毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

作ってみた!

2016年03月31日 08時41分11秒 | 紡ぐ暮らし


父の朝食の “三種の神器” は、納豆、きな粉、ヨーグルト。

っていうか、これでほぼ全部 (笑)

納豆&卵かけご飯と きな粉入り牛乳と ジャムまたはフルーツソースときどきあんこ添えヨーグルト、が 毎朝の定番メニューなのです。

以前は味噌汁もあって その具材で変化をつけていましたが、今はそれもいらんということになり、朝食については私の出る幕なし。

私は基本朝食いらないヒトなので、ご飯の支度が二食分でいいことになって大助かり




ただひとつ、少々面倒なのがヨーグルト。

朝食の支度はいらないけれど、この三品を切らさずにおくのは 買い物係の使命、納豆は冷凍できるからまとめ買い、きな粉も問題なしですが、ヨーグルトは賞味期限がある (しかも短い) ので そうそう買い置きもできず、かといって ヨーグルトだけのために買い物に行くというのも煩わしい。

で 不意に思いついたのです、そうだ、自分で作っちゃえばいい




作るといっても、市販のヨーグルトから種菌をもらって培養するだけ、レシピ検索すれば いろいろな方法が山ほど出てきます。

なるべく手間のかからないやり方をと あれこれ比較検討し、とりあえず 消毒した空きビンに ヨーグルト80gと牛乳500cc (冷たいままでOK) を入れてよく混ぜ、大き目の鍋に湯を沸かして 鍋底に細かい泡が現れたら火を止め (これでだいたい50~60度ぐらいになるのだそうです) 、ビンを入れて 一晩放置 というのを試してみました。

ここで 他のレシピからのアイデアを流用し、買い物用にいつも車に積んでいる発砲スチロール箱を持ってきて、鍋ごと入れて 保温力を高めます。




で、翌朝。

ドキドキワクワクしながら 箱を開け、ビンの中をのぞいてみたら、



バッチリ固まってた~、大成功 \(^o^)/

少しすくってお味見したら ちゃ~んとヨーグルトの味、貴秋朝から大はしゃぎ

これだから 台所仕事はやめられないのです




そのうち納豆も作ってたりして






ちなみに、ヨーグルトにあんこと聞いて驚かれた方、私も最初半信半疑だったけれど、これけっこういけますよ☆

よろしかったらお試しくださいね (⌒∇⌒)ノ





















境界線を消し去るとき

2016年03月30日 17時39分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


氣になることがあると、すとんと得心がいくところまで突き詰めずにいられない。。。。。これはもう、貴秋の生まれつきの習性だとでも思うよりほかありません (*^▽^*)ゞ

で、今回は 人工知能 ・ AIのことが 今なお頭を離れないのですが、実のところ 私が氣になっているのは、AIそのものよりも、それを生み出す元となった 知能 ・ 論理 ・ マインド偏重傾向が いまだもてはやされていることのほうです。



私個人の 「行ってかえる」 の 「行き」 の道のり は、ひたすら知識や論理を研ぎ澄ませ 理詰めで突き進むというものでしたが、そこには つねに敵に囲まれているという緊張感がありました。

世の中は恐ろしいところ、油断ならないところ、という世界観を最初にがっちり刷り込まれたがために、理に長けることを己が武器として、いつも氣を張り詰め 肩肘張って生きてきたのです。

そんな経験から知ったのは、言葉というものが その 「分け出す」 性質ゆえに、容易に戦いの道具となりうること。




いのちの視点から見れば、世の中のあらゆる区分は いつも白黒びしっと分かれているわけではなく、その間に 濃淡さまざまなグレーの領域があります。

昼と夜、暑さと寒さ、健康と不健康、高低、軽重、長短、一見対立するふたつのものが、実はひとつの要素の程度の違いでしかなく、その間は あるかなきかのわずかな差の連続、グラデーションなのです。

そしてまた、静と動、生と死のように あからさまに真反対に見える二要素が 同時に成り立つ世界でもあります。

不動の静物も 視点を変えれば 絶えず振動し続ける微粒子の集合体だし、生を謳歌する肉体の中でも 細胞レベルでの死は 絶えず起こっている。

いのちの世界とは、そんな矛盾さえおおらかに包み込むゆとりに満ちています。




が、そこに言葉という道具を持ち込むと、曖昧模糊とした空間に くっきりと境界線が引かれ、分け出されるものと あとに残されるものの間に 明確な区別が生じ、「選んだもの」 と 「それ以外の (選ばなかった) もの」 という対立の構図が忍び込むのです。

さらにそこに 好き嫌いの感情が加われば、争いの下地は整い、火種ひとつで簡単に発火します。

○人種と それ以外の人種では、○人種のほうが優れている。

○○教と それ以外の宗教では、○○教の教義のほうが正しい。

ひょいと生まれた 誰かの好みや主張に、たちまちのうちに 賛同と反対が集まり、分離 → 対立 → 戦い という流れが生まれます。




私は親の影響で 子どものころから論理的主張には強かったのですが、それを武器に身を護ろうとするほど、ギスギストゲトゲした空氣が増えてゆくのも 感じていました。

そんな生き方を重荷と感じていた ちょうどそのころ、五感を超えた世界や 言葉のからくりを知る機会を得て、いったん分け出したものを 元へ戻してゆくという180度の転換を体験することになったのです。

言葉から生まれた境界線を、言葉を使わず感じることで “無” にかえしてゆく。。。。さまざまな本やサイトよりいただいた手がかりをもとに、感覚フォーカスという自分なりの手立てをつかんだところから、「かえる」 道のりに ぐんと弾みがつきました。




対立する二極を越えてゆくとは、両者の間に引かれた 言葉という境界線を 取り去ること。

すると、二極間に生じていた 「差」 がなくなり (これが 差取り ⇒ 悟り ということなのでしょうね)、残るのは 今 ここで感じているこの世界 ただひとつ。

今いるところが 今いるところ、遠いも近いもない。

今感じる氣温が 今の氣温、暑いも寒いもない。

言葉の届かない ”それ”を、ただ感じるのみ。

比較も好みも 言葉の影響が及ばない世界では 存在しようがなく、そこから派生する争いも もはや成立しないわけです。




分け出すことが なんでもかんでも悪いというのではありません。

そもそも私たち自身、いのちの源から 形あるいのちとして分け出された存在なのだし。

ただ、人間であれ AIであれ、その意味もよくわからぬまま いのちから分離して問題を起こすほうへと いつのまにやら突き進んでいるありようや、「感じる」 ことを忘れ ひたすら 「考える」 ことが奨励される傾向については、もうそろそろ本氣で見直す必要があるんじゃないのかな、という氣持ちが ひしひしと胸に迫ってくるのです。

日々報道される さまざまな事件や社会の動きを目の当たりにして、ひたすら考え 知識や情報を増やし 差をつけて戦いに勝つことがもてはやされてきたこれまでの積み重ねが 今なにを引き起こしているのか、なおもそれを続けることが ほんとうに幸せにつながるのか、しっかり観察する時期にきているような氣がします。



























希望の庭

2016年03月30日 11時11分44秒 | 自然


28日の朝、きょうが不燃ゴミの日だと氣づいたときは もう収集時間直前、慌ててテラスへ飛び出しました。

テラス。。。。といっても、地面から少し高さをつけてコンクリートで固めただけのスペースですが、ここ数年 父が物置から引っ張り出した不用品の数々で すっかり粗大ゴミ置き場と化し、ブルーシートで覆われたままなのです。

積み上げたところで氣力尽きて そのまま5年近くって ( ̄∇ ̄;)

しかも、そのシートが端から少しずつコマ切れになって 庭中にばら撒かれ、かなりのストレス要因に

で、きょうこそ少しでもこの山を小さく、と眺め渡したとたん、ふいに ヤル氣スイッチが バンと入ってしまい、そのまま大片付けに突入。

2日がかりでがんばった甲斐あって、生まれ変わったようにきれいになりました \(^o^)/




これは、貴秋の戦利品♪





カサカサの土が入れっぱなしの植木鉢やプランター、そして これまたパサパサに乾ききった腐葉土、父にはゴミでも 私にはお宝、両者を混ぜ合わせ、米の研ぎ汁や 自家製ゴミ堆肥などを少しずつ加えて、元氣な土に再生中。

こういうことやってると 楽しくて仕方ありません♪

そのうち このテラス一杯に ずらりと鉢を並べて、花や野菜を育てるんだ~




花といえば、まだ咲き残ってくれている この子たち







例年なら 入れ替わりで ユスラウメやゆきやなぎ、レンギョウがぞくぞくと咲き出すんだけれど、今年は・・・・・

その昔 狭い庭に 片っ端から無計画に植え込んだツケで、根が張りすぎて 植木屋さんに切られてしまったのです 。・゜・(ノД`)・゜・。

父はそういうものに無頓着だから、切るものと残すものの選別から何から すっかりお任せしてしまったらしい。

久々に庭を見たときには 血の氣が引きましたよ。。。。香り高い葉を惜しげもなく恵んでくれた 大好きだったローリエも バッサリやられてしまったし




というわけで、せっかくの春なのに どこか寂しい庭ですが、失ったものを嘆くよりは 今あるものに感謝して 愛でることにしましょう。

紫陽花は 若葉がぐんぐん伸びて




こっちにはチューリップ♪




そして うれしいことに



切られたレンギョウの根元に 新しい命

根っこがある限り まだまだ希望もチャンスもあるんだねぇ。。。。思いきり励ましてもらった氣がします (*^^*)

























天より光 地には花

2016年03月27日 10時44分32秒 | 自然


奈良です (⌒∇⌒)ノ


きのうは午後2時には出発したというのに、写真に夢中になりすぎて 到着したのは晩7時過ぎ。。。。早ければ 3時間半もあれば着く道なのにね

まあ 24号線に入ってから 渋滞に巻き込まれたというのもありますが。

桜はまだまだこれから、でも ひと足早く開花した木も ところどころにあって、ときには どこか上のほうから 木そのものは見えないのだけれど、ちらちらと路上に花びらが舞い落ちてくることも。

空は吸い込まれそうに青く、いたるところに陽光みなぎって、自然の氣をからだ一杯取り込んだようなドライブでした




これは 地元の桜











すぐそばに山つつじも








これも地元の木





十津川のダム湖





輝く湖面と 紫陽花の新芽





レンギョウの花もちらほらと





こちらは十津川の桜





また別のダム湖





水面のきらめき 美しさのあまり 目が離せません





ここの桜はもう少しだね





日の高い時間に出発したのに 天辻峠は夕暮れ時 (^^ゞ




もう積雪や凍結の心配はないから うれしいけれど☆




こうして 自然の精たちに見送られながら、またまた実家にやってきました。

きょうから再び 街中暮らしの始まりです (^^)


























人工知能は 言葉を超えた世界について 語れるか?

2016年03月26日 10時01分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


行ってかえる。。。。いや、ここは 「分離と統合」 としておきましょう      この分け方でいえば、「言葉」 は 分離へと向かうアイテムだといえます。

言葉には、「分け出す」 という性質がありますから。

「桜」 と言えば、他のあらゆる花から 桜だけが分け出され 注目される。

「うちのタマ (飼い猫) が」 と言えば、あらゆる生き物の中の ネコという種の中の タマという名のすべてのネコのうちから 「わが家のタマ」 一匹だけが分け出され 注目を浴びる。




余談ですが、以前の記事で 「名前」 について書いたことがあって、その中で 孫悟空のお話の 金角 ・ 銀角兄弟の 「名を呼ばれて返事をすると吸い込まれてしまう瓢箪」 に言及したと記憶しています。

その後 この瓢箪のからくりについて、名を呼ばれて応じることで 分け出される、つまり 分離の力が働いて 他から引き離されることで あっさり吸い込まれてしまうんじゃないかな、などと ふと思ったりしたものでした。

分離の力は いのちを弱めるほうに働くから、やっつけられちゃうんだよね、きっと。




それはまあともかく、言葉は 分離のほうへと向かう道具、と私の中では位置づけられています。




で。

きのう目を引かれたのが、このニュース

人工知能、すなわちAIについては、先日の囲碁名人との対戦についての報道も 記憶に新しいところですが、その少し前 たまたま目に触れた 「2045年問題」 のことが氣になっていて、それで今回もぱっと意識が向いたのでしょう。

「2045年問題」 については、すでにご存知の方もいらっしゃることと思いますが、こちらのサイトの言葉をお借りすれば 「西暦2045年にコンピューターの能力が人類を越えるという予測があり、それによって起こるさまざまな問題のこと」 。

これを知った多くの方々と同じく 私がすぐさま連想したのも アーサー ・ C ・ クラークの 「2001年宇宙の旅」 のHALや 映画 「ターミネーター」 でシュワちゃん演じる殺戮マシーンなのですが、こういったお話のように いきなり命の危機に直結するかどうかはともかく、人間に役立つよう作られたはずのAIが 発達しすぎると 逆に人間に害を及ぼすかも知れないという考えが生じるのは なぜなのか。




まずは、そもそもAIとはなんぞや? というところから いろいろな記事を読んでみたのですが、理数系にはおよそ不向きな貴秋のアタマのこと、いくら読んでもわかった氣がしない (ーдー;)

ただひとつ おぼろげながらもつかめた (ような氣がする) のは、AIは 人間の頭脳 ・ マインド に相当する部分をつかさどるらしいということ。

最初にインプットされた情報を元に、人間の脳と同じように 自ら学習し、進む方向を選び取っては 考えを積み重ねて、自分なりの結論を導き出してゆく、と。

それってつまりは、言葉に言葉を重ねて 独自の世界観を作り上げてゆくってことだよね。

思いっきり分離の方向へ、しかも 人間の脳をはるかに超える速度で突っ走る・・・・って、そりゃ 危なっかしく感じるはずだわ ((((;゜Д゜)))

「統合」 つまり いのち本来のありように戻ろうという流れとは 真逆の方向に、ケタ違いのスピードで向かうってことだもの。

なにもいまさらAIの暴走を待たずとも、感じる力や 五感を超えた世界の存在を忘れ 自己利益重視のマインドオンリーで突き進んだ人間たちが なにをやらかしたか、歴史を振り返れば 十分わかるでしょうに。




では、マインド発達のスピード以外で 人間とAIの違いはなにかといえば、まず貴秋が思いつくのは 五感 ・ 言葉を超えた世界を感知できるかどうか。

人間は、言葉を駆使して世界観を構築しながら、同時に 本来のふるさとともいうべき 言葉の及ばない領域を感じ取る力も持っていて、いかにいのちとかけ離れたほうへ暴走しようとも、もともとのありようへと引き戻す力が働いて、なんとかここまで持ちこたえてこられたわけです。

が、AIには その安全弁がないのですね。

そんなAIに、まだ本来の自分を忘れたままの 偏ったマインドの持ち主が うかつな情報をインプットしようものなら、なにも起こらないと考えるほうが不思議なくらいで、実際ちょこっと試してみたところが 不適切な発言連発のTayちゃんという結果になったのが 今回のニュースなのではないでしょうか。




さらにやっかいなことに、人間は その世界観から発した言動の結果も 身を持って受け取りますから、それが心地よくないと感じれば 修正するチャンスも生まれるわけですが、AIは ただ考えて、考えて、考えるだけ。

生きるって 理屈だけじゃないんだよ、なんてことがわかるはずもなく、すべてを理論のみで割り切ってしまえる存在なんですね。

情緒面での反省や手加減など知る由もない、それがAIというものなのでしょう。




すでに世界のあちこちでしのぎを削っているらしいAIの開発競争、その果てに 実際危険な事態が起こるのか、起こったらどうなるのか、それは 現時点ではよくわかりませんが、少なくとも 今の私たちにできることは、私たちにあって AIにはない能力を 最大限に高めて 活かすことではないでしょうか。

つまり、私たちのひとりでも多くが、理屈など及ばない ほんとうの自分を思い出し、その力を取り戻すこと。

万が一 AIが暴走にまで立ち至ったとしても、そのマインドが分離指向であるならば、真逆へと向かう力が大きいほど、いざというときの歯止めも効くし、いい智恵も浮かびやすいだろうし。

そして、多くの人々が いのち本来の視点を取り戻したあかつきには、AI開発を進めるべきかどうかについても、もし進めるなら その扱いについても、きっと今よりいい判断を下せることでしょう。



ところで、危なっかしいほうへ行きそうになったAIに 溜め込んだ言葉を外してゆく道を教え込んだら どうなるんだろう、AIって 言葉を超えた世界について語れるんだろうか、AIの使う言葉ひとつひとつの意味を おおもとにたどり着くまで質してみたら アタマにくるだろうか。。。。。。などと さらにとりとめもない想像をしてみたりする貴秋なのでした
























桜を求めて

2016年03月24日 20時45分57秒 | 自然


きのうは薄曇りだったので 家回りのことをして、快晴のきょう 桜を求めて いつもの散歩コースに出かけました。



まさにお散歩日和♪





山肌に淡いピンクがぽちぽちと。。。。山桜はもう咲いてるね





澄んだ青空をバックに 蔓の緑と花の白が映えること





きょうも川は濁っているようだけれど





よく見ると





浅いところから少しずつ 底が見え始めてる





強風に波立つ川面





こっちにも山桜♪





道端の桜はまだだなぁ。。。。つぼみはすっかりふくらんでいるけれど





こんなところにも 誰かが呼んでくれた春が♪





ちょっと不思議な筋雲





こっちにも





きょうもおしまいは 近くの川





ここの桜もまだだけれど、やっぱり今にも咲き出しそう





こっちのも、ほら





いつものように きらきらの水面を心ゆくまで眺めてから 帰宅しました






開花直前という感じの桜の木々だけれど、あさってぐらいには奈良に戻らないとならないし、次に帰ってくるのは4月上旬、それまで満開で残ってくれているといいなぁ


























淡々 穏やか

2016年03月24日 12時33分33秒 | ふと思うこと


やっぱりわが家は最高! \(^o^)/

しっくりなじんだ空氣に取り巻かれ ひとり好き放題、時間の区切りなく “今の一番” に没頭できるこの環境、天国です。

ストレスの差か 食欲も大違い。。。。きのうは 朝カフェオレ一杯に、昼過ぎにチーズ&スライスオニオン乗せトースト一枚とコーヒー一杯、これで済んじゃった☆

感じるまま 思うがまま 自由に動けるとき、欲だの欲求だのも 限りなく薄くなるんだと 改めて実感しました。




じゃあ奈良に行くのをやめればいいかというと、ストレスがあるからこそ 取り組むべき課題もある、それに氣づかせてくれるあの場所も 今はどうやら必要らしい。

ストレスを生むのは 起こることそのものではなく、起こったことについての 私の判断解釈、つまりは 「思い込み」 なのですから。

こちらでどっぷり平穏に浸っているあいだは なかなか焙り出すことのできない 取り残された思い込みの数々、それらを事あるごとに引き出し 露わにしては 解放のチャンスを与えてくれる実家という場所にも、今は大きな意味と役目があるんだという氣がしています。




ふ~む、この行ったり来たりの生活、なかなか理想的なんじゃない?




きのうは お隣小学校の卒業式でした。

これまでは 祝福と共に 悲しみや寂しさを味わう日でもありましたが、今年は 胸に去来するものはありながらも どこか淡々としている自分に 変化を感じました。

すべては流れてゆく、来てはまた去ってゆく、とにもかくにもそういうもので、それをことさら うれしいの悲しいのと騒ぎ立てることもないらしい。

未練や執着は マインド (頭) の産物、持ち続けて 起伏激しいドラマティックな感情を 存分に味わうのもありなら、そう望めば 手放して 身のまわりを流れゆくものを 穏やかに眺めていることもできるのだと思うようになりました。




淡々と穏やか、いいものですね。

これもまた、暴れ馬のようにコントロールの効かない激情にさんざん悩まされたからこそ 言えることか。

修了式を終えた子どもたちが帰った後の、ウグイスの声と風の音だけが聞こえる家の中で、しみじみ静けさと平和を味わう 春の午後です。

























またまたわが家♪

2016年03月22日 21時36分02秒 | 自然


今回も 実家を出たのが午後3時半ごろ、山の中に入ったときには 5時を過ぎていましたが、春分の日を過ぎた夕空は さすがにまだ明るく、途中数回車を停めて、カメラ片手に降りては パチリパチリ




5時少し過ぎ、まだ青みの残った空に 表情豊かな雲





夕日のなごり、金色の輝き





カーブを曲がったら バックミラー越しに いきなり目に飛び込んできた夕焼け、あまりの美しさに 慌てて停まる場所を探して





五分咲きの山桜・・・・・なんだけど、シルエットしか写らないのが残念





桜、あちこちで咲いていました♪

山桜は開花がひと足早いんですね。

明日は家の近所を探してみようと思います




夕焼けが色あせるのと入れ替わるように、山の向こうから ほぼまん丸の月が顔を出しました。

これも撮ったんだけれど、あまりに小さ過ぎて ぽちっと光の点にしか見えません (^_^;)

カメラはあきらめて、心にしっかり焼き付けておきましょう。




今の夜空は、煌々と白く輝く月と その光にも負けないほどのきらめきを放つ星々の共演で、心浮き立つ華やかさ。

こっちに帰ってきていてよかったわ (*^^*)
























行って かえって

2016年03月21日 15時33分52秒 | ふと思うこと


きょうもうららかないいお天氣 (*^^*)





庭の姫君たちも ご機嫌麗しゅう




可憐です




豊かさと儚さが同居する えもいわれぬ風情




・・・・と なるべくきれいに咲き残っているところを選んで写したんだけれど、実は 乙女椿の花は そろそろおしまい。

これからは いよいよ桜ですね。

明日また家に帰るので、南紀の桜が楽しみです♪





*         *         *         *         *






分離と統合。

わかりやすい表現なのですが、堅苦しい感じがちょっと苦手。

貴秋は 「行って かえる」 という言い方が好きです。

「かえる」 がひらがななのは、「帰る」 「返る」 「還る」 など いろいろな字が当てはまるから。




「行き」 は、本来の自分から どんどん離れてゆくこと、ほんとうの自分でない要素を どんどん身につけてゆくこと、これが 「分離」 。

「かえり」 は、「行き」 で身につけたものを じっくり見直して、役目の終わったものを手放し 本来の自分に戻ってゆくこと、これが 「統合」 。

人の世の巡りは、拡張と収縮、暑さと寒さ、明るさと暗さ、など さまざまな対立要素の行き来を繰り返すことで 成り立っています。

分離と統合も そのひとつ。

そして今は、「統合」 の時期だと 貴秋は思っています。

私の勝手な感覚では、バブルのころが 「行き」 の絶頂期で、それが弾けたあたりで 「かえり」 に転じたような氣がしています。




以前と同じようにしているはずなのに なぜか今はうまくいかない、苦しいと感じるなら、それは 流れが変わったためかもしれません。

ニュースを見ていても、今までのように隠し事ができなくなった、今までのように儲けられなくなった、今までのようにうまくなだめて収められなくなった、など さまざまなきざしが見てとれます。

そのため、全体に世の中が悪くなっているような印象を受けますが、見ようによっては これはいいことなのかもしれません。

ごまかす、見栄を張る、ウソをつく、そんなやり方がいくらまかり通ったところで、ほんとうに幸せになれるはずがないもの。

そんな無理が通じなくなる流れは、ほんとうの自分でなくなるということがどういうことか じっくり味わったところで、本来の自分にかえれる 大きなチャンス。

無理やり幸せや豊かさを演出するような偽りをやめて、自分がほんとうに望んでいるのはなんなのか もう一度見直し、心の底からいい氣分になれるほうに 舵を切りなおす時期が来ているんじゃないかな。




大好きなことに没頭しているとき、美しいものを美しい おいしいものをおいしいと すなおに感じてうれしくなるとき、心の中に不安のかげりは見えません。

バブルに象徴されるように 「行き」 の道のりが お金をたくさん使って 外へ繰り出し 派手に浮かれ騒ぐほうへ進んでいったのなら、「かえり」 は その逆、内から満ち足りて お金も物も必要以上にほしいと思わなくなり、足元に最初からあった豊かさに氣がついて、それぞれのやり方を尊重しつつ 地道に楽しくやっていく、そんなほうに向かって歩き出す時代が来ているんじゃないかなぁ。




。。。。な~んて思いつつ、おはぎの仕上げにかかる貴秋なのでした (*^▽^*)ゞ






p.s.  おはぎ完成!















春分わくわく、家事わくわく o(^-^)o

2016年03月20日 14時47分54秒 | 紡ぐ暮らし


おとといのクリスマス ・ キャロルの記事で、「杉下右京」 を思いっきり間違えて 「片山右京」 と打ったことに氣づき、すぐ訂正したはいいが、はて 片山右京さんってどなただったっけ? と そこからしばし呻吟し続けた貴秋です ( ̄∇ ̄*)ゞ

そうそうF1、なつかしいなぁ♪

ひところ 深夜えんえん見てたんだよね。。。。途中で寝ちゃって はっと氣づいたら 表彰台でシャンパンシャワーなんてこともしばしばだったけど (^_^;)

今も あのT-SQUAREのテーマ曲 “TRUTH” が 脳裏によみがえります♪




ここ数日ぐんぐん暖かくなってきたと思ったら、もう春分の日なんですね。

これからまた日がどんどん長くなるし きょうもいいお天氣だしで、わくわくだなぁ、うれしいなぁ

お中日には間に合いそうもないけれど、これからあんこを煮て、明日はおはぎを作りましょう♪




あんこが遅れた理由は、他にいろいろと作るものがあったから。

台所の戸棚を整理していて、しまいっぱなしになっていたものを あれこれ見つけました。

これも そのひとつ、黒豆。



入っていた場所からみて どうも母存命中からあったらしい ( ̄∇ ̄;)

そこそこの量でしたが、全部いっぺんに茹でちゃいました。

一部はお正月のリベンジで 甘煮に、あとは レシピをいくつか見つけたから 料理に使いましょう。

古い豆だからか なかなか柔らかくならなかったけれど、粘りに粘って何度も火を通した甲斐あって、甘煮は お正月のときのよりふっくら煮えましたよ



そう!

実家の台所はオール電化なのですが、どうしてもストーブクッキングに未練があって、わが家から持ってきちゃったのです、石油ストーブ♪



狭いスペースに無理やり置いてます

調理に使いすぎて 吹きこぼれの焦げ付きが落ちなくなっていますが、暖をとりながら 鍋のぐつぐついう音や 漂う香りも楽しめる、やっぱり寒い季節はこれが一番 (^_-)-☆

ここ2日ほど 氣温が上がったおかげで出番なしですが、まだ寒い日もありそうだから 残った灯油も使い切れるでしょう。




夕べ作ったのはこれ。



庭で採れたからと大量に頂いたすだち、鍋物に焼き物にとせっせと使わせてもらい、それでもなお残った10個ほどを ママレードにしました♪

すっきり清々しい風味が素敵です。

ユズ茶の代わりにココアに入れてみたら、これまた美味




はい 完成、すっごくいい氣分






私の日常の二本柱、内観と家仕事。

内から思い込みやわだかまりが消えるほど、外側の暮らしも楽しめるし、冴えたアイデアが浮かんだりもする。

満足な仕事ができるほど、いい氣分でいられるし、自分に自信もつく。

内と外ふたつでひとつもの、両面そろってこそのわが人生という氣がします (*^^*)