嫌い」 も存分に味わったらいい、でも 「好き」 と 「嫌い」 の往復に疲れて抜け出したくなったら、これまで勘定に入れてこなかった 五感や言葉を超えた意識領域という第三の道があることを思い出すときです。

自分のものではない観念や価値観に捕われているあいだは、何が自分にとっての 「好き」 や 「一番」 なのかも、最も心地いい感覚がどのようなものかも知ることはできませんが、それらのバグを手放すことで 三つ目の道が開け、「二」 が 「三」 になって 意識が安定します。

二項対立の世界に 形なき源が加わった “三位一体” こそ、この物質世界をもっとも楽しめる意識のありようだと 貴秋は思っています。

















個人が心の平和を取り戻すことが 世界平和につながるわけ

2023年02月14日 11時33分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回の記事で、バグを手放すうちに 「イヤなこと悪いことはもう起きない」 と思うことができたと書きましたが、今回は ではなぜそうなるのかについて。

もちろん 潜在意識のバグを手放すことでそうなるわけですが、もう少し詳しく言うと、バグが消えることで 特定の線引きへの執着も消えるのです。




私たちは、呼吸をするように 「何かを分け出しては再びゼロに戻す」 ことの繰り返しで 人生を紡いでいると、以前書きました。

この 「ゼロに戻す」 ことをできなくさせるのが、「特定の線引きへの執着」 です。

この執着は、自分に実際利益がある場合と、利益があると思い込んでいる場合の二通りから起こります。

前者は例えば 「長がつく地位の者ほど給与も高い」 とか 「女性より男性の方がいいポジションにつける」 とか。

こういうルールを崩すのがどれほど難しいかは、容易に想像できますよね。

では後者はといえば、特定の相手に偏見や そこから生じる憎悪などを持つ場合。

「どこそこの誰それは」 「○○国のヤツらは」 「△△チームのヤツらは」 などと 不快感を抑え切れない相手を非難するのは、鬱屈した氣分を紛らわせて心地よく感じられるし、また “敵” を特定することで グループの結束が図れるなどということもあるため、一見利益があるように見えますが、それにこだわると 感情に振り回されて 冷静な判断がつかないままどこまでも争い続けることになり、憎しみがエスカレートすれば 命に関わる事態にもなりかねません。

戦争紛争などはこの典型で、社会的経済的事情等でストレスの溜まっているときに ちょっとしたきっかけを与えられれば、私たちは 「なにかおかしい、争いに加わらず 利益だけを得ている者がいるぞ」 などと冷静に見極める目を忘れ、些細な刺激にも敏感に反応して 無意味な戦いに突入し、自身や大切な人の命を危険にさらすようになってしまいます。

誰かを激しく嫌ったり憎んだりしているときは、相手にばかり意識が向かい、自分を大切にする氣持ちも 自分軸で生きることも すっかり忘れてしまうんですね。




そんな 「特定の線引き」 にまつわる怒りや恐れや憎しみなどの感情を見つめ続けると、まず 感情が湧き起こるきっかけとなるある種のからだの感覚が薄れていきます。

おかげで スイッチが押されてから感情が吹き出すまでに わずかな間が空くようになり、「待てよ、これはほんとうに自分がしたいことだろうか?」 と考える余裕が生まれます。

加えて、外にばかり向けていた目を 自身の内に向けることで 引きの視点から物事の全体を見渡せるようになるため、激昂するに任せて争いに飛び込む代わりに、自分軸で事態を吟味できるように 次第になっていきます。

ネガ感情の手放しが進むと、物事の部分部分に反応するのでなく 全体の本質を瞬時に見て取れるようになり、また ネガ感情自体が認知の歪みから出たものであることも自覚できるので、自分のためにならない選択をしなくなり、「イヤなこと悪いことが起こらなくなる」 のです。




「分離」 とは分け出すことであり、分け出すためには一定の線引きが必要です。

その線引きを無効にして、分け出す前の状態に戻るのが 「統合」 。

紅白戦のために敵味方に分かれたクラスメートが、試合が終われば元の仲良しに戻るようなもの、紅白に分かれて競った記憶は残っても、感情的対立はもはや存在しません。

実際貴秋も、以前は夜も眠れないほど悩み抜いた失敗や揉め事でも、とことん感覚フォーカスした今は 「そういえばあんなこともあったっけ」 と思い出すことはあっても、そこに不快な感情が乗ることはなくなりました。

これって、時間経過によっても起こることなんですね。

歳をとってから 「昔こんなことがあって、あのときはえらく腹を立てたものだよなぁ」 なんて懐かしくさえなったりすることってありますものね。

時間的に出来事との距離をとることでも、引きの視点は獲得できます。

ただ、それでは遅すぎることも多いのです。

たった今おおぜいの命が失われている戦争や、日常に支障をきたすほど辛い記憶など、ほんやり待っているだけではどうにもならないこともある。

そういうときは、意図して自身の感情と向き合い、意識の中の境界線を消して、起きてしまった事態や負の記憶の収拾を図ることです。




ただし、たったいま血の吹き出るような生傷を抱えた人に これをやれとは言えません。

それは 脚を折ったばかりの人に すぐさまリハビリをやれというようなもの、そういうときは時の働きに身をゆだねて 傷の疼きが収まるのを待つほうが先です。

ただ、いつかは必ず 「そろそろできそうだな」 と感じるときがやってくる、そうなったら 一人でも 信頼できる誰かに支えられてでもいいから、勇氣を出して 内なる負と向き合うことをお勧めします。

そして、傷ついた人の傍らで、またメディアなどを通じて事態を見聞きし 心を痛めている人こそ、負の感情を手放すことで 状況を好転させるチャンスを握っている可能性が大です。

健康な細胞が増えれば増えるほど 個人の健康度も増すように、意識の統合に成功した人が増えれば増えるほど、グループ全体の統合も進み、悩みや争いを収めて 安らかな日常へと向かいやすくなるのです。

世界平和だって例外ではない、「私一人に何ができる?」 と悩むのをやめ、まず一人一人が心の平和を取り戻すことが、世界全体の平和に必ずつながります。
















その悩みも苦しみも 自分の手で終わりにできる ~ 内からの統合とは

2023年02月07日 18時48分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前々回の記事で 「数ある可能性の中から 具体的な物や行為を選び出すのが分離、それを消費 ・ 行動し終えて記憶に変わるのが統合」 と書きました。

これは外側の世界での目に見える分離と統合ですが、もうひとつ 人の内側での分離と統合というものもあるんですね。

人としての本質から離れるのが分離で、そこから再び本質に戻るのが統合。

貴秋は、人生とは 「行ってかえる (帰る、返る、還る) の物語」 だと思っています。

息を吸っては吐くように、自身の本質から離れては戻る、行ってはかえる、これを繰り返せば繰り返すほど、コントラスト効果を通して自身のすばらしさをより深く知ることができるのだと。

私たちの本質が外ではなく内にあることを思えば、内なる 「行ってかえる」 こそ、私たちがこの物質世界でもっとも体験したかったことだといっていいでしょう。




内側の分離については、何ひとつ努力する必要はありません。

生まれ落ちた直後から 周囲の大人と意識を共有することで発生するバグ (本来自分のものではないはずの否定的な観念や価値観) が、全部やってくれるからです。

他者由来の観念や価値観が 知覚できない意識領域に入り込むことで、私たちは 「本質的な自分」 と 「後付けの観念に支配される自分」 に分裂して 本質を見失ったまま生きることになり、さまざまな歪みが生じました。

なぜか望まないことが起きる、なぜか思うように生きられない、そんな自分に自信が持てない。。。のような悩みを抱えて生きることになったわけです。

が、それらは本来の自分でないものをこそ体験してみたいと願った魂が仕組んだことであり、一度味わえば十分で、そこでおしまいになるはずだったのです。

魂は 私たちをいたずらに苦しめたかったわけではなく、否定的体験という 「行き」 の道と それを終わらせ本来の自分に戻る 「かえり」 の道をワンセットにして、ビフォーアフターの対照効果で 真の自分のすばらしさをより深くリアルに知りたかっただけなのですから。




私たちの世界には、「エントロピー増大の法則」 というものがあります。

「物事は 放っておくと乱雑 ・ 無秩序 ・ 複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」 という法則で、物品が劣化する、熱した物が冷める、整えられた場が散らかるなどという現象は この法則に基づく変化です。

それなら 作られた思い込みだって崩れていきそうなものですが、そうならないのは バグが意識の知覚できない領域に入り込んでいるせい。

まだ言葉を使えない幼少期に入り込んだ観念は、明確な形を持たない曖昧な存在として意識の奥に隠れてしまっており、私たちは 自分の中にそんな厄介なものがあることに氣づきません。

ゆえに バグにコントロールされていることにも氣づかぬまま、バグに沿ったネガ体験をすることになる。

魂の意図としては、一度だけ体験して終われば それでOKだったのです。

が、私たち人間には不快なことを避けようとする防衛本能とでもいうようなものが備わっているため、ネガと向き合うよりも 目を背けたい衝動のほうが強く、起きた出来事を直視せぬまま 自己正当化の物語やあきらめの物語を創るほうにいってしまう。

こうなると、意識の表層はそれで取り繕えても その奥のバグはそっくり残ったまま、さらにその奥にはすべてを見通す本質の目も存在するため、矛盾した認識がきしみを起こして 落ち着かないものを感じさせ、それを手放させるため 再び潜在意識が その不快感を不快な体験に変換し・・・の繰り返しとなります。

いやなことが度重なれば、人は萎縮して自信を失い、自分が頼りない存在に思えてくるもの。

なので、この先また悪いことが起こらぬようにと 先回りして準備し身構える、それが未来への不安や そんな境遇に自分を追い込んだものへの怒りとなって、さらなる負の再創造を促す原動力となる、という悪循環が起きるわけです。

つまり、エントロピーの法則が働かないのではなく、ネガ体験が終わる端から 新たなネガ体験を生むエネルギーが生まれ、バグを手放すどころか かえって強化してしまっている、ということ。




貴秋もまさにこのからくりで、不快な体験を数十年にわたり これでもかというぐらい重ねてきました。

が、感覚フォーカスという手立てを得たおかげで、氣づいたら いつのまにか いやなことが起きなくなっていました。

「しばらく起きてないけど、またいつ起きるかわからないよ」 という内心の懐疑的な声にも さらなるフォーカスで対応するうちに だんだんわかってきたのです、負の感情を実際の出来事として味わって終わらせることもできれば、ただの感情のうちに味わって 形になる前に終わらせることもできるのだと。

この氣づきに力を得て、これまでになく積極的に どんな小さなネガも逃さずフォーカスするようになったおかげで、いまでは 魂がイベントとして設定したものを除けば、もう自分の人生にいやなこと怖いことは起こらないと思えるまでになりました。

いまの貴秋は 自信を持って言えます、どんな悩みも苦しみも 自分の手できっぱり終わらせることができると。

外の世界ばかり見て 否定的出来事を人のせい環境のせいにしたくなる氣持ちをいったん保留にして、自分の内に目を向け 内なる闇と向き合えば、私たちはひとりの例外もなく 自分の世界を自分の手で変えることができるのです。
















「戦いから降りて平和が訪れる」 がここからのトレンド

2023年02月04日 14時57分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事を始めこれまでにもたびたび書いてきたことですが、疑問や反感を覚えた人物と敵対し その相手をどれほど責めても攻撃しても、決して問題は解決しません。

「戦いに勝てば平和が訪れる」 というのは 「行き」 の道で生じた幻想に過ぎず、真に問題を終わらせ 平和を迎えたいなら、まず敵対したくなる氣持ちを手放すことです。

そして 敵対する氣持ちを手放すためには、相手ではなく 相手への反感や恨み憎しみを持たずにいられない自分と向き合い、負の感情を手放すことです。

この点については 毎回躊躇なくきっぱり断言していますが、それは自身の体験から。

「私の人生は私のもの、とことさら言い立てる必要もない清々しさ」 で “世話焼き母さん” と名付けたバグを手放したことを書いた際には省きましたが、実は バグそのものよりも そんなバグに人生を曲げられたことへの恨みつらみを手放す方がはるかに大変であり、そこから得た氣づきもまた大きかったので す。




やたら人の世話を焼きたくなる性分が 潜在意識に刷り込まれたバグだと氣づき、相手にうるさがられたときの腹立ちや 精一杯打ち込んでいるのになぜか感じる空しさなどにひたすらフォーカスするうち、それが自分が好きで選んだ行為ではなく、氣づかぬうちに受け継がされていただけの自動反応だったことが はっきり見えてきました。

そして次に起きたのは解放ではなく、「長年だまされていいように使われてきた」 ことへのすさまじい怒りだったのです。

“割れ鍋に綴じ蓋的人間力学” とでもいうのか、こういう世話焼き人間のそばには 世話を焼かれたがる人間がちゃんとセットになっているものらしく、貴秋の実家では 母と貴秋が世話焼き組で 父と弟が受け取り組という組み合わせになっており、母亡きあとは 当然のように貴秋が その役割の一手引き受け元を期待されている (ただし二人には期待している自覚はない) のがありありと見えちゃったんですね。

かつての貴秋が母に対してそうだったように、受け取る側からすれば 向こうが勝手にせっせと手を出してくるのですから、都合のいいところだけ受け取って あとは迷惑そうに眉をしかめていればいいだけですが、シャカリキに頑張って家族を守っているつもりなのに 当然のこととしか受け取られず、うざがられることもしょっちゅうという割の悪いポジションが、自分のあずかり知らぬところで押しつけられただけのものだったという氣づきは、長年の抑圧で すでに限界まで溜め込まれた怒りに火をつけるのに十分でした。

この怒りや恨みの氣持ちを手放すプロセスが、とにかくもうメチャクチャキツかった。

髪が逆立ち 目もくらむほどの怒りに身を焼かれながらのフォーカスを 数年がかりで繰り返すのがどれほど大変だったか・・・いまちょっと思い出すだけでも からだの感覚がおかしくなります。

でもまあ あまり詳しく描写してせっかくお読み下さっている方にドン引かれるのもなんですから、このあたりはさらっと通り過ぎることにしましょう。




で、手放しても手放しても執拗に戻ってくる (というか、上塗りを重ねた分 剥がす層も多かったというだけのことなのですが) 怒りや怨嗟と取り組み続けるうちに、ふと見えてきたのです、「人をだまして都合よく利用したヤツがいる」 というのも、結局は貴秋自身が作った物語に過ぎないということが。

父や弟は 別に貴秋をだましたわけではなく、自身のニーズにたまたま合った貴秋の行為を棚ぼた的に受け入れ、それ以外の部分には背を向けただけのこと、貴秋をだましたのはバグであり、苦しめていたのは 「二人に都合よく利用された」 と解釈したところから生じた犠牲者の物語だったのだという氣づきが、向こうからひょいとやってきたのでした。

で そこからさらに起きたのが、「された分だけどう返してやろう」 と考え続けるのにエネルギーと時間を割く代わりに、自分がいま一番したいこと ・ 楽しいことに振り向けるようになったという変化。

このビフォーアフターからよくわかりました、恨みつらみは 「取られた分を取り返さずにおくものか」 という執着を生み、意識が恨む相手に向き続けて 波動の低い世界に自身を留めおくが、いったん負の感情から解き放たれれば 意識も自然と氣分の上がるほうに移り、自身の波動も上がって、結果低波動の世界は視界から消え去るのだと。

戦争紛争の類いであれ環境汚染であれ不況であれ、自分の権利が不当に奪われているという怒りから 抗議行動を起こせば、その不当な世界に常時意識が貼りつき 共振共鳴して、望まぬ共同創造を起こしてしまいます。

不当な状況への怒りや恨みや嘆きといった感情は当然ではありますが、それらが湧くおおもとのカラクリは 実は自身の内にあり、それらと向き合うことで解けていきます。

そうなって初めて 引きの視点から全体を見渡し、自身の個性や強みを最大限に活かして 事態の収拾に向けて動き出せるようになる、そのとき私たちは 争いの世界から喜びの世界へとパラレル移行を遂げており、そこには支配や搾取などの不条理がまかり通るエネルギーは存在しません。




コロナ騒ぎにウクライナ侵攻、異常氣象に経済不況に食糧や資源の問題に・・・と カタストロフの様相を呈しているいまこそ、胸に迫る不安や恐れを逆手に取り、内なるバグを一掃して 世界を変える大チャンス。

「戦いに勝てば平和が訪れる」 はもはや昔の物語、「戦いから降りて平和が訪れる」 がここからのトレンド、意識を変えれば地獄も天国に変わる、と体験を糧にこれからも公言して回る所存です。