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映画 「アーヤと魔女」 その4 ~ 新しい意識が世界を変える

2021年10月14日 13時49分00秒 | 大好きな本・映画・ほか
まだ続く 「アーヤと魔女」 記事、今回は加えて 同じくジブリの 「ハウルの動く城」 が登場します。

「アーヤ~」 のみならず 「ハウル~」 もネタバレしておりますので、ご注意くださいね。












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以下ネタバレご注意



「アーヤと魔女」 で ベラ ・ ヤーガが作った朝食が 「ハウルの動く城」 と同じベーコンと卵、しかも卵片手割りまでおんなじなのに 目が釘付けになりました。

そういえば作業部屋の汚れっぷりも ソフィーが掃除しに入ったハウルの部屋の様子とどことなく似ているし、汚れ物が山と積まれた流しもそっくり。

しかし この 「アーヤ~」 と 「ハウル~」 には、もっと深いところに共通するものがある氣がします。

どちらにも魔女やら魔法使いやらが出てきますが、その誰もが せっかくすごい力を持ちながら、それを生かして幸福な人生を送っているようには見えません。

ベラ ・ ヤーガとマンドレークはすでにお話しした通りだし、ハウルのお城はホコリまみれのゴミだらけ、本人は見た目ばかり氣にする臆病者で、荒地の魔女に追い回されたり 戦争に加担するよう強要されたりと心の休まるヒマがなく、契約相手の火の悪魔 ・ カルシファーは 契約に縛られてハウルにこき使われっぱなしで 不満たらたら。

荒地の魔女は宮殿を追放されて以来50年荒地で不遇をかこち、その若さと美貌は魔法で無理やり保っているもの、美青年のハウルに夢中になり追いかけ回すも逃げられてばかりで、果てはマダム ・ サリマンによって魔力を奪われ 年相応のただの老婆に戻されてしまう。

そのマダム ・ サリマンですら、王室付き魔法使いという高い地位にありながらも 魔力で後押ししている戦争の旗色は悪く、跡継ぎと見込んだ愛弟子ハウルを呼び戻す願いも叶わず、健康を損ねている様子も窺えます。

いやもう揃いもそろって。。。という感じですが、そんな彼らの人生に変化をもたらすのが それぞれのヒロイン ・ アーヤとソフィー。

実はこの二人、アーヤは魔女の娘で人を操る力の持ち主、ソフィーは これは原作での設定なのですが、言葉から現実を生み出す力の持ち主、と どちらも自分では氣づいていない (アーヤは操りの能力は自覚しているけれど それが魔法だとは氣づいていないっぽい) けれど 魔力の主なんですね。

にも関らず 事態を動かすのは呪文でも杖の一振りでもないというところが、この二つの物語の大きな共通点でありミソ。

人を幸せにするのは 特殊な能力でも秀でた才能や技術でもない、別の何かだと言われている氣がします。

そして、「戦いに勝ってハッピーエンド」 ではなく 「戦いから降りてハッピーエンド」 というのが、この二作からもたらされる最大のメッセージだと思うのです。




ソフィーもアーヤ同様 自分の軸をしっかり持ち、自身の価値観に従ってためらわず行動する芯の強い女性です。

ソフィーには 「自分には美しさも特別な能力もない」 という引け目がありますが、荒地の魔女の呪いで老婆にされたことで かえって容姿の悩みから解放され、生来のおおらかさが前に出てきた感があります。

この軸だの芯だのというものを言葉で説明するのは難しいのですが、強いて言えば 「自分という存在を疑問も迷いもためらいもなくありのまま受け入れること」 とでもいいましょうか。

ここに迷いや疑いが入り込むと 自分に自信が持てず、マンドレークのように殻に閉じこもったり、ベラのように怒氣を含んで攻撃的になったり、ハウルや荒地の魔女のように見栄っ張りでわがままで不誠実だったり、ということになってしまいます。

そして 貴秋の見るところ一番危なっかしいのが、ぱっと見一番まともに見えるマダム ・ サリマン。

この人は、王様の力を後ろ盾に 戦争を遂行しています。

そして、自身の振りかざす正義に従わない者は悪と決めつけ断罪し、力づくで押さえつけることもいといません。

何が正義で何が悪かなんて線引きは人の数だけあるものですが、自身の強力な魔力と王の権威を盾に我こそ国家の正義と信じて疑わないサリマンは、その陰で多くの人々の命や自由や財産が奪われていることは氣に留めず、見ようによっては自身もまた悪を成しているとは考えません。

“心を失くしたのに力があり過ぎる危険な魔法使い” とは ハウルよりむしろアンタのことでしょと突っ込みたくなるぐらいです。

そんなサリマンに向かって 臆せず意見を述べるのが、ソフィー。

相手を言い負かそうとかねじ伏せようとかいうのではなく、ただエネルギーを引かずに 言うべきことはまっすぐに言う。

この姿勢、アーヤと一緒なんですね。

これができるのは、自分軸で生きているからこそ。

自分という存在をしっかり掴んでいるからこそ、まわりの目を恐れず 堂々と発言できるのです。




そして これができる人は、引くべき時には引くことも躊躇しません。

「逃げましょう、戦ってはだめ」 「あの人 (ハウル) は弱虫がいいの」 と状況の危うさを見てとれるのは、このソフィーの性質ゆえです。

軸を忘れた人は 引いた位置から全体を見渡すことが不得手なので、対応がアンバランスで場当たり的になり、ハウルのように それまで逃げ回っていたのが一転して 愛する人を守るためには勝ち目のない戦いにまで突っ込んでいってしまう・・・みたいなことにもなるんですね。

そんなハウルの弱点に氣づいていたサリマンも、ソフィーが彼の支え手となり サリマンの手中から抜け出したからには、味方につけて戦況を引っくり返す望みは叶わないと悟って 「この馬鹿げた戦争を終らせましょう」 となるわけです。

スケールはまるで違いますが、アーヤも マンドレークの口利きで晴れて正式な助手になれることが決まったとき、サリマンが王の威を借りたように 彼の威を頼みにベラに対して強氣に出ることもできました。

が、彼女はそんなことはしなかった。

自分をよくわかっているアーヤは、戦う必要も 力押しで相手を負かす必要もなかったのです。

だから、アーヤは魔法使い二人を二人とも味方にして 居心地いい家庭をものにし、ソフィーも灰色雲に覆われた飛行軍艦の群れを尻目に、青空の下 大切な “家族” と空飛ぶ城で 軽やかに自由にどこまでも飛んでいけるようになったんですね。




「アーヤと魔女」 にも 「ハウルの動く城」 にも スタジオジブリの製作者の方々、わけても宮崎駿氏の思いというかメッセージのようなものを感じずにはいられません。

現実世界を見渡せば、かつてない事態に次々見舞われ、何についてもさまざまな意見が百出し、世界を挙げて混迷に陥っているかに見える現在、ここで不安や恐れから守りに入り、自分の主張を力づくでも押し通そうと息巻けば どういうことになるかは、すでに過去の体験から十分学んだはず。

ならどうすればいいのか。。。。そんな悩みに これらの映画は大きな手がかりをくれているように思えます。

意識をがらりと切り替えて、新しい信念や価値観のもとで 世界を創り変えるときが来ているのではないでしょうか。



今回も長文をお読みくださり ありがとうございました。