毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

摩訶不思議な一年、そして大晦日

2016年12月31日 22時14分24秒 | ふと思うこと


2016年大晦日の青空☆



今年最後の一日が こんなにいいお天氣で ほんとうによかった (*^^*)



目の前の一歩しか見えなくて、次の瞬間どんな選択をすることになるのかもまるでわからなくて、とにかくしゃにむに内なる指針に食らいついていった一年でした。

そしてさいごのさいご、大忙しのさなかにひらめいた氣づき。

詳しく書いている時間はなさそうなので それは新年に譲るとして、とにかくイレギュラーで摩訶不思議で濃厚な一年でした。

苦しい時間も多かったけれど、その分振り返ると印象深いというか。



今年もこのようなブログをお読みいただいてありがとうございました。

来年がどのような年になるのかも 皆目見当がつきませんが、これからもお付き合いいただければ幸いです。

2017年が 皆さまにとって 佳き年でありますように。


貴秋



















物思う年の瀬

2016年12月29日 12時35分19秒 | ふと思うこと





以前から見知っていたこの図ですが、陰陽太極図 ・ 太陰大極図などという名称は 今回初めて知りました (^^ゞ

五感の世界は まさにこの図のとおり、陰極まれば陽、陽極まれば陰に転じるコントラストの二極世界、「あざなえる縄の如し」 という表現がぴったりきます。

この図の円の中をぐるぐる回るようにして 私たちは 望んで生まれ出たこの世で さまざまな体験を重ねている。

ただ堂々巡りをしているわけではなく、体験から変化成長して やがて円を飛び出すときがやってくるわけですが、ブレイクスルーのカギは やはり 「自身を見つめる」 というところにあるのだと思います。

物差しとなる言葉をいっさい持ち込まず ただ無心に見つめるうちに、後付けで仕込まれた思い込みに氣づかされ、その向こうにほんとうの自分が見えてくる。




一連のプロセスの中で 私たちが意図してできるのは、よくなろうという意志を持つこと、内観すること、自分のほんとうの望みを知り それが叶った状況を先取りしてイメージすること、などごくわずか、あとは向こうからおのずと起きてくるようです。

でも その “わずかなこと” に かなりの氣力やエネルギーや時間がいるわけで、貴秋のほとんど自宅を離れっぱなしだったこの一年は、今思うと どうやらそれに専念するために用意されていたらしい。

つねに一瞬先はわからないような時をひたすら重ねてきて ふと振り返ると、どこか現実離れした摩訶不思議な道のりに 一本筋が通っていたことが うっすら見えてきます。

マインド視点では 状況に翻弄され ときおりのひらめきに必死で食いついて 右往左往しながらあっというまに過ぎたように思えた一年が、実は途方もない転換を起こすために仕組まれた 大きな大きな贈り物だったと氣づかされて、なんともいえない感慨に浸る年の瀬です。




変化は一瞬で起きることを思うと、「今年もあとわずか二日半」 なんて簡単に片付けることができなくなるなぁ (^_^;)

年が変わるまでの数十時間が この一年でもっとも濃密で印象深い時間とならないとどうして言えましょう。

自分の内側に留まれる時間が長くなるほど、“いま ここ” の味わいも かけがえのなさも深まるようです。




















心の大掃除

2016年12月27日 09時38分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうの朝、不意に父が言いました。

「明日○○さんが見えるから」

えーまた?




○○さんは 家族ぐるみで長年親しくしている知人で とてもいい人なのですが、クリスマス過ぎて 新しい年に向けての支度で大忙しになるこのタイミングでの毎年の訪問だけは悩みのタネ。

母も生前からぶつくさ言っていましたが、なぜか忙しい時だからとお断りをしたことがない。

そして母亡き後私も 年末の里帰りと 父がお受けしたこのご訪問がかち合ってしまったことがありましたが、「三日かそこらで大掃除から買出しからおせちの準備から全部しなきゃならないのに~」 とアタマにきながらも これまた渋々作り笑顔でおもてなししていたのです。




が きのうは違っていました。

私にはひとことの相談もなくOKしてしまったことに 一瞬むかっときて文句を言いましたが、父がそそくさと部屋を出てしまったあと もはやわざわざ感覚フォーカスの体勢に入るまでもなく すっと氣が落ち着き 名案が浮かんだのです。

そこですぐ 父のところに行って言いました。

「明日 私はすること山積みだからムリだけど、お客様の支度からお相手まで全部ひとりでするのと 今すぐ私がお断りの電話入れるのとどっちがいい?」

そして ひとりでもてなすほうを選んだ父に 「わかった」 と応えてこちらはスッキリ、 一件落着☆




これだけのことなのですが、同じ事柄に 明らかに以前と異なる反応を見せたところに 自身の大きな変化を見て取ることができます。

そもそも 母 ・ 父 ・ 私と三人そろって不本意なのに断れない、ムリをしていい顔せずにいられないという妙な思いグセがありました。

○○さんこそいい迷惑です、了承されての訪問なのに 氣づかないうちに陰で悪者扱いになってしまっていたのですから。

しっくりこないのに それを率直に表明できず、その不快さを相手のせいにするという思考回路が 三人ともいつのまにか出来上がっていて ずっと縛られていた、それがついにブレイクスルーに成功したわけです。




できてみれば ムリなものをムリと、つまり事実を事実と認めて表明する、たったそれだけのこと。

それが 「そんなことできない」 という思い込みから ガマンを重ね 苦い思いを抑圧し続けてきたことで、恨みつらみがとんでもなくいびつな形で溜め込まれ つねに一触即発の状態にありました。

自分でも明らかに不自然な感情とわかっているから、断りの文句にそれが滲み出てしまうのを恐れて むりやり承諾しては ますます怒りを溜め込む悪循環にハマっていたのですね。

今回のブレイクスルーのカギは、やはりというか そのいびつな怒りや恨みを正面から受け止め じっくり見つめては手放してきたところにあったのです。




夕刻 「○○さん明日来ないことになったから」 となにげなく会話に挟み込んだ父でしたが、先方からのキャンセルか 父がこっそり連絡入れてお断りしたのかは 問わぬが花というものでしょう




いま 世の中のあちこちが、子を 親を 配偶者を殺める事件とか、度を越したイジメとか、怒れる老人の増加とか、信じられないようなクレイマーとか、私が生まれたころにはなかったような怒りで満ち満ちているように思えます。

そして その手のニュースを聞くたびに、問題を起こしてしまった人の中に 自分と同じにおいを嗅ぎ取ります。

実際彼らと私の差は紙一重、私はことが大きくなるちょっと手前で引き返すことができたというだけなのです。

感覚フォーカスというありがたい手立てに出会えていなかったら いつ自分がニュースの主役になっていても不思議ではない、それほど 私の中の怒りも恨みも煮えたぎっていました。

だからこそ、その怒りも恨みも 避けずにまっすぐ取り組むことで 無に返すことができる、身を焼かれるような感情に苦しめられずに生きてゆけるようになる、と 声を大にして言いたい氣持ちでいっぱいなのです。

どんな方法でも構わない、とにかく自分の正直な氣持ちと向き合うこと。

ちょうど年末、家の手入れよりは時間がいりそうですが、心の大掃除がぜひとも必要な時代だという氣がします。
























大好き! ~ サザンカと ミニトマトと 「History Maker」

2016年12月26日 11時44分56秒 | 日々の楽しみ


実家の庭のサザンカが花盛り。

























湧き上がり、溢れ、零れ落ちるいのちの証、毎日眺めるのが楽しみで♪

私と弟の中学校卒業記念樹、数十年のつき合いを経て 庭木の中でもとりわけ思い入れが深い 大好きな二本。




一方こちらでは。。。。






数度の寒波にもめげず いまだ可憐な花を楽しませてくれるミニトマト

実も生っているのだけれど、さすがに色づく前に落ちてしまって。

それでも 拾って追熟させたものが時たま食卓に乗ることも。。。。いのちの恵みが もうありがたくていとおしくて。

大好きだよ、生まれてくれて、出会ってくれて、生きてくれてありがとう。




そして ここ10日ほど毎日のように聴きまくっている曲

アニメ 「Yuri!!! On Ice」 オープニングテーマ 「History Maker」

視聴回数のうち百数十回が私のカウントのはず (笑) 、もう大好きー

もう一曲 こちらも大好き、連日ヘビーローテーションで聴いてます \(^o^)/




「大好き!」 って言えるものに囲まれてる暮らし、幸せだなぁ (*^o^*)























愛と赦し

2016年12月23日 18時00分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回のブログをアップしたすぐあと、いつもの愛読ブログ巡りで見つけたこのお話

初回は読みながら涙ぼろぼろ、その後も折に触れて読み返しています。




貴秋がこの上なく憧れ目指してきた境地、「愛」 と 「赦し」 。

が、これまであまりにもかけ離れたものを真の愛と取り違えてきたため “愛” という言葉は 正直今でもいびつなイメージがつきまとって使いづらく、またそれなら今現在の愛のイメージとはどういうものかと訊かれても まだまだ漠然としていて すっきり答えられるものではなく。

ましてや “赦し” となると、私が知っているのは 「腹は立つけどガマンしてやろう」 的な 「許し」 だけ、この記事にあるような 深く広い慈悲の心なんて 想像も及ばない。

。。。。。のだけれど。




貴秋の内的探究の最近のテーマは、「自分の中に留まること」 。

前の記事で書いた想像力、これはほんとうに重要な力だと思うけれど、使い方を間違えれば害になるのは 他のものと同じ。

小さいころから これを身を護るために使い慣れてきたため、すっかり板についた一方で、具現化への架け橋ではなく 不安や恐れから逃げる道具として はかない空想や妄想に走る道筋がしっかりついてしまい、ここへきてえらいハンデに。

空想や妄想のとりことなっているあいだは 意識が過去や未来に散って “いま ここ” がすっかりお留守になるため、そんなものに夢中になった代償として 意識がからだからふらふら抜け出して 集中力が散漫になり 感情に振り回されてエネルギーダウンするクセがついてしまいました。

このふらついた意識を もう一度しっかりからだに戻してひとつになることがいま必要 というメッセージが来た氣がしたのです。




意識がからだにきちんと収まっているときの感覚は、あの感覚フォーカスのさなかの感触が さらに精度を増した感じ。

さまよい出ては引き戻し を繰り返す中、言葉がぴたりと止まって こころとからだが一体化したとき、不安も焦りも緊張もすっとかき消え ふわ~っとあたたかく溶け出したなにかに優しく包み込まれるような感覚を たびたび味わうようになりました。

そこで思ったのです、ほんとうの自分に戻るとは、弱い (と思い込んでいる) 自分をごまかし護るために 偽りの言葉で長年がちがちに積み固めてきた鎧がすべて剥がれ落ちて ハートが開くことなんだと。

無力で怯えている自分は 言葉で形作った思い込みの虚像、言葉の及ばない “いま ここ” では そもそも存在できないものなのですね。

そしてさらに感じたのが、「愛」 も 「赦し」 も この開いたハートの中にあるらしいということ。

マインドの渦の中しか知らなかったころに いくら探っても見つけられなかったわけだと納得いきました。




今はまだ しつけが悪くすぐ飛び出していってしまう子犬と 追いかけ回しては連れ戻す飼い主のいたちごっこのような日々ですが、子犬が飼い主を全面的に信頼し 従順になったとき、開ききったハートの中に 本物の愛と赦しを見出すような氣がします。

そのとき私も あの先住民族の人たちのように おおらかな心ですべてを赦せるだろうか。

「愛」 も 「赦し」 も 自分に対して なんの否定も言い訳も防御も必要としなくなり すべての護りを解いて あるがままの姿に返って初めて取り戻せる境地なのかもしれません。


“ 今この時に必要なのは、
怖れることでも
心配することでもなく、
どんな時にでも笑いを忘れず、
愛と感謝の気持ちを
ハートに保ち続けること。

一人一人の心の持ちようで
世界は
確実に
大きく変わります。”



ブログ 「ひかたま (光の魂たち) 」 の森井啓二先生のこの言葉が 胸に沁みます。























クリスマス前にも奇蹟は起こる

2016年12月14日 10時53分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これ 前にも書いたかもしれませんが、貴秋はたいへん信じ込みやすいタチです。

小学生のころ、父のテスター (電流や電圧を測る小型機器) を 「嘘発見器だ、触って針が触れたらウソをついてる証拠だ」 と言われて本氣にしたことがあります。

コレを話した友人に 「夕べのテレビで 嘘発見器って世界に4台しかないって言ってたよ」 と言われてもまだ 「う、うちにそんなすごいものがあったとは」 と感動に打ち震えていたのですから・・・・

後年父にこの話をしたら 「まさかあれを信じるとは思わなかった」 とあきれられました。。。。。って (-"-;)

わが子の氣質ぐらいわかっとけっ




その後も 十人中九人は氣づくであろう ツッコミ期待の大ボケ (関西では多いんです、これが) をことごとく鵜呑みにしては あきれられたり落胆されたりし続ける日々、いくら言われても信じちゃうものはしょうがないと 引け目に感じつつもあきらめていましたが、そんな貴秋を救ってくれたのが 精神科医のゆうきゆう先生の一文。

「信じ込みやすい人は 想像力が豊かなんです。だから、普通の人なら 『あり得ない』 で片付けるところで あり得るストーリーをあっさり思いつくことができるんです」 とのお言葉に 長年欠点弱点と思い込んできたものの 長所としての半面を知ることができたのです。

ええ ええ、想像力ならそれはもう自信あります、幼少期 外界からの恐怖や圧迫感を 想像の世界に入り浸ることで ことごとくかわして生き延びてきたんだもの♪




私たち人間が作り出すものはすべて まずひらめきやアイデアから始まります。

突如脳裏に弾けたインスピレーションが、これ実現できたらいいよね♪ というワクワクに後押しされ 形を得て初めて 五感の世界に登場します。

その形なきものを 形あるものへと変換させるのが 私たちの想像力。

想像力には 目の前の現実の範疇を飛び超えて 未知の世界を実現させる力があるのです。

想像力なしには たとえつまようじ一本たりとも 形にすることはできません。




五感を超えた世界を意識し 探究するとき、想像力は必須です。

情報はあっても それについての何の証拠も保証もない、そんなありようを信じて追い続けるのは、想像力なしでは不可能と言い切っていいでしょう。

常識で考えたら 「何考えてるの!?」 「あり得ない」 と一刀両断されそうな領域を 実現するべく引き寄せる、そこであの あり得ないこともあっさり信じ込ませてしまう能力が役に立つのです (^^)v




見えない聞こえない 存在を証明できないものに重きを置かない、信頼させない仕組みになっている今のこの世界で “スピリチュアル” と呼ばれる分野がここまでの位置を占めるようになったのは、直観を逃さないしなやかな感性と その示すところを自身の現実に置き換える想像力、この二つがあってこそでしょう。

いくら 「常識をわきまえろ」 だの 「そんなことできるわけがない」 だのと言われても、内なる羅針盤から心をそらさず 想像力を駆使して探究し続けてきた先人たちが築いた、“スピリチュアル” の領域。

その恩恵にあずかれる幸せを思います




「奇蹟」 とは、辞書によれば 「 常識で考えては起こりえない ・ 理解できないような 不思議な出来事・現象のこと」 。

私たちがよき未来を信じ 自身の想像力を信じて活用するとき、世界中で漂う閉塞感をぶち破るような奇蹟を起こせるのかもしれません (*^^*)
























遠いようで近い

2016年12月09日 11時50分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


南紀のわが家の冷暖房は、夏は扇風機、冬はこたつに石油ストーブ&電器ストーブと 今の時代にはかなり原始的な備えですが、実家はオールエアコン、冷房も暖房もひとつの器具で兼任。

で 暖房の温度を調節していて氣づいたのですが、冷暖房どちらも 設定温度はだいたい24~28℃ぐらいで ほとんど変わらず、外氣のほうも 近畿のこのあたりは 暑さMAXで37℃ぐらい、寒さMAXもマイナス5~6℃、対極の真夏と真冬の温度差も せいぜい50℃以内に収まってしまうほどのものなのですね。




ここでちょっと好奇心を起こして調べてみたら、世界で記録された最高氣温は イラクのバスラというところで58.8℃、最低氣温は南極大陸東部でマイナス93.2℃ (人が居住する地域では シベリアのベルホヤンスクとオイミャコンでマイナス67.8℃) だそうです。

範囲を地球全体まで広げても その寒暖差は150℃ちょっとぐらいか。

もっとも暑い季節と寒い季節の温度差は、体感では180度真逆で 北極と南極ほども離れているように思えるのに、数値で表せば 「万」 も 「億」 もつかない わずか3ケタの150。

なるほどそうだよね、真逆って 一見これ以上かけ離れているものはないようだけれど、見方を変えれば 氣温なら氣温という同じひとつのものの程度の違いに過ぎないんだものね。




いまや感覚フォーカスがすっかり日常の一部となった貴秋ですが、その結果なにがどう変わったかといえば あまりよくはわからないのです。

ただ時として 「お?」 となるのは、以前とまったく同じシチュエーションに出くわしながら 以前とは明らかに違う選択や行動をとった自分に氣づいたとき。

氣づかないところでいつのまにかずいぶん変わっていたんだなぁと思う、その変化の度合いは ビフォーアフター引き比べれば 180度といっていいぐらいなのですが、日ごろその違いを実感することはあまりありません。




違いというのは 過去や未来から比較対象を引っ張ってきて初めて見えるもの、今ここにおいては 今ここの自分をただ感じるのみ。

そんな今ここ一歩一歩の積み重ねが あるときふと後ろを振り返って 「うわ~ こんなに進んでたよ」 と驚くほどの距離となって現れても 感覚としてそんなご大層なこととは思えないのは、今ここでしか生きられない人間として 自然なことなのかもしれませんね。




コインの裏表を入れ替えるような180度の変化は、世界の果てまで飛んでいかなくてはならないように見えて 実は電車一駅分ぐらいの隔たりでしかないのかもしれない。

以前からなんとなく感じていたことが、ここへきてぐっと真実味を増しています。

遠い道のり、険しい道のりと思い込んでいたから、そのとおりの現実を創造 ・ 体験していただけなのかもなぁ。




たとえ今の自分や今の世の中がまったくイケてないと落胆していても、憧れの理想像までの距離は 実は思っているよりはるかに近く 手を伸ばせば十分届くほどのものなのかもしれません。